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2019年度エッセイ

白金通信「カウンセリング」およびポートヘボンお知らせより


「物憂い春を乗り切ろう」

Q 春は毎年気持ちが落ち込みます。友達はすぐにグループができるのに自分はできず緊張します。
 授業登録などでミスはするし気忙しくて落ち着かず、自己嫌悪。何かアドバイスを下さい。(架空相談)

A 春は変化の季節
 新しい大学生活。新しいキャンパス。新しい授業。春は出会いと変化の連続です。新しい環境に慣れるのに一苦労ですね。
そんな中、一人で物事をてきぱきと解決できる判断力、実行力はその人の強みです。
しかし大学内の各部署や相談機関をうまく利用したり、隣の友達に尋ねたりする、「HELP!」を訴える力も、実は社会で生きていくために必要な能力の一つなのです。
助けを求めるために話しかける、つまり融和的ベクトルを提供することは、友達作りの基本でもあります。さらには「こういうことは苦手で緊張するよ」と言えたら、もっと友達と心理的距離を近づくことができますね。
 感情が行動を規定する
 心理学の用語に「気分一致効果」や「気分状態依存現象」というものがありますが、ご存知ですか?
どちらも、特定の感情がある行動を呼び起こしやすいという、感情や思考と行動傾向の繋がりを示すものです。
気分一致効果とは「何かを記憶しようとする時の気分と、その記憶内容が一致していると、思い出しやすい」というものです。ですから憂鬱な気分の日々を過ごしている人は、気づかないうちに憂鬱な内容の記憶素材(多くは自分に関するネガティブな過去経験)を覚えこみやすいということになります。私たちは知らず知らずのうちにこのような記憶バイアスにひきずられながら行動をしているのです。  
これと似ていますが気分状態依存現象は、「ある気分の時には、過去の同じ気分の元で記憶された内容の事柄を想起しやすい」という現象を表します。記憶素材の内容に関わらず、というところが違いますが、いずれにせよ、ネガティブな感情をひきずっているとネガティブな記憶を掘り起こしやすいということです。これらはその人の性格によるのではなく、誰にでも共通の、いわば「ヒトの脳の癖」でもあるわけです。 自分の行動を反省することは必要かもしれませんが、ある程度反省したら、その気分から敢えて一旦離れる努力も必要です。後悔にこだわり過ぎて、過去のネガティブな自分の想起というスパイラルに囚われているとしたら、それはちょっともったいないことを日々しているのかもしれません。
(「白金通信」Spring号より転載)

 


「変化の時期の後に」

  4月の初めは大混雑だったキャンパスも、このごろは少し落ち着いてきたように見えます。とりわけ今年入学した1年生の皆さんにとっては、新しい環境にともかく慣れなければいけなかった4月が過ぎ、例年に比べて長い5月の連休でほっと一息ついたあと、だんだん学生生活が軌道に乗り始めてくる時期でしょうか。あるいは、連休でせっかくできかけたペースが崩れてしまって、もう一度体勢をたてなおしている最中の人もいるかもしれません。
しかし、なかにはどうも思い描いていた大学生活と様子が違うことが気になってしまったり、まわりに比べて自分だけが置いていかれたり、取り残されているのではないかと思ったりしている人もいるのではないでしょうか。この時期は、ひと段落着いて、まわりや自分のことを考え始めることが出来る分、ともすると焦りや疲労もでてきやすい時期だと思います。

また、1年生だけでなく、4月は誰にとっても多かれ少なかれ変化の時期だと思います。2、3年生では、校舎が横浜から白金に変わった人も多いでしょうし、なかにはそれに伴って転居した人もいたでしょう。4年生の皆さんは就職、卒業という課題に本格的に取り組みはじめたのではないでしょうか。
そうした変化のあと、自分の思い描いていたように事が進んでないなと思ったり、うまく乗り切れなかったなと感じている方もいるのではないでしょうか。そんな思いを一人で抱えこみすぎてもあまり良いことはないようです。
 誰かに話すことから始めることでみえてくることもあると思います。変化の時期のあとは、こころやからだの不調が出やすい時期でもあります。不安や気持ちの落ち込み、不眠や食欲不振など気がかりなことがあったら一度、学生相談センターにいらしてみたらいかがでしょうか。
(ポートヘボン「お知らせ」(2019/5月)より転載)

 

