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それぞれの青い鳥を探しに。
メーテルリンク研究を通じて豊かな演劇世界の扉をひらく

2021.10.13

チルチルとミチルの兄妹が幻の青い鳥を探す童話として誰もが知る『青い鳥』。作者のモーリス・メーテルリンクは、ベルギー生まれの劇作家、詩人、随筆家として19世紀末から20世紀にかけて執筆活動を行ったノーベル文学賞作家です。メーテルリンク研究の権威として国内外でその存在が知られる穴澤教授は、「コロナ禍の今こそメーテルリンクの言葉が私たちの胸に響く」といいます。日常生活のなかの小さな悲劇を描き、その向こう側にある光や真実を浮き彫りにするメーテルリンクの言葉が、コロナ禍の暗いトンネルの先を照らしてくれるのだ、と。メーテルリンクの奥深い世界から、演劇という身体表現芸術の豊かさまで、穴澤教授は幅広い視点で芸術の力を見つめています。

穴澤 万里子 文学部 芸術学科教授 演劇身体表現コース 専門分野はモーリス・メーテルリンクを中心とした象徴主義演劇の研究。パリ第3大学、同大学院卒業、フランス・ストラスブール大学大学院博士課程修了。文学・比較文学博士。2014年よりAICT/IATC(国際演劇評論家協会)本部理事、2018年より現職。日仏演劇協会実行委員。所属学会は日本演劇学会、西洋比較演劇研究会など。ライフワークとしてメーテルリンクの時代の演劇と美術の関係を探っている。

「目に見えないもの」を見つめるメーテルリンクに魅せられて

私はフランス留学時代から、「象徴主義演劇」と呼ばれるモーリス・メーテルリンクの初期の戯曲(上演台本)を中心に分析・研究をしています。象徴主義演劇とは、19世紀末、ヘンリック・イプセンやアントン・チェーホフといった劇作家が写実的に社会問題を切り取るリアリズム演劇が新しい潮流を生む中で、いわばその反動として誕生した前衛的な演劇手法でした。メーテルリンクは、「目に見えないもの」に焦点を当て、誰もが共感できるような日常の中にある小さな悲劇を描いています。

たとえば、『室内』という初期の作品は、ある家の娘が自殺をして、それを知った隣人が娘の家族にそのことを伝えに行くという、たったそれだけの話ですが、日常生活の中で起こる小さな、それでも家族や周囲の人にとっては大きな悲劇がこの世界にはたくさんあることを静かに伝えています。何も言葉を残さずに亡くなっていった者の声にそっと耳を傾けるような繊細で詩的な世界に引きつけられ、私はメーテルリンクの研究にのめり込んでいきました。

私がメーテルリンクの研究に携わるようになったきっかけは、パリ第3大学の大学院に進んだとき、メーテルリンクの戯曲全集を監修・出版されたばかりだった教授と出会ったことでした。パリ第3大学の卒業論文では、イプセンの舞台装置を手掛け、世界的に有名な絵画『叫び』で知られる画家エドヴァルド・ムンクが作成した公演プログラムの分析・研究をしたのですが、そのときの担当教官に勧められて大学院へと進み、そこで出会った教授からメーテルリンクの奥深い世界を教えてもらいました。それまで、『青い鳥』くらいしか知らなかった私は、目に見えない「偉大な真実」や「日常生活の中の悲劇」を見つめたメーテルリンクの初期の戯曲の青白い光のように詩的で前衛的な世界に魅入られたのです。

私の父は美術史家でフランス留学の経験もあり、母も同じく美術館の学芸員でした。父の影響もあり、私は小学生の頃からフランスにあこがれ、必ずパリに留学をすると決意していました。高校時代、父の知人のフランス人に勝手に手紙を書いて留学の相談をして、それを知った父にひどく叱られました。それでも私の熱意は通じたらしく、一人娘のパリ留学を許してくれたのです。パリに着いたその日から、そこは私にとってあこがれ以上の特別な場所でした。そして、演劇を学ぶ中で出会ったのがメーテルリンクの研究という道でした。小さい頃から美術や芸術に触れる機会の多い環境でしたが、まさか自分が研究者になるとは思ってもいませんでした。素晴らしい研究者や優れた図書館司書との出会いが、私を導き研究者として育ててくれたのだとつくづく感じます。

