- Toson Shimazaki 島崎 藤村 1872-1943
1887年、15 歳で明治学院に入学した文豪・島崎藤村は、4 年後に第一期生として卒業しました。
その後、母校から校歌作詞の依頼を受けたとき、藤村は、経済面においても精神面においても、非常な苦境の中にありましたが「これは自分の義務だ」と快諾し、今に歌い継がれる校歌をつくりました。
藤村は今も、その歌を通じて、私たちにメッセージを送り続けています。
1872(明治5)年に長野県の木曽山中、馬籠という土地に生まれた藤村は、9歳で上京、今も数寄屋橋にある泰明小学校に入学します。その後、三田英学校、神田共立学校を経て、1887(明治20)年に、誕生したばかりの明治学院普通学部本科に入学しました。15歳でした。第1期生として卒業したのが1891年。在学中には洗礼も受けました。
学生生活はとても楽しかったようです。自分をモデルとした小説を数多く書きとめていた藤村ですが、明治学院時代のことにも触れています。たとえば『桜の実の熟する時』では「図書館へ入って、西洋の詩人の伝記なぞを読み耽ったのも、あの時代である。(中略)文学、あるいは宗教、あるいは哲学に関する新説を聞こうとして、友達と一緒に寄宿舎から急いだのも、あの時代である。どんなにあの時代は楽しかったろう」と振り返っています。
卒業後は女学校の教師などを務めるかたわら、詩を書いて詩集を出版。1899(明治32)年に27歳で結婚します。しかし、生活は決して楽ではありませんでした。詩集の販売は暮らしを潤すには遠く及びませんし、詩ではなく小説こそおのれにふさわしいと道を決め、いずれは大作として世に問う決意で執筆を始めた「破戒」のため、やがては職も捨ててしまいます。親戚からの借金で仕上がった原稿をまとめて自費出版するものの、その間、生活は困窮し、そのことも一因してか、幼い3人の娘を次々と失うという不幸に見舞われてしまいます。母校の校歌作詞の依頼は、ちょうどその頃のことでした。
明治学院にはまだ校歌がない。ついては、母校出身者であり、新体詩など、文壇での活躍もある島崎藤村氏に作詞を依頼したい・・・。明治学院の教諭で同窓会の事務も受け持っていた宮地謙吉氏が、井深梶之助総理の意向を受けて、さっそく西大久保にある藤村の小さな居宅を訪ねます。
当時、藤村は2人の娘を次々と亡くし、残された長女も危篤、妻もまた病の床にあるという惨憺たる状況の中にありました。宮地氏はその状況を見るにつけ、依頼を切り出すのは容易ではなかったと回想しています。しかし勇を鼓して口にすると藤村は「学院は母校であり、育ててくれた保育所、大恩のあるところだから全力を尽くしてやってみる。これは自分の義務であり、名誉なことだ」「学生の皆さんに日頃から歌ってもらい、精神を鼓舞してほしい」と、快諾したそうです。
間もなく藤村は、私たちが折りに触れ歌ってきた、この詞を書きました。
人の世の若き生命(いのち)のあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや
緑葉は香ひあふれて青年(わかもの)の思ひを伝ふ
心せよ学びの友よ新しき時代(ときよ)は待てり
もろともに遠く望みておのがじし道を開かむ
霄あらば霄を窮めむ壌(つち)あらば壌(つち)にも活きむ
ああ行けたたかへ雄雄しかれ
眼さめよ起てよ畏るるなかれ
言葉は巧みに選ばれ、声を振り絞って叫ぶような口調はどこにも見えません。しかし、鳴り響く鐘が人々の胸を打ち、木々の葉が香って青年の思いを伝える学院で、ともに遠くを望み、道を開こう、と呼びかけるその言葉は、美しく、また力に溢れています。『破戒』がそうであったように、藤村のその後の文学的事業の核心は、一貫して「自分を見つめる」ことのなかにあります。その自分の生んだ事実の中には、社会が「醜聞」として糾弾したものもありました。しかし、藤村は愚直といえるほど誠実に、その現実にとどまり、格闘しました。藤村にとっての明治維新は、そのような精神的な態度を西欧から学ぶことだったのかもしれません。明治維新が、日清・日露の戦勝を経て、どこかで上滑って行くかのような気配を見せたとき、藤村は母校の若き後輩達に、おのれの内面に深く降り立ち自分を高めよと、それこそが新しい時代を拓くと、校歌の形でメッセージを託しました。それは今も、時代を超えて、私たちの心の中に生き続けています。
[参考]
『桜の実の熟する時』(新潮文庫)
[画像出展]
藤村記念館