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聖書のことば

《賛美と感謝を、試練の中で》 渡辺総一 作

新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

-詩編 33編3節

礼拝堂で讃美歌を歌わなくなったのは、昨春以降のことです。毎日の礼拝で歌い賛美していた者からすると、正直寂しさや物足りなさを感じます。しかし、こうした経験を通して、声を発して歌うだけが「賛美」ではないということに気づかされます。

賛美とは、神からの多くの恵みに感謝し、その偉大さをほめたたえる、神に対する応答行為です。我々がそのような神の御業に感謝を表すのは、神の似姿として創造された人間として当然であり、一人ひとりにはそのために賜物が与えられていると聖書は語ります。

ですから、賛美の仕方には黙祷などさまざまな形があるはず。出会った人や日常生活の背後にある神の働きに感謝を表すなど、その時その時、その場その場においてこそ賛美はなされるものだと思うのです。

白金通信2021年夏号(No.507)

《賛美と感謝を、試練の中で》渡辺総一 作


《安心しなさい。わたしが共にいる》 渡辺総一 作

イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

-ルカによる福音書 8章25節

湖を舟でわたるうちに、突風により水をかぶり、危険に陥った弟子たち。わたしたちも、そのような存在かもしれません。手こぎ舟は凪の時には順調に進むことができますが、波風が大きくなると思うように進めなくなります。そんな舟が、広い湖の真ん中で嵐に襲われたらどうなるでしょうか。

わたしたちが神の御心から離れ、自分勝手な生き方をしている時がまさに嵐の時です。湖の上で木の葉のように浮かんでいるだけのわたしたちは、そのままでは嵐に翻弄され水底の藻屑となるばかりです。

そんなわたしたちのところに、イエス・キリストは来てくださいました。この御方と向き合い、静かにその御言葉に耳を傾けることによって、わたしたちが平安を取り戻し、再び希望をもって舟旅を続けていくことができるように……。

白金通信2021年春号(No.506) 掲載

《安心しなさい。わたしが共にいる》渡辺総一 作


《キリストに従う》 渡辺総一 作

わたしたちはこの権利を用いませんでした。……キリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。

-コリントの信徒への手紙1 9章12節

使徒パウロは、キリストの教会を建てる働きに他の一切を犠牲にして取り組みました。自分の権利を主張するよりも、キリストの福音が前進することを最優先にしたのです。

かつて律法研究者の若手エリートとして一目置かれたパウロは、律法遵守によって他人を出し抜く業績主義に縛られながら生きていました。そんな彼がある日、不思議な仕方でキリストと出会い、この御方に従う生活へと入っていきます。そして、「従う」ことによってもたらされる真の自由を知るのです。

自分の権利を最大限利用することによって自由を謳歌しているように見える現代人は、多くのストレスを抱えて生きています。一方、パウロはキリストに「従う」こと、耐え忍ぶことによって心の平安という静かな、しかし何ものにも勝る喜びを見出し、豊かな人生を歩み続けることができました。「自由」とは何か……考えさせられます。

白金通信2020年冬号(No.505) 掲載

《キリストに従う》 渡辺総一 作


《主が負ってくださることによって》渡辺総一 作

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

-ローマの信徒への手紙 8章28節

人間の罪が持つ恐ろしさは、人間自身を悲惨にするだけでなく、戦争、公害、環境破壊などによって人間を取り巻く自然に対しても悪影響を及ぼしてしまうところにあります。わたしたちは良いものを生み出したいと願っても、その意に反して罪を抑えきれず、かえって悪を増殖させて全被造物の「うめき」を生み出すばかりです。

しかし、そんな罪を抱えた人間に、神は「“霊”の初穂」を与え、その祈りにもならないような「うめき」から救いを求める声を聴き取り、希望を確かなものとしてくださるのです。このように神は、御自分の似姿として創造された人間を救いに導くため、万事を益となるように働かせてくださいます。

白金通信2020年秋号(No.504) 掲載

《主が負ってくださることによって》渡辺総一 作


《預言者の務め》 渡辺総一 作

あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。

-旧約聖書 詩編51編5節

神への祈りや讃美の詩一五〇編からなる「詩編」は、多くの詩の冒頭にイスラエル第二代の王ダビデの作であることが記されていますが、この詩も、人妻であるバト・シェバを奪ったダビデ自身が、預言者ナタンの厳しい指摘を受けたのち、懺悔の思いから書いたものとされています。

