執筆者:大池 惣太郎

本について話す、自由に

2024.03.04

本について話す、自由に

昨年の夏のこと、ワイン会社で働きはじめた元ゼミ生N君から連絡があった。「ウェルベックの新作『滅ぼす』(Anéantir)を読んで、誰かと感想を共有したくてたまらない」という。そんな誘いをしてくる卒業生は滅多にいない。早速、N君と同期の読書好き院生Mさんにも声をかけ、一ヶ月後に三人で飲みながら本について話そうということになった。

当の小説は長いこと「積ん読」されたままだったので、N君の誘いは良い機会だったし、何より二人と久しぶりに話すのを楽しみにしていたのだが、どうしてだろうか、なかなか本に手がつかず(多分、分厚いせいだ)、一日一日と先延ばしにするうちに、なんということでしょう、一度も本を開くことがないまま、当日0時になってしまった。

これはもうさすがに無理かもしれないと、及び腰で冒頭だけ読み出してみたところ、さすがウェルベック、続きが気になってやめられない。珍しくサスペンス仕立てなのが幸いして、あと少し、あと少しと続きを追ううちに、気がつけば朝になり、そのまま通勤中も、授業の合間も読み続けたのだが、結局、約束の時間が来たところで、あと一章が残ってしまった。

 そうなってみると、中途半端に結末を聞きたくない。

 仕方がないので、お店で二人と再会してまず「ちょっと待ってて」とお願いすることにした。私が残りを読んでいる間、N君とMさんにはワインでも飲みながら優雅に近況報告などをしておいてもらうのである(「でも小説のことは一切話さないでね」)。

 店内は仕事帰りの客で騒々しかったが、こんなときには人の話をあまり聞いていない性質が役立つものである。たった一人でテーブルに座っているかのように(お二人にはすみませんでした)、周囲の喧騒をシャットアウトして続きを読んだ。気まずい状況だったかもしれないが、二人は寛容にも文句ひとつ言わなかった(あるいは言っていたのかもしれないが、あまり聞いていなかった)。

 小一時間後、余韻をさぐりながら顔を上げると、太平洋のような心をもつ二人の若者が「さあ、いいかげん話そうぜ…」と待ち構えているではないか。なんて素晴らしい瞬間。本を読み終えてすぐ、それについて話したくてうずうずしている人が目の前にいる。こんなに嬉しいことはない。その後、思い思いの感想を述べながら、ウェルベックの小説で愛のテーマがこんなに素朴に描かれたことの驚きを、楽しく、遅くまで、三人で分かち合った。N君、Mさん、ありがとう、次回も楽しみにしています。

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ここで終わってもいいのだが、せっかくなので、その後に考えたことをもう少し書き足してみたい。

私たちは文学部というような場所にいるが、実のところ、その日N君、Mさんとしたように読んだ本について自由に話をすることは、案外難しい。

彼らは元ゼミ生でよく知った仲だったし、その日は間にお酒もあった。加えて二人はだいぶ待たされてもおり、かつまさしく「傍若無人」(傍らに人無きがごとし)をはたらく旧指導教官の姿を見て、わずかに残った遠慮のようなものも極め付けに薄まっていたに違いない。そういう幸福な偶然が重なると、「余計なことをいっさい気にせずいきなり本の話をする」ということも自然に起こる。

しかし同じことを授業でしようとしても、ぜんぜんうまくいかない。会話の上手い下手というより、「同じ本を読んだという資格のもと自由に、対等に会話する」という雰囲気に漕ぎ付けることが、まずとても難しいのだ(本を読む文学部生がオオサンショウオくらい希少であるという問題については今は触れないことにする)。

