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2008年3月6日

ジョゼフ・キャロン駐日カナダ大使スピーチ

高円宮妃殿下、明治学院大学の理事長様始め関係者の皆様、そして友人の皆様、おはようございます。


まず、本日この式典にご臨席を賜り、私のためにお言葉を賜りました高円宮妃殿下に心から御礼を申し上げます。そしてご祝辞をいただいた明石大使、ありがとうございました。


また、このすばらしい大学から名誉博士号を賜るという誠に大きな栄誉に与かりましたことを、大塩学長をはじめ、明治学院大学の大学評議会、常務理事会、理事会の皆様に深く感謝しております。私がお受けしていいのかという気持ちもございましたが、それと同時に大変光栄にも思い、ありがたくお受けすることにいたしました。


これは私の功績というよりも、カナダを始めとする国際社会との交流とその発展のために一世紀もの長きにわたり力を尽くしてこられた明治学院大学の業績の、言うなればひとつの印としていただきたいと思います。


明治学院大学の皆様には長年カナダと協力し、日加の知識を両国の学生と市民に広めるために、カナダと協力していただいております。明治学院大学の多くの先生方は、カナディアン・スタディーズ・センターを通して積極的に研究活動を行い、日加関係の推進に重要な役割を果たしてこられました。


中でも、ブリティッシュ・コロンビア大学を卒業された佐藤アヤ子教授は日加交流の中心的な役割を担ってこられました。ほかにも、マギル大学で学ばれた大岩圭之介教授、カナディアン・スタディーズ・センターのメンバーとしてサスカチュワン大学で教鞭をとっておられた高橋青天教授や、ブリティッシュ・コロンビア大学で博士号を取得された高桑光徳准教授が活躍されています。また、明治学院大学はサイモンフレーザー大学と大変強い絆で結ばれており、毎年多くの学生がカナダへ留学しています。


明治学院大学は日本コンソーシアムにも加盟していますが、このコンソーシアムの「日加戦略的留学生交流促進プログラム」は、双方の15大学を結び相手国で1年間学ぶための奨学金を15名の学生に授与しています。


このように、明治学院大学がカナダとの深い関わりを示す実例は枚挙にいとまがございません。それは年月を重ねるにつれて深まる豊かな財産といえましょう。また、明治学院大学は社会の変革や新しい時代に適応し、自らの将来を築く人材を育成する日本の優れた教育機関の代表といえます。19世紀の創立以来担ってこられたこの役割を21世紀も果たしていくことでしょう。


あらゆる優れた教育機関に違わず、明治学院大学の影響力には計り知れないものがあります。周知のとおり、時として無意識のうちに、この大学、その明治初期の創設者や歴代の指導者、教授陣や学生のみなさんの影響力は日本中に、また世界中に広がっています。


明治学院大学を始めあらゆる機関で行われている教育は、社会の発展の駆動力となっています。エネルギーと好奇心と柔軟性あふれる若い人々に、自分自身とその周りの世界を理解する手段を提供しているのです。現代の教育はもちろん知識の蓄積を奨励しますが、同時に理性的な対話と科学的方法も推進しています。また、教育は自分で考えるための力を育てるので、狂信的な宗教やイデオロギーから私達を守ってくれます。


最高の教育は、過去の人々が学んだ教訓だけでなくその遺産を凌ぐ知的な手段を伝達します。繁栄、健康、喜び、そして平和をより多くもたらす世界を築く力を与えてくれるのです。


教育の目的とは、個人や市民として、社会の改革の担い手として、また物理学者、人類学者、医者、弁護士、詩人、政治家、建築家、哲学者などの専門家として、若者を広い世界へ羽ばたかせることではないでしょうか。


教育はいわば静かな池の水に石を投げ入れるようなものです。波紋が広がり、その力は時には水面の上の空気や水面の下の水をも動かします。波はいつか必ず岸に打ち寄せ、最初はその影響に気付かないほど弱くても、度重なれば岸の形をも変えるほど強くなり、人々を驚かせるのです。


しかし、明治学院大学のような教育機関は、池に一つの石を投げるだけではありません。長い年月にわたり何千もの石を投げ、同心円状の波だけでなくそれらを縦横に横切る無数の波やうねりを作りだしてきました。その影響力は日本だけでなく全世界にまで広がります。


