執筆者:大池 惣太郎

無能力について(教習のおじさん2)

2026.01.14

昨年の夏、普通自動車免許を取った。春学期に週一、二回教習所に通い、四ヶ月かけて卒業した。

若者に混じっておじさんが一人。そこは気にならないけれども、四十過ぎて運転を始めて、どこまで上達するかが心配だった。下手だったらどうしよう。

基本的に車に興味がない。最近までどうしても免許を取る気にならなかったが、中年になったからだろうか、家族や知人ばかりに運転してもらうことが今さらながら申し訳なく思われてきた。今習わないと、もう運転を覚えられないかもしれない。それで、重い腰を上げて教習所に通うことにしたのだ。

しぶしぶのつもりだったが、川沿いの道を自転車こぎこぎ教習学校に通うのは、意外にも楽しかった。ゼロから何かを学ぶことをずっとしていなかったからかもしれない。

車も、乗ってみたらあんがい楽しい。というか怖い。怖くて、楽しい。

それにしても運転がこんなに複雑なことだったとは!右手ハンドル、左手ギア、左足クラッチ、右足アクセルとブレーキ。こんな「命!」みたいな姿勢をして、ミラーを覗いたり、ウィンカーを出したり、標識を見分けたり、歩行者に注意したり…。よくみんな事故らないものだと、安全に運転しているすべてのドライバーに深い尊敬の念が湧いた。「あ、そこ左」などと気軽に言っていたかつての助手席の自分に説教してやりたい。

習い始めてすぐ、思いがけない困難にでくわした。どうしてこんな簡単なことができないのか自分でも不思議でしょうがなかったが、ハンドルを切ったあと手をどう戻したらいいか分からない。ハンドルを切るときは自然に手が交替していくのに、逆回ししようとすると、腕が謎のクロス・ステッチを編む。バックしろと言われたムカデもきっとこんな感じだろう。

ある日、解決策が見つかった。手を離せばハンドルは自然に戻るじゃないか! 教習中にそれをやったら、教官にめちゃくちゃ注意された。運転を舐めていると思われたようだった。舐めてなどいない。自分の手でハンドル戻したら、やっぱり謎の動きになった。何度も謎の動きをする私を見て、教官は「(あ、ほんとにできないんだ…)」と思ったのだろう、家に帰ってフライパンの鍋を回しなさいと教習後に優しくアドバイスしてくれた。

それからしばらく、家で鍋ブタをくるくる回すことにより、もたつきながらハンドルを戻せるようになっていった。

本当の難関が、しかしその先に待っていた。断続クラッチ、つまり徐行だ。

AT免許しかお持ちでない方のために上から解説すると、断続クラッチというのは、原動機(エンジン側)と変速機(タイヤ側)の接続を繋がっているような繋がっていないようなところで保つことだ。AT車ならブレーキを軽く踏むことで徐行になるが、ミッション車でそれをするとエンストしてしまうので、アクセルを少し踏んだまま、クラッチを軽く擦るように浮かせて、動力の一部だけを伝えるのだ(エヘン)。

そんな難しい操作をしないとゆっくり走れないなんて、設計からもう一度考え直した方がいいんじゃないか?と信じられない思いだった。

ところが講習の日、徐行の練習は一回したきりで、いきなりS字・クランクに進んだ。トラウマでも植え付けようとしているのだろうか。

S字一回目。曲線に沿って車を走らせることで頭が精一杯で、徐行にならない。そのまますごい速度で(といっても10キロ未満だったのだろうけれども)ワーワー声を上げながらS字を曲がった。頭の中ではルパンみたいな運転だったが、教官は意外にも落ち着いて、「十分に徐行してないから慌てるんだよ。次はちゃんと徐行を保ってください」と役に立つような立たないようなことを言う。

S字二回目。今度はクラッチに全集中だ。車がゆっくり進んでいく。徐行できている、これなら安心!と思ったら、手が動かない。だって足に全集中しているんだから! 曲がらなきゃ、と思いながら、巨大隕石が堕ちるようにゆっくりと車はS字を直進していき、縁石にゴンとあたって停止した。

教官によれば「典型的な左脳人間」ということらしい。頭で考えて身体を動かしているからそうなるのだそうだ。言い方を変えると、頭で考えないと身体が動かない、ということだ。

その教官からは、「考えるな、感じろ」とブルース・リーみたいなことを何度も言われたが、運転が怖いので、どうしてもまず頭で理解して、安心してから動こうとしてしまう。自分はずいぶん頭でっかちなやつなんだな、としみじみ感じさせられた。身体が主役で、頭は補助監視役、これぞ運転の極意なのだ!エウレカ!