 
「シッポの赤いネコのお話 その7 ~悲しみよ、こんにちは…の巻~」

 それは青天の霹靂でした。もちろんそんな言葉は知らないけれど、その出来事がミュウを暗闇に突き落としたのは確かでした。あれから季節は移り変わっても、全ての時間が止まっているかのようにミュウは昨日までのことをあまり思い出せませんでした。

あの日、雨上がりの澄んだ匂いを嗅ぎながら、二匹はまたねと声をかけあって別れました。けれど、ブチは二度と姿を見せてはくれませんでした。その日の夜、いつも一緒に遊んだり『ネコの聖歌隊』の練習をする野原から程近い裏山で、ひっそりと天国に旅立ってしまったのです。

 ブチは初めてできたネコ友でした。スズメのピーは別にして、赤いシッポを気にするふうもなく普通に接してくれたネコは初めてで、妙に気が合った二匹はすぐに仲良くなり、ときにじゃれあい、ときに獲物を分け合い、会えばまるで兄弟のように遊んだものでした。シッポのせいで天涯孤独と思って生きてきたミュウにとって、それは信じられないくらい楽しい日々でした。ブチの風船みたいなおなかに寝そべって日向ぼっこするのがお気に入りで、悩みを打ち明けあったり、たまにはケンカもしながら、二匹は友情を深めてきました。そんな当たり前の日々が突然消えてしまうなんて、考えたこともありませんでした。でも現実は…、ときに残酷なものです。

どうしてだろう、どうしてこんなことになっちゃったんだろう…。あれ以来、ミュウの頭の中ではそんな思いだけが鳴り響いていました。自ら死期を悟って裏山に身を潜めたのか、ただエサを探しに行って変なものでも食べてしまったのか、他のネコたちは色々噂するけれど、誰が何を言っても自分の前からいなくなってしまった理由がミュウに分かるはずもなく、みんなが勝手なことを言ってるだけにも聞こえてちょっとイライラしたり、もしかしたら自分が別れ際に何か傷つけるようなことを言ってしまったのだろうかとあらぬことまで考え始め、頭はパンクしそうでした。

この世にはこんなにも深い悲しみがあることを、ミュウは今まで知らなかったのです。今にして思えば、いじめられたり片想いの相手に振られた時も辛かったけれど、あの時とは悲しみの形も大きさも比べ物にならないくらい違っていました。それなのに、どういうわけか涙も思うように出てくれず、泣きたい理由はあるのに泣けないというのは何とも奇妙な気分でした。それでもエサを探しに出かけたり、聖歌隊の練習に出れば元気なフリをしてみたり、そんな訳の分からない自分のこともどうしていいか分からず、次第に自分は駄目ネコなんだという気持ちが強くなっておりました。

とはいえ、時の流れはわずかずつでも心の傷を癒してくれるものです。気持ちはまだ晴れなかったけれど、そんなモノクロの世界の中でも、ようやく雨に濡れた美しい紫陽花に目を留められるまでになっていたミュウは、ふとブチがいなくなったのもこんな雨上がりの夜だったと思いました。自分だけでは裏山に近づくことができないでいたけれど、晴れ間が広がり始めた夕暮れ空を眺め久しぶりに散歩に出かけてみようという気になったのは、その山に沈もうとする夕日があまりに美しかったからかもしれません。けれど、吸い寄せられるように野原までやってきたものの、真ん中の小高い丘には二匹が落ち合う目印の木が何も変わらず立っていて、近づくにつれ懐かしい想い出が蘇り、ミュウはやっぱりどうしていいか分からなくなってしまいました。 

引き返そうとしたその時、馴染みの声が聞こえてきました。「大丈夫かい?」

運よくその木の枝に止まっていたピーが、ミュウを見つけて声をかけてくれたのです。舞い降りながら覗き込んだ先には、ミュウの潤んだ瞳がありました。ピーの温かい声に触れて波立つ気持ちに戸惑いながらも、夕焼けに染まり始めた美しい空に励まされ、ミュウは今の気持ちを少しは語れそうな気がしていました。時折心配して訪ねてくれたけど、ふさぎこんでいた頃は黙ってそばにいてくれたので、ちゃんと話をするのは久しぶりでした。

「ブチがいなくなってからずい分経つのに、どうしてボクはみんなみたいに元気になれないのかな…。ううん、違うな、誰かといると普通に話もするし、変にはしゃいじゃったりもするのに、ねぐらに帰ると何もしたくないし、辛くて悲しいはずなのに涙も出ないし…。あれっ?ボク今、何で泣いてるんだろう…?」