偉大な詩人のような想像力がなくても簡単に思い描いていただける通り、こうした教育の小さな波が偶然にも地球上を伝わり、ついには1950年代のオンタリオの田舎に住む農家の少年の心に火をつけたのです。当時、農業の近代化が進み私を含む農村の子供たちは畑仕事より学校に行く時間が増えました。教育やテレビの普及により外国に対する関心が芽生えた時代です。しかし私にはもうひとつの個人的な波が日本から届いていました。


その頃の日本はまだ戦争の爪あとが残っていましたが、戦争で一度中断されたとはいえ、戦前同様に西洋から積極的に知識を吸収しようとしていました。学校や大学で外国人の教師や宣教師が歓迎され、このことは偶然にも私と日本との出会いにとり大きな意味を持つことになります。


実は、私の母の姉がそうした教育者の一人だったのです。伯母は、戦前・戦後を通じて日本各地で教えていた宣教師の一団に所属する教師として1949年に来日しました。伯母は福島県会津若松市に配属され、そこで35年間英語を教えた後、カナダに戻ったのは60歳で退職してからでした。


伯母は若い日本人の教育に外国生まれの人の教師も起用するという明治時代に作られた教育方針により日本へ派遣されましたが、言うまでもなく明治学院大学は青山学院大学や上智大学などと同様、その伝統的な流れを汲む大学です。


皆様ご存知の通り、池に投げ込まれた石のようにこうした教育方針が数十年にわたり立てた波やうねりの影響力は非常に大きなものでした。カナダやその他の国から送られた代々の教育者達は、宗教に関わりなくその生涯の一部を日本で過ごしました。彼らは学生達に世界へ目を開かせるという使命を帯びていました。それと同時に日本の国と人々について多くを吸収し、それを逆に母国へ伝えたのです。


私の子供時代を通じて伯母は福島県から手紙をくれ、日本での生活や福島の学校の様子、日本とカナダの文化の違いについて書き送ってくれました。手紙には大抵写真や各地の絵葉書などが添えられていました。クリスマスには、着物を着た小さな人形や唐傘、僧侶が瞑想する禅寺の小さな箱庭、雛人形、こけし、和服姿の小さな木製の加茂人形(木目込み人形)などが届きました。


こうして日本文化の片鱗に触れることができたおかげで、幼い私はカナダのロッキー山脈よりも日本の富士山のほうが鮮明に想像できるほどでした。9歳の時に初めて地図を手にするまで、私は世界がカナダ、アメリカ、日本の3つの国で成り立っているとさえ思っていたのです。


日本人の日常生活の様子がうかがえる写真もよく覚えています。伯母と女学生たちの写真は今も忘れられません。女学生たちは皆制服を着て、一様に戦後の日本で流行っていた刈り上げおかっぱ、いわゆるサザエさんのワカメちゃんと同じ髪型をしていました。女の子が気になり出したカナダ人の少年にとって、これはとても奇妙に感じられたものです。


ある夏私が10歳の頃、伯母はわたしたちのもとへとうとう写真ではなく生身の日本人を送ってくれました。福島の伯母の学校を卒業し当時大学生だった青年がカナダで夏を過ごすことになり、数日の間私の家に滞在することになったのです。この時初めて私たちは日本人と直に交流する機会を持つことができました。


こうした経験の数々、そして日本から生じた波やうねりが、後に生涯続くことになるアジアへの関心の源となったのは確かです。私はオタワ大学で政治学を学んでいましたが、社会科学部に初めて中国の歴史と政治担当の教授が来た時、その講義を受けた最初の学生の一人となりました。同じ頃、外国語学部で最初の中国語コースが始まり私はそれも受講しました。そのときに漢字を習いましたが、実は子供の頃、私は漢字というのは日本固有のものだと信じていたのです。こうした大学での勉強も私の人生の方向性を決定づけました。


私はカナダの外務省に入った当初からアジアでキャリアを積むことに関心があると明言してきました。最初から私は、外交官の役割とは国と国との文化を結ぶ架け橋になることだとおぼろげながら考えていました。すなわち、非常に異なる背景を持つ人々が置かれた物質的、心理的な現状を双方に伝えるという役割です。当時私は、優れた外交官というのは共通の利害を明らかにし、相互の利益を促進するために互いの相違を和らげ、相手の立場を理解するように最善を尽くすものだと考えていました。実際その考えは今も変ってはおりません。


