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現代を斬る

社会がボランティアを要請するとき

学生の経験と社会の要請の乖離

「ボランティア活動」というとき、その言葉から人がイメージしているものはばらつきがある。特に学生が入学前に経験したような活動からイメージする「ボランティア」と、社会が要請するボランティアとの間には、相当の乖離があるといっていいだろう。

学校によっては、地域の清掃活動を「ボランティア」と呼ぶようなところもある。それが授業単位となったり内申書に影響したり、自発性が担保された本当の意味でのボランティアかという問題は残るものの、それはそれで、ボランティアと考えてもよいだろう。

ただし、ボランティアに対しての社会的な要請は、地域の清掃活動や、老人ホームで歌を披露するものとは、大きく質が異なっている。ボランティア団体と思われているNPOは今や「政府の失敗」「市場の失敗」を補完するようなサービスの供給者となっている。国の制度が全く整っていないにも関わらず、ニーズが大きい分野では、唯一のサービス供給主体である場合が多い。

外国人支援のサービス供給主体

多文化共生といわれる在住外国人支援は、長年そのほとんどがボランティアによって担われてきた。1980年代に「外国人労働者問題」や「じゃぱゆきさん」が社会問題になったとき、1990年代以降の日系人の急増で、外国人問題が教育や医療、日本語の問題となっていった時も、その解決に当たってきたのは、彼らの窮状を見るに見かねた隣人や、宗教者などのボランティアだった。1980年代と比較して、倍以上に在住外国人が増えている現在も、その支援の多くがボランティアによって支えられている構造は、変わっていない。

それはそれで機能しているなら問題がないともいえるし、自発的に他者を支えていこうというボランティアがいるというのは、いいことだという考え方もできる。

しかしそれを前提にして社会が制度を組み立てていくようになると、それはまた別の次元の話だ。ボランティアは無償のものと認識される場合が多いが、それが前提ということは、本来あるべきサービスに対しての対価が、きちんと制度化されない可能性も生む。これから外国人労働者に対してより門戸が開かれ、急増が見込まれる中、彼らを支えるための団体は、いつまでたってもボランティアでのサービス提供を余儀なくされる可能性もあるのだ。

ボランティアの提供するサービス/労働は、その原動力が善意ややりがい、他者への思いやりといった、よいものであればあるほど、際限なく引き出される可能性がある。だからこそ、社会の側がボランティアに対するニーズを口にした時、「やりがいの搾取」が生まれることに対する危惧も生まれる。

ボランティア学を教える立場の人間として、学生には“Do for Others”の精神と、社会に「自発的」にコミットするという意識をもってほしいと希望しており、そのためのステップを提供したいと心がけている。ただ、社会の側が人の善意に付けこんだ動きをする場合もあることも、同時に理解してほしい…というのはなかなか難しい。

白金通信2019年春号(No.499) 掲載

長谷部美佳 Hasebe Mika

教養教育センター准教授。
ボランティア学担当(社会学、多文化共生論、ジェンダー論が専門)。
インドシナ難民が多い、いちょう団地でのフィールドワークを約15年続けている。趣味は街歩き。

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