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2021年度エッセイ


「春学期を元気に過ごすためには」

 2021年度春学期が始まり1ケ月が経とうとしています。今年度もズームなどのオンラインを活用した講義が多くなりました。
皆さんは、授業を受け、課題をこなす日々を過ごしていると思います。一方、課外活動は、感染対策を取りながらの活動となり、充分な練習ができないジレンマもあると思われます。
慣れない状況や、去年とも異なる変化に苦労やストレスも増えているのではないかと案じています。 特に2021年度入学の一年生の皆さんは、新生活に慣れようとして頑張っている頃かと思います。でもわからないこともあるでしょうし、困ったり不安な人もいるかもしれません。どうか一人で悩まないで、当センターをご利用いただければと思います。 それから、在学生の方々でも、今もって生活リズムが掴めず、大学のスケジュールになじめていない方もいるのではないでしょうか。オンライン授業の増加による諸問題や、自粛生活(ストレス発散のやり場がない、友人と会えない、等)によって、モチベーションが出なかったり、イライラや抑うつ感、昼夜逆転や不眠、頭痛や腹痛、等は増えていないでしょうか。そのような状態から抜け出せないでいたり、切り替えるきっかけが持てずに、どんどん日々が過ぎてしまい、大学が遠くなってしまっている方はいないでしょうか。 そもそも大学生活は、社会人になる前のいわゆる自由な時間でもあります。勉学面だけでなく何か新しいことを始めたり、前からやりたいことに熱中して楽しかったり、自分の成長を感じる機会もあるかもしれません。しかし、その一方で、大学生活という大きな変化によって、今までは気にならなかったことをモヤモヤ考えたり、何かイライラしたり、日々の中でストレスを感じることがあるかもしれません。課外活動やアルバイトで、悩みも出てくるかもしれません。また、友人との関係、恋愛、家族間の問題、等、人間関係で悩むこともあるかもしれません。
それらによって、精神的な不安定感を感じることもありますし、体調の不調が現れることもあります。 またそれ以外でも、大学時代は、実は多くの危険が隣合わせにあります。コロナ禍とはいえ、成人してお酒を飲む機会が増え、お酒にまつわるトラブルが起きる場合もあるかもしれません。あるいは、別な問題として、スマートフォンによる危険も身近にあります。つい撮影して投稿したSNS(逆に投稿されたり)で、トラブルが発生する場合もあります。このように、学生生活で新しい経験をしていく中では、思いもよらない事件や、ストレスが過剰にかかることもあります。 皆さんの中で、何か思い詰めていることがあったり、友人にも心配な人がいたら、学生相談センターにご連絡ください。
 当相談センターは、上記の悩みのみならず、様々な内容の相談をお受けし、一緒に考えられるところです。プライバシーにも十分に配慮しています。直接来室、電話、オンラインによる面接を行っています。
(ポートヘボン「お知らせ」(2021/4月)より転載)

 


