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他人事が自分事になる瞬間:大学時代に起きた私の転機
 

ボランティアコーディネーター 菅沼彰宏

何十年ぶりの感覚だろうか。
先日、私はボランティアセンターの仕事として、三大寄せ場の一つである寿町へ学生たちと一緒に行った。その時、30年も前の光景がつい昨日のように私の脳裏に蘇ってきた。 

明治学院大学の学生だった私は、在学中何年間か(正確な期間は覚えていない)当時「労働者の街」と呼ばれていた寿町へ通っていた。当時は1985年のプラザ合意以来の円高基調が進み、多くの「労働者」が国境を越えてやってきていた。そして日本政府の「単純労働は入れない」との建前と現実とのギャップから生じる課題が社会問題化されてきた時代であった。「労働者の街」である寿町にはフィリピン人などアジアからの労働者の姿が多く見かけられるようになっていた。そんな中、賃金未払い、労災隠し、不当解雇‥といった問題に直面する人たちも現れ、同じ日雇い労働者の問題として連帯して解決しよう、ということで活動する市民団体が立ち上げられた、そんな時期だった。

ネットのない時代、その団体で「外国人労働者」をキーワードとして新聞記事をチェックし、それをスクラップブックに貼り付けていくのが私のボランティアとしての仕事。明学生何人かでその作業をしていた。同時期に、同じく寿町の中で、フィリピン人の労働者が仲間と集い、料理を食べながら休日を過ごすことができるようにマンションの自室を「溜まり場」として、ボランティアで提供している医師にも出会うことになり、そこにも時々顔を出すようになった。

「君らフィリピンが好きで来ているようだが、彼らが直面している課題を自分事として考えているのか」。
開発援助関連企業に就職が決まった友人は、その医師から「ここにきていながらフィリピン政府を太らせる仕事につくとは、やっぱりこの人(フィリピン人労働者)ときちんと出会えていない」‥。それに対する僕ら学生の反論や、いかにその場に来ている労働者のことを理解しているのか‥。そんな議論を大人たちとしていた。

そもそも寿町へ行くようになったのは大学入学したての頃、実行メンバーを立ち上げて、チャペルを借りて行ったチャリティー・コンサートがきっかけである。フィリピンのネグロス島というサトウキビのプランテーションがたくさんある島で、砂糖の国際価格が暴落して、飢餓が発生した。村人はプランテーションの「労働者」となっているため、自分の農地を持っておらず、地主が砂糖栽培を放棄すると同時に失業者となって、飢餓状態となったのだ。その現状を広く知ってもらい、チャリティー・コンサートを通じて、自分たちとの関わりを考えようという活動を始めた。この取り組みは、「私たちの生活」が国境を越えてさまざまな影響をもってしまうことを改めて思い知らされた。それと同時に、遠い飢餓が「かわいそう」では済まされないこと、もっと言えば、(ネグロスで言えばプランテーション)そんな構造を作ってしまった側の責任も考えなくてはならないとも思うきっかけとなった。

コンサート終了後一緒に活動した学生同士で、身近なところで当時問題となっていた寿町での外国人労働者の支援活動をしようとなったのだった。「勝手に」やってきているのだから、問題がおきても自己責任?? 人道的に誰であっても支援すべき?? 南北問題や国際関係を学ぶ中で、ネグロスと同じように自分たちの社会としての課題として向き合うようになっていった。

それまでの私はボランティアの活動をしていなかったわけではない。ボーイスカウト(小学生の時はカブスカウト)として、共同募金を行ったり、町の清掃をしたり‥。また、高校1年生の時には、フィリピンの山岳地域で、日系人の子どもたちの教育環境の改善活動をしていた日本人シスターを訪ねた。中学時代の担任の呼びかけで集めた文房具を届けたのだった。初めていった海外。山岳の貧しい少年たちや、マニラの路上で生活するストリートチルドレンとの出会い。同じマニラでビレッジ自体が高い塀に囲われた高級住宅街も見て、その格差に衝撃を受けていた。当時はマルコス独裁体制ということもあって、「政治が悪すぎる」「かわいそうな子どもたちを助けたい」といった意識をかなり強く持っていた。また、カンボジアの内戦から、大量のボートピープルが発生し、日本にも船で逃れてくる人々を連日ニュースで報じていたのもこの時代であった。「この人たちがかわいそうだ」「なにか役に立てないか」と思っていたのだった。 

「かわいそうな」子どものために、ユニセフの職員になって助けてあげたい‥。ボランティアで協力してあげたい‥。そんな気持ちでいた私にとって、自分たちの消費行動が、飢餓をもたらす、国境を越えて負の影響を与えてしまうことがあること、それをネグロスの活動は嫌という程思い知らされた。いや待て。政府開発援助だって、フィリピンで見たビレッジに暮らす一部の金持ちをさらに金持ちにさせ、その日暮らしの貧しい人たちをさらに苦しい状況に追い込むことに加担していやしないか?

そうした「気づき」から、マスコミでも頻繁に取り上げられるようになった「外国人労働者問題」を、自分の問題、社会を変えていかなくてはいけない、と考えて寿町に通い始めたのだった。通っている中で、ふと「他人事」となってしまう瞬間、きっと寿町の大人たちは、考えさせるための議論をふっかけてきたのだろう。

こうした経験はその後の自分の物差しとなっている。
つまりボランティアを行うことは、決して他人のかわいそうな課題だけではなく、「自分事」としてどう繋げていくか、考えることができるのか。自分が社会の構成員であることを改めて実感して、向き合うことで社会を変えていく場ともなるのだと思う。

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