そう頭が分かったところで、できるようになるわけでもない。徐行にどうにか慣れたあとも、右折恐怖、車線変更のタイミング問題、道路標識フライングゲームなど、さまざまな難題が待ち構えていた。その都度わかったことは、運転は頭だけにやらせるには結構なマルチタスクだということ。車は心・技・体の統一を要す!ということだった。

ともあれ、同僚から「おまえは免許取ったら即返納した方がいい」とまで言われた私が、今は普通に運転できている。どうしてできているのか、とても不思議だ!(だからつねに怖い)

教習を通じて、ああ、自分は頭でばかり分かろうとして、「身体が学ぶ」をずいぶん怠っていたんだな、と何度も感じさせられた。教習所に通って本当に良かった。

***

ここで終わってもいいのだが、せっかくなので、教習中に考えたことをもう少し書き足させてほしい。

私はフランス語教員なので、運転を学びながら、ずっとフランス語学習のことを考えていた。

フランス語には「語末のeは読まない」とか「二人称単数の命令形はallerとer動詞のときsが落ちる」などの意味のわからない規則がある。初学者はそういう単純なルールをなかなか覚えられない。

だからといって「なんでそんな簡単なことを覚えられないんだ!」と苛立ったりはしない(安心してください)。長く語学教師をしてきて、はじめて外国語を学ぶというのはそんなものだと分かっている。

分かっているが、「このシンプルな規則がどうして頭に入っていかないのだろう」と疑問に思うこともある。

教習中に考えたのは、「できる」側にとって単一タスクに見えることが、「できない」側にとってマルチタスクである場合がある、ということだ。

「語末のeを読まない」の何がマルチタスクなのかと思うかもしれないが、それがまさに「できる」側の風景なのだ。

学習者はすでにたくさんの能力を働かせている。他の母音や子音の読み方の規則を思い出し(「えっと、まずギアをニュートラルに入れて…」)、慣れない発音をしようと口の動かし方を意識し(「クラッチはポンと離さない、と…」)、隣の単語の意味なんだっけというのも気になるし(「この車線の場合、優先どっち?」)、教員がさっき言ったこともまだ反芻中だったりする(「20キロ超えたら3速、20キロで3速…」)。すでに「できている」ように見えることも、何か忘れていないか、どこか間違っていないか、自己点検する意識がつねに働いている(「クラッチ先に踏んで良かったっけ?…」)。

要するに、新しい環境で何かを学ぼうとする人は、膨大な並行タスクをこなしているのだ。

教える側には、学習者が「ただ一つのことを分からない」ように見える。だが学ぶ側にとって、それは「ただ一つのこと」でもなければ、「分からない」なのでもない。「分かる」が「できる」になる前に、稼働中のたくさんのマルチタスクがあるのである。

「分かればできる」と考えるのは、教える側の尊大な錯覚だ。分かってからできることなんてない。先に、なぜだか分からないが「できる」ようになった瞬間があり、そこではじめて「分かった」ことになったのだ。

教習中ありがたかったのは、ある程度自由に車を操作させてくれる教官だった。運転する端から指導をされると、緊張するというのもあるが、何より考えることが多くなってキャパオーバーになる。そうすると、普通にできていることもできなくなる。しばらく下手くそな運転をさせてもらい、当人に「できる」部分と「できない」部分がはっきりしたところでアドバイスをもらう方が、自分にとしては学びやすかった。学びには、下手くそな運転をする時間が必要なのだ。そのことは自分がこれから教えるときにも、学ぶときにも、意識したいなと思った。

***

最後にもうひとつ、教習中に湧いてきたことがある。自分がハンドルを戻せなかったり、徐行のままカーブできなかったりしたのは、私の無能力ではなく、むしろすでに獲得した能力の結果ではないか、という考えだ。

何かが「できる」というのは、単一タスクに慣れていくということだ。心と体と頭のマルチタスク状態の負荷から遠ざかるということだ。

頭と心と身体をまとめて新しいことを学んでいくのは、生きることの基本で、喜びそのものだと思う。私は運転を習っていて楽しかった。それはまだ芽を咲かせていない可能性としての自分の生、潜勢力に触れていたからだ。

潜勢力は「できる」ことではなく、「できない」で働く何かだ。「できる」ようになったあと、生は現勢力に移行する。人はそれを「能力」と見る。しかし私はそうは思わない。「能力」とは潜勢力があること、つまり無能力状態を生きられることだ。

そうしたわけで、おじさんになってから教習所に通うことは、たいへんおすすめである。みなさん、免許を取るのはもっとずっと後になってからでいい。まずフランス語を頑張ってください!

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