コロナ禍で響くメーテルリンクの言葉

留学を終えて日本に戻ってからは、演劇の実践を教える大学で教鞭をとりながら、日本におけるメーテルリンクの受容についての研究を進めました。日本では明治から大正期にかけて、上田敏や森鷗外など多くの作家たちによってメーテルリンクが紹介され、日本における「メーテルリンクの季節」というべき盛り上がりがありました。鷗外はメーテルリンクの影響を受けてそれまでにない新しい女性像を描いたり、能を題材にした戯曲を書くなど、日本で独自の広がりを見せていったのです。

こうした日本でのメーテルリンクの受容のされ方を研究してまとめ、フランスのストラスブール大学大学院に提出し、受理された博士論文「メーテルリンクと日本人」は、パリの出版社の目に留まり、今年5月に要約本が出版されました(原題Maeterlinck et les Japonais)。これからは、メーテルリンクが世界の国々でどう受容されてきたのか、メーテルリンクが生きた19世紀末から20世紀前半にかけてのフランスの演劇と美術の関係性、特に大戦間の演劇の舞台装置や衣装などについての研究をさらに深めていきたいと考えています。

実はこのコロナ禍に改めてメーテルリンクを読むと、感じ入るところが多くあることに気づきます。たとえば、随筆『限りなき幸福へ』には次のような一説があります。

「われわれは、たぶん今一時的に闇の中にいるのだろう。この闇の中にある多くのものは、日の光にさらされれば異なる姿をとるだろう。にもかかわらず、われわれの物質生活、倫理生活の本質的な出来事は、日の光にさらされようが闇の中であろうが、必ず、しかもまったく同様に起きるのである。われわれは謎の答えを待ちながら生きなければならない。そして可能な限り幸福に、可能な限り高貴に生きて初めて、最もいきいきと生きられるのであり、同時に人間の真実を求め、探求するために必要な大きな勇気と自由と知恵をも獲得できるのである。」(山崎剛訳) 

こうした文章に、コロナ禍の暗いトンネルの先にある光や希望を見出すことができるのではないでしょうか。メーテルリンクは、「叡智によって、暗闇も幸せに変えることができる」とも教えてくれます。これから、日本のみならず世界中でもう一度メーテルリンク・ルネッサンスが、メーテルリンクの季節がおとずれるのではないかと考えているところです。

知識とは高く遠くまで飛ぶための翼

本学の文学部芸術学科では、1年次は幅広く相対的に芸術を学び、2年次から各コースに分かれます。私が教えている「演劇身体表現コース」は、2年次では演習を通じて身体表現とは何かを学びながら、自分がこれから学びたいテーマを見つけ、3年次ではグループワークを通じてより専門的に学び、同時に卒業論文で扱う題材を探していきます。この一連の学びは、演劇という身体を媒体に表現される芸術を学術的に学ぶうえで、机上の研究だけでは足りないことを教えてくれるはずです。

ゼミや授業では、なるべく学生が主体的に発言できるように心がけています。私がこれまで師事してきた教授や研究者たちは、上から知識を与えるというより、自身の姿勢を通して学ばせてくれる人間的な方たちばかりでした。学びにおいて立場の上下はなく、私も同じ一人の研究者として学生と同じ目線で学び続けたいと思っています。もちろん、私の持っている知識や情報はすべて学生に伝えていきます。

大学での学びの面白さは、グループワークやディスカッションにあると考えます。自分でとことん突き詰めて考え、それを言葉で伝えてみんなとシェアし、自分とは異なる他者の意見にも耳を傾ける。この一連のプロセスがお互いの成長につながるのです。はじめは自分の意見を思うように言えずにいた学生が、ディスカッションを重ねていくうちに変わっていく姿をよく目にします。芸術学科を選んで入学する学生はもともと感性が豊かなのです。

演劇身体表現コースを専攻する学生は、演劇を観るのが好きな人もいれば、高校時代から演劇に関わっている人、現役でダンスやバレエに携わるパフォーマーもいます。演劇を観ることが好きといっても、各々の趣味は宝塚からミュージカル、最近では2.5次元の舞台までと幅広いのですが、いずれにしても演劇を中心とした身体表現に関心のある学生が集まってきます。

