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内なる声に従うこと。遠回りへの意味づけ。

2023.09.12

明治学院大学在学中にソ連映画との出会いをきっかけに映像の世界にのめり込み、現在は世界気象機関(World Meteorological Organization)で映像制作を中心に広報業務に携わる湯口晃生さん。「大学時代は挫折の連続だった」と語る湯口さんですが、先生やサークルの先輩から多くの刺激を受け、ロシアへの海外留学も経験します。大学時代にどのようなことを考えていたのか、当時の学びが今にどう生きているのか、語っていただきました。

湯口 晃生 2009年 文学部 英文学科卒 1985年生まれ。明治学院大学在学中から都内の映像制作会社に勤務し、ミュージックビデオやコマーシャルなどの制作に携わる。2010年の渡欧後、2015年、エストニアのタリン大学で映像人類学の修士号を取得。在学中に世界最古の映画大学である全ロシア映画大学の夏季制作授業に日本人監督として参加。2016年、リトアニアの日本大使館で杉原千畝氏関連の広報文化や政務の調査研究業務に従事。2022年から、JPO(Junior Professional Officer)派遣制度を通じ、世界気象機関(WMO)で勤務。

遠回りしてたどり着いた国際機関での仕事

各国政府の費用負担で国際機関が若手人材を受け入れる「JPO(Junior Professional Officer)派遣制度」の試験に合格し、2022年から、私個人としては欧州6カ国目の拠点となるスイスに移り、スイスのジュネーヴに本部がある世界気象機関(WMO)で働いています。WMOは、気象・水文(※)分野の観測・予測、データ交換等に関する国際協力の推進や科学技術活動の支援を行う国際機関です。WMO事務局は約300名の職員で構成され、WMO加盟国(187カ国6領域)が気象・水文に関するデータを滞りなく伝達・共有するための仕組みづくりの調整と促進を担っています。私が勤務する事務局長官房室戦略的コミュニケーションユニットでは、WMOの活動成果の対外発信、ブランド戦略、気象、気候、水文分野に関する国際社会での議論・理解促進を目標に活動しています。国連のコミュニケーション業務というと国連広報官のような話し言葉や書き言葉を使った発信業務を想像されるかもしれませんが、私の業務は映像言語やイメージの力で組織の活動や成果を可視化し発信すること、といえます。

※水文…地球上の水循環を主な対象とする地球科学の一分野

具体的には、内外の広報プロジェクトにおける映像コンテンツの企画・制作、幹部職員の顔写真および集合写真等の撮影から、戦略的コミュニケーションの策定まで幅広い業務を担当しています。また、本年、WMOは前身のIMO(International Meteorological Organization)時代から数えて150周年を迎えますが、近隣の博物館やジュネーヴ市の協力取り付け、150周年記念展の企画や映像、写真、ポスター等の制作も担っています。ちなみに、WMOは国連組織で2番目に古い歴史をもっています。

大学に入学した頃、アンドレイ・タルコフスキーというソ連時代の映画監督の作品を見て映像制作に関心を持ち、「将来は映画に携わりたい」という気持ちを持つようになりました。当時、日本のテレビコマーシャルやミュージックビデオの世界から映画の道に進まれた方々がいると知り、ユニークな映像制作と理論で有名な島田大介氏に弟子入りしました。この時期、一連の映像制作の工程に携わり、映像技術や思考方法に加え、映像の質感づくりについて学ぶ貴重な時間をいただきました。

一方で、ニッチなソ連映画に心を奪われた者として、業界が求める審美性や面白さから距離を置き、世界市民の一人として社会問題に相対し、映像を使った価値観の伝播に携わりたいと考えるようになりました。その後、ドキュメンタリー映像制作や外交分野で見聞を深める機会があり、最終的に国際機関の映像・広報業務にたどり着きました。

2010年の渡欧から数えて10年以上、自分が目指した方向に進めていないという感覚をずっと抱いてきましたが、こうした遠回りの経験があったからこそ、これまで得た知見や表現する手段を、現職に生かせているのかもしれないという感触があります。これまで、社会問題への関心から、個人レベルで日本の限界集落で地域に根ざしたプロジェクトを主催したり、苦手なソーシャルメディアと映像の関係性の理論化を試みたり、また国際映画祭での作品上映を地道に行ってきたりしましたが、これらは職業生活とは切り離されたものでした。しかし、今、職業人生と個人活動がゆるやかに連動し始めることで、ようやく自分が本当にやりたかったことの入り口に立った感覚があります。今後は、国連での業務と個人制作の両面において、価値観を伝える映像制作を行っていきたいと考えています。