  • 「バーチャルな毎日」

     新型コロナウィルスの脅威がなかなか収束せず、私たちはオンラインという仮想の現実空間の中で多くの時間を過ごさねばならなくなっています。今まで使い慣れてこなかったオンラインという状況においては、おそらく様々なトラブルや困りごとが起きているのではないかと思われますが、今回は、私たちのこころがとらえる「現実」ということに焦点を当てて考えてみたいと思います。
     私たちは普段、当たり前のように画面に映る友人の顔を見て、スピーカから聞こえる声を聞いて、疑うことなくこれは○○君だと思っていますね。でもよく考えてみれば、その○○君はデジタル信号を通して限りなく実物に似せて創られ再現された「情報」に過ぎないとも言えるわけです。そう考えるとなんだか不思議ですよね。
     私たちは多くの場合、手で触れることのできる「現実」だけではなく、「現実的」なことを通して、それを「現実」と認識して、生きていると言えるかもしれません。そして今、その波は、授業や友達づきあいやサークル活動や飲み会にまでも及んできています。
     このような認識が可能であるのは、中沢(2004)が述べているように、人類の脳が「流動的知性」を獲得して、ものごとを多義的にとらえる力が備わったからかもしれません。例えば、「さる」という音を聞いた時、私たちは「猿」と「去る」の両方を思い描くことができる。まるで関係のない二つのものごとを、「さる」という音によって結びつけることができるようになったのです。このような知性は人類の生活の豊かさを爆発的に増加させました。そして現代では私たちに代わって機械が同じようなことをしてくれるようになりました。たとえばネットである単語を読みで検索すると、同じ読みを持つ様々な単語が検出されます。今や世界はインターネットという道具を手に入れ、その知性は個人が持てる範囲を超えて膨れ上がっているようにみえます。
     この著しい変化はもちろん私たちに豊かさをもたらしました。ですが、その豊かさのもつ複雑さは私たちを一層混乱させるものでもあります。なぜなら複雑になればなるほど考える素材は増えてしまい、今まで考えなくてもよかったことを考えねばならなくなったからです。ネットによって時間や空間を飛び越えるのは簡単になり、これまで強く立ちはだかっていたはずの「限界」はずいぶん弱いものになりました。でもこの「限界」は私たちを守る防波堤でもあったのです。
     たとえば以前なら小さい子どもは知らずに済んだような醜い出来事も、今は誰もが容易に目にすることができてしまう、というようにです。 私たちは「現実的」なことをも「現実」としてとらえることができる、と最初に述べました。今や「現実」は実に多様化・多層化しています。ですが覚えておきたいのは、その「現実」をとらえるのは、なま身の体をもつ私たちのこころだということです。
     オンライン中心の生活では、これまで予想もしなかったような疲労や戸惑いを感じている方も多いのではないでしょうか。生身の私たちは今この時間とこの空間の中に生きていますから、バーチャルな時空間との間に「ズレ」を感じるのは当然なのです。
    学生相談センターでは、希望する学生さんには対面での相談も受け付けています。なま身のカウンセラーがお相手をいたします。こんな毎日でちょっと疲れてしまった、というようなことでも構いませんので、お気軽にご利用ください。
    文献:中沢新一(2004)『対称性人類学 カイエソバージュ5』(講談社選書メチエ)
    (ポートヘボン「お知らせ」(2021/6月)より転載)


    「コロナ禍の大学生活とストレスからの自己理解

    Q.新型コロナウイルス感染症の影響が出てから1年以上たちました。慣れてきたところもありますがストレスもやはり感じています。どんなことに気をつけて生活していけばいいでしょうか。

     

    A.昨年からの感染症拡大で社会は大きく影響を受け、それに伴い大学生活も一変しました。現在も以前の状態には戻ることはできず、多くの人がこの間の変化への対応を強いられ、様々なストレスを抱えたと思います。

     

    ・大学生活の変化と受け止め方の違い

    最も大きな変化は授業のオンライン化でしょうか。キャンパスで過ごす時間も減り、友達づくりや、課外活動にも影響があったと思います。アルバイトができなったり、実家への往来を控えたりした人もいるでしょう。先の見通しが難しいこの状況でストレスを感じること自体は無理のないことです。ただ、このような変化をどう受けとめるかは人によって違いがあるようです。オンラインの授業はむしろ負担が軽くなったと受け取る人がいる一方で、物足りない、大学に期待していたものではないと感じる人もいることでしょう。オンデマンド型の授業は時間を気にせずすすめることができるのでメリットのほうが大きいと感じる人もいれば、モチベーションがわかないという人もいるはずです。授業の課題をこなすことには影響はないように見えても、この状況ではやりにくさを感じる人もいるでしょう。状況は同じでもストレスに感じたり感じなかったりと、人によって違いがあるのです。

     