その点、フランスでは自分の興味を誰かと自由に共有することが、日本よりずっと簡単なように見える。

学部留学中、大学のバトミントン・クラブ(association)に通っていたことがある。日本の「部活」や「サークル」とまるで違っていて驚いた。時間が来ると、バトミントンをしたい人がどこからともなく集まってくる。事前登録や自己紹介がないので、部外者が混じっていても分からない。時間が来たらその場にいる適当な人とペアを組み、コーチの仕切りで淡々と練習し、試合をする、それだけだ。まず「組織」に所属している感覚がどこにもないし、上手い下手の差で練習が分けられることもない。同じ関心、同じ活動をつかのま見知らぬ人と共有して、時間が終わればクモの子を散らすように三々五々次の場所へ消えていく(その去り際の潔さが、なんだかとても感動的だった)。

フランスの « association »(団体)は、大なり小なりそんな形をしている。要するに、関心を共有する仕方がとてもシンプルなのだ。余計なものをできるだけ挟まず、参加者は皆同じ資格で、共通の関心へストレートにアクセスできる仕組みが、社会に当たり前のように備わっている。

日本の「部活」や「サークル」だと、そこに教える側(先生)と教わる側(生徒)というヒエラルキーが入り込み、さらに年齢の上下で決まる「先輩」/「後輩」という関係が乗っかってくる。そういう「上下」の空気は、普段当然のように呼吸しているとなかなか気づきにくいが、「自由に話す」ことをそうとう阻害していると思うのだ。

いつからそれははじまるのだろう。思い返すと、小学校くらいまでは近所の年上の友だちも「○○ちゃん」などと呼んで、一緒に普通に遊んでいた。ところが中学に入ると、友達は突然「○○さん」「○○先輩」になり、敬語で話さねばならなくなる。

中学から始まる「上下」関係は、気がつけば当たり前のルールになっていて、会社や組織に入った頃には、ガッチリ堅固な「制度」になっている。これは考えてみるに値することだ。なぜかというと、「他人に配慮する」とか「社会のルールを守る」といった普通の意味での社会性が、日本人の場合、「目上/目下」という縦構造の形式を通して理解されていく、ということだからだ。社会性の理解が、権威の尊重と同一視されてしまうのだ。

もちろん、フランスにも「縦社会」的なものはあるだろう。だが少なくとも、フランスではかつて« tu »で呼んだ友達への話し方を、中学生になり社会人になることでガラリと変える必要はない。相手が友人か上司か、先生か生徒かによって、何かを「やったり」(↘︎)「あげたり」(→)「くれたり」(←)、「さしあげたり」(↗︎)「くださったり」(↙︎)しなくていい。« donner »(⇄)、この対称な一語で済む。誰に対しても、生涯ずっと。

言葉の使用自体に刻まれた、社会の水平性。あのバトミントンクラブの風通しの良さは、きっとそれとも関わっているにちがいない。サルの仲間である人間は、ほっておくとすぐに「縦」の力関係に縛られる。フランスは間違いなく、そうした「縦」の社会構造を最も早く、力強く解体しようとしてきた国の一つだ。「先生や上司の言うことは黙って拝聴すべし」といった空気はフランスにはほとんどない。誰の話であろうと平等に聞かれなければならないし、誰であろうと自由に話をしていい。そのことを歴史的、社会的、制度的に意識して守ってきた国の言葉を、私たちはフランス文学科で学んでいるわけだ。

だいぶ長くなってしまったが、フランス語の教員としては、読んだ本について、学生のみんなともっと自由に、気軽に話しができたらいいなと思う。それはフランス語という言葉を学ぶことと直結していると思うからだ。その点、明学仏文科はとても風通しがいい場所だ。とはいえ、日本語自体に書き込まれた「縦」の力関係はそう簡単に消え去らない*。「自由に話す」という出来事がもっとたくさん起きるように、教室の中や外で、色々工夫を重ねていきたい。

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*この問題に関心がある人には、以下の本が絶賛お薦めです(著者は恩師の水林章先生)。日本で今なぜフランス語を学ぶのか、この国のあり方も踏まえて、とても考えさせられます。

 水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること――来たるべき市民の社会とその言語をめぐって』(春秋社、2023年)

<参考>本紹介のコラム(じんぶん堂「好書好日」)

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