憧れの国
2024.05.01
憧れの国
フランス文学の研究者が専門を志すようになったきっかけは、人それぞれであると思う。みなさんの近くにいる先生に尋ねてみれば、人の数だけさまざまな答えが返ってくることだろう。学部から大学院に進み、お互い少し真剣に将来のことを考えるようになり、院生どうしの飲み会で少し議論に熱が入ってきたりすると、「なんとなく選んだ」ではすまされない、やはり周囲にむかって研究対象を選んだ動機や自分の研究の意義を含め、それなりに納得させられる説明ができるようにしておかないと嘘だ、と主張をする仲間もいた。その手の議論は、苦手である。そういったことを公言するには、そもそも自分を納得させなければいけないからだ。
当時の日本にはフランス人の定住者はごくわずかだったし、叔父しか頼れる人のいない国で、叔母はずいぶんとたいへんな思いをしたことだろう。短めのスカートをはいて、ブルネットの髪と灰色の瞳で少女のようにはにかむ30代の叔母の姿は、やはり写真の記憶からきている。せめて私が英語を習うようになるまで生きていてほしかったが、長いこと私の中のフランス人のイメージは叔母とその家族に集約されていた。叔母の実家はラ・ロッシェルの個人経営の写真館で、私の実家の玄関には長いこと、叔母の父親が撮ったという港の白黒写真ボードが掲げられていた。白いマストがところ狭しと並ぶ旧港の端には、町の象徴の塔が巨大な鎖を巻きつけられてそびえたっている。後年、ラ・ロッシェルで見た港の光景は、抜けるような青空と紺碧の海の色で私を魅了した。沖にはアラン・ドロン主演の青春映画『冒険者たち』のロケ地となった旧フランス軍の要塞の廃墟があり、映画が地上波のテレビで流れるたびに叔父から電話がかかってきた。
叔母の弟にあたる人は父親の死後、写真館を継いでラ・ロッシェルに暮らしていると聞かされていた。論文執筆に追われるパリでの留学生活の中で、会う機会は容易には訪れなかったが、ようやくその時がきたのは大学に職を得たのち、ナントに住む友人の妹夫婦の家に呼んでもらったときのことである。活動的なフランス人の典型のような夫君が、電話帳でそれらしき名前を探し出してその場で電話をかけ、「あなたのお姉さんはかつて、日本人と結婚して日本に暮らしていませんでしたか」と単刀直入に尋ねてくれた。これには聞いているほうが度肝を抜かれたが、まちがいないとのことで、話はとんとん拍子に進み、先方が町のカフェまで出てきてくれることになった。心の準備をする間もなかった。長年、小さなポートレート写真で見ていた精悍かつ甘い雰囲気を漂わせた青年の面影はそこにはなく、それも当然、相手はもう50を過ぎたいい大人である。叔母の在命中、日本には何度か行ったことがあるということだったが、あまりはっきりとした記憶はないようだった。ちょうどデジタル写真が急速に普及しつつあったころで、写真館は商売あがったりなので、これからはフリーのカメラマンとして世界中を飛び回って仕事するのだ、と大きな手振り身振りをまじえて語り、若いカップルの顧客のハネムーン写真を見せてくれた。年老いた母親がいるので、長期間は家を空けられないけど、とも。叔母の母君はまだ健在で、老人保健施設と自宅とを行き来しているらしい。残念ながらその日は施設にいる日で、電話で声を聞くことはできなかったが、後日、私から出したクリスマスカードの返事にひとこと添え書きをしてきてくれた。はるか昔に異国で亡くなった娘の遠い親戚の存在を、今でも覚えていてくれていることがうれしかった。
私がそのときに彼から受けた印象として、夢から醒めたような人、という表現が浮かんだのは、人はどんな状況でも食べていかなければいけないということをあらためて悟ったせいもあるが、多分にこちらの心境の反映であったかもしれない。日本に帰ってきてから受け取った彼からの手紙には、叔母の思い出もそこそこに、親しい友人が日本の飛行機の模型のコレクションをしているのでよろしく、ということで、その友人からの手紙が同封されていた。もともとこういった方面のことは知らないし、当時は外国からの個人輸入や通販のシステムも整っていなかった。よくわからないので、とやんわりとお断りしたきり、便りは交わしていない。叔母の母上もとうに亡くなってしまっただろう。フランスへの憧れは今の私の生活を形づくったが、長い道のりを思い返すとき、そこにはかすかなほろ苦さが混じる。
※ラ・ロッシェル、2003年。友人夫妻と