ボランティアコーディネーター 森田 恵
自己紹介ですが、私は長いエスカレーターが苦手です。どんどん地上から離れて身動きできない状態で運ばれていくことが怖いのです。いつも大の字で寝ているので、見えない束縛に対する拒否反応かもしれません。
私は大学卒業後JICA海外協力隊としてフィリピンに行きました。山岳地帯を訪問した時、小さな小さな双子の赤ちゃんと母親に出会いました。日本なら間違いなく新生児集中治療室にいるだろう状態ですが、近くには病院もクリニックもありません。さぞ辛いだろうと声をかけると母親は、静かに「神の思し召しだから」とつぶやきました。それほどまでに神は絶対的な存在なのか、と宗教に無頓着だった私は、その生死観の違いに驚きました。これを自分の価値観が揺さぶられた経験談として帰国後もよく話していました。しかし、考えてみると私の経験談は彼女の何の救いにもなっていません。本当は、その状況における彼女の選択肢の乏しさをともに憤るべきだったのではないか。そう気づいたのは改めて開発学を学んだ時で、ずいぶん後のことです。現地で体験したというだけでは、必ずしも社会課題にたどり着けないということ、複眼的なものの見方をするにはリフレクションや他者の存在が必要であることを認識した出来事でした。
帰国後、国際協力の一端として加わった労働組合の世界は集会やデモの動員等、私にとって異質なものばかりでした。しかし既得権勢力と言われ組織率低下が続く中、誰かがやらないといけない活動を引き受けている人の多くは、職場の仲間の課題を何とかしたいという責任感や、誘いを断り切れない共感力を持つ人達でした。本学に縁のある社会運動家の賀川豊彦も、かつての労働争議リーダーです。週休2日制や育児休業制度等、私たちが現在当たり前に享受している環境は、先輩達の小さな声が集まり、闘いのバトンリレーの末に手にしたものであり、つながりの中にある自分を自覚しました。また国際労働運動はあまり知られていませんが、児童労働対策や女性労働者の権利擁護等の他、政情不安地域の民主主義を守るため労組リーダーの安全確保や対立国同士の労組対話支援等も試みられていました。人の命を守り、よりよく生きる権利を守るためには、しくみを変える必要があり、そのために私たちは国を越えてつながり合える生活者としての豊かな多面性を持っています。まさに「急いでいくならひとりで行け、遠くに行くなら一緒に行け」の諺通りです。
一方、職場では馴染んだつもりでも“ボランティアの森田さん”と微妙な距離を置かれ、モヤモヤすることもありました。そんな中、バングラデシュ出張で出会った国際協力NGOの日本人スタッフの地元住民との信頼関係の深さに衝撃を受け、そのNGOでボランティアや理事、出向スタッフとして運営に関わるようになりました。ボランティアとしての自由さを担保されつつも、組織の歴史や実績など見えない束縛に絡めとられそうになった時、「いーじゃん、やろうよ」と背中を押してくれたのはボランティアの先輩でした。自分一人ならきっと諦めていたことでしょう。
農村支援やストリートチルドレン支援等のNGO活動と労働運動は、いずれも“自分のことを自分で決められる社会”を目指しており親和性があります。今は協働していますが、当時は生活全般を視野に入れるマルチイシューの労組と特定分野を対象とするシングルイシューのNGOと区別され壁が立ちはだかっていました。私は同じなのになあと、この壁を行ったり来たりしていました。
このように仕事とボランティア活動が交錯しながら私のマージナル(辺境的)なアイデンティティが形成されていきました。こうした立ち位置は、もしかしたら誰にでも当てはまるような気もしますが、私にとっては労働組合とNGO、自由でいたい「私」と群衆に埋没したい「私」等、常にいくつかの境界のさらに端っこにポジショニングしつつ、たまにはみ出す自分の不完全さが、自分を不安にしつつも、次への一歩を進める原動力だと感じています。
そんなさまよいつづける私といつの間にか長いつきあいになったのがフェアトレードです。フェアトレード製品の丁寧な刺繍や手仕事に惚れたのがきっかけですが、フェアトレードは人とモノ、人と人のつながり方を問う広く普遍的な概念であると捉えています。
日本に住む私たちは、果たして本当に自分のことを自分で決められているのでしょうか?ウクライナ侵攻から続く物価上昇に私たちは個人として何か選択肢を持っているでしょうか?スーパーでは、不要な包装抜きに欲しい商品を持ち帰れないことを受け入れている自分の自由さとは何でしょうか?自分で決めているつもりが、実は私たちは長い長いエスカレーターに乗っているだけかもしれません。
生きていくうえのさまざまな選択の際に、フェアとは何かを検討することで、自分と他者との関係性を考える機会がもたらされます。「ボランティア」も、自分と他者とのつながり方を考え自分のくらしを自分でよくするという、誰もがおこなう営みの一部ではないでしょうか。つながり方を具現化したものがルールや制度であり、「いーじゃん、変えようよ」という人が増えたら、良くも悪くも変えられるものです。日常のちょっとしたモヤモヤや見ないふりをしたときのチクッとした痛みは見過ごされてしまいがちですが、こうした自らの小さき声にも耳を傾けてみると、自分事が他者とつながり、より大きな世界とつながり、さらに遠くに行く道が開けるかもしれません。
ボランティアセンターで、皆さんと新しい景色を見ることを楽しみにしています。