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コラム

「卓越性」の涵養と教育目標としての「公共善」:まちづくりのアクティヴ・ラーニングを支える理念

教育の目標

教育には、「人間の教育」と「市民の教育」があります。どちらも「卓越性(あるいは徳)」の形成を目標にしています。それは人間にとっての「最高の善」(古典ギリシア語 τό ἄριστον, ラテン語 summum bonum, 英語 supreme good)であり、また人間の自然本来的(φύσει)な成長目標(τέλος)でもあります。わたしの専門である社会学は、「人間の教育」と「市民の教育」の両方を目標にしています。「公共圏」(古典ギリシア語ἡ πολιτική κοινωνία, 英語public sphere)の形成と完成には、この両方の教育がとても大事だからです。

「公共圏」という言葉は、以前は「公共性」と呼ばれていました。しかし、グローバル化、メディア化やデジタル化がすすむ現代社会では、「ネット空間」も国会議事堂や公園や喫茶店や駅のホームと同じくらい重要な「公共空間」(public space)になっています。それで、コミュニケーションや熟議する場所の「空間性」を表現する言葉として、「公共圏」という言葉がより使われるようになってきました。

「卓越性」の涵養と「善」の分類

さて、「卓越性」の涵養を目標にする、教育理念としての「善」(古典ギリシア語で、τό ἀγαθόν)は、古典古代(古代ギリシアやローマ時代)的な意味でも、ユダヤ・キリスト教的な意味でも、イスラーム教的な意味でも、仏教的な意味でも、その意味はちがいますが、人間の成長の目標とされています。それをここでは、試みに、1)外的な善、2)肉体=身体的な善、3)内的な善、の3つに分類してみたいと思います。

まず、外的な善は、1)富=財産、2)権力=社会的地位、3)名誉、4)よい友人関係、の4つに分類されます。つぎに、肉体的=身体的な善は、1)健康、2)強壮、3)身体美、の3つに区別されます。最後に、内的な善は、1)倫理的卓越性、2)知性的卓越性、の2つに分類されます。ここで問題にしている「卓越性」の涵養は、とくに最後の「内的な善」に関係しています。

ゼミの活動

わたしの「都市、地域、まちづくりの社会学」ゼミでは、大都市のシャッター商店街、限界集落としての農村や山村や離島で、「地域づくり」のお手伝いを実践的にしています。「大学生ボランティア」として、役所や商店街組合や町内会や企業や民間ボランティア団体などと連携して、地域に適った「協働の担い手づくり」に貢献しています。もう少し具体的にいうと、ミーティングの設定や記録、お祭りの設営や運営のお手伝い、インタヴューやアンケート調査、地域づくりの主体間の連絡調整をしたりしながら、都市や地域のコミュニティの課題やリアリティを具体的に「現場で把握する」授業を展開しています。

「大学生ボランティア」として地域社会に受け入れていただいていることにも、教育上の戦略的な意味があります。

教育プロジェクトとしての地域ボランティア

「ボランティア」には「他人への思いやり」や「共感力」が大事です。ここでいう「他人への思いやり」や「共感力」というのは、先に挙げた「卓越性の涵養を目標にする教育理念としての善」のなかでは、3)の「内的な善」にあたります。しかし、それは「他人への思いやり」や「共感力」といった言葉から連想が可能な、「倫理的卓越性」のことではありません。

「他人への思いやり」や「共感力」とは、まちづくりや地域づくりに参加するなかで多様な世代の多様な人と出会い、協力をとりつけるなかで身についてくる、「公平さ・公正さ」(古典ギリシア語επιείκεια, 英語the fair and the just)がどこに存在するのかについての「正しい判断力」のことです。そして、ここで「公平なひと・公正なひと」(ἐπιεικής, equitable and decent person)というのは、なによりも「共感力に富んだ(συγγνωμών, compassionateな)ひと」のことであり、「共感できる」ということが「公平・公正」にほかなりません。

行動性向としての「実践感覚」を養成する

そして、これはひとつの行動性向(ἕξις προαιρετική, settled disposition of behavioral choice and decision)です。「共感=同情」(συγγνώμη, compassion)とは、したがって、「公平・公正」が存するところを正しく判断できるような「他人への思いやり」(γνώμη, thoughtfulness)のことにほかなりません。ちなみに、「正しく判断する」とは、ここではその判断における「公正さ」が「真の公正さ」(必要なときに、必要な場所で、必要な程度の、個別具体的な事柄に関する判断としての思慮や見識に基づく)であることを意味しています。すなわち、地域社会の人間関係のなかに埋め込まれ、機能している社会的な判断の「合理性」(λόγος)を見抜いて、〈場面とタイミングと程度と事象に応じて適切な行動を実現できる実践感覚(ὀρθός λόγος περὶ τῶν τοιούτων ἡ φρόνησίς ἐστιν)のことを意味します。

