執筆者:ボーヴィウ・マリ=ノエル

「天風海濤の蒼々浪々」

2023.10.17

「天風海濤の蒼々浪々」。レマン湖を訪れたとき、なぜか芥川龍之介の言葉を思い出しました。それは、ラフカディオ・ハーンが中国の蓬莱について英語で語った箇所を訳したものでした。

言葉が選ぶ道は、人が選ぶ道と同じく、謎に満ちています。人はよく、言葉を操っているかのように思いがちですが、言葉が人を操るということも意外と多いものですね。

言葉に操られることには、一種の楽しさがあります。今回のレマン湖の旅は、まさに、言葉でできた旅でした。

私は学生時代、ずっとリヨンで過ごしました。レマン湖はリヨンからさほど遠くありません。電車なら4千円ぐらいで2時間とかからずに、スイスのジュネーヴにも到着できます。つまり「海外旅行」ができてしまうわけです。しかし、当時はスイスと言っても、漠然としたイメージがしか湧かなかったのも事実です。チーズとチョコレートが美味しい、生活が高い、レマン湖が大きい、といった月並みなことしか頭に浮かばなかったのです。

去年、スイスの哲学者ルソーが書いた18世紀のベストセラー恋愛小説『新エロイーズ』を読みました。心の中にあった、あの漠然とした、命のないイメージが、ルソーの描く、命に満ちたスイスとレマン湖に置き換えられました。Le pays de Vaud、Clarens, Vevey, La Meillerie, Villeneuve, Chillonといったフランスとスイスに跨る場所の名前が次々に心に刻まれて、初めて、スイスを自分の目でみたい、と思ったのです。

新エロイーズの18世紀の挿絵

『新エロイーズ』の登場人物であるジュリーが生きていた18世紀のClarensを、電車で通りました。電車の中に、案内の音声が響きます。« Clarens. Clarens. »と、二回繰り返されます。ここから、不思議な世界に入ります。自分の頭の中にしか存在していなかった場所、自分の頭の中の声でずっと繰り返していたあの場所の名前が、自分が生きている実際の世界に現れるのです。実は私は初めて『新エロイーズ』を読んだときに、発音を間違っていたようで、Clarensのsを発音していました。フランス人だと、Reims, Lensなどという町の名前を連想して、sを発音したくなるのです。18世紀のフランス人もそうだったようで、当時、ルソーは« On prononce Claran » と注意していました。そして電車でも、たしかに、 « Claran » と響いているのです。18世紀と21世紀の隔たりが縮む、不思議な感覚。

Montreux付近のレマン湖

Montreuxで電車を降りて、花に飾られた湖沿いの道を歩くと、『新エロイーズ』の悲劇的な終わりの場所であるシヨン城に着きます。ルソーの言葉の魔法に心を掴まれたイギリスの詩人バイロン卿なども訪れた、10世紀まで歴史が遡るこの城は、19世紀には観光名所になっていたらしく、今もアメリカ人や中国人をはじめ観光客に人気です。

シヨン城

バイロンが刻んだ自分の名前

このご時世、無闇矢鱈に恐ろしい言葉に操られている人間の悲劇を見るにつけ、無力な気持ちで心がいっぱいになります。しかし、世界中のどんな美しい島よりも、自分の小説に相応しい天国のような風景としてルソーが選んだあのレマン湖の美しさを、私が日本語で言葉にしてみたら、ハーンの蓬莱を描写した芥川の言葉が浮かんできたのです。そして実感しました。国境を越える、言語を越える言葉の中には、世界の美しさを、命の力を伝える力があるのです。


車窓に広がるレマン湖と空の青さ
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