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現代を斬る

顔のない移民、顔のある移民 日下元及准教授(文学部)

移民、今と昔

30年余り前の日本には、「上野の公園でイラン人が偽造テレフォンカードを売っているらしい」という噂が流布していた。当時の私にとって、イラン人は「怪しい外国人」の代名詞であり、噂の信憑性を疑うこともなかった。移民は、顔のない無数の集団だった。

テレフォンカードという言葉がノスタルジックな響きを持つほどに時代が変わった現在では、移民はより身近な存在になっている。「技能実習生」という肩書で来日する海外からの労働者を見かける機会が増えた。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で国境を越える移動が制限されている昨今でさえ、移民関連の話が消えることはない。日本だけに限っても、スリランカ人が名古屋の入国管理局で不当な扱いを受けて死亡したことを巡る訴訟問題はニュースで大きく報じられたし、東京オリンピックでウガンダの選手が日本への亡命を求めたことや、ベラルーシの選手がポーランドに亡命したことも記憶に新しい。

その一方で、移民に対する考え方が劇的に変化したとは言い難い。移民をめぐる議論ではしばしば話が単純化され、移民は没個性的な集団として認識される。そうした思考は偏見や差別に結びつきやすく、反移民感情にさえ発展しうる。単純化に踊らされないためには、移民とどう向き合っていくべきだろうか。

単純化の罠にはまらないために

移民をめぐる議論には、「自国民=身内」と「移民=よそ者」という二項対立的思考がしばしば潜む。例えば、日本の移民増加について以下のような意見をよく耳にする。

(1)自国の古き良き伝統が失われてしまう
(2)犯罪が増え、治安が悪化する

「身内とよそ者」という分類は複雑な要素を覆い隠し、非論理的でさえある。前述の二つの意見について言えば、(1)は日本文化が古来より現在に至るまで海外からの影響を受けて発展してきた事実から目を背けている。(2)はメディアの影響も大きいだろう。ネットやテレビで、「△△人の組織がオレオレ詐欺に関与している」といったニュースが飛び交う。こうした情報の累積が、多様な移民を一くくりにして犯罪予備軍に仕立て上げる。

「身内」というくくり方自体も再考が必要である。日本の歴史を紐解けば、古代には渡来人がいたし、横浜中華街の成立には開国以降の中国系移民の存在があった。後者は、本学の創設者ヘボン氏も登場する、旅行家イザベラ・バードの『日本奥地紀行』でも言及されている。加えて在日朝鮮人や、アイヌの人々などの存在も忘れてはならない。日本はけっして一枚岩ではなく、「身内とよそ者」に二分する見解には問題が多いことがわかる。

こうした考察から見えてくるのは、情報を鵜呑みにせずに、批判的にみる姿勢の重要性と、物事を単純化せず、複雑さや多様性を受け入れる姿勢の大切さである。そうすれば、顔のない集団が個性を持った一人一人に見えてくるだろう。移民と向き合う姿勢はそこから生まれてくる。

日下 元及 KUSAKA Motochika

文学部准教授。

主な学問的関心はアフリカを中心とした英語圏文学、ポストコロニアル研究。最近気になるのはインブリー館で、一度は入ってみたいと思っています。

 

白金通信2021年冬号(No.509) 掲載

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