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あの日の私

あの日の出会い 三輪清子准教授(社会学部) 

思い返せば、多くの出会いが、現在の私につながっている。

高校3年生の12月だった。4年制大学の独文科に推薦入試で入ろうと思っていたところ、入試に落ちた。焦るべきところだと思うが、さほど焦りもなく、さてこれからどの大学を受験しようとのんびり考えていた。そんなある日、仲の良かった友人が「障害児の入所施設で知り合いが働いているから、一緒に見学に行こうよ」と誘ってくれたのだ。いろいろなことに興味のある時期だった。断る理由もなく、一緒に見学に行くことにした。障害児の入所施設について、当時の私がどのようなイメージを持っていたのか、今となっては思い出せないが、見学をさせていただいた施設で、子どもたちがとても楽しそうにしていたという印象を持ったことと、新鮮な気持ちになったことを覚えている。何より魅力的に感じたのはそこで働いていた友人の知り合いが、本当にすてきな笑顔で生き生きと働いていたことだ。それを見て、私も仕事にやりがいを持って、こんな風に生き生きと働きたい、と思った。

それから、私は子どもの福祉を志した。短期大学で保育士の資格を取り、児童養護施設で働いたが、2年で退職した。退職の一番の理由は「子どもは家庭で育つといいな」と思ったことだ。そう思ったのは、勤務中だった頃、里親さんとの間接的な出会いがあったからだ。あの日、私が担当していた子どもが、夏休みに里親さんのところに数日間、外泊し施設に帰ってきたとき、雰囲気や態度が良い意味でガラッと変わっていたことに驚いた。施設の職員は一生懸命愛情を注いで子どもたちを養育しているが、子どもにとっては大勢の中の一人でしかないと無意識のうちに感じているのかもしれない。たとえ数日間だとしても、里親家庭で自分だけを見てもらえるという体験が子どもに与える影響の大きさを知った。退職後、私はその経験を実家の両親に語った。すると、両親が「それなら、うちが里親になろうか」と実家は里親家庭になった。私も結婚するまでの7年間ほど、実家で委託された子どもたちと一緒に暮らした。

児童養護施設を退職してから、私は実家から通える学童保育所で3年間、児童指導員として働いた。学童保育所を退職後、高校生のころから一度、海外で暮らしてみたいと思っていたので、渡米することにした。アメリカでも多くの思い出があるが、その後の私の人生を形作ることになったのは、道を歩いている時にすれ違った多くの養子縁組家族や里親家族だ。日本では珍しがられ、不思議がられさえする養子縁組家族や里親家族がアメリカでは「普通のこと」だった。自分の実家が「里親だ」と言っても何の違和感もなく、時には「うちもそうよ」と応答されることに心地よさを覚えた。なぜ、日本では里親委託が広まらないのか。この疑問が、のちに私が大学院に行くきっかけともなった。

このほかにもここに記すことができないくらいのたくさんの出会いによって、私は現在の場所にいる。私自身も里親になり、子どもと一緒に過ごしている。これまで無駄に思えるようなことも多くあったが、今思い返せば、何一つ無駄になったことはない。一つ一つの出会いが私を形作り、現在の私に影響を与えている。

現在の先生。

白金通信2022年春号(No.510)掲載

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