    ・変化への反応としての自分

    もともと対人関係に関して不安が高い傾向がある人の場合、授業のオンライン化はむしろメリットが大きく、対面の授業で感じていた負担が軽減される結果になったという人もいるでしょう。他方で、例えば身近な親しい人との関係で困難を抱え、これまでキャンパス内外でのリアルな関係や活動を充実させることで自分のバランスを保ってきた人にとっては、対面の授業の減少、サークル活動の制限、アルバイトの中断などは、これまで自分の支えになっていたものが失われる体験になったのではないでしょうか。また、自分でスケジュールを管理することが苦手な人、そもそも生活リズムが崩れやすい人にとっては、オンデマンド型の授業は時間割という外部にある枠組みがなくなる分かえってやりにくく、モチベーションも低下してしまったという人もいるのではないかと思います。逆に、物事をきっちり考える生真面目な人は、出された課題を仕上げる際に、周囲に比較対象となる人がいないので、いきおい全力で取り組み疲弊してしまう人もいそうな気がします。このように、同じ状況であっても元来のその人の性格や現在抱えている困りごとなどによって捉え方や反応が異なるということになります。

     

    ・主体性を伸ばす試みとして

    感染症の拡大とそれに伴う社会や大学の変化は、誰にとっても共通の問題とであると同時に自分自身の特有の課題も現れてくる状況です。対人関係の不安、スケジュール管理の苦手さ、融通の利かなさの裏返しの生真面目さなどのほかにも、その人その人いろいろな性格や行動の課題があると思います。感染症拡大という現実的問題は確実に存在するのですが、そのなかで見えてくる(あるいは見えずに隠れてしまいがちな)自分自身の課題を考えてみるのも大切なことではないでしょうか。大きな現実を動かすことは難しいかもしれませんが、自分のことに関してできる範囲で取り掛かることは可能です。「ストレス」という言葉は何か悪いものが外部からやってきて自分に悪影響を及ぼすという印象を与えがちです。しかし、この不確定な状況のなかで、今自分には何が必要なのか、どのような取り組みが必要なのか、状況に受動的に反応するのではなく、主体的に探索してみることは今後の自信につながることになるでしょう。今、この状況の中で何が自分にとってのストレスや不安になっているかを多少なりとも明確にし、自分の課題として捉えかえしていくことは主体的な営みであり、次へのステップになると思います。
    (白金通信 2021 Summerより転載)


    「葛藤的状況の中で・・・」

     夏休み期間中ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。去年の夏に引き続きコロナは未だ終息せず、なかなか思うように過ごせない方が多いのではないかと思います。 

    そんな先が見えないコロナ禍にある東京で、一年遅れのオリンピックが開催されました。結果としては、日本は今までにないぐらいのメダルラッシュ!あまりスポーツに詳しくない私でもこんなにたくさんのメダルが並んだ時があっただろうか、と感慨深い気持ちになりました。でもその一方で、オリンピックをこれだけ盛り上げて伝えているマスコミが、少し前まではこのコロナ禍におけるオリンピック開催の是非を声高に叫んでいたな、と思うとなんだか落ち着かない気持ちにもなりました。更に、開催地の東京を始めとして多くの都道府県で緊急事態宣言が発令されているだけでなく、感染者は連日過去最高人数を更新するほどの勢いで増加しており、その乖離した状況に気持ちがまとまらない状態です。

     今のこのちぐはぐな状況を見ていると、まるで政府やマスコミが都合よく現実を「否認」(Denial)したり、あるいは「分裂」(splitting)させて捉えているかのような感覚に陥ることがあります。この「否認」・「分裂」というのは、どちらも心理的防衛機制の一つです。「否認」は、事実や真実から目をそらし受け入れないこと、「分裂」はある対象・事象に対して全面的に良いものあるいは悪いものとして切り分けてしまうこと、を意味します。「分裂」に対しては、All or Nothing=全か無かといった極端な思考形態に近いというとわかりやすいかもしれません。

    そもそも精神的苦痛を伴う状況において不安から身を守るために無意識的に発動される心理的メカニズムが防衛機制であり、特に現在のように経験したことのない未曾有の大きな困難に見舞われたら、誰だって冷静さを欠き現実にそぐわない認識や行動をすることは往々にしてありえます。ただしその結果として、場合によっては心理的健康や社会適応を損なう側面も否めません。

