ポーランドを歩く
ポーランドを歩く
こんにちは。フランス文学科の大学院生の村田まどかです。今年の9月からフランスのレンヌ第二大学に留学しています。このコラムでは、私が秋休み中(10/26~11/1)に旅したポーランドについてお話ししようと思います。
突然ですが、皆さんはどんな旅が好きですか?友だちや家族とおしゃべりしながら巡る旅?分単位でスケジュールを立てて現地を余すことなく堪能する旅?それとも、特に計画は立てない行き当たりばったり旅?
各々好きな旅のスタイルがあると思います。私は一人でとにかく歩き回る旅が好きです。休むことなく、時には食べることも忘れて、とにかく時間が許す限り街中をぐるぐる歩いています。同じ道を何度も通ったり、さっきとは違う角を曲がってみたり、そんな旅をしていると、街を発つときには頭の中で地図が出来上がっています。それがなんとも楽しいのです。
なぜこのようなことを聞いたのかというと、この歩く旅というスタイルを皆さんに是非実践してほしいからです。特に今回私が訪れたポーランドを旅する時には、この歩き回る旅を強く勧めます。
そもそも、なぜ私が訪問先にポーランドを選んだのかという事から説明しなければなりません。おそらく、ポーランドは多くの日本人の中でそれほど印象の強い国ではないでしょう。ポーランドはその長い歴史の中で常に時代の流れに翻弄されてきました。特に、第二次世界大戦下では早期に隣国のドイツに占領されその圧政に苦しめられたという過去があります。あの有名なアウシュヴィッツ強制収容所があるのもここポーランドです。
著作『パリの尋ね人』の中でホロコーストの犠牲者であるドラ・ブリュデールの足跡を追った作家、パトリック・モディアノの研究を始めるずっと前から、私はアウシュヴィッツの訪問を熱望していました。小学校の担任の先生が自身の訪問について語ってくれたことや中学の歴史の先生が多くの時間を割いたホロコーストの話がきっかけかもしれません。何が起こるかわからない今だからこそ、いつ帰国せざるを得なくなってもいいように一番にこの国の訪問を選びました。そして、実際に訪れ歩き回ったときに、その情報量の多さに驚かされたのです。そのことについて特に印象的だった三つの場所を中心に書いていきます。
~Warszawa~
ワルシャワはポーランドの首都です。文化科学宮殿(スターリンの贈り物と呼ばれた)が街の中心部に聳え立ち、社会主義時代の爪痕を感じさせながらも想像以上に都会的な街でした。
一方、中心部から北東へ徒歩30分ほどの場所にある旧市街は、歴史的な趣があり中心街の印象とは大きく異なります。ここには旧ワルシャワ王宮や広場があり、メインストリートを南下するとショパンの心臓が安置された教会やショパン博物館、コペルニクス像などがあって観光客で溢れかえっていました。
しかし、この活気ある界隈を外れ、少し西へ足を延ばしてみると道の至る所にこのようなボーダーが引かれていることに気が付きます。
これは、大戦下に築かれたワルシャワゲットーとその他を隔てた境界の跡です。また、この他にもマンションの敷地内や公園の一角にひっそりと当時ゲットーを囲んでいた壁や収容所への駅舎跡がたたずんでいました。
地図を見るだけでなく、実際に歩いてみると街の中心近くに築かれたとは思えないその規模の大きさに驚かされます。しかし、同時に44万人が収容されていたことを考えると狭くも感じられます。この敷地内で、収容されたユダヤ人たちは生活を営んでいました。その痕跡が現在も残されています。
街の中の壁で囲まれた地区。中の人も外の人も当時何を思っていたのでしょうか?不安や恐怖、悲しみだけでしょうか?きっと、異常な環境の中にも日常のささやかな喜びは変わらずあったはずです。
~Kraków~
クラクフは、京都のように以前ポーランドの都だった街です。そのため、都会的なワルシャワよりも伝統を感じさせる落ち着いた雰囲気の街でした。街の中心にある旧市街地に観光名所が集まっており、教会の時を告げるラッパの音色には13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻の名残があります。