さざ波のはずがいきなり大波にさらわれ翻弄される小枝のように、ミュウの心は収拾がつかなくなりました。そんなミュウをピーは察していました。

「ブチのことは本当に辛かったね。でも聖歌隊の練習も休まずに出ていたし、よく頑張っていたよね」「それはブチがいつも応援してくれていたから休んじゃいけないなって…」「ブチのためでもあったんだね。でも、ミュウは今までちゃんと泣けたことがないんじゃないかい?」

そう言えば子ネコの頃、ミュウは赤いシッポをからかわれるたびにメソメソして、泣き虫ミュウと呼ばれていました。その頃から、泣くのは弱虫のすることと思うようになっていたのかもしれません。そんなことを思いめぐらしていると、ピーがまた呟くように言いました。

「悲しみは僕らの心を壊してしまうことがあるから、感じないようにしてるのかもしれないね」

その言葉に、ミュウはブチがいなくなってからのことをあまり覚えていないことを思い出しました。覚えてないというより、辛くて何も考えないようにしていたのかもしれないと思いました。

「ボク…、泣きたいのかどうかも分からないし、泣くのも怖いのかな…。涙の海に溺れて二度と浮き上がれない気がして…。今日もフワフワして自分が自分じゃないみたいな感じなんだけど、でもピーの顔を見たら急に悲しくなって涙が止まらなくなっちゃった…。ブチは…、ブチは…、どうして死んじゃったの…?」

そう言ったとたん、ミュウは、もうどうとでもなれというような勢いで泣き始めました。すでに空は闇に呑み込まれ、かわりに満天の星がミュウたちを見守っていました。嗚咽で言葉にならない言葉にもじっと聴き入ってくれるピーの存在を感じながら、ミュウは一晩中泣き続けました。そして、一生分の涙を流したと思うくらいに泣きつくしたあとには、とても疲れたけれど、不思議と気持ちが軽くなっていることにも気づいたのです。あの日からピクリとも動かないように気持ちを硬くして、その上からさらに重石を載せていたかのような心の蓋がわずかに緩み、涙とともに悲しみが解き放たれ始めたのでしょう。

朝靄の立ちこめる中、ピーは泣き疲れてボーっとしているミュウに言いました。

「自分のために泣いてくれる友達がいて、ブチの魂も慰められると思うよ。だから気の済むまで泣けたらいいよね」「でもこんなに泣いてばかりいたら、ご飯を探しにも行けないし、聖歌隊の練習にも行けなくなりそうで…」「そうだね。時には悲しみをしまっておくことも必要かもしれないね。その代わり泣きたいときには思い切り泣けたらいいのかな」「そうか…心にもトビラをつけて、自由に開け閉めできればいいんだね」「それに、一人で泣くのもいいけれど、誰かといたほうが悲しくても淋しくならずにすむかもしれないから、ボクでよければいつでも泣きにおいで」

その温かい言葉は、どんなに深い悲しみもいつかは姿を変えてくれるだろうとはまだ信じられないミュウの心にも染みてくるように感じられました。それでもやっぱり泣いてばかりだったら弱くて駄目なネコなんじゃないかという気持ちも捨て切れずにいるミュウにピーは言いました。

「そうだね。確かにいつまでも悲しみにくれて何もできないでいるミュウを見てるのは、ブチも切ないかもしれないね。ブチはミュウを悲しませるために天国に旅立ったわけじゃないもの」

ボクを悲しませるためじゃない…? ブチの死に何か意味があって、自分に何かを遺してくれているかもしれないなんて、思いもよらないことでした。とはいえ、当たり前ですが知りたくても正解があるわけではないし、考えたって簡単に分かるわけでもありません。ブチの死を受け入れるためにはミュウなりの受け止め方を見つけるしかないのだけれど、それはもっとずっと先のことでした。でも今日のところは、泣きたいときは思い切り泣く、そんなふうにしてもいいんだと分かっただけでもミュウにとっては上出来でした。さんずいに戻ると書いて涙、さんずいに立つで泣く…。たくさん涙を流せば心が落ち着きを取り戻し、たくさん泣いたあとは立ち上がれる…。もちろんミュウは漢字なんて知りませんし、本当はそういう意味ではないようですが、この際ですからそういうことにしておきましょうか。この世の無常を知り、悲しみを抱えながら生きていく術を探し始め、ミュウがまた一歩オトナへの階段を上ろうとしていることも、また紛れもないもない事実なのですから。
(ポートヘボン「お知らせ」(2019/6月)より転載)

