リクルートの価値を支え続ける仕事
私は今、リクルートホールディングスでPRを、リクルートでは人事、広報、サステナビリティの担当執行役員をしています。リクルートは皆さんもよくご存じの『ホットペッパー』や『ゼクシィ』、『じゃらん』や『リクナビ』といった、人々の生活に密着したサービスを提供しています。これらの世の中に必要とされるサービスを提供するのがリクルートの価値であり、それを支え続けることが、今の私の仕事です。
私が入社した1998年当時は、「新しい事業をつくるんだ!」という熱量だけでみんなが朝から晩まで働いているような時代でした。そこから株式上場や時代の変化もあり、今はみんなが多様な働き方をしています。子育てや介護をしながら働くメンバーも多いですし、リモートワークもコロナ禍前から導入していました。働き方は変わりましたが、社員たちの仕事への情熱は以前と変わっていないと感じます。
何もかも違う中国で「他人は理解できない」と悟った
2020年4月に現職に就く前は、『ホットペッパービューティー』や人材派遣など、多くの事業を経験しました。その中でも非常に貴重な経験となったのは、結婚情報誌『ゼクシィ』中国版立ち上げです。
リクルートには「経営への提言」と題して新規事業を提案できる仕組みがあり、私の企画がグランプリを受賞。中国版の『ゼクシィ』を、中国人のスタッフとともに創刊することになりました。当時、私は29歳。言葉も文化も違う場所で、本当の意味でのDEI(ダイバーシティ=多様性、エクイティ=公平性、インクルージョン=包括性)を、身をもって体験しました。
1年目はとにかくわからないことだらけ。日本では起こり得ないようなトラブルがたびたび起こる中で、なんとか中国の商習慣や国民性を理解しようと努めました。2年目になると、なんとなくそれらがわかるようになってきたのですが、うまくいっている気になっていた3年目に、またもトラブルが続いたことで、やはり私は何もわかっていなかったのだと悟りました。
その時に私は初めて、本当の意味で「他人は理解できない」と実感しました。そもそも理解できると思っていたこと自体がおこがましいのだと。当時のメンバー300人くらいの前で、「私とあなたたちは、8割は共通していることもある。でも2割はどうしても理解できないことがわかった」と伝えました。だからこそ、少なくとも私は自分のことを理解してシェアをすると誓いました。自分自身を客観的に認知する「メタ認知」の勉強を必死で始めたのはそれからです。
他人は理解できないという前提に立ったこの時から、マネジメントスタイルもガラッと変わりました。それまでは、きっちりマイルストーンを引き、進捗を確認する「任せる」スタイルでしたが、メンバーに「頼る」スタイルに変わりました。自分で考えて自分で決めて、失敗したり成功したりするほうが、結果的に良い成果につながると気づいたのです。そこからはもう、メンバーに頼りきりです。
どんなにいい組織でも、未来に価値を紡げなければ意味がない
上海で4年半働いた後、一度帰国し、36歳で再度上海に渡りました。その時には『ゼクシィ』の事業はうまくいっておらず、私は売却という苦渋の決断をしました。立ち上げから6年、最初はリクルートのことも知らなかった中国の仲間たちが一緒に走ってくれたこと、宝物のような6年間を思い、これは私の責任だと強く反省しました。私がもっと中長期的な未来を見て戦略を描いていれば、こうはなっていなかったはずです。
ここで、リーダーの仕事とは「未来に価値を紡いでいくこと」以外ないのだと確信しました。今のチームが素晴らしいとか、どれだけいい仲間でいい組織であっても、未来に価値を紡げなければ意味がない。ここでも大きく経営観が変わりました。
ちょうどその頃から、仕事で落ち込むことも少なくなりました。新入社員の頃は、落ち込みすぎて会社に行けなかったり、会社のフロアで号泣したりと、感情の浮き沈みが激しい社員でした。でも、落ち込むことは仲間にも家族にも迷惑でしかないし、自分自身のパワーにもなりません。そう気づいた時から、「反省はするけど落ち込まない」と決めました。それまでの社会人生活でさんざん落ち込んできたからこそ、たどりついた境地かもしれません。
「世の中を変えたい」という情熱あふれる授業
明治学院大学を選んだ理由は、障がい者福祉について学びたかったからです。高校時代に知的障がい者が競技をする「スペシャルオリンピックス」に、ボランティアとして参加させてもらったことがありました。その場にいる人のほとんどが障がい者で、初めて自分がマイノリティになる経験をしました。その時に小学校から高校まで、自分が障がい者と一緒に教育を受けていなかったことを不思議に思い、福祉の勉強をしたくなったのです。
