- 田中 みずき 2006年文学部芸術学科卒業。
2008年明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程修了。明治学院大学在学中の2004年に銭湯ペンキ絵師の中島盛夫さんに弟子入り。その後、2013年に独立。銭湯でのペンキ絵制作に加え、展覧会、イベント、ワークショップなど、ペンキ絵を通して銭湯の魅力を知ってもらうための活動を展開中。ブログでも精力的に情報を発信。
銭湯の浴室を彩る巨大な壁画“銭湯ペンキ絵”を描く田中みずきさん。現在は全国に3人しかいない銭湯ペンキ絵師として、伝統と文化を守ることを目標に、日々制作に励んでいます。ペンキ絵師になろうと決意したのは明治学院大学在学中のこと。進路を決めた経緯や大学時代の思い出、銭湯ペンキ絵の魅力など、さまざまなお話をお聞きしました。
子どもの頃から絵を描くのが大好きで、中学生くらいから美術の道に進みたいと思うようになりました。高校1年生から美術大学受験のための予備校に通い始めましたが、本格的に学びはじめると、現実が見えてきます。私の実力で美術大学に入ることはできるのか、仮にアーティストになれたとして食べていくことはできるのか。将来について、そんなふうに考えるようになりました。その結果、大学では美術史を学ぼうと決めました。美術の世界で生きていくなら、作品制作の技術を学ぶだけでなく、美術史の知識があると強みになると思ったからです。
大学の情報を集めていくうちに、明治学院大学で美術史が学べることを知りました。しかも、明学では映画史の専攻もできる。私は美術だけでなく映画も大好きで、高校時代には映画を自主製作し、学園祭で上映したこともあったんです。当時、明学では映画史家としても高名な四方田犬彦先生が教授を務めていて、もしかしたら四方田先生の授業を受けられるかもしれない。そう思うと、明学に行きたいという気持ちがどんどん強くなっていきました。
明治学院大学に入学し、念願だった四方田先生の講義を受講。その1回目の講義で、予想もしていない出来事が起こったんです。四方田先生の講義は人気が高く、さまざまな学生が参加していました。そのような学生のひとりが講義の終盤で挙手し、四方田先生に質問しました。
質問は旧約聖書と新約聖書の解釈の違いについて、四方田先生に見解を求めるもの。それが、私にとって衝撃的でした。質問そのものの意味が、全くわからない。その事実がショックだったんです。四方田先生の答えは授業の内容を深化させるもので、そこから新しい知識を得ることもできました。あんなに面白い質問をするためには、専門的な知識を持ち、自分なりの考えを持っていなければならない。私はそのレベルに、全く達していない。とにかく大きなショックを受けて、もっと勉強しなければならないという気持ちが高まっていきました。
そして私の中で、ひとつの目標ができました。「あんな質問をしてみたい」。2年次まで通った横浜キャンパスは自宅から遠く、通学時間は片道2時間以上。その時間を読書に費やしました。
読書で得た知識をもとに、講義では積極的に手を挙げました。「毎週ひとつの質問をする」というノルマを自分に課し、考えてきた質問を先生にぶつけるんです。質問を習慣化すると、講義が今まで以上に楽しくなりました。先生から自分の予想を裏切る答えが返ってくると、胸がわくわくしました。
大学2年次の冬、次の年から始まるゼミに向けて、卒業論文のテーマを提出することになりました。私は当時、福田美蘭さん、束芋さん、横尾忠則さんといった現代アーティストが好きで、彼らについて調べてみると3人とも銭湯をモチーフにした作品を制作していたんです。「もしかしたら、銭湯が卒論のテーマになるかも」と思って、銭湯に行ってみました。21歳にして、生まれて初めての銭湯体験です。
湯船に浸かると、自分が壁面に描かれた巨大なペンキ絵の一部になっているような気がしました。大きな湯船の中で、誰かが動くと自分も動かされたり、湯気がペンキ絵の雲に重なる感じだったり……。自分が絵とお風呂の境目にいるような感覚を覚え、一瞬にしてペンキ絵の魅力に引き込まれました。美術館などの高尚な施設ではない、身近な生活の場にこんな面白い美術があったのかと。卒論のテーマは、おのずと「銭湯」に決まりました。