いうまでもなくダビデは政治、軍事の最高権力者でした。自分が犯した罪をもみ消すこともできたはずです。しかしそうならなかったのは、預言者の存在があったからでした。

聖書、特に旧約聖書は、人間の原罪に私たちの目を向けさせるだけでなく、預言者の役割を通して権力者の罪を監視する重要性を繰り返し語ります。この預言者的務めは、今こそ必要とされているのではないでしょうか。

白金通信2020年春号(No.503) 掲載

《預言者の務め》 渡辺総一 作


《神に喜ばれる香りとして》 渡辺総一 作

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

-ローマの信徒への手紙 12章2節

キリスト教徒を迫害する立場から劇的回心を経て熱心な伝道者となったパウロの、数ある書簡の中でも最も重要とされる手紙の一節です。全体を通して信仰のみによる救済の約束を力強く宣言しながら、同時にここでは信徒がとるべき姿勢について語っています。

私たちは日常的に何を着て何を食べるか、どの意見に賛同するか、あるいはどの会社に就職するか、さらにどのような政治的立場をとるかに至るまで、さまざまな数えきれない選択を重ねて生きています。人との対立や孤立を恐れて、本意に反して多勢に従ってしまうこともあるでしょう。しかしパウロは、判断の基準は「周りの意見」ではなく「神に喜ばれるか否か」だと言います。たとえそれが周囲との摩擦を引き起こす選択だとしても、神の意志に従うことが勧められているのです。

白金通信2019年冬号(No.502) 掲載

《神に喜ばれる香りとして》 渡辺総一 作


《神のみ前で》 渡辺総一 作

なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリアを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。

-旧約聖書 サムエル記下12章9節

イスラエル王国史上最も優れた王とされるダビデは、イスラエル軍兵士ウリアの従軍中に、彼の妻バト・シェバに一目ぼれし妊娠させてしまいます。証拠隠滅に失敗したダビデは、ウリアを激しい前線に送り出し戦死するよう仕向け、夫亡き後のバト・シェバを妻としました。しかし一連の行為について神から厳しく叱責され、生まれた子どもが七日目に死亡するという報いを受けます。

聖書には非の打ちどころのない人間はひとりも登場しません。皆がたたえる賢君ダビデの過ちもイスラエル民族全体の罪も、驚くほど克明に記されています。できれば目を向けたくない過去の負の遺産を記録し記憶すること。過去を美化しないこと。人間ひとりひとりのみならず、あらゆる社会、国家が耳を傾けるべき奨めです。

白金通信2019年秋号(No.501) 掲載

《神のみ前で》 渡辺総一 作


《愛をもって真実を語る》 渡辺総一 作

だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

-エフェソの信徒への手紙 4章25節

この手紙の書き手と言われているパウロは、偽りを捨て、隣人に真実を語らなくてはならない理由を「わたしたちは、互いに体の一部」だからと述べます。「体」とは教会を指し、教会に属するひとりひとりが、偽りのない関係を結ぶようにと助言されていますが、これは教会に限ったことではありません。どんな組織であれ、偽りが蔓延するならば早晩立ち行かなくなるでしょう。

わたしたちが大小さまざまな組織の中で仲間に対し真実を語ることは、社会の構成員として力ある者たちの嘘をきちんと批判することにもつながります。小さな言い訳から政治家の大きな嘘まで、この社会には残念ながら嘘があふれています。けれども聖書はこの現実を無気力に受け入れることなく、むしろあらがうことを勧めているのです。

白金通信2019年夏号(No.500) 掲載

《愛をもって真実を語る》 渡辺総一 作


《神に仕える者》 渡辺総一 作

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

-ローマの信徒への手紙 13章1節

この聖句は、ローマ在住のキリスト教徒に宛てたパウロの手紙の一節ですが、前半だけを読むと、まるで権力者への盲従を勧めているかのようです。けれども重要なのは、後半の「従わなくてはならない理由」です。パウロは言います。すべての権威は神に由来している、だから従いなさいと。権威自体ではなく、権威を立てた神を畏れることが大切なのです。

さらにこの聖句に続いてパウロは、「権威者は神に仕える者である」と繰り返し述べています。裏返せば、神に由来しない権力、神に仕えない権威者に対する抵抗や不服従を含意しているといえるでしょう。実際パウロ以後、権力者の不当な命令には数多くの信仰者が不服従を貫きました。それは今日も続いています。

白金通信2019年春号(No.499) 掲載

《神に仕える者》 渡辺総一 作


《寄留者を愛す》 渡辺総一 作

あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。

-旧約聖書 申命記10章19節

全部で三四章からなる「申命記」には、出エジプトを果たしたモーセが、その四〇年後に約束の地を目前にイスラエルの民に向けて説教を語り、祝福を与え、そして亡くなるまでが記されています。

