なかなか手紙が届かない
2024.06.10
なかなか手紙が届かない
わたしは明治学院大学仏文科の大学院生で、現在はパリに留学しながら、ステファヌ・マラルメという詩人を研究しています。日本の友だちや家族とは遠く離れて暮らしているため、ときに寂しい気持ちにもなります。そんな気持ちを紛らわせるため、わたしはときどき美術館や本屋でポストカードを購入し、友だちや家族に手紙を送っています。特にこれといった理由はありませんが、わたしは昔から手書きの手紙が好きなのです。
ところで、フランスから日本へ普通はがきを送ると、料金は1.90€(今のレートだとおよそ320円)、届くのに10日くらいはかかるかと思います。祝日と被ったりすると2週間経っても届かない、ということもしばしばあります。もちろん、わたしの手紙は緊急のものではないし、どちらかと言えば、日々の出来事やくだらない冗談ばかりが書かれたおしゃべりの延長に近いです。それでも10日なら10日、2週間なら2週間、自分の手紙がフランスか日本か、はたまたどこかの空の上を漂っていると思うと、かえって相手との距離を感じてしまいます。それだけではなくいつもより日数がかかると、果たして手紙は本当に届くのだろうかという不安すら生じてきます。そんな思いが積み重なると、少しずつ、フランスの郵便局に対する不信感も湧き上がってきます。本来は相手との繋がりを感じたいがために手紙を送るですから、相手との距離や、相手とのあいだにいる郵便局のことはあまり考えたくないものです。
19世紀のステファヌ・マラルメという詩人は、この郵便の煩わしさと、少しばかりユーモラスに向き合いました。マラルメの日常の遊びの中に郵便詩と呼べるようなものがあります。マラルメは、特に親しい友人に送る手紙の封筒に書く宛先を、しばしば4行の詩の形にして書いていました。きちんと詩のルールにしたがいながら音の数をそろえ、脚韻も踏みながら、その中に受取人の名前と住所を含めるというものです。たとえば次の4行詩は、印象派の画家ベルト・モリゾに送ったものです。
Sans te coucher dans l’herbe verte
Naïf distributeur, mets-y
Du tien, cours chez Madame Berthe
Manet, par Meulan, à Mézy.
青い野原で寝っ転がっていないで
うぶな配達人よ、やる気を
出して、走ってゆきなさい、ベルト
マネ夫人宅、ムーランを通って、メジーまで。
本来宛先に必要な情報は、「ベルト・マネ夫人(ベルト・モリゾ)」と、場所を表す「ムーラン」、「メジー」だけですが、マラルメはその中に脚韻の工夫や、呼びかけを交えながら、受取人に詩の素敵な贈り物をするのです。郵便屋からしたら読みづらくて迷惑な話ですが、それでも何とか宛先を読み解き、きちんとベルト・モリゾに届けていたそうなのです(実物の封筒を見ると、消印も押されています)。
さて、そんな郵便詩には面白いところがいっぱいあるのですが、わたしが特に面白いと思うのは、マラルメの郵便屋への呼びかけです。さきほどのモリゾへの郵便詩では、道草を食っている配達人を軽くたしなめ、急き立てるようなマラルメの姿が見られました。ここには、たしかに郵便屋の怠惰に対する不満が読み取れますが、同時に、マラルメがそれを逆手に取って楽しんでいるようにも思われないでしょうか。仮にこの手紙が早く届けば、「うぶな配達人」は、マラルメの言いつけを素直に守ったということにもなるのですから。また、次のレオン・ヴァニエという出版関係の知人に送った詩でも、マラルメは郵便屋を急かしています。
À toutes jambes, Facteur, chez l’
Éditeur de la décadence,
Léon Vanier, Quai Saint-Michel
Dix-neuf, gambade, cours et danse.
全速力で、郵便屋よ、
デカダンスの出版者、
レオン・ヴァニエ氏、サン=ミシェル河岸
19番地まで、跳び跳ね、走り、踊りなさい。
「全速力で」という表現からは、確かに早く手紙が届いて欲しいと願う様子がうかがえますが、マラルメが郵便屋に指示する、宛先までの向かい方というのはとてもユニークなものです。ここでは郵便屋がスキップしたり、蛇行したり、小躍りしながら向かっていく滑稽な姿が想像されています。
自分の言葉が滞りなく届いて欲しいという気持ちは、誰もが持っているものでしょう。できることなら、自分と相手とのあいだに介在する距離や郵便屋のことは、忘れてしまいたいものです。現在のメッセージアプリはそのような煩わしさを感じさせず、わたしたちはリアルでの会話と同じようなスピード感で言葉を交わすことができます。ともすれば、友だちが目の前にいるかのような錯覚さえ抱くかもしれません。それでもやはり、この近さの錯覚はどれだけ完璧なものであろうと、ほんの些細なこと(たとえば通信の遅さなど)で簡単に裏切られてしまうでしょう。その点マラルメは、一方で、詩の贈り物を通して相手との距離を縮めながらも、他方で、ユーモラスに郵便屋の姿を想起させることで消すことのできない相手との距離すらも楽しんでいるようにも見えます。孤独を解消しようと躍起になるよりは、ユーモアの精神を持ちながら相手との近さと遠さを同時に楽しめるようになりたいものです。
(写真は両親に送ったポストカード)