明学の社会福祉学科に進学すると、精神疾患の勉強にどんどんのめり込んでいきました。当時はまだうつ病といったメンタルの病は一般的ではありませんでしたし、「統合失調症」は「分裂病」といわれていた時代です。大学の図書館には歴史のある本がたくさん所蔵されていて、4年間かけて、精神疾患に関連する本をひたすら読み漁りました。
ゼミでは村上雅昭先生(現 名誉教授)に師事し、精神疾患を持つ犯罪者の刑事責任能力を鑑定する「起訴前鑑定」について研究しました。今でもすごく印象に残っているのは、社会福祉学科の先生たちが非常に情熱的な講義をされていたことです。本当に、情熱を“浴びる”感じなんですよね。児童虐待の講義をする先生はそれをどうにかしたいと訴え、変わらない世の中を憂えていました。私が福祉の勉強にのめり込んだのは、先生方の影響が大きかったと思います。
ビジネスを学び、民間企業の立場から社会を良くする
社会福祉学科の仲間とは今でも交流がありますが、そのほとんどが福祉の世界で活躍しています。私も当然、福祉の道に進もうと思っていました。その考えが変わったのは、大学時代に脳性麻痺と筋ジストロフィーの方を支援するボランティア活動で、仙台を訪れた時のことです。
観光地では障害者手帳を見せると拝観料などが無料になることが多いのですが、あるお寺は有料でした。障がい者の方は国からの補助金で生活しているため、経済的な余裕はありません。結局、ご本人の希望で中には入らず、私が電動車椅子を押しながら、お寺の周りをぐるっと一周しました。
その時に講義で先生方が、世の中が変わらないと憂えていた意味がよくわかりました。補助金だけに頼っていては、世の中は変わらない。負を解決して価値に変え、仕組みにしていく。そしてお金を儲けるビジネスを学ばない限り、日本の福祉は良くならないと考え、民間企業への入社を決めました。
社会人になり、新しい事業に携わるたびに、何かひとつは必ず障がい者をテーマにしたサービスをすると決め、実行してきました。『ホットペッパービューティー』では、高齢者や障がい者の方の自宅に訪問する訪問美容師の数を増やす活動をして、人材派遣事業では精神障がい者が会社に定着する仕組みを考えました。気づいた人がやる。これも、明学の先生方に教わったことです。
「普通はこうだから」「今までこうしていたから」ということに、私はずっと疑いを持っています。そのような考え方ができるのは私の強みだと思いますし、大学時代にずっと「普通ってなんだろう……」と考え続けていたからだと思います。
今、明学には大学の教育理念“Do for Others(他者への貢献)” のもとに掲げられた5つの教育目標があると聞いています。その中でも「他者を理解する力を身につける」「共生社会の担い手となる力を身につける」の2点は、今後ますます必要とされる力だと思います。私自身の学生時代を振り返っても、この2つの力を先生方にアップデートしていただいたと感じています。
先ほど、中国での経験から「他人は理解できない」と悟ったというお話をしました。教育目標の「他者を理解する力」と矛盾しているように感じるかもしれませんが、私の解釈は「他者を全部は理解できないことをちゃんと知る」ということです。それにより他者と共生していけるのだと思います。
今、私が担当しているリクルートのサステナビリティでも、社内に対しても社外に対しても、他者を尊重した上での共生、つまり「ダイバーシティ」「エクイティ」「インクルージョン」を重視し、ジェンダー平等の実現などについてコミットメントを公表しています。このように時代が求める力を、学生の皆さんにはぜひ意識していってほしいです。
自分の好奇心を大切に生きてほしい
これから就職する学生の皆さんは、社会に出ることは大変だと思っているかもしれません。もちろん、ファーストキャリアは大切です。でも、社会人って、実は皆さんが思っている以上に自由です。小学校は6年間、中学校は3年間と決まっていますが、社会人には決められた期間はありません。極端な話、明日辞めても、ずっと働き続けてもいいんです。
だからこそ、「正しいから」「正しくないから」とか、「周りの人がこういうから」ではなく、自分自身の好奇心に素直になって、進路を選んでみてください。自分の人生に責任を持てるのは自分だけです。
人生100年時代といわれていますが、70歳を過ぎても働き続けるとしたら、社会に出てから50年以上もあるんです。自分のペースで、自分らしさを大切にして生きていってほしいと思います。もし、自分が大切にしたいことが見つからない場合は、いろんな人と話す機会を増やしてみてください。明学には、仲間もいれば素晴らしい先生方もいます。対話の中にきっと、気づきがあるはずです。