 

「学校が楽しくなくて、やめようかと悩んでいます」

Q.大学に行けない日が増えました。授業にも出席する気になれず、友達と連絡を取らなくなりました。何のために大学にいるかわからなくなっているし、やめたい気持です。(架空)

A.簡単には答えが出ないし、家族や友人にも相談しにくい悩みなだけに、毎日悶々としているのではないでしょうか。 学生相談センターでも毎年このような悩みを抱える人がいます。「本当は楽しみたかったし、新しい自分を発見したかった」と、大学生活への期待が大きければ、なおのことつらいと思います。

 こんなはずじゃなかった。。。

毎年5月中旬頃から大学に来られない人が増えますが、きっかけはさまざまです。たとえば、4月中に通学の生活リズムが掴みきれないまま、ゴールデンウィークで大学が休みとなり、授業が再開しても通学モードに自分をもっていくことができなかった人もいると思います。数回くらいは欠席をしても影響はない、と思いこんで休んでいたら、翌週の講義もおっくうになって、つい休んでしまうのが続いている人、そのように休みが続いて、結局欠席のサイクルにはまってしまった人もいるのではないでしょうか。あるいは、以前から「体調がすぐれない」「勉強についていけない」「人間関係がしんどい」といった事情で、通学が辛い人もいると思います。自分で理由がわかっているのに、対処ができないことに落ち込み、イライラして、結局やるべき行動ができなくなっている人もいます。つらいことや嫌なことへの対処や折り合い方が見つからず、大学から遠ざかってしまうといった現実逃避が続いたり、大学に行けないことで自己嫌悪になって、さらに自分を追い詰めるという悪循環に陥ってしまう場合もあります。

 逆発想で考えてみませんか

このような悩みで相談にくる人の話を聞いた上で思うのは、問題を先送りしないことが大事だということです。大学生活では、授業やアルバイトといった「普通」の生活を送ることだけでなく、むしろ、悩んだり迷ったりし、場合によってはつまずいてしまった状況の自分をケアして、回復や改善する方法を見つけることも大事な体験となります。自分が失敗したと思ったときこそ、打開する考え方とやり方を見つけることで大きく成長する機会でもあるのです。

 大学に行けない自分を責めたりあきらめてしまうのはモッタイナイです。上手くいかなくなったこの機会を逆利用して、さまざまな角度から自分を眺めてみてはいかがでしょうか。
(「白金通信」Summer号より転載)

 

「自分に向き合える夏休みに・・・」

「自分は卒業後に本当は何をしたいのだろうか?」と鏡に向って一人で考えたことはありませんか?

大学生の皆さんとお話をしていると、高校時代の進路選択の時期にあまりそれを掘り下げてこなかった人、予定外の進学になったという人もいらっしゃいます。何となくこの大学に、この学科に入学したとしても、日々の大学生活を通して自然に、つまりは授業、バイトでの接客や、サークル活動、さまざまな活動を通して次第に馴染む中で、「自分」に向き合う人もいます。どんな活動をしている時に、自分が生き生きするのでしょうか。心から楽しいと思えて、時間が過ぎるのも忘れて没頭できるものは何でしょうか。苦手なことや失敗体験はあるにせよ、どんな活動であれば人が喜んでくれると思える自分を発見できるのでしょうか。大学時代には、このような自分の個性や特性に目が向き、それを存分に生かせる生き方を探し出そうという試みを始めることに、とても意味があるのです。「就活のための自己分析」というと、面倒くさくて先延ばしにしたくなることかもしれません。3年生、4年生はもちろん、このようなことに関心が向かいやすいかと思います。しかし大学時代に好きなことにチャレンジするつもりの1~2年生のうちから、ちょっとそのような視点をもって生活されると良いかなと思います。

 人生を8つの時期に分け、それぞれの時期に際立つ発達課題を設定した、E.H.エリクソンという人については、皆さんは発達心理学や心理学関連の授業のみならず、倫理や保健、教職の授業などで学ばれたことがあるのではないでしょうか。エリクソンといえば青年期の発達課題を「アイデンティティの確立」であると言ったことでも有名です。エリクソンがそのような理論を打ち立てたのにはわけがあります。彼自身がそこに大変苦労したからです。

