井深 梶之助
Kajinosuke Ibuka 井深 梶之助 1854 - 1940
幕末の会津に生まれ「戊辰戦争」の戦火の中を生きた井深梶之助。壮絶な籠城戦の舞台となった若松城内では、砲術を指南する山本八重とともに闘っています。
やがて梶之助は、米国人宣教師、ブラウンと出会い、師として学びながら、その後の生涯をキリスト者として歩みました。
1891年、初代明治学院総理ヘボンの篤い信頼を受けて2代目総理に就任、今日に続く明治学院の礎を築きました。

敗軍の会津が生んだ博愛の人

若松城内で山本八重と出会う

1854年、井深梶之助は会津に生まれました。井深家は「会津九家」 の一つに数えられる名門です。父、宅右衛門は、会津藩校「日新館」館長を勤める会津藩きっての知識人。1868年、14歳で梶之助も日新館に入学しますが、この年に「戊辰戦争」が勃発、奥羽越列藩同盟の中心を担った会津藩は、官軍との激しい戦いに巻き込まれていきます。
年齢がわずかに足りないことから 白虎隊にこそ加わらなかったもの の、梶之助は父親に付き従って新潟に赴き、そこで武器を手に闘い、その後は、藩主、松平容保の御小姓役として側に侍りながら若松城籠城戦を闘いました。押し寄せる幕府軍が砲弾の雨を降らせた城内は、負傷者が累々と横たわる凄惨な状況でしたが、梶之助はひるむことなく役を務め、また、硝煙の立ちこめる城内で、 男装をして白虎隊隊員に鉄砲の撃ち方を教えていた砲術師範山本覚馬の妹、山本八重にも会っています。八重24歳 、梶之助は数え年15歳の時のことでした。

目の当たりにした戦場の記憶

1年半に及ぶ「戊辰戦争」の戦火をくぐって梶之助は生き残ります。山本八重もまた、父親を失いながらもたくましく生き延びました。しかし、目の当たりにした戦場の記憶は、梶之助の、そして八重の生涯を大きく左右することになります。八重がその後京都で新島襄と出会い、夫人としてともに同志社の設立と発展に尽くし、また篤志看護婦として日清・日露戦争に従軍するのも、また、梶之助が明治学院の発展とキリスト教教育に一身を捧げるのも、この若き日の会津での経験が大きく影響しています。朝敵と蔑まれ、敗者の運命を背負わされた会津から、新たな道徳を身にまとい、博愛に満ちた仕事を果たす人が次々と輩出したのは、決して偶然ではありません。

禁令下で受洗

幕府軍に破れた会津藩は、現在の青森県十和田市やむつ市一体の、本州極北の地に移封されます。藩はその極寒の地で困難な開墾事業に当たりますが、気候の厳しさに満足な収穫は得られず、命を落とす人も少なくなかったといわれます。梶之助は 敗軍の屈辱のなかにあって、新しい拠り所を求めていました。やがて18歳の時、梶之助は藩命で訪ねた横浜で、米国人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンに出会い、その英語塾に入って英語や神学を学びます。 そして、その教えに深く共鳴。二十歳の時に洗礼を受けました。当時はまだキリスト教への禁令は解かれていません。迫害も覚悟の上の大きな決断でした。
ブラウン塾はのちに東京一致神学校へと発展的に解消されますが、井深はその一期生としてさらに学びます。やがてこの東京一致神学校は、1887年に明治学院へと発展しました。初代総理はヘボン。この時井深は副総理となり、その後、米国のユニオン神学校に留学、帰国後に明 治学院2代目総理に就任しました。 就任式が行われたのは1891年11月6日のことです。井深梶之助は、まだ38歳の若さでした。しかし初代総理ヘボンの信頼は篤く、この日ヘボンは壇上で手ずから井深に明治学院の鍵を渡し、こう挨拶しました。 「井深氏はその名の示す通り、”梶”であります。私は明治学院という船にこの新しい”舵”をつけました。 この船はこれからどのような方向に乗り出しましても、決して針路をりません」と。

訓令撤回を目指して

そのヘボンの信頼に応えて、1921年に総理を辞任するまでの31年間、井深は常に日本のキリスト教教育の先頭で活躍しました。特に、総理就任後の1899年には「文部省訓令第12号」が発せられます。この訓令は文部省認可校における宗教教育を禁ずるもので、宗教教育をやめるか、認可を返上して専門学校となるか、いずれかを選ばせるものでした。認可の返上は、徴兵猶予と高等専門学校への入学資格を失うことにつながり、志願者の激減は目に見えています。実際、キリスト教教育をやめて存続を図る学校もありました。しかし井深は一歩も後に引かず宗教教育を継続する一方、訓令撤回に向けて運動を開始。2年後の1901年5月には、いったん失った徴兵猶予と上級学校への進学の特典を回復することに成功します。この総理の奮闘がなければ、今日の明治学院はなかったと言えるかもしれません。

正門前の大銀杏を残した井深総理

現在の明治学院正門のバス停横、少し交差点に寄ったところに、歩道から車道にはみ出すようにして立つ見事な大銀杏があります。実はこの銀杏の立つ場所は、かつて明治学院の構内であり、この銀杏も明治学院のものでした。1921年、井深総理の最終年のことです。当時、東京市は道路の拡幅を計画。明治学院に土地の一部提供を求めました。井深総理は、市の発展のため、その要求に従いましたが、大銀杏については「町の風致のため、伐採しない」という約束を取り付け、この木を無償で提供したのです。おそらくこの約束がなければ、銀杏は市によって伐採されたでしょう。今も明治学院正門前を行き来する人を親しく見下ろし、夏は大きな日陰をつくって人々を休ませ、秋の終わりには、その葉の鮮やかな黄色で私たちの目を楽しませてくれている銀杏は、井深総理が私たちに託してくれたものです。

[参考文献]
『井深梶之助伝』(星 亮一著、平凡社)、『明治学院90年史』