アクティヴ・ラーニングを主な活動とするわたしのゼミの完成目標は、この「実践感覚」(φρόνησίς, practical judgements as a global-local prudence)の養成です。

知性的卓越性としての「思いやり」と「共感力」

したがって、大事なことは、「他人への思いやりがある」「共感力がある」というのは、よく言われるような「倫理的、道徳的な性格=人柄(ἦθος)」に関わる「卓越性」ではないということです。それは、教育(ἐκ διδασκαλίας)や習慣(ἐξ ἔθους)から生じる「知性的な卓越性」なのです。学問的には、いわば「知性主義的倫理学」を背景とする研究と教育の対象です。また社会学では、地域社会をフィールドとする「知識社会学」や「コミュニケーション論」の研究領域に該当します。社会心理学では、コミュニティ(κοινωνία, 互恵的行動、共同関係、共有)の存在を前提とした「対人関係論」の領域を構成するでしょう。

この、「倫理的な卓越性」すなわち倫理学の領域に協和する「知性的な卓越性」という研究領域は、〈公共精神〉を涵養するために必要な「市民性教育」(παιδεία ἡ προς το κοινόν, citizenship education)の重要な対象でもあります。その教育の目標は、「グローバルな行動原則としての高潔さ」(decency and noblesse as a global citizen)です。それは、当該の地域社会に存在する「伝統的な社会的判断に即した行動合理性」(ἡ κατὰ τόν ὀρθόν λόγον ἕξις, a disposition conforming to local and right principles)をよく理解し、分析し、受容したうえで、それをグローバルな時代に相応しい「新しい社会的判断を伴った行動合理性」(ἡ μετὰ τοῦ ὀρθοῦ λόγου ἕξις, a disposition co-operating with local and global principles)へとつなぎ、再編成してゆく、知性的で、行動的で、かつ倫理的な実践感覚なのです。

アクティヴ・ラーニングは多言語的かつ非言語的な実践である

わたしのゼミで、まちづくりや地域づくりのアクティヴ・ラーニングにおいて学ぶことの中心にあるものは、このようなことです。このいわば「知性的卓越性」の学びは、あるいは日本の仏教的な伝統にあわせて「知性的な徳」とも表現できる学びは、ときに言語的な行為実践ですが、いつもそうであるわけではありません。言語(たとえば、日本語、中国語、韓国語、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ウクライーナ語あるいはロシア語など)による意思疎通が同一言語間で難しい場合でも、可能な学びの行為実践です。多言語的であると同時に非言語的でもある、学びの行為実践なのです。

地域で学ぶ「楽しさ」とはなにか

大学生の地域ボランティア活動には、それ独特の楽しさがあります。それは、テニスを覚えてテニスをする「楽しさ」とは、別のものです。外国語を学んでそれを使う「楽しさ」とも、ちがっています。山登りの「楽しさ」とも、ちがいます。生物学を学んで生き物の世界を知る「楽しさ」とも、ちがいます。古典ギリシア語やラテン語を学んで、日本ではまだよく知られていない西欧的な世界の知的な背景(バックグラウンド)を覗き見る「楽しさ」とも、ちがいます。これらの「楽しさ」は、アリストテレスによって、「目的に付随する楽しさ」*と呼ばれているものです。

それらは一つひとつ、それぞれに別の「楽しさ」なのです。そして、それぞれの「楽しさ」の「高い目標」が、それぞれの現実の活動や行動を完成させるのです。まさに「快楽(=楽しさ)は活動を完成させる」のです。他方、「まちづくりのボランティア」が最終的に目標とするものは、なによりも「公平・公正」という「知性的卓越性」の涵養であり、「公共圏」の完成された参加の姿であり、その意味で「公共善」の実現なのです。それは「それ自体が人間と市民の目標である楽しさ」です。上に述べたような、個別の「目的に付随する楽しさ」ではありません。

市民社会の歴史的な再構築にむけて

より現代的な言葉で表現すれば、まちづくりのアクティヴ・ラーニングでわたしが目標にしていることは、地域社会ごとの「ガヴァナンスの多様性」とそれを日々達成する参加者の「喜び」であり、「楽しみ」なのです。そして学びの活動の「楽しさ」が感じられないところには、学びの「高い目標」も「人間の成長」も現れないと、わたしは考えています。そして、それは同時に、つねに時代に適合した市民社会の中身と範囲を再構築する「喜び」や「楽しみ」でもあるのです。

*アリストテレス『ニコマコス倫理学』第10巻第4章(1174b20-75a20)を参照。

社会学部教授 岩永 真治