    そして今もなお一部の人たちの間では、経済活動なのか全面自粛なのか、ワクチンを打つリスクか打たないリスクかなど、絶対的正解は分からないのに一方の意見にしがみつくような現象が見られるように思います。こうした二律背反した状況の中で自分の立ち位置を決めるのは並大抵のことではないですし、特に今回のコロナ禍のような未知の脅威に対峙した場合には、色々と葛藤して悩むよりも良い・悪いを決めて片方は切り捨ててしまったり、見たくないものは見ないようにすることが起こっても仕方のないことかもしれません。ただ、片方だけに偏ってしまうことで色々な見落としがあったり偏見が生じたり、場合によっては取り返しがつかない結果になることもありえます。

    心理的な成長の過程においては、葛藤に耐えうる力を育むことが重要でもあります。今のような先行き不透明な時は特に、守るべきことは守りながらも状況に流されたり極端な方向に走ったりせず、冷静さを保って粛々と生活を送ることも大切なのではないかと個人的には感じています。ただし、どうしても今の制限された生活では人との関わりも断たれがちで視野が狭くなりやすい所もありますし、何より孤立することで心が蝕まれてしまうこともあります。今は直接会うのには制限があったとしても、例えばPCやスマートフォンなどの媒体を通してできるだけ誰かと話したり、色々な意見を目にしたりする機会を持ってみてください。くれぐれも一人きりで全てを頑張ろうとしないこと、それを心がけて生活してほしいと思います。
    (ポートヘボン「お知らせ」(2021/8月)より転載)



「秋学期の過ごし方 ~悩みや心配ごとと上手に向き合おう~」

 感染症拡大が落ち着いた状況を受け、10月18日から一部対面授業が再開されました。キャンパスを歩いていると、遠隔授業を受ける場所を確保したり、昼食を持参したりとそれぞれ感染対策を工夫しながら過ごす学生さんの姿を多くみかけるようになりました。キャンパス内でちょっとしたスキマ時間を一人で過ごす場面も増えているのではないでしょうか。
 もし、ちょっとしたスキマ時間が生まれたら、今の気持ちを振り返る時間に充ててみませんか。こころに少し引っかかっているような悩みや心配ごとは、誰しも抱えていると思います。こまめに考えを整理して、できることから対処してゆく習慣を身に着けましょう。

小分けにする
 悩みや心配ごとには、いくつかのものが混在しており、小分けにできることが多いものです。現在、気になっていることを思い浮かべてみましょう。そして、何に対して、どのような気持ちなのか、リストアップしてみてください。たとえば、このことが心配なんだ、などと理解できれば、それだけで気持ちが軽くなることも多いと思います。この作業は、あたまのなかで考えるには複雑すぎるので、紙に書きながら考えましょう。

別の角度から見直す
 気になっていることの輪郭がはっきりしてきたら、「(それらを解決するために)どんなことができるだろう」という視点で考えを進めてみましょう。引き続き、紙に書きながら考えるのを忘れないでくださいね。また、このとき、コントロールしやすい要因(たとえば準備不足、経験不足、疲れなど)に目を向けるようにしてください。そして、「~しない」ではなく、「~する」ことを中心に模索するのも具体的な対処法を見つけるコツです。ちなみに、「どこがいけないのだろう」という問いに代表されるような、内的な要因に目を向ける考え方は、完璧を目指す考え方に傾倒しやすく、ここでは避けたほうがよいでしょう。完璧なひとを目指すのではなく、できる対処法を探すことを目的にしましょう。

 こうやって整理していくうちに、気になっていることが、小さく、扱いやすい形にまとめられるかもしれません。すべての悩みがなくなることはないかもしれませんが、10だったことが8になっただけでも、ずいぶん楽に感じられると思います。

 もちろん、学生相談センターでも、気持ちを整理するお手伝いをしています。一人での作業が難しいと感じたら、どうぞカウンセラーへ相談してください。
(ポートヘボン「お知らせ」(2021/11月)より転載)



「コロナ禍での影響を自覚すること」

 コロナ感染の状況がだいぶ落ち着き、ずっと張りつめていた気分を少し緩めて、一息つけている方は多いのではないでしょうか。慎重に行動することは求められていますが、今までの強い閉塞感から少し抜け出し、自由な感覚を取り戻していることをとても嬉しく感じます。