エリクソンは自分の出生の秘密に深く深く悩んで育ちました。父親が誰だか、どのような人なのかがわからないために、幼い頃から自分をどう社会に位置づけていいかわからなかったわけです。人種的にも、宗教的にも、職業選択においても・・・。そんな彼は、学生時代に自分のアイデンティティを探す放浪の旅を続けました。若かりし頃のブロス(後には彼も著名な青年期心理学の研究者になった人物です)との山岳地帯での旅を通して、彼はさまざまな経験をしたようです。芸術家(奇しくもこれが生みの父親の職業だったようです)になる可能性に終止符をうち、山を降りたエリクソンは、フロイトの精神分析家の資格を取り、発達心理学者として大学に勤めることになったのです。

青年期には、さまざまなあらゆる日々の体験が「自分」の発見に繋がります。旅や留学やインターンシップなど、何か大きな活動をしなくても、「自分」に向き合う機会はあるのです。皆さんもこの夏休みに「自分」に目を凝らしていただけたらと思います。

(ポートヘボン「お知らせ」(2019/9月)より転載)

 

「食べること、で悩んでいませんか?」

Q ひそかにダイエットをしていたら、その反動か、今度は食べたい衝動が抑えられなくなり、いつかは止めようと思いながらも食べ過ぎることが続いていて困っています。(架空相談)

 

A 食べることは、本来、生きるために必要な本能です。落ち込んで食欲がない等、その時々の気持ちやこころの状態によって多少の影響を受けることはありますが、それが落ち着けば、自然と元の健康的な食べ方を取り戻していくのが普通です。しかし。このような相談を受けることは決して少なくありません。
 はじめは軽い気持ちだったのに 

  「軽い気持ちでダイエットをしたが、今度は体重が増えるのが怖くて食べれられなくなった」「食べた後は太るのが怖くて吐いてしまう」「満腹感がわからなくなった」「体重は30kgに落ちたが痩せている実感がない」「生理が止まってしまった」「体力も落ちたが気力もわかなくなった」など、食事に関する悩みは、身体的にも精神的にもとても重い負担となり、命の危険すら伴う場合もあります。著しい体重減少が見られる場合は、まずもって身体的な治療が必要となります。

 食べることと、こころとの関係 

  このような状態が続くと、「食べる量を調整するなんて簡単だから自分の意志でできるはず!」と思っていたのに、次第に「止めたいのに止められない」「無理に止めようとすると、かえって気になって食べ過ぎてしまう」など、自分で自分の行動をコントロールできなくなってしまう場合があります。

このような状態に陥るのは、人生の中で大きな変化がある時期に多いと言われています。それは私たちが、こんな自分になりたい!と理想を掲げたり、自分について深く真剣に悩んだりする時期でもあります。

私たちのこころには、自分では気づきにくい領域があります。それは、言葉にするのが難しかったり、自分では見たくないような内容のものであったりするので、どうしても気づきにくいのです。自分の思いがあまりに強すぎると、意識からは気づかれない裏側の領域で、それを邪魔するようなことが起きてしまうこともあります。そのような全体的なバランスの乱れが、こころと身体を結ぶ通路の一つである“食べる”という領域で起ってしまうと、このようなことが起きてしまうのかもしれません。

このように“食べる”ことは“こころ”と深く結びついています。ご質問の方のように、自分でコントロールできない感じが出てきている場合は、気持ちのどこかに無理がたまっていないか、一度振り返ってみても良いのかもしれません。
 (「白金通信」Autumn号より転載)

 


「メンドクサイ」は勇者である!?」

Q 自分はすぐに「メンドクサイ」と思ってしまいます。レポートを出すのも、バイトをするのもメンドウです。人づきあいも本当はメンドウかも。ちゃんとやらなきゃと思うのですが。(架空相談)

 

A 「メンドクサイ」は誰の心にもあるものですが(勿論私にも)、しばしば付き合い方に困りますよね。メンドクサイは悪者にされがちですが、実は勇者でもあるのです。・・・カップ麺もSNSも、「料理がメンドウ」「手紙を出すのがメンドウ」など「メンドクサイ」気持ちが産んだ文明の利器ですしね(多分ですが)。 あなたの「メンドクサイ」にもきっと“力”が隠れているはずです。 メンドクサイに隠れた力?  さて、「メンドクサイ」には何が隠れているのでしょう?「メンドクサイ」時って、どんな考えが浮かんでいますか?・・ 
「やるからには完璧にやらなきゃ」?「失敗が怖い」?「人の目が気になる」?「他のことがしたい」?「(親や友人の)期待が重たい」?・・どうでしょう。メンドクサイの裏にある考えや気持ちが見つかりましたか?見つかったら、更にその裏に隠れているものを見ていきましょう。(ここが大切!)

