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コラム

ウクライナ通信(6)ウクライナとロシアの「微妙な関係」 -戦争の記憶と反ウクライナ主義

前回のウクライナ通信(5)でご紹介した、現在のウクライナとロシアの「微妙な関係」を裏書きする話を別の機会に聞きました。国立キエフ大学社会学部のゴルバチュク先生と話していた時のことです。私は先生に、「現在のウクライナはまだ貧しいですが、日本もかつてはとても貧しかったのです」と話しました。「とくに、戦後の東京は、焼け野原で、瓦礫しかありませんでした。」すると、先生はすぐに反応して、「第二次世界大戦中、キエフも徹底的に破壊されました。でも、誰が破壊していったかわかりますか?」と、返してきました。「ソビエト軍兵士です。キエフの街の地理的、軍事的重要性を、ナチス・ドイツも知っていましたが、ソビエト共産党もよくわかっていました。それで、ナチス・ドイツに占領されて敵側に有利にならないように、ソビエト軍兵が退却する際に街を破壊し、焼き払ったのです。」これが回答でした。

キエフ生まれキエフ育ちの先生は、とても悲しげにこの話をしてくれました(写真①)。

写真①:第二次世界大戦時に、ソビエト軍により破壊されたテルノーピリの町(テルノーピリ地域文化博物館の展示より)。許諾を得て掲載しています。

ところで、対ロシア関係で、現代ウクライナ国家の独立性を強調する社会的-政治的勢力に関して、「ウクライナ西部を基盤とする地域主義」という見解がある一方、「危険なウクライナ民族主義の台頭」とする見方もあるようです。前者は、ウクライナ西部が歴史的にポーランド領土であった事実やその文化的影響の残存を念頭に置いているようです(写真②③④)。後者の見方は、とくに日本のロシア研究者やウクライナ国内でロシアにつながる政治-社会勢力により強調される傾向があります。

写真②:ウクライナの西部には、ポーランド、オーストリア、ルーマニア、モルドヴァ、ロシアの文化的な影響が、複雑に絡み合って残っています。写真は、南西部チェルニフツィ地域の地域割りと民族構成を示す地図です。この地域は、北ブコヴィナ地域と呼ばれ、ポーランド、オーストリアの影響が建築物に残っている他、ルーマニアとモルドヴァの民族性と言葉が色濃く残っています。

写真③:この地図の説明をしてくださったチェルニフツィ大学の先生方です。

写真④:普段は入れない大学の、地理学部の建物の中で「講義」を受けました。大学の建物は、チェルニフツィの街同様、世界遺産に登録されています。

そもそも、「ウクライナ民族主義」という言葉が、すぐに「危険な」という形容詞と結びつくことに、ウクライナ内部のまなざしからは違和感があります。ロシア革命以降、「ウクライナの民族主義」は、つねに「危険な社会運動」として監視の対象になってきました。旧ソビエト共産主義体制下では、「(労働者)階級は民族を越える」が、社会革命のテーゼでした。「ウクライナの独立」という観点からすると、このテーゼは、「民族自立を破壊する」反ウクライナ的なテーゼでもありました(写真⑤)。


写真⑤:スターリンに苦しめられるウクライナを象徴的に描いた絵画(同博物館)。

「ロシア革命以降」と書きましたが、じつは革命以前から、旧ロシア帝国内でウクライナを低く特別扱いする「蔑称」が存在していました。興味深いのは、ウクライナ東部の親ロシア派武装勢力の指導者が現在、「小ロシア」という旧帝国時代のその蔑称(あるいは政治的呼称)を使用していることです。ロシア革命のテーゼは、この蔑称が意味するものを、別のかたちで引き継いだと言ってもよいかもしれません。

社会学部教授 岩永真治

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