 コロナ感染症は身体的な病にとどまらず、社会的にも、経済的にも、精神的にもあまりに大きな影響を及ぼし、ごく当たり前の日常を破壊してしまう力がありました。これを「災害」と捉えて、人々への影響を懸念している専門家がいるのもなるほどと感じます。影響の受け方も千差万別で、身近な人と同じ感覚を持つことができるとは限らず、苦しい状況に置かれている人ほど孤立感を抱きやすいかもしれません。今苦しい方は、一人で問題を抱え込まず、相談できる相手を見つけてください。私たち学生相談センターにも、お気軽にご連絡いただければと思います。

 自分はそれほど大変ではないと思われた方も、ここでコロナ禍による影響を少し自覚してみましょう。私たちは、「人に会うこと」や「人の多い場に行くこと」、「移動すること」などを制限されました。その結果、家にいる時間が増え、のんびり過ごし、自分の好きなことをする機会が増えました。忙しく移動して常に人と繋がりがちな現代人には、外の世界から自分を閉じるという体験はとても貴重です。自分のペースや自分らしさを実感できれば、コロナ後も過剰に周囲に適応しすぎず、自分らしい生活を大事にしていくことができるように思います。

 一方、人と直接会えないことで、自分のペースは崩されにくく、自分の予期しないことは起きにくい面がありました。対面の場では、突然初めての相手と話すことになったり、聞くともなしに誰かの話が聞こえたり、想定外の流れで自分の思いを人に伝えたりするということがしばしば起きます。それが新たな展開を生み、人間関係を深めていくことはよくあるでしょう。オンラインでもコミュニケーションは可能ですが、一見どうでもよいようなやり取りの入る余地は少ないため、こうした偶然の展開は起きにくいと想像します。人が変化する時には、このような自分の外からのものとの予期せぬ出会いが大きな影響を与えることは多いのではないでしょうか。今こそ偶然性や遊びを大切にする必要がありそうです。

 自由に出かけて何かを体験してみる機会も制限されました。一度自分で体験してみなければ理解できないことは、世の中にはたくさんあります。例えば、幼い頃には食べさせてもらえなかった「からしの味」を知るには、どこかの時点で自分が恐る恐る舐めてみる必要がありました。自ら味を知って初めて、自分がからしを使うかどうかを決めることができるようになります。誰かの発信した情報を広く吸収することが効率的と思われがちな昨今ですが、自分で自分の感覚を頼りに体験したことは、確実に自分の新しい道具となります。逆に、いろいろな体験をしなければ、選択肢は広がりにくいかもしれません。本格的に社会に出る前の大学生には、身近な人の価値観を少し客観視し、自分で様々な判断をしていけるよう、練習することが求められています。コロナ禍で制限はありますが、様々なことに目を向け、少し足を踏み出してみるのはいかがでしょうか。

 何かを自覚をすると行動は変化していきます。逆境に負けずに進んでいきたいですね。

(ポートヘボン「お知らせ」(2021/11月)より転載)



