執筆者:慎改 康之

文学部での「学び」

2025.06.09

フランス文学科とは、そしてそもそも文学部とは、いったい何を学ぶところなのか。そしてその学びはいったい、何の役に立つのか。
このような問いに対し、2025年度版および2026年度版の「大学案内」において、次のような回答を示してみました。

"文学や芸術を学んでいったい何になるんだろう。こうした疑問を持つ人は少なくないのではないかと思います。しかし、そもそも「学ぶ」とは何でしょうか。社会で役に立つスキルを身に付けることでしょうか。確かに、職に就いてお金を稼ぐことは、生きていくために必要です。しかし、「学ぶ」とは、そのような目的のための手段であるばかりでなく、生きることそのものと同じ広がりを持つ営みでもあると、私は思います。というのも、「生きる」とは絶えず変化することであり、「学ぶ」とはまさしく、自分で自分を作り変える活動にほかならないからです。そして、そのようなものとしての学びを真剣に学ぶ場所、それが、私たち文学部です。先人たちが創り出した作品の数々は、私たちの普段のものの見方や考え方を大きく揺るがす力を秘めています。それらの作品に直接向き合うことで培われる感性と知性は、したがって、世界の多様性に適応するための道具ともなりますが、それ以上に、私たち自身の変革の証です。求められたものに応えるだけで終わらないような学びを、ゆえに単に生き延びるためにのみ費やされるのではないような生を、私たちと一緒に学んでいきましょう。"
明治学院大学 大学案内2026

ここに、私が考えていることをほぼすべて盛り込んだつもりです。しかしその一方で、文字数に制限があったために、言葉足らずとなってしまっていることも事実です。
そこで、とくにこのままではわかりにくいと思われるいくつかの箇所について、この場を借りて少々説明を加えさせてください。

まず、「学び」一般について述べている次の一節について。

"しかし、「学ぶ」とは、そのような目的のための手段であるばかりでなく、生きることそのものと同じ広がりを持つ営みでもあると、私は思います。というのも、「生きる」とは絶えず変化することであり、「学ぶ」とはまさしく、自分で自分を作り変える活動にほかならないからです。"

ここには、「学ぶ」ことが「生きる」ことそのものとほとんど重なり合うものである、という主張が、以下の二つの根拠とともに掲げられています。まず、「生きる」とは、不断の変化であるということ。次に、「学ぶ」とは、もっぱら自分を変化させる活動であるということ。

最初に、「生きる」ことは絶え間のない変化である、という第一の命題について。これは、20世紀フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの考えにもとづくものです(ベルクソン著『創造的進化』を参照)。

自分自身が常に変化しているということ、これは、誰もが普通に感じていることだと思います。しかしベルクソンは、この変化が、「一見そうだと思われる以上に、私たちの実在に深く根ざしている」ことを強調します。というのも、私たちは通常、ある状態からある状態への移行(喜びから悲しみへ、病から健康へ、など)を「変化」と考えているけれど、実は、一つの「状態」そのものがすでにして変化である(喜びや悲しみは、いっときたりとも、同じ喜びや同じ悲しみのままであり続けることはない)からです。

ベルクソンによれば、そのように私たちが一瞬たりとも同じままでありえないのは、私たちが、常に、「自分の過去を丸ごと抱え込みながら」生きていることによります。つまり、私たちの現在はただちに過去となり、新しい現在にはその新しい過去が絶えず付け加えられていく以上、今を生きる私はもはや、一瞬前の私とは同じではありえない、ということです。

別の言い方をするなら、私たちは、生きているあらゆる瞬間に自分自身を刷新していくことによって、「不断に成熟している」ということでもあります。したがって、ここにすでに、生きることと学ぶこととの相同性を見て取ることもできるかもしれませんが、せっかくなのでゆっくりいきましょう。

では次に、「学ぶ」とは自分で自分を作り変える活動である、という、第二の命題について。こちらに関しては、古代ギリシアのソフィストによる詭弁と、それに対するソクラテスの反論に、そのラディカルな表明を見ることができます(プラトン著『エウテュデモス』を参照)。

「ソフィスト」は、一般的に、「詭弁」を弄する人々、つまり、道理に合わないことを強引に正当化しようとする人々として知られています。そのソフィストの一人が、「学ぶこと」について、おおよそ次のように語っています。

私は、実は、何も学ぶことなどできないのだ。なぜなら、学んだ後の私は、もはや、学ぶ前の私、学びたいと思っていた私とは、別の私だからである。つまり、学ぶ前のまだ何も知らなかった「私」は、学んだ後には、すでに何かを知っている「私」によって、取って代わられてしまっているということだ。したがって、学んだのは、学びたいと思っていた「私」ではない。学びたいと思っていた「私」の方は、実は、何も学んでなどいないのだ、と。

そしてソフィストは、ここからさらに次のようにも言います。

学んだ後の私が、学ぶ前の私とは別人であり、学ぶ前の私が、学んだ後にはもはやすでにいなくなっているのだとしたら、私は、学ぶことによって、学ぶ前の私の存在を消滅させてしまったことになる。つまり、学ぶ前の私は、学ぶことによって、いわば、死んでしまうことになるのだ、と。

もちろん以上は文字どおりの詭弁ですが、しかし、ここに自明のこととして含意されているのがまさしく、学びとは私に極めて根本的な変化をもたらすものであるということです。そして、この同じ前提から出発しながらも、ソフィストの主張をポジティヴなやり方で解釈し直すことによって、自分を作り変える作業としての学びの意義を示してみせたのが、ソフィストの最大の敵対者ソクラテスです。