外交官は人として心の奥に心底相手を理解したいという強い願望を持っています。その相手は人の場合もあり、社会や国または政府の場合もあります。「良い外交官」は公務員としてこうした関心や理解を自分の国の利益のために使用します。しかし「優れた外交官」は多くの国々の利益のためにそれらを活用するのです。


私自身は相手との文化的背景が違えば違うほど外交官としての仕事は一層難しくなりますが、一方でその国や人々への関心は益々高まり得るものも多くなると感じています。


オンタリオ南部の農村育ちの私にとって、アジアの文化ほど特有で異なる文化が他にあるとは、到底思いもつかないことでした。ですから、当時私は私が最も貢献できるのはカナダをアジアの国々と結びつける役割を果たすことだと考えたのです。今でもそれが私の使命だと思っています。


幸運なことに私の最初の海外勤務は南ベトナム、サイゴンでの国際管理・監視委員会の仕事でした。この委員会は1973年に締結されたパリ協定(別名、ベトナム和平協定)から生まれ、短期間しか存続しませんでしたが、この最初の海外赴任にはふたつの利点がありました。一つは東南アジアでの生活を初めて直に体験できたことであり、もう一つは平和維持と和平監視活動の現状に触れたことです。そして今でも鮮明に覚えていることがあります。ベトナムに派遣されて間もなくサイゴンの町をぶらついていると、住み慣れたカナダから遠く離れているにもかかわらず、何とも心地よい気分になったことです。ベトナムの人々や文化に対してすぐに共感を覚え、その瞬間、自分の選んだ職業の道が正しかったことを実感しました。


その後ベトナムからアジアの反対側にある西トルコのアナトリア高原と首都アンカラへ派遣されました。そこでも日本からの「波とうねり」が、まったく予期せぬ方法で私の所まで届いたのです。アンカラのカナダ大使館へ赴任してから間もなく,大使館のレナード・エドワーズ政治部長が、KUMRU AYTUG という名の女性を図書館員司書兼受付として雇いました。彼女の父親のTURGUT AYTUG は、元トルコ外務高官で、中華民国の台北で大使を務めた後、退職する直前までは駐日トルコ大使として日本に赴任していました。娘のKUMRU嬢は実にそのちょうど2年前に東京からアンカラへ帰国していたのです。


途中経過は省略させていただきますが、実を申しますと私が図書館受付にいたKUMRUさんに結婚のプロポーズをしたのは、カナダの外務省が私の人生の転機となる重大な発表をする、ほんの数日前のことでした。とうとう私は幼い頃から憧れていた日本へ妻となったクムルと共に赴任することになったのです。


私はこうした驚くべき偶然の一致について考えることがよくあります。そして運命というものがやはり存在するのだという結論に達せざるを得ません。


ところで、私の妻のクムルを雇い「縁結びの神」となったレナード・エドワーズは後日、彼自身の運命の「波とうねり」により、私の前々任者として駐日カナダ大使を務めることになります。そして今現在カナダの外務官僚のトップである外務次官となり、G8のシェルパも兼任しています。


私の人生に影響を与えた「波とうねり」はまもなく、非常に間接的ではありますが、後に私を明治学院大学へと結びつけることになります。


1975年の夏も終わる頃、私は横浜にある米国の語学研修所で日本語を話し、読むという大変難しい、今なお努力し続けている勉強を始めました。2年間の研修の最初の2ヶ月は、簡単な漢字から始めるのではなく、ローマ字で日本語を学ぶというものでした。日本語を勉強している西洋人は皆知っていることですが、ローマ字表記法はジェームズ・カーチス・ヘボン博士により考案されたものです。博士は日本に住んでいたアメリカ人宣教師で、1867年に初の本格的な現代和英辞典(和英語林集成)を出版しています。偶然ではありますが、この同じ年に英国領であった北米の4つの植民地が統合され、カナダという新しい国が誕生しました。


