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あの日の私

昭和の遺物とよぶなかれ

1984(昭和59)年2月、銀行員だった父の仕事の関係で、私はイギリス領時代末期の香港で暮らすこととなった。私たち家族が住んだのは、25階建てが15棟ならぶ高層マンション群で、そこには地元の人々のほか、イギリス本土出身者、日本からの駐在者(およびその家族)が相当数住んでいた。いつの頃からであろうか、この3つの異なる集団の子供たちは、遊び場やアジトめいた場所をめぐって、今からすれば他愛のない、しかし当時の感情としては真剣な「闘争」を繰り広げるようになった。通っていたのは、大坑という地域にあった日本人学校である。学校行事の度に「日の丸」が掲げられ、「君が代」を歌った。「日本人」であることが、私の中では絶対的な意味を持つようになっていった。

そんな「日本人」たる私は、1987年、これまた父の仕事の関係でアメリカ・ニュージャージー州に移住し、この地で昭和から平成への「代替わり」を経験する。現地で見たニュース番組の冒頭、見覚えのある写真と共に、「日本のエンペラーが死んだ」との英文テロップが出ていた。日本でとんでもないことが起こった、と思った。その数日後、当時通っていたニューヨーク州のクイーンズという地域にあった日本人学校で、緊急の全校集会が開かれた。いま、同校HPの「本校のあゆみ」を見てみると、「1/8/1989 天皇陛下崩御弔意奉表式」とある。8日は日曜日なので、あるいは、休日に呼び出されたのかもしれない。式典の内容は覚えていないが、すさまじく長い、私の人生の中で最長の黙祷を行ったことだけは、鮮明に覚えている。「日本人」たる私の中に、天皇という存在が強烈に刻み込まれた。

1991(平成3)年1月、多国籍軍によるイラク空爆がはじまった日、私は日本に帰国した。はじめて日本国内の公立中学校に通うことになった私は、そこでようやく、自分のこれまでの経験が、日本で育った同世代の人々と較べ、やや特異なものであったことに気づく。学校に、「日の丸」がない。「君が代」がない。日本の象徴であったはずのものが、日本に帰国したことでかえって見えなくなるという現実に、私は戸惑った。一体、日本とは、「日本人」とは何なのか。そして、その「日本人」の統合の象徴であるという天皇とは、果たしてどのような存在なのか。特段の歴史好きでもなかった私が、文学部史学科に進学し、あげくに大学院というイバラの道を選んだのは、5歳から12歳までの海外生活を経て抱いた疑問を、自分自身で解き明かしてみようと思ったからにほかならない。

もしあの時、代替わりが「退位」という形で行われ、そして「日の丸」も「君が代」も自明となった現在の公立学校に転校していたら、私が日本史の教員として明治学院大学にいることもなかっただろう。幸いにも歴史研究を生業とすることができた私は、まぎれもなく一つの時代的産物なのである。

教養教育センター准教授 吉岡 拓


現在の先生。

白金通信2020年春号(No.503) 掲載

 

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