南の丘の上に聳え立つ王宮は壮大で、そこからはクラクフの街が一望できます。
そこからさらに南下するとそこには旧ユダヤ人街(カジミエシュ地区)があります。ここは14世紀から続く伝統的なユダヤ人地区でした。しかし、第二次世界大戦中ここにはゲットーが築かれ、戦後この地区でユダヤ人を見ることは殆どなくなったそうです。
この辺りは旧シナゴーグやヘブライ語の表記が多く、まるで別の国へと迷い込んだようです。そして地区の中心を少し離れるとユダヤ人墓地があり、ダビデの星を飾った墓石が無数に並んでいました。
また、川を渡った先にはオスカー・シンドラーのホーロー工場があります。シンドラーの行動については賛否両論ありますが、彼の工場とゲットーの距離を考えると実に大胆な行動だと感じました。この近くには印象的な椅子のモニュメントが広場に設置され、その背にはそれぞれホロコーストの犠牲者の写真と名前が記されています。
~Oświęcim/Auschwitz~
ここを訪れた率直な感想として、多くの訪問者がそうであったように、私もその規模の大きさに驚かされたことを言わなければなりません。私は6時間のスタディツアーに参加したのですが、それでもまだ足りないと感じたほどです。収容所は大きく二つの敷地に分けられており、そのどちらも同じような建物が延々と続いています。
写真は、第一収容所の入り口にある有名なアーチです。
「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」
この門の先、有刺鉄線に囲まれた区画の中にレンガでできたバラックが並び、そのいくつかが改装され展示室になっています。収容者たちから奪った品々や髪の毛、収容所内での生活や収容者の仕分けについて展示されていました。建物外でも絞首台や、銃殺が行われた壁があります。また、今年日本でも公開された映画『関心領域』のヘス一家が住んでいた家の位置をガイドさんが教えてくれたのですが、第一ガス室・焼却炉の目と鼻の先に在ったことは衝撃的でした。
そして、もう一つの敷地、ビルゲナウ第二収容所です。おそらくこの写真の場所が皆さんのイメージするアウシュヴィッツ強制収容所ではないでしょうか?このプラットフォームでヨーロッパ中から集められたユダヤ人が下車し、選別され、ある人は労働力として、ある人は別の収容所へ、そして残りはガス室へ送られました。
ツアーでは駅で選別され死の宣告をされた人々がガス室へ送られるまでに歩いたのと同じ道を歩きました。ガス室は破壊され稼働していませんし、電車の発着もありません。だから、景色も、音も、匂いも当時と大きく異なっているのは当然なのですが、余りにも静かで穏やかな秋空の下で、自分があの凄惨な出来事の現場にいることが一瞬信じられなくなりました。
この場所に関する感想は以上にしたいと思います。というのも、私自身いまだに消化しきれていない部分が多く、これ以上何をどう言えばいいのかよくわからないのです。ただ、この場所が人生において絶対に行くべき場所か、という問いにだけ答えたいと思います。
私は、別に絶対に行くべき場所だとは思いません。海外旅行自体が気楽にできるものではないので、もしその機会を得たのだとしたら自分自身の行きたい場所を自分の思うように楽しむ方がいいと思います。ただ、この場所に興味を持ち「行ってみたい」と少しでも思ったのであれば必ず訪れるべきです。
おそらく、アウシュヴィッツで得られる新たな知識はないでしょう。そこで起きたこと、行われたことはネットや本ですぐに調べられますし、訪問する前に最低限知っておくべきことだと思います。ただ、実際に現地を訪れることでしか得られない何かが確かにあると断言できます。
そしてその時には、彼らの最後の場所だけでなくそこに至るまでの軌跡もまた探して欲しいと思います。悲劇が起きたのはアウシュヴィッツでだけではありません。そして、多くの犠牲者にはそれぞれの故郷があり、人生があったということこそ知らなければならないことだと私は思います。
是非、歩いてみてください。そして、私がいまだに消化することも、言語化することもできないこの感覚を是非多くの人と共有できればと思っています。