皆様はよくご存知のように、ジェームズ・カーチス・ヘボン博士が明治時代の初めに今日の明治学院大学の礎となる「ヘボン塾」を開校しました。


語学の勉強が不得意な私があの横浜での研修の最初の数週間を何とか切り抜けられたのは、まさにヘボン博士のお陰といえます。語学研修の最初の日、博士の考案したローマ字を使って最初の授業の大きな関門をくぐり抜けることができました。それは「こんにちは」よりもずっと難しい「どういたしまして」と「どうもありがとうございました」という言葉を覚えることで、日本語初心者の私は本当にローマ字に助けられました。ヘボン博士は私が日本語を勉強するための出発点を、また後には漢字を学ぶための手段を与えてくれました。ところで私は未だに漢字を上手に使いこなせないのですが、その美しさと深さには驚きを禁じえません。そして大変ですが一方で楽しみつつ日々勉強を続けています。


私が最初に日本へ赴任してから本日の式典までの間に実に38年の歳月が流れました。これまで私は他の人々の創り出す「波とうねり」の影響を受け人生を進んでまいりましたが、今は自分が「波とうねり」を立てる立場におります。この約40年の間に5回日本に赴任し、妻共々合計17日本に住んでいます。3の子供達も、そしてうちの猫や犬たちも皆、日本で生まれました。私の立てた波の影響でしょうか、現在うちの娘はブリティッシュ・コロンビア大学で日本語を勉強し、息子達は定期的に日本を訪れています。


横浜の語学研修から出発した外交官としての私の職歴は、三等書記官から現在の駐日カナダ大使へと進んでまいりました。これまでの道のりを振り返りますと、ヘボン博士が彼の編纂した辞書の序文に記した次の言葉が心に浮かんできます。「この辞書を一般に売り出すに当たり、著者はいささか気後れを感ぜざるを得ない。」(松村明訳、1970年)博士が果たした大きな業績を考えると彼は気後れを感じる必要はないと思うのですが、私は今なお自分がしてきたことにまだ満足がいかず気後れを感じてしまいます。


日本で過ごした長い年月の間、私は自分が与えることができたことよりもむしろ計り知れない多くのものを得ることができたと実感しています。私は常に最善を尽くし、外交官として自分が着手した仕事を遂行してきたつもりです。自分の仕事がプラスになったかマイナスになったかを見極めることはなかなか難しいものですが、結果的にはプラスになる貢献をしたいと望んでいます。もしそうなれば、それはまさに長年日本からいろいろなことを学んだお陰であると思います。日本の国と人々、特に長年大使館で働いている日本人のスタッフはこれまで常に私の良き先生であり恩師です。


私が学んだすべてのことを要約するのは不可能ですが、ひとつ言えることは、現在起こっている事を理解するためには過去を知ることが重要であるということを、日本から今も教わっているということです。日本人は現代的な鋭い感性や高い精神性を持つ一方、他方で仏教と神道の両方を包み込む広い宗教心を持つという和合の精神を昔から生活に活かしています。歌舞伎や能など最も洗練された芸術表現を尊重し高く評価する一方、アニメやマンガ、コンピューター・ゲームなど大衆文化が生み出す娯楽も楽しんでいます。社会風習から寿司屋の流儀にいたるまであらゆる面で伝統的な形式を保つことを重視する一方、最先端の技術や技能を駆使しています。日本は多くの面で島国独特の考え方を残しながらも一方、日本の資本と消費財の拡大を通してカナダを含む世界を変革しています。こうした日本に関する多面的な知識は長年日本で仕事をする私にとって大きな助けとなりました。


さらに人間的な面では日本は私に次のようなことを教えてくれました。それは、他の人々を理解するには自分と異なる点と似ている点のどちらも同等に受け入れなくてはならない、ということです。自尊心と謙虚さは相容れないものではなく生きていく上で両方とも不可欠なもので、開かれた心がなくては知恵を得る希望はありません。学びの道に終わりはありません。もちろんここにいらっしゃる皆様はすでにこれらのことをよくご存知だと思いますが、本当に私は長年日本にいたお陰でやっと心底理解することができたのです。


高円宮妃殿下、皆様、私が日本へ赴任する経緯と学びの道のりを振り返る話を聞いていただきありがとうございました。また、カナダと日本の若者を結びつけ彼らのために、そして日加両国関係の大いなる前進のために、常日頃力を尽くしてくださっている明治学院大学に感謝します。


最後に、名誉博士号を賜りましたことに対し関係者の皆様に重ねて御礼を申し上げ、私の挨拶を終わらせていただきます。


ご清聴ありがとうございました。


ジョゼフ・キャロン
2008年3月、東京

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