実際に舞台に立つ人にとっても、身体表現の実践と同時に理論や研究を行うことはとても重要です。フランスで長く演劇教育の場を見てきましたが、実践の場においても理論は絶対に必要ですし、さらにフランスの演劇界では哲学が重要になります。そうした後ろ盾がなく、ただ自分のやりたいように演じているだけでは観客に伝わりません。より深く、学術的に学ぶことが必要なのです。過去のすぐれた俳優や演出家が何を考え、どう実践してきたのかを知っていると、それだけその人の表現が豊かになります。「知識が邪魔をする」という人もいますが、私のこれまでの経験からすれば、実践と理論の両方があってはじめて身体表現は豊かに結実するのだと考えられます。

たとえばシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』でロミオ役を演じる場合、シェイクスピアが生きた時代背景を知り、他の作品を最低4作は知っていれば、作品に対する理解度や読み解き方が変わってきます。さらになぜ今この作品を上演するのか、その中で自分の21世紀の身体でロミオを演じるにはどうすればいいのかというところまで、その役者が想像力と知識で補う必要があるのです。

演劇身体表現コースの学生は広く演劇を学びたいという学生が多いため、就職先も多方面にわたります。演劇にずっと携わってきて、卒業後も演者として舞台に立つ人もいれば、舞台監督など演者を支える仕事に就く人もいます。もちろん一般の企業に就職する人も多くいます。4年間、芸術、特に演劇について学んだ人はそれだけ人として豊かになって人間力が身についているため、どんな分野に行っても強いと思います。

広く芸術の世界を学ぶことができる大学は、日本でもあまり多くはなく、あったとしてもマンモス校になってしまうのですが、明治学院大学は学生の数がちょうどいいので、広く深く学ぶことができます。知識とは、高く遠くまで飛んでいくための翼です。それをベストな環境で得られるところが本学科の大きな魅力だといえます。

過去に学び、芸術の力を五感で掴む

芸術や舞台は、コロナ禍では不要不急だといわれていますが、非常時でも最終的に残るのは芸術です。人生の中で何か大きな危機に直面したときにも芸術が救ってくれます。私自身、これまでの人生で芸術に救われたことが何度もありましたし、今も救われ続けています。コロナだけでなく、世界には戦争や紛争、飢饉、災害など、長い人間の営みの中で危機は常にありました。それでも芸術は絶えなかったし演劇も止まらなかった。その時代ごとの作品を学ぶことで、「こういう時代もあったけれど、それでもみんな乗り越えたんだ」ということが分かれば勇気や明日への希望につながります。芸術を学ぶことの意味は、そこにあるのではないでしょうか。

コロナによって世界中の演劇は大きなダメージを受けましたが、それによって演劇が生の身体表現芸術であり、五感に訴える一期一会の芸術であることが再認識されたともいえるでしょう。一方、ヨーロッパではロックダウンで劇場が閉鎖されたことによって、これまでは公開しなかった過去の映像などを無料配信しています。今こそ歴史を学び、過去の作品に触れる絶好のタイミングでもあります。私はパリに本部を置くユネスコ傘下の国際機関AICT/IATC(国際演劇評論家協会)に長年在籍し、今年の5月まで通算7年間理事を務めてきました。ここで培ったネットワークを大切にしながら、世界の演劇界で今何が起きているのかを学生たちにもビビッドに伝えていけたらと思っています。

コロナによる変化といえば、こんなこともありました。不条理演劇の代表作として知られるサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の作品分析を授業で行っていると、今まではよく分からないという学生の声が多かったのが、コロナ禍になってからは、辻褄の合わないやりとりや、ひたすらゴドーという人物を待ち続けるストーリーの意味がよく分かるというのです。これには私も驚きましたが、コロナによって日常生活が理不尽や不条理に覆われたことで作品の世界と奇しくもシンクロし、実感として理解できたのでしょう。過去の作品を2021年の私たちが読むことの意義を感じた瞬間でもありました。

ちなみに、メーテルリンクの『青い鳥』における青い鳥は、日本では幸福のメタファーとされていますが、これを海外で言うと驚かれます。海外では、希望や平和、愛など、さまざまな解釈がなされているからです。メーテルリンク自身、これが正解という答えを作中で示してはいないので、読み手によって、また読む時代によってもさまざまな解釈ができるのだと思います。読む人にとって、それぞれの青い鳥があるのです。分析や研究とは、自分にとっての青い鳥を探すことなのかもしれません。

演劇という身体表現芸術は、過去と今の自分の人生とを照らし合わせて考えることができる芸術表現です。身体を通した表現には嘘がない、というより嘘が通用しません。五感を通して感じ、考え、表現するからこそ、面白い。その豊かな世界に一人でも多くの学生が触れてくれることを願っています。

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