「シッポの赤いネコのお話(最終回)「どれがボクの生きる道?」ミュウはどこから来てどこへ行く…の巻 」

 ミュウにはどうしても忘れたい記憶がありました。それは、翌朝から降り続く冷たい雨を予兆するような、赤黒く燃える夕焼け雲の下で、不安と恐怖におびえながら沼地を走り回り、茂みをかき分けながらママを探したことでした。以来、思い出さないよう茂みの多い所には近づかないようにして心に蓋をしてきましたが空からは逃げるわけにもいかず、あの日のような夕焼けと遭遇してしまった夜は眠れなくなるのが常でした。翌日は何もする気にならず、たいていはスズメのピーを訪ね、終日ボンヤリ過ごしながら、蘇ってしまった辛い気持ちを何とかしたくて話を聴いてもらうのでした。そんなわけで、ピーも問わず語りに耳を傾けるうち、昔何があったのか少しばかり想像がつくようになっていました。  ミュウの中では飼い主の存在は忘れ去られていましたが、ママネコはある人の飼い猫でした。その人は仔猫がたくさん産まれることを嫌がっていたので、気に入った一匹を残して他の兄弟ネコはすぐに誰かに引き取られていったのですが、赤いシッポのミュウだけはもらい手が見つかりませんでした。そんなこととは露知らず、ママに体をなめてもらえる時間がたっぷりあることに幸せを感じていたミュウでしたが、唯一、耳を甘噛みしてくれたときにとても痛いことがあって、自分がママに大切にされているのかどうか分からなくなったときのことも微かに覚えていました。 薄曇りのある日の午後、ミュウだけが散歩に誘われ不思議に思ったけれど、ママを独り占めできるので深く考えることはありませんでした。ずんずん歩いていくママを追いかけるのに必死で、期待したような楽しいおしゃべりどころではありませんでしたが、小さな沼地に辿りつき、ここは隠れるところがたくさんあって楽しいからかくれんぼしようと言われたときには嬉しさに舞い上がったものでした。かわりばんこに鬼になり、ママが鬼の番、空が茜色に染まり始めた頃でした。ミュウはこれが最後とばかり、見つかりにくいところに隠れようとママの数える声が聞こえなくなるまで突っ走り、深い藪にもぐりこみ、ママが見つけてくれるのを今か今かと待っていました。けれど、いつまでたっても探しにきてくれません。もう帰るから出ておいでという、いつもなら聞こえる優しい声すらありません。きっとボクが見つからないから先に帰ったと思ってママも帰っちゃったのかもしれないと思い、仕方ないから帰ろうと思った瞬間ようやく気づいたのです。この沼地は初めて来たところでした。ママが足早に歩いてきたので道を覚える暇もなく、帰り方が分からないのです。空はすでに一面燃やし尽くされて、闇の足跡が近づいていました。そしてミュウは悟ったのです。自分が置き去りにされたことを。 その日から自力で生き抜かなければならなくなったわけですが、しばらくの間はママのもとに帰りたくて彷徨い、でも何故こんなことになったのだろうと考えると、兄弟ネコとは違うこのシッポのせいだろうかと辛くなり、帰れないことを思い知ることの繰り返しでした。ついに帰る家はないと諦め、居場所を見つけるために転々とするのですが、どこに行っても他のネコにからかわれたりいじめられ、自分には生きる価値がないと思い始めていたときに、幸いにもピーと出会うことができたのです。そして、ピーの温かさに触れ、少しずつ自分らしさを取り戻し、さらに赤いシッポでも受け入れてくれる居場所を見つけ、ミュウはこの地で、ネコ仲間との関わり合いを道しるべに成長し、今や立派に若者と言えるくらいの齢になりました。けれど、自分は何か欠けているという自信のなさがいつもどこかにあったミュウは、心が本当に安らぐことはありませんでした。それはシッポのこともありましたが、それ以上に自分のルーツが分からず家族の愛を知らないという思いのせいもありました。 ところで、仔ネコだったミュウの足でそんなに遠くに行けるわけもなく、ピーはミュウの話を聴いていて心あたりに覚えがありました。電線で一休みしながら街を眺めていたときに、ある家の前の道端でいつも夕刻になると西の方を見つめながらじっと佇んでいるネコを見つけて気にかかっていたからです。最初は飼い主の帰りを待っているのかと思って見ていましたが、あたりが暗くなってようやく諦めたようにトボトボと家の中に入る姿にはピーの胸を締め付けるものがありました。ある時、西の彼方に何があるのだろうと気になって見つけたものは、藪や茂みに囲まれた沼地だったのです。 ピーは、ミュウの親友のブチが天国に召されて以来、ミュウがまた誰かに捨てられるではと不安に感じていることにも気づいていました。ようやくブチの死を受け入れ、立ち直ったように見えてからも、自分から仲間の輪に入ろうとしなかったからです。このままではミュウはまたボッチになってしまう…。