期待せずに朝日新聞社を「受験」
2001年4月から朝日新聞社に勤めています。大阪、神戸、京都で広告営業や編集記者を担当し、新規事業部門を経て、現在は東京本社で再びビジネス部門で広告などを担当しています。
中学生の頃から広告業界に憧れ、就職活動は広告会社を中心にまわりました。いくつかの説明会に参加する中で新聞社にも広告局という広告の仕事ができる部署があると知りました。朝日新聞社を期待せず受けました。当時は就職氷河期まっただ中でしたし、超難関大学の学生でないと採用されないと思ってしまいました。でも、気づいたら2次面接、3次面接と進み、まさかの合格。親も驚いていました。
何が採用の決め手だったのかはわかりません。ただ、ゼミの校外実習でガーナに滞在し、道に迷った挙句、現地の人と踊った話は面白く聞いてもらえたようです。
中国現地で生涯の師との驚きの出会い
私は1997年に大学に入学しました。実は入学時は法学部法律学科だったのですが、その後、国際学部国際学科に転学科しました。きっかけは当時、国際学科で教鞭をとっておられた勝俣誠先生(現・名誉教授)と出会ったからです。1年次の夏休み、中国内モンゴル自治区を訪ねる学外の学生同士が自主的に計画し、中国をめぐる旅に参加し、帰路に上海に立ち寄った時のこと。道が分からなくなり、向こうから歩いてくる中国人らしき3人組に不慣れな中国語で話しかけたところ、何と、勝俣誠先生と奥様、今も国際学部におられる孫占坤先生だったのです。「君は学生か?」「学生です」「どこの大学だ?」「明学です」「おお、私たちもだ!」と盛り上がりました。
知り合ってすぐに、勝俣先生の魅力に引き込まれました。視野が広く、好奇心にあふれ、常識にとらわれない。アフリカの南北問題の権威という偉大な一面に加え、少年のような心もお持ちです。上海からの帰国の飛行機も偶然に一緒で、雲の上で乾杯し、ビビビッときて(笑)。その時点でこの先生についていこうと決め、転学科試験を受けて2年次からは勝俣ゼミに所属しました。
勝俣ゼミはユニークなゼミでした。体験を通してアフリカの実情を理解しようと、2年次は横浜キャンパスの片隅を開墾し、タロイモを育てて食べ、3年次は校外実習でガーナの小さな村に3週間ほど滞在しました。朝日新聞社の面接で話したのは、この時のガーナ人との交流や生活についてです。
私はもともと好奇心の強いほうですが、勝俣ゼミでより磨きがかかりました。視野の広げ方や、常識にとらわれない行動力、縁を大切にする生き方など、多くのことを教わりました。
ゼミとは別に、4年次の夏には、ロシア経由でヨーロッパを放浪し、最後はドイツの企業で3週間ほどインターンシップをしました。その予定を立てている最中に、友人の紹介で、チョルノービリ原発事故による甲状腺がん患者の治療を無償で支援している信州大学医学部(当時)の甲状腺がんの専門医の先生と飲むことになりました。先生に旅行の計画を話したところ、「それなら途中でベラルーシやウクライナにある病院や我が家に来たらどうか」と誘っていただき、寄らせてもらいました。先生の家を拠点に、甲状腺がんの治療の現場を見たり、特別な許可を得て、人が入れない30㎞圏内に入り、爆発のあったチョルノービリ原発4号炉に300mまで近づいたり。被害の甚大さを体感しました。貴重な機会をいただき、ご縁に感謝しています。
新しいメディアの構想を抱き、ニューヨークへ
2001年に朝日新聞社に入社し、大阪本社の広告局に配属されました。新聞社の広告営業は、単に紙面を売るのではなく、「この社会課題に関して専門家を交えて対談し、その内容を社会に訴求するのでご協賛されませんか」など、企画を立てて売るということが多いです。
入社後のマーケティング部署での3年の内勤を経て営業に出てすぐに、上司から、「社会課題に関心を持っている京都のA社向けに企画を立ててみないか」と持ちかけられました。そこでチョルノービリ原発事故に絡めて「命を大切にしよう」という意見広告の鼎談企画を提案したところ、先方が気に入ってくれて、全国版で大きな広告が実現しました。
新人がこれだけの広告企画を実現させることは珍しいようで、先輩方から褒めていただきました。私はもちろん嬉しかったし、学生時代に経験したことと今がつながっていると感じました。無駄な経験はないのだと実感した出来事です。
