執筆者:畠山 達

卒業論文は山登り?

2024.01.30


                                               卒業論文は山登り?

 「先生、卒業論文、提出できました!」この報告を受けるとほっとして肩の荷が下りる。フランス文学科では卒業論文を書かないと卒業できないから、4年生にとって論文執筆が最後の試練となる。文字数は12,000字以上、テーマはフランス語圏の文学、思想、言語、絵画、映画、歴史、社会に関わるものであれば何でも良い。卒業論文は大学教育の集大成、論文提出後には口頭試問も待ち受けている、いわば最後の大きな山である。ところが学生たちが登りたがる山がそれぞれ違うだけではなく、山登りの方法も千差万別で、その指導には毎年苦慮する。

 例えば、今年のゼミ生たちが選んだテーマは、「フランスとミイラ-テオフィル・ゴーチェ『ミイラ物語』から」)、「スタンダール『赤と黒』-ジュリアンはなぜ死を選んだか」、「モディアノ『パリ環状通り』における現実と虚構」、「絵本ペネロペにみる日仏教育観の違い」、「19世紀フランスにおける酒-『居酒屋』、『ゴリオ爺さん』、『感情教育』から」、「マギー・マラン『May B』における抽象性と身体表現」。扱う対象が、19世紀から現代までの小説、子供向けの絵本、コンテンポラリー・ダンスとバラエティー豊かなだけではなく、その切り口も実にユニークである。それだけではなく完全装備して出発する者、タンクトップ一枚で冬山を目指す冒険者、目的の山をひっきりなしに変える者、いつまでたっても山小屋の中にいて動かない者、そもそも山登りではなく海水浴の方が好きな者など、学生の資質もそれぞれ違っている。
 こうなると論文指導も臨機応変に変えないといけない。型にはめすぎても面白いものが出てこないし、自由にやらせ過ぎると結果が恐ろしいことになる。ただ、学生たちがどんな山を選ぶにしても、それぞれ頂上を目指していることにかわりはない。その間、たくさんの事に気がついて苦労をすることになる。大抵の学生は「何をどのように書けば良いのだろうか?」という壁に最初にぶつかる。迷いに迷って目的地が決まっても、今度はどうやって山登りをしたら良いかわからない。言葉が言うことをきかないのだ。日常的に使っている日本語が、外国語のように難しく思えてくる。フランス語でさえも難しいのに、日本語もわからなくなる。山登りどころか言葉の森の中で皆、一度は必ず迷子になる。そして教員は、静観したり、コンパスを与えたり、非常食(おいしいワインだったりもする)を提供したり、一緒に歩いてみたり、緊急事態にはヘリコプターで救出したりもする。



 そうしてようやく登頂した学生から連絡がある。「先生、卒業論文、提出できました!」(連絡がない時は、生存確認が必要なこともある。)卒論を読み終わると「こんな素敵な風景があったのか!」と感動する時がある。自分一人では決して登ることはなかった山に学生が連れてきてくれて、未知の風景を見せてくれる。教師冥利に尽きる瞬間である。道を指し示していたつもりが、「あーでもない、こーでもない」とおしゃべりをしたり、お菓子を一緒に食べたり、実は単にくっついて歩いていただけだったことに気がつく。もちろん論文を読み終わって「あれ?ここは、どこだ?」となり、当初の目的地に辿り着かない時もある(いや、そういったケースの方が多いかもしれない)。それでも良いと思っている。山頂には至らなくても、その途中で多くのものを目にして触れてきた筈である。卒業論文を書かなければ出会わなかったものが沢山ある。振り返ったら、それなりに遠くに来たことに気がつくだろう。こればっかりはAIの自動運転ではなく、自分の足で歩いてみないとわからない。
 正直に言おう。卒業論文を必修にする意義に疑問を抱くことはある。それでも、大学を卒業する前に、一度は山登りをして迷子になるのも悪くないのではないか。そういう体験をすることに大学教育の意義があると思っている。だから学生たちが見せてくれた風景を思い出しながら、春になると毎年山登りの準備をしている。今度はどこに連れて行ってくれるのか、楽しみだ。

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