そう心配したピーは、ある時ミュウに聞いてみました。 「ミュウはママに会いたくはないのかい?」「え?何でそんなこと聞くの?」 思いがけない質問に動揺しながら、ミュウはまたあの遠い日のことを思い出してしまいました。「ボクはママに置き去りにされたんだよ。会いたいなんて思うはずないじゃゃないか!」珍しく声を荒げるミュウでしたが、さらに理由を尋ねられ、その問いかけは酷だと思いながら、最近ようやく受け入れられるようになってきた赤いシッポを忌々しげに見つめ、「ボクが普通のネコじゃないからだろ! こんなシッポだからボクはママに嫌われ、他のネコからもいじめられてきたんだ。ボクがママに会いたくたって、ママがボクに会いたいわけないじゃないか!」  そう言って泣き出してしまったミュウを見て、ピーはママネコらしきネコのことを話そうかとも考えていましたが、「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないよ」としか言えませんでした。 ピーに腹を立てたまま数日眠れぬ夜を過ごしながらも、最後の言葉が妙に引っかかり、ミュウはどうしていいか分からなっていました。ずっと捨てられたと思って生きてきたのです。今さら、そうじゃないかもしれないと言われても信じられるわけがありません。ママはボクを知らない沼地に連れてきて、かくれんぼの間にボクを置いていなくなったんだ。捨てたんじゃないっていうんなら他にどんな理由があるっていうんだ…。ノラ猫として生きてきたミュウにとって、そうではない人生があったかもしれないという想像は混乱させられるだけでした。白か黒かはっきりしない状態というのは落ち着かないだけでなく、時には何とも苦しいものです。仔ネコの頃さんざん夢想し、捨てられたと思っていたけど本当はただ迷子になっただけでママはボクを探しているかもしれないと思った瞬間は温かい気持ちになるのですが、すぐにまた現実に突き落とされるという経験をミュウは嫌というほどしていました。黒だと思っていた世界が実は違う色の世界かもしれないと想像することで希望が生まれる反面、白黒つかない宙ぶらりんな不安定さに耐えられなくなると、辛すぎて黒のままでいいやと投げやりになったものでした。けれど、今のミュウは昔とは少し違っていました。少しずつ落ち着きを取り戻してみると、ピーが何故そんなことを言ったのか、考えてみれば不思議です。ピーがボクをからかうはずはないし、まるでママのことを知ってるみたいな口ぶりだった…。疑問がいろいろ沸いてきます。そうかもしれないけどそうじゃないかもしれないというふうに考えてみると、心に余白ができて身動きがとれるようになった感じがしていました。 ボクは誰なんだろう、どこで生まれ、ママはどんなネコなんだろう…。ミュウは本当のことを知りたいと思い始めていました。今さらやっぱり捨てられたと分かったからと言って、これ以上傷つきようがないと思ったのです。そして、勇気を出してピーを訪ねてみましたが、ピーが教えてくれたのは、ある飼い猫が夕暮れどきに西の方を見つめているということだけでした。それがママネコという保証は何もありません。真実を知るためには会いに行くしかありませんでした。 さて、ミュウの物語はこれでおしまいです。最後なので読んでくださった皆さんにだけ本当のことをお教えしましょう。ミュウは確かに捨てられてしまいました。でもそれは、半分は本当で半分は違っていました。ミュウを捨てたかったのは飼い主であって、ママではありませんでした。もらい手が見つからず、保健所に連れていかれることになっていたのです。ママネコはそれがどういうことかを知っていました。 ところで会いに行くも行かぬもミュウの自由でした。迷って決めかねていたミュウでしたが、その内、自分を待っているかもしれないネコがいると思うだけで、よく分からないけれどずっと心もとなかった足元を踏みしめられるような気がしていました。捨てられたと思うのかそうではないと思うのか、それも自分で選べばいいと思えてきて、捨てられたという受け身の人生から、自分で生きる道を決められるという感覚が芽生え始めていたのです。 誰にとっても希望を持ったり可能性を信じることは生きる力になることでしょう。いえ、信じられなくてもいいのです。信じてみようと思うだけで新しい扉が開くこともあるはずです。皆さんなら、ミュウはどういう選択をすると思いますか? きっと今のミュウなら前向きな選択ができるでしょうし、その道がどこに続くにしろミュウらしく生きられるはずですよね。そして、皆さんが生きていく道にも幸多からんことを…。

(ポートヘボン「お知らせ」(2022/2月)より転載)

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