その後、編集局に異動になり、記者として神戸総局に赴任しました。日々事件現場で取材する中で、現場にいる人・地域に住む人の声を吸い上げ、編集して発信するという、新しいメディアの形が必要ではないかと考えるようになりました。その後、仕事をしながら、大阪市立大学の社会人大学院に通ったのですが、仲間の修士論文を見ても、例えば保育士が保育の実態について書いたものは説得力がある。つまり現場の人が書いたもののほうがニュースとして価値があるのではないかと考えるに至りました。現場である地域の人から情報を集める地域メディアをつくり、各コミュニティ内の結びつきを強め、フォローをするのがメディアの役割だと。そして、その各地域メディアの集合体をつくるべきだと構想を抱くようになりました。
そんな時に、同僚からジェフ・ジャービスというニューヨーク市立大学大学院教授の著書『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』(東洋経済新報社)を勧められました。読んでみて驚きました。「世界には、自分と同じことを考えている人がいる!」と。この時もビビビッときて(笑)。この人の授業を受けたいと思い、猛勉強の末、ニューヨーク市立大大学院の試験に挑戦。合格でき、上司や先輩、同僚の助力を得て休職をさせていただき、2018年1月から半年間、留学しました。世界中から集まった多様なバックグランドを持つ12名と議論をしながら進める授業は、とても大変でしたが、刺激的で自信にもなった半年間でした。
帰国後、温めてきたアイデアを形にするために、社内スタートアップ支援制度に応募したところ、227件中2件の採用案件に選ばれ、新規事業立ち上げの部署に異動しました。
目の前のことに一生懸命になる。きっと将来の糧になる
社会に出ると、困難なことや嫌な思いをすることもあります。その時支えになったのが、明学で知った2つの言葉でした。
ひとつは、当時の明学の広告看板に書かれていた、「The truth shall make you free(真実はあなたたちを自由にする)」(ヨハネによる福音書8:32)です。もうひとつは、「寝っ転がって雲を見ろ」。国際学部の卒業式で、確か当時の学部長から聞いた言葉です。
嫌なことがあっても、問題の本質は何だろうと考えると、些末なことにとらわれなくなりますし、寝っ転がって雲を見ると足元の悩みがどうでもよくなります。「ちっちゃいなぁ」と思い、困難を乗り越えてきました。
そして仕事のさまざまなシーンで助けになったのが、やはり学生時代の経験です。マーベリックスというサークルでアメリカンフットボールを4年間やり、チームプレーを学び、それが会社で生きている気がします。また、チョルノービリを訪問した経験が広告企画につながったように、明学での体験や、その体験を通してできた人の縁がアイデアの源泉になり、力になりました。
実は私は浪人生活の後、希望の大学を落ちて明学に入りました。でも縁あってここに来たのだから楽しもうと思い、内モンゴルに行ったことで勝俣先生と出会い、今があります。
在学生の皆さんの中にも、本当はほかの大学に行きたかったという人もいるかもしれません。でも、縁があって入った大学です。この縁を大事に、今この場を一生懸命に楽しむことが、結果として予想もしなかったところに導いてくれ、強みになるのではないでしょうか。「将来、役に立つのか」などと考えず、出会った人、ものを追いかけてみるといいと私は思います。
それに、明学には面白い先生がたくさんいますし、好奇心を伸ばしてくれる環境があります。
次の世代にとって、視野を広げる存在になりたい
地域メディア事業の立ち上げは、2019年から2020年の1年をかけて取り組みましたが、残念ながら収益が出る形にならず中断しました。でも、いずれは実現したいと考えています。
ほかにも、やりたいことは山ほどあります。今度は家族でバックパッカーとして世界を歩きたいし、J-WAVEが好きなのでナビゲーターもやってみたい(笑)。AI活用が進む社会において、人間が正しいと思うことをメディアが判断し、伝えるのであれば、その正しさはどこから来るのか。倫理学、特に徳倫理学に興味があり、学びたい。それに、ジェフ・ジャービスが提唱する「起業ジャーナリズム」の講座が日本の大学にはないので、どこかで学生さんと一緒になって考えて、取り組んでみたいとも思っています。
明学の教育理念は“Do for Others”です。私は、感謝の気持ちが「他者への貢献」の前提だと理解しています。大学時代という多感な時期に勝俣先生に出会い、視野を広げていただいたことに心から感謝し、恩返しも含め、いつか私も若い人たちに「世界は広いよ。おもしろいよ」と伝えたいと思っています。