執筆者:鈴木 和彦

オンライン授業のよかった点

2024.11.05

オンライン授業のよかった点


部屋、本棚の整理。
八本脚の蝶という本が目にとまる。
ある学生の名前が浮ぶ。
この本を教えてくれた学生で、Zさんと呼んでおく。
Zさんは数年前の詩の授業に出ていた。
オンライン授業のころで、
学生は3、4人しかいなかった。
はじめは10人ぐらいいた気もするが教員がぶつぶつ喋ってるだけなので最終的に3人ぐらいに落ち着いたような気がします。

森のなかにある大学に非常勤に行っていたとき、レポートがわりに詩を書かせたらひとり、詩集を編んできた学生がいた。今年の授業もすすんで詩を書いてくる学生がいる。たのもしい、というか友達になりたい。文学以外のことも学べますというふれ込みで全国的に延命を図っている様子の文学部ではあるが、本懐はそれはやっぱりこういう学生をひとりでも生み出すことにある、作詞作曲したり絵を描いたり小説を書いたり歌ったり演じたりする人間だ。まだそんなことやってるの?(ルックバック)と言われるようなことを好きだから、楽しいからという理由ただそれだけで今も続けてるんだって、最近始めたんだって、あー友達になりたい。

いまはフランス語で演劇を上演するゼミをやっているが、学生らは演劇なんて小学校以来だという。十数年ぶりのお遊戯会は、全体に楽しそうである。

Zさんは毎週詩を書いてきた。若い頃の吉本隆明は一日一篇書いたというが(ンギャー)、週に一篇だって大変なことですよ。授業はだから毎回Zの詩の講評からはじまる。講評といっても私や他の学生が読んで思ったことをいうだけ。すごいねとか、ここはなんでこうしたのとか、ただの感★想。その作風は最近話題の若い詩人の影響を感じさせた。色々忘れましたが、生きた時間だった。

オンライン授業のころは疲弊していた。
重い授業の場合、夜通し教材を作って明け方にアップして寝た。
ズームの場合は一日中椅子に座ったままで、ある日腰に激痛が走り病院に行った。
そして学生の顔が見えないことは授業を難しく、ほぼ不可能にした。
名前を覚えるには顔が必要だった。

対面に移行したところでみんなマスクしてるから結局覚えるの無理だったんですけど、同じ空間に相手の身体があるだけで話すことはなんと容易になった。黙りこくることができるようになったのだ!ほんの数秒程度の、対面授業ではよくある沈黙がズームではまるでラジオの放送事故のように感じて焦ってしまう。なにあれ。ダメでしたね。だって考えたら黙るでしょ。気軽に黙れない条件下で人はうまく話せないみたいです私は

その詩の授業もズームで、学生に顔出しを求めなかったので終に誰の顔も見ずに終わった授業だった。こちらももういいやという感じで時おりカメラを消していた。
黒い箱のなかでぼつぼつ
読んだり喋ったり、
おもに教員
時おり2、3人
声が聞こえただけの90分
でも、顔の見えないそんな匿名空間が、この授業にかぎっては、かえってやり易かった。

毎回学生が詩を書いてきて、その書いてきた詩について参加者で好きに意見を言うそれを書いてきた人も聞いているという空間は、もし対面だったら顔出しだったら、築けたかどうか自信がない。創作講座に振り切ってしまえば話は別だろう、でも肝心なのは強いられずに自分から書きはじめてみようとする人の姿勢で、極少人数&カメラオフという条件はそうした自発性が芽を出しやすい環境だった気がする。ほぼ毎回出席していたディズニー映画好きの男子学生(おすすめはバンビ)も、Zさんにつられるように一度だけ詩を書いてきたことがあったあれは忘れようがない

今年の授業で「詩を読むことの恥ずかしさ」についてひとつあって、学校で自分の書いた詩や短歌を読まされるのが恥ずかしかったという学生の意見で、これはよくわかります。自分の習字や絵が教室に貼り出されたり合唱コンクールでピアノを弾くことに比べると、自作の詩を人に読まれるのはもしかしたら恥ずかしいの桁がひとつふたつ違うのかもしれない理由を考えてみるとやはり、詩とは自分の胸のうちを人にさらけ出すようなものだという共通理解に行き着くのだろうか?詩=心という偏見、表現媒体が音や色のように非言語的でないことの不自由。はいはいポエムポエム~♪

言葉で言うからといって誰もが本心を告白しているわけではないように、言いたいことが別になくたって言葉を使って何かを表現したいという気分や考えは、ゆあーん、起こりうる、言葉は本音もウソもそのどちらでもないものも表現できるからすばらしい、ゆえに言語は、ゆよーん、色彩や音階と同根である、モネの絵を見るときバッハの旋律を聴くとき「作者の気持ち」や「作品に込められた意図」など考えたりせず感動できる人は多いのに、ゆよっゆよっ、言語芸術もそのように鑑賞できる人は少ない印象が学生の反応を見ているとする。ここを詰めていく必要が文学部教員としてはありそう。

  菜の花が

  云ひ終はらぬうちに
  汽車は景色をかへた

           ーー熊谷美津紀「春の終り」(1991)

数年が経ち、大抵のことはコロナ前に戻った。
オンラインツールの使用は私のような若輩にはまだその存在意義を見出せていないだけかもしれない諸会議のみに限定され、ゼミ生と飲み会も合宿も美術館めぐりもナイトモルックもできるようになった。学生たちの楽しそうな顔を見るのはそれだけで喜ばしいこと、ついこの間まではそれができなかったことも忘れかけている今となっては、
そうなのだけど。しかし。

昨日、本棚の奥(歯さん)の八本脚の蝶を数年ぶりに手に取ったとき、ふとオンラインの詩の授業のあの真っ暗なズーム画面が、詩に多少とも興味をもったわずかな人間たちが声だけで会おうとしていたあのバーチャルスペースには、現実の教室にひしめく顔や視線のなかではきっと長くは生きられない奇跡的なものの持続があった。最初から最後まで顔の見えなかった関係、その比類なき潔さを、孤独な詩作を通じて鮮やかに示していった、これはひとりの学生の話。
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