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思い出の味

世界地図の上で飲んだチャイ 戸谷浩教授(国際学部)

本当に美味しい料理は五感の全てを刺激し、それによって美味しさはよりいっそう高められるのだと言う。残念ながらそこまでの料理に巡り合ったことはそうそうないが、五感にさらに別の感覚が加わって、味が高じたと感じたことは幾度かある。その一つがボスポラス海峡で飲んだチャイ(紅茶)である。

ボスポラス海峡は、黒海が地中海につながる唯一の出口で、対岸までは数キロしかなく、もちろん向こう側もよく見える。オスマン帝国の帝都であったイスタンブルからは定期船で行くことができる。

ある晴天の日に、列強がその管理権を奪い合ったボスポラス海峡に出かけてみることにした。終点の波止場で下船し、木もまばらな岩山をひたすら登った。すると、ふっと視界が開け、円弧を描く黒海に迎え入れられた。大きな水の半球は、どこまでがさざ波で、どこからがその反射なのか見分けるのが難しいほどにきらめいていた。

しかし、ふと見ると海峡を見下ろす頂は無人の地などではなく、正に掘っ立て小屋と呼ぶしかないような東屋があり、カフェとなっていた。チャイとエクメク(パン)ぐらいしかないオープン・・・・・カフェだが、少しの疲労と景色に負けて、当然のごとくにチャイを注文した。

恐らくチャイの味は、トルコのどこでも味わうことのできる、あのチャイの味だったと思う。ただ一点、他のチャイと違っていたのは、飲んだ瞬間、自分は今、世界地図のあそこに腰かけて、熱いチャイをすすっていると実感したことだけだろう。

観光の目的は千差万別で、人によって求めるものも異なると言えよう。でも、世界地図にあるあの場所に行きたいという衝動は、人をしてロカ岬や喜望峰といった荒涼とした「端っこ」に向かわせる。世界地図のあの場所にいることの快楽がそこにはあるのであろう。

光に包まれた黒海を眺めながら飲んだチャイの味が特別なものになっていたのは、そうした快楽のためだったと思っている。

国際学部教授 戸谷 浩

白金通信2021年秋号(No.508)掲載

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