ソクラテスはおおよそ次のように述べています。

学ぶのが死ぬことであるとしても、「悪い人間ないし愚かな人間を死なせて、善い人間ないし知恵のある人間として、再び出現させてくれる」のなら、それでよいではないか。少なくとも、私はそのような試練にすすんで身をゆだねよう。「学ばせることによって私を死なせるがよい、ただその場合には、善い人間として必ず再び出現させてくれるように」、と。

つまり、私が学ぶとき、私のなかで死を迎えるのは愚かな私であり、それに代わって、賢明な私が新たに生まれるのだということ。学びは、私を、悪しき私から善い私へと、いわば転生させてくれるのだということです。

私たちは、生きているあいだずっと、自分自身を変化させている。そして学ぶ者とは、そうした変化に自らすすんで身をゆだねる者、自分自身を生まれ変わらせるほどの変革を目指す者のことである。大雑把に言ってこれが、最初の一節において、ベルクソンおよびプラトンのテクストを拠り所としつつ私が言いたかったことです。

次に、文学部での学びについて語っている以下の箇所について。

”先人たちが創り出した作品の数々は、私たちの普段のものの見方や考え方を大きく揺るがす力を秘めています。それらの作品に直接向き合うことで培われる感性と知性は、したがって、世界の多様性に適応するための道具ともなりますが、それ以上に、私たち自身の変革の証です。求められたものに応えるだけで終わらないような学びを、ゆえに単に生き延びるためにのみ費やされるのではないような生を、私たちと一緒に学んでいきましょう。”

ある種の芸術作品は、私たちが目にしたことも耳にしたこともことのないようなものを差し出すことによって、私たちを幻惑することがあります。同様に、ある種の小説や哲学書を読むとき、私たちは、これまで頭に浮かべたこともないような考えに直面して途方に暮れることがあります。実際、先ほど紹介した「変化」や「学び」についての考えは、私たちの日常的な考え方から少々隔たったもの、それに多少とも揺さぶりをかけるものであると言えるでしょう。

そして、そのように自分たちのものとは異なる見方や考え方を突きつけられるとき、それによって私たちは、自分たちがこれまで慣れ親しんできたやり方がすべてではないのだ、それとは別のやり方で見たり考えたりすることができるのだ、と気づくことになります。物事を受容してそれを思考する仕方を一新する可能性が、ここに得られるということです。

知性と感性にもたらされるそのような革新は、私たちを一面的な見方や考え方から抜け出させてくれるものとして、もちろん、世界のさまざまな情況や価値観に対応しようとする際に、大いに役立つでしょう。しかし、文学部の学びの神髄は、そのような有用性よりもむしろ、自分自身の根本的変革それ自体にあると、私は思います。

私たちは通常、世界や社会から求められていることに応えることを、学びの主な目的としています。試験で合格点をとるために学ぶ、仕事に必要なスキルを身につけるために学ぶ、世界の多様性に適応するために学ぶ、等々。しかし、まさに求め「られ」たことを学ぶという点において、これは、受動的な学びであると言えます。

これに対し、他からの要求に応じるためではなく、もっぱら自己との向き合いのなかでなされるような学びがある。それがまさしく、自分自身を自ら能動的に作り上げていくことそのものを目指す学びであり、新たなやり方で見たり考えたりする術を身につけようとするものとしての文学部での学びは、そうした学びに属していると私は考えます。

そして、一見すると自己本位的とも思われるそのような学びが、他にもましてかけがえのないものであるとしたら、それは、そうした学びこそが、生きることと同じ広がりを持つ学びであるからです。

社会から求められることに応えるために学ぶとして、ではなぜ、そうした要求に応えなければならないのか。それはおそらく、何よりもまず、自分が身を置くその社会のなかで生き延びるためでしょう。偏差値の高い学校に入ること、人気のある企業に就職すること、そして多様な価値観を考慮に入れることさえも、自分が社会のなかで一定の役割を得て生き残るための、ある種の戦術であると言えます。そしてそうである限りにおいて、生きることと学ぶこととのあいだにあるのは、従属的な関係です。つまりここでは、学ぶことが、生き延びるという目的のための手段ないし道具とされているということであり、したがってそのような学びにおいては、いかに生きるべきか、「善い」生とはいかなる生か、などといった、目的そのものを俎上に載せるような問いは、問われることがないか、少なくとも副次的な問題として後回しにされることになるでしょう。だってまずは食べていかなきゃいけないでしょ、と。

これに対し、もっぱら自分自身の変革を目指す学びとは、それ自体が変化である自分の生を自ら練り上げようとするもの、自分の生をどのようなものとして作り上げていくべきかを真剣に考えようとするものです。したがってこのとき、生き延びるにはどうすればよいかという問いは、もはや、その生をどのように生きればよいかという問いと切り離して考えることのできないものとなるでしょう。生き延びるに値する生とはいかなる生であろうか。死後の生にではなくこの生に賭けるとしたら、その賭金はいかなるものとなるだろうか。私はこの生を、それを最初からもう一度生き直したいと思うほどに肯定できるだろうか。新たな見方や考え方を学び、自分自身を自ら絶えず刷新しようと努めること、それは、このような問いのなかで、それとともに生きることに他なりません。

生きることそのものであるような学びを生きる。学びそのものであるような生を学ぶ。文学部とは、そしてフランス文学科とは、そのような生、そのような学びを実践する場であると、あるいは少なくともその実践を目指して日々奮闘する場でありたいと、私は考えているのです。

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