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あの日の私

南アフリカにて  小野木尚(法学部准教授)

大学4年生の5月、1年間の交換留学が終盤に差し掛かった頃、私はその後の過ごし方について米国の大学の図書館で深夜まで課題をこなしながらあれこれと考えていた。周りの日本人留学生は、帰国して就職活動に勤しむ予定の人がほとんどで、自分もそうした方が良いのかなぁと思う反面、当時は国際公務員に憧れていたため、大学院に進学することも有力な選択肢に入っていた。そうであるならば、早々に帰国して大学院入試の勉強をすればよかったものの、どうせ6月に帰っても秋学期が始まる10月までやることがないな、とぼんやりと考えていた。すると思いがけず、かつて私に英語を教えてくれていた女性から、時間があるなら彼女が家族とともに住んでいる南アフリカに来ないかとの誘いを受けた。せっかくだから地球反対周りで帰る方がお得だ! と、そのチャンスに飛びついた私は、すぐさま航空券を手配して、南アフリカのダーバンの空港に降り立った。

私を南アフリカに招待した女性の夫は、国際協力機構の元職員で、アフリカ各国と日本を数年おきに異動した後、退職して南アフリカに家族で移住していた。一家は現地でさまざまなビジネスを立ち上げ、中古車輸入事業や翻訳業、また、英語教育のノウハウを活用して、現地の日系自動車メーカーの現地幹部職員らに日本語教育を行う事業も手掛けていた。彼らが常日頃言っていたのは、今までは官の立場から支援に携わってきたが、これからはコミュニティの一員として民の立場から現地の発展に携わりたいということであった。2カ月間の南アフリカでの生活を通じて、公的な援助だけではなく、社会に対する貢献の仕方はさまざまであることを学んだように思う。

異質であることを正面から受け入れる重要性についても学んだ。南アフリカのインフラは先進国に引けを取らないほど発展しており、場所によっては米国とあまり変わらない雰囲気であるが、高速道路を隔てると急に貧困街が現れたり、高台は高級住宅街だが、そこから見下ろせる谷には貧困層の村があったりと、格差が眼前に存在した。また、だいぶ改善されてきたとはいえ、当時でも人種によってある程度居住地域が固定されており、地域によって全く街の雰囲気が異なっていた。日常的にこのような風景を目にしていると、この国はどうしてまとまっていけているのだろうと疑問に思うようになった。ところが、私がお世話になっていた方は、日系の工場で日本語教育の仕事をした後、貧困街のコンテナハウスの散髪屋で髪を切り、窓に鉄格子のはまったバーでクロスワードパズルに興じた後、高台の自宅に帰宅するのである。彼の姿を見ていると、お互いの違いを認識した上でどちらに合わせるということではなく、互いを尊重することが社会のバランスを保つ上で重要なのではないかとふと思った。私の研究分野である国際私法の世界も、各国の法秩序は互いに異質であることを前提としつつ、外国法と自国法は代替可能で等価なものであるという考えを原則としている。互いを尊重することの重要性は、ここにも通ずるのではないだろうか。異質であることが表出しにくい日本では気づきにくい点を学ぶ貴重な機会であった。

現地の仲間たちとバーベキュー。(左から3番目が小野木先生)

現在の先生。

白金通信2022年秋号(No.512)掲載

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