卒論を書き始めた3年次には、銭湯ペンキ絵師・中島盛夫さんにお願いして、銭湯ペンキ絵の制作現場を見せてもらいました。ペンキ絵は銭湯の休業日に描くため、1日で仕上げなければなりません。男湯と女湯にまたがる壁に、ものすごいスピードで絵を描き、瞬く間に作品が完成していく。壁は、男女湯合わせると10mを超えることもあります。その様子に驚くとともに、ますますペンキ絵の魅力に引き込まれました。そして、在学中に中島盛夫さんに弟子入りし、作品の制作を手伝う“見習い”になりました。
最初は、雑用です。荷物や道具を運び、ペンキで汚れないように銭湯の床や浴槽にシートをかぶせていく作業をしていました。それから空の色塗りを手伝わせてもらえるようになります。弟子入りして最初の3年は、ひたすら空を塗っていましたね。それから徐々に木や岩肌をまかせてもらえるようになり、7年目にして初めてペンキ絵の半分、「男湯」を描きました。そして9年間修業を積んだ後、私は銭湯ペンキ絵師として独立することになりました。
銭湯ペンキ絵を描くときに、私は「自分の個性を出そう」ということは全く思っていません。個性というのは狙って出すものではなく、作品を描き続けていれば自然に出てくるものだと考えています。
制作中に強く意識しているのが、文化を継承していくということ。銭湯ペンキ絵には100年以上の長い歴史があります。その歴史の中で、「青い空、富士山、水辺の風景」という定番の“型”ができあがりました。私はその型を継承していきたい。銭湯ペンキ絵の歴史を次の世代につないでいきたいんです。
もうひとつ、私が強く意識しているのは、銭湯ペンキ絵はメディアであるということ。昭和の頃までは銭湯ペンキ絵の下にたくさんの広告が出されていました。銭湯は、人々と世の中をつなぐ情報発信の場だったんです。私は銭湯のメディアとしての役割も大事にしていきたい。その思いから、企業とのタイアップの仕事も大切にしています。これまで『シン・ゴジラ』や『アベンジャーズ』といった映画とコラボレーションしたペンキ絵を制作しました。銭湯に行ったことがない映画のファンがペンキ絵をきっかけに銭湯に足を運んでくれる、そんな流れが生まれるとうれしいですね。
タイアップのペンキ絵だけでなく、銭湯のご主人からリクエストされることもあります。「ペンキ絵の中にご当地キャラクターを入れてほしい」とか、「地元の名所を描いてほしい」とか。リクエストには喜んで応えています。
年々、銭湯の数は減少しています。ペンキ絵製作の仕事も昭和より減っているようですが、銭湯ペンキ絵の社会との関わり方を探りつつ、私は描き続けられたらと思っています。お客さまから「あなたの絵を見ていると、心が安らぐんだよ」と言われるとうれしいですから。
誰かのために働く。その大切さを教えてくれたのは明治学院大学です。明学の教育理念は“Do for Others”。他者へ貢献することの重要性と貢献するための知恵を授けられました。
私は幸運にも、在学中に銭湯ペンキ絵師という仕事に出合えました。でも、在学生の中には「将来進むべき道がなかなか見つからない」という人も多いでしょう。私からのアドバイスは、「ちょっと気になったものを、こっそりと始めてみる」です。学業以外のことで何か気になるものと出合ったら、旅行に出かけるような感覚でちょっと追いかけてみてください。実はそれが、本当に自分が好きなことかもしれないし、将来の仕事に結びつくことかもしれません。いつもと違う生活圏というのを大切にするといいと思います。
ちょっと気になるものを見つけるために、常にアンテナを張っておくことも必要。私は情報や知識を得るために、いろんな図書館に通いました。白金キャンパスの図書館は、お気に入りの場所。静かで心が落ち着くし、「あの教授が選んだ本なのでは」と想像して読んでいくのも面白かったです。学生の皆さん、将来のヒントを見つけるためにも、明治学院大学を舞台にこっそりと何かを始めてみてください。