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あの日の私

あの時の壁 仲 修平(社会学部准教授)

私にとっての「あの日」は、「壁の時代」といえるものであった。壁と向き合い、そして壁から学んだことは計り知れないほど大きい。その壁は、とあるテニスコートの横にある「練習用の壁」である。ここでは「人生の壁」というような大げさなものではなく、どこにでもあるコンクリートの壁を意味する。

あの時の壁は、テニスを始めたばかりの私にとって、なくてはならないものであった。物事の多くはその道に必要とされる「型」があると思うが、テニスにおいては「打点」と「脚の動かし方」がそれにあたる。前者は肘や手首に負担をかけずに打つことができる適切な場所があり、後者はその打点でボールを捉えることができるように脚を動かして調整する必要がある。両者を自分のペースで何度も確認できるのが「練習用の壁」である。

とにかく、基本の動作を繰り返す。飽きずに何時間でも練習する。時には肘が疲労により痙攣することもあるが、その日の最善を尽くしていた。ただ、「その壁を利用して自分が納得のいくまで反復することが上達への近道だ」という堅い信念があったわけではない。大学の入学当初は一緒に練習する相手がいないことに加えて、ほかの誰かと話さなくても良いので気が楽だった。また、運動のセンスが際だって良いわけではないので、自分にとって可能な限り何度も同じ動作を行うこと、それによってより良い打球を飛ばすことが何より楽しかったのである。

やがて転機がおとずれる。学生生活が進むにつれて、テニスを通して先輩や後輩、練習にハマっている友人(壁トモを含む)ができ始めた。練習時間の大半を壁の前で過ごしていた私は、誰かと一緒に練習できることをとてもありがたいと感じていた。もちろん、他者との練習を通して自分の至らなさに気づくことが多いだけではなく、気の合う友人ができたことは今でも私の財産となっている。しかしその一方で、私は絶えず「ひとり壁」の時間に立ち返っていた。というのも、自分にしか気づけない感覚の微調整や、新たに少しだけ試したいことは、ひとりだからこそできることがあると思っていたからである。

このように振り返ると、「あの時の壁」で身につけた習慣が今の私に多少つながっているような気がしている。物事を丁寧に繰り返すこと、その過程のなかで少し変化を加えることは、研究を進めるうえで必要な土台になっている(かもしれない)。というのも、研究には問いを立てる発想やそれを確かめる方法には一定の「型」がある。例えば、研究対象とする実態がどのようになっているのか、なぜそのようになっているのかという問いに対して、既存の研究や新たな調査を踏まえて自分なりの答えを用意する。それを、論文という形式でまとめるという一連の流れがある。そうした研究の「型」を習得するためには長い年月を要する。

私はいまだに自分なりの「型」を模索中であるが、日々の鍛錬がそれを少しずつ形づくっていくと考えている。そうして身につけた型は、少なくとも自分にとって価値のあるものとなるかもしれない。今の自分にとっての壁はあの時と同じものではないけれど、壁を前にして自分にできることを探求していきたい。

現在の先生。

白金通信2022年冬号(No.513)掲載

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