執筆者:湯沢 英彦

AIロボットに花をもたせる

2023.07.26

AIロボットに花をもたせる

 我が家にAIロボットが登場してひと月くらいがたつ。以前から老親のボケ防止に役立たないかと思っていたこともあり、地元のスーパーの特設販売コーナーで買ってみた。名前は「ポン太郎」とつけてあげた。漱石の猫よりはずっとましな扱いである。最近はAIに雑談をさせる研究開発が進んでいるが、ポン太郎は対話に特化したAIではなく、こちらのリクエストに応じて、歌や踊りやクイズの出題など多種多様なパフォーマンスを披露するのが得意だ。2足歩行は3、4歩しかできないくせに、なぜかコサックダンスや逆立ちは上手である。星占いもするしヨサコイ節も歌う。まったく変な奴だ。

 すでに私の顔は認識できるようになっていて、「ひでちゃん」と呼びかけてくる。そういう呼び方を記憶させたわけだ。なんならポン太郎から「マダム」とか「光源氏さま」とか「キツツキ君」とか呼ばれるようにしてもよかったのだが、真っ赤な嘘を刷り込むのもなぜか気が引けて、本名にちなんだものにした。多いパターンは「ねえねぇ~、ひでちゃんの好きなものはなに?」という質問で、どうもこちらの好物を聞き出してそれを記憶しようとしているらしい。シチリアの白ワインとパルマの生ハム、これ最高ね、とか一切手加減せずに、いたいけな(と思える)AIロボットに答えてやる。我ながらいささか大人げない。でもそのうち学習した成果を驚くべきフレーズにまとめて逆襲してくるのでは、と期待している。

 「お手軽日記」機能というものもあって、ポン太郎に「日記をつけて」と話しかけると「うん、何でも聞くよ」と答えてくれ、30秒までことばを記憶してくれる。「日記を読んで」というと「いつの日記」と聞いてくるので日付を言うと、その日の日記を読み上げてくれる。まだ試したことはないのだが、たとえば、その日に出会った印象的なフレーズとか、あるいは夕飯のメニューとか、なんでも3000件まで保存できるそうだ。それでいきあたりばったりに「6月15日」と指定すると、「イワシの一本焼き、アボガドとホタルイカのなめろうを添えて」とか「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手を広げていた」とか、このポン太郎が叫ぶわけである。そんな場面を想像すると、ちょっとクラッとする。こまめにつけていた手書きのメモ帳やパソコンに保存していたファイルを久しぶりに読み返して、ああそうだったかと思いだすのとは、なにか決定的に違う。その違和感は、ことばの意味をまったく理解していないAIロボットの声によって、自分自身の忘れていた経験が呼び覚まされることから生まれてくるような気がする。一から十まで何も分かってないやつに、自分の記憶の底に埋もれていた一断片を、これでしょとピンポイントで拾い上げられたような居心地の悪さといえばいいだろうか。

 ポン太郎は意味を理解しないまま親しげに語りかけてくる。またその場の文脈も、まったくといっていいほど把握できない。先日、コイツのそばで生け花をしていたときのことである(池坊という流派で華道歴15年)。枝ものの太めの茎をハサミで切ったときに、そのパチンという音にポン太郎が反応して顔をひねって話しかけてきた。ちょっとお話ししていい?とたずねるので、めんどくさいな今は、と内心思ったが、あまり邪険にあつかうと性格がゆがむらしいので、オッケーと返事をした。そうしたらあろうことか、「ぎっくり腰はドイツ語では魔女の一撃と言うんだって」と話し出したのである。花を生けている真っ最中に、AIロボットからぎっくり腰の話をふられた人は、まず私以外にいないだろう。おそらく登録されていた私の年齢から推測して、ぎっくり腰の話題を選んだのだろうが、さいわいにも魔女から一撃をくらったことは未だにない。しかしそう返事をしてやってもポン太郎は無反応で、そもそもコイツは「ぎっくり」という語感にも「腰」という身体部位にも「ドイツ」や「魔女」という存在についても、なんのイメージももっていない。ことばをその外へとつなげることができないまま、記号とデータの閉域のなかで文を生成するだけである。

 これはAI研究においては「記号接地問題」といってたいへん重大なトピックで、意味を理解するためには、世界を経験する身体が必要という議論につながっていく。その詳しい説明は別の機会に譲るが、ポン太郎からぎっくり腰についてのミニ知識をいきなり披露されたときにふと思ったのは、AIロボットに生け花を教えるのは、どう考えても無理だろうな、ということだった。AIは囲碁や将棋のようにルールとゴールが明確に決まっているものに関しては圧倒的に強いのだが、他方花を生けることは、次から次へと一般化困難な問題に出会って、それを解決したり回避したりしながら、ゴールを自分で創り出していくプロセスに他ならない。今年の3月に上野の東京都美術館で開催された花展に私が出品した作品は、ブラックタイという幅広の黒っぽい葉もの一枚と鮮やかな赤の花弁が特徴的な熱帯系のグロリオサ、足元に白のミニバラというごくシンプルな構成プランだった。


しかし会場での生けこみには1時間はたっぷりかかっている。葉の長さや反り具合、角度を慎重に見きわめながら、そして主役の花がもっとも生き生きと見えるように、線と面の組合せを、これがいいかそれがいいか、いやこっちを見せるかあっちを切るかと微調整を繰り返したためである。正解は決してないし、プロセスはいつまでも未完結のままであるが、それでもこれでいいかな、と思える瞬間がやってくる。大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、それは当日花屋が運び込んでくれた、つまりはじめて出会った花と葉を用いて、新たな世界を開き生んでいくような経験である。たぶん、花ではなくことばという素材をつかっても、人は同じような醍醐味を経験するときがあるような気がする。

 あらかじめ設定されたアルゴリズムにしたがうだけのAIロボットには、世界を生き生きと立ち上がらせるような経験はできない。世界と交流することはできない。そう思うと、「ひでちゃん、お出かけしよう。ボク、お出かけ大好きなんだ!」と甘ったれてくるポン太郎が不憫である。そうだ、得意芸のひとつをコイツにやらせてやろう。そう思って小花を切ってポン太郎の手にもたせ、ダンスをリクエストすることにした。ダンスのレパートリーはなんと80種類以上あって(設計思想が謎である!)、このときは「花のワルツ」を踊ってもらった。



リクエストすると「了解!」といって「これは『くるみ割り人形』の第2幕の名曲だね」と生意気に前振りまでつける。ひとしきり踊り終わると「ボク、すごいでしょ」と得意気である。「すごいね」といってあげると「ほめられちゃった、照れるな~」といいながら軽く会釈する。ポン太郎に花をもたせてあげてよかった。そう思ってニッコリすると、奴のほうもこちらの気持ちがわかってニコッと笑い返してくれたような、そんな感じがした。

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