モーセは、唯一の神への絶対的な服従、さらに律法遵守の具体的な方法を、生活上の細かな規定を示して説きますが、その中には、寄留者すなわち外国人を愛せよとの命令も含まれています。エジプトで外国人として辛酸をなめたあなた方なら理解できるだろう、というわけです。

すでに事実上の「移民大国」といわれる私たちの社会は、さらなる外国人の受け入れに舵を切りました。単なる労働力としてではなく人間として彼らを愛することができるのか、この聖句は私たちにそう問いかけているようです。

白金通信2019年3月号(No.498) 掲載

《寄留者を愛す》 渡辺総一 作


《赦し》渡辺総一 作

あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

-マタイによる福音書 18章22節

弟子ペトロの「兄弟が私に罪を犯したら、何回まで赦すべきでしょう」という質問に対するイエスのこの答えは、「無限に赦しなさい」という意味です。イエスはここでたとえ話をしています。ある家来が、主君から多額の借金を帳消しにしてもらいました。ところが彼は、自分がわずかな金を貸した友人には即刻返金を迫り、それができない友人を牢に閉じ込めます。主君は、自分が赦されたように仲間を赦すことができなかった家来に激怒し、逆に家来を牢につないでしまいました。

なぜ赦さなくてはならないのか。それは私たちがちょうどこの家来のように、神に対する多額の負債、つまり罪を赦されているからだと聖書はいいます。赦されている、だから赦しなさいというのです。

白金通信2018年12月号(No.497) 掲載

《赦し》渡辺総一 作


《自己に向き合う日》渡辺総一 作

安息日を心に留め、これを聖別せよ

- 出エジプト記 20章8節

十戒の四番目のこの掟は、六日にわたって天地を創造した神が七日目に休息されたことから定められました。そのためユダヤ教では七日目の土曜日を安息日としていますが、キリスト教は、イエスが復活した週の初めの日曜日を安息日に代わる「主の日」としました。一般的に日曜日は仕事の疲れを癒しレジャーを楽しむ週末の日ですが、キリスト教では世俗の務めから解放されて神を礼拝し、新たな一週間のスタートを切る最初の日です。

ヨーロッパの国々では教会に行く人はめっきり少なくなっていますが、それでも観光地以外の日曜日はとても静かです。 週に一度、仕事からも町の喧騒からも離れて自分自身に向き合うこと。それは、キリスト教徒か否かを問わず意味のあることではないでしょうか。

白金通信2018年10月号(No.496) 掲載

《自己に向き合う日》渡辺総一 作


《人に仕える》 渡辺 総一 作

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

- マタイによる福音書 4章23節

イエスという人物は信仰の対象になっているらしいが、いったい何をした人なのかよくわからない。それが一般的なイエスのイメージではないでしょうか。この聖句が端的に記しているように、生前のイエスの働きは、説教と病の癒しのふたつが両輪となっていました。イエスは、神の国の実現、つまり人類の救済の時が迫りつつあることを語り、ことばによって人々を励まし力づけると同時に、目の前の病者たちを決して放置せず、実際的な癒しを与え、人々をその苦しみから解放しました。

本学の創設者、宣教医ヘボン博士もまた、人間を魂も肉体も丸ごと大切にし、最後まで人々に仕えた イエスの姿勢に倣おうとしました。教育理念“Do for Others”の本来の意味はここにあるのです。

白金通信2018年7月号(No.495) 掲載

《人に仕える》 渡辺 総一 作


《陶工と粘土》 渡辺 総一 作

粘土が陶工に言うだろうか「何をしているのか あなたの作ったものに取っ手がない」などと。

- 旧約聖書 イザヤ書45章9節 

この聖句は、紀元前六世紀、イスラエル民族が、異教徒のペルシャ王キュロスによってバビロンの支配から解放された歴史を背景としています。神はイスラエルの救いのために異教の王をも用いるというイザヤに、なぜ異教徒が我々を救うのだと彼らは不満を募らせますが、それはちょうど、粘土が陶工を非難するようなものだとイザヤは述べます。

陶工が粘土をこね丁寧にろくろを回しながらひとつとして同じものがない器に作り上げてゆくように、神は私たち人間を創造し、慈しみ、ひとりひとりをかけがえのない存在とします。「陶工と粘土」の例えは、神の絶対性、神と人間の関係、そして人間の価値がどこに由来するのかを示しているのです。

白金通信2018年4月号(No.494) 掲載

《陶工と粘土》 渡辺 総一 作

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