 メンドクサイの裏の裏に隠れているもの・・・・それはあなたの“強み”(ストレングス)です。

 例えば「人が気になる」の裏には「協調性」や「人の意見を聞く柔軟性」という強みが、「失敗が怖い」の裏には「慎重に行動できる」という強みがあるかも。「気が散る」方は「好奇心旺盛」という強みを持っているのかもしれません。 メンドクサイとうまくつきあう? そんなこと言われても・・」と戸惑う方もいらっしゃるかも。意外なことを言われたら戸惑うのは当然ですよね。でも、少しずつ強みに気づき、「それもそうかな」と受け入れていけると、「メンドクサイ」とつきあいやすくなって、課題がやりやすくなるようです。

課題をする時は「とりあえず」「ちょっと」「やってみる」のが良いかも。課題を小さく分けて、「ちょっと」を少しずつ重ねていく「スモール・ステップ」がお勧めです。ちょっとできたら、自分を褒めてみるのも(照れるかもしれませんけど)、効果があるようです。

 ここまで読んで下さって(メンドクサがらずに?)ありがとうございます。あなたはすでにメンドクサイとうまくつきあう力をお持ちかもしれません。

 そうそう、メンドクサイとつきあって課題を達成すれば、良いことがついてくるかも。どんな良いこと?・・その良いことを見つけていってくださいね。
 (「白金通信」Winter号より転載)

 


「❝コミュ障❞って言うけれども…」

2020年はオリンピックイヤーで盛り上がる一方コロナウィルス問題での動揺もあり、どこか落ち着かない一年の幕開けですね。そして、あっという間に年度末が近付いてきています。卒業や引越し、就職と、変化が訪れている方も多いかと思います。

 そんな“別れと出会いの季節”である春には、新しい環境に飛び込んだり初対面の人と接する事も増え、中には不安に思ったり気疲れする人も出てくるのではないでしょうか。実際、この時期には時折、「コミュ障(コミュニケーション障害)だから、人見知りします」、「コミュ障なのでうまくやっていけるか不安」などの言葉を耳にします。この“コミュ障”という言葉、本来的な意味はともかくとしてインターネット等では、「場の空気が読めない」、「コミュニケーションに自信が持てない」、「人づきあいが苦手」などの意味合いで使われているようです。

確かにコミュニケーションを取るのが苦手ないわゆる“コミュ障”の人にとっては、新たなグループに所属し、見知らぬ人と関係を築いていくこの時期はストレスを感じやすくもあると思います。特に「以心伝心」を重んじる日本社会では、場の空気を察してコミュニケートできる気配り・気遣いを求められやすく、それが苦手な人は人間関係が円滑に進まなかったりうまく仲間に入れなかったりすることがあるのかもしれません。ただ一方で、「周りに気を遣いすぎて思う事が言えず、人づきあいがしんどい」などの悩みもしばしば耳にする事があります。おそらく、人に嫌われたくない・周りからはみ出したくないために自分の気持ちを抑えてしまい、結果的に生き辛さに繋がってしまうこともあるのでしょう。そう考えると、“場の空気を読む”ことが過剰になり過ぎても、逆に“場の空気を読まない(読めない)”ことが起こっても、いずれにしてもコミュニケーションってしんどい、ということになっちゃいますよね…。

 実際はコミュニケーションって双方向のものであるし、何か齟齬が起こった時だって片方だけの問題でないことも多いはずです。本来別々の人間なのだから、お互いの違いを認め合って受け入れられれば新しく違った関わりも生まれてくるでしょうし、それが難しい場合には無理に付き合わず敢えて距離を取ったり、心地よい関わりの所に移ることだって選択肢の一つなのです。

 もちろん、“言うは易く行うは難し”。関わらざるを得ないグループや相手だっているし、一人ぼっちは嫌だし、つい相手に合わせてしまって言いたい事が言えないし…。頭では分かっていても、なかなか実行に移すのは簡単ではないでしょう。もしコミュニケーションで迷子になってしまった時、例えば学生相談に立ち寄って相談してみる、というのも選択肢の一つに加えてみてはどうでしょうか。一人で彷徨うのではなく、一緒に考えるという関わりを選ぶことで、また別の地平が開けてくるかもしれませんよ。
(ポートヘボン「お知らせ」(2020/2月)より転載)

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