また、先述のソーシャルメディアと映像の関係性の文脈から、長期的には若年層を対象とするメディアリテラシー教育にも携わっていきたいです。この思いから、2023年の春より、チューリッヒ芸術大学下にあるSchool of Commonsというアートコレクティブのフェローにもなりました。今はソーシャルメディアが当たり前のように使われていますが、それらはプラスに働くこともあれば、劇薬にもなり得るものです。写真や映像などの古典に照らして考えると、例えば、60秒の自作自演のソーシャルメディア映像は、19世紀末に発明された60秒のシネマトグラフの映像から振り返ることができる要素があるのではないでしょうか。シネマトグラフを発明したリュミエール兄弟が生誕したフランス・リヨンの生家を訪ねて、この思いがより一層強くなりました。

先生たちが「暗闇の時代」に寄り添ってくれた

静岡県の浜松市で生まれ育ちました。小・中学生時代は、特別勉強や運動が得意なわけではないものの、学級委員や生徒会長を務めていました。一転して、高校では自分の立ち位置や将来の希望を見いだすことができずにいました。そうした状況を変えるため、また、新しい何かを得たいと思い、高校2年生の夏、アルバイトをしてためたお金を使って1カ月間イギリス留学をしました。ロンドン郊外の街で、ほかの国や日本から来た同世代のセンスや知識の豊富な若者たちに出会い、大きな刺激を受けました。そのときは少しだけ心が解放されたような感覚がありました。

その後、一浪して明治学院大学の英文学科に入学しましたが、くすぶったような感覚は続きました。そんな私がたまたま受講した一般教養のキリスト教学の授業で、植木献先生(教養教育センター 准教授)に出会いました。荒ぶった心を持て余し大学を辞めようか悩んでいた私に対し、植木先生は「道が二つあったら厳しいほうを選ぶように」と、アジテート(扇動)してくださったんです。私の性格を見通した上での確信犯的な教唆だったのではないでしょうか。こうして、植木先生のお言葉と、ロシア語の指導教員だった芦原サチ子先生のご指導を受けて、ロシア語圏でのボランティア活動を探しました。前述のとおりのソ連映画好きでウクライナやジョージアに好きな監督がいたので、1年生の夏、ウクライナのペレヤスラウ=フメリニツキーという25の博物館から構成される通称「博物館の街」で、欧州から来た若者と地元のウクライナ人たちと一緒にボランティア活動に従事しました。

その後、3年生になって、明治学院大学の協定外の学校ではありましたが、ロシアのサンクトペテルブルクへ語学留学をしました。それまでは日本の不自由ない環境下で生きてきましたが、この留学時に初めて肌の色や生まれた国、言語能力等を理由に差別の対象となる経験をしました。当時は、有色人種は夜9時以降に外出しないことが推奨されていました。特に印象に残っているのは、ネフスキー通りという街の一番有名な通りで、アフリカ出身の学生がネオナチに集団暴行により殺害された事件です。事件に反対するロシア人がデモを行い、これに対するネオナチがデモ隊の眼前でカウンターデモを行い、一触即発の雰囲気になりました。当時、既に私は差別や社会問題に関心を持っていました。そして、映像で何かを表現したいと内心では思っていましたが、映像技術と方法論の不足に加え、自身の安全を優先した結果、デモに参加できませんでした。そのときの後悔の念と、日本を出て初めてマイノリティーになる経験をしたことが、今、国連のような海外の現場で映像制作を志す原動力になっています。

明学での授業と夜間学校、アルバイトに撮影――忙しくも充実した日々。

ロシア留学から戻り、白金キャンパスに移ってからは、大学の授業が楽しくなりました。日中は1限から7限まで授業、昼休みと移動時間にフィルムでの写真撮影、夜はダブルスクールを始めた早稲田大学芸術学校空間映像学科の写真・映像コースへ、空いた時間はタランティーノ監督もお忍びで訪れた恵比寿の隠れ家的レンタルビデオ屋で働いて、その他の時間はひたすら映画を見る毎日。水を得た魚のようにいきいきと大学内外の生活を送れるようになりました。大学の授業も幅広い教養科目から専門的な内容に変わって、よりのめり込むようになりました。山越邦夫先生のアメリカ詩の授業では詩の勉強に加え、詩を自作したり日本語に翻訳したりする課題がありました。私はA. R. Ammonsの『Reflective』という詩を日本語訳しその映像も制作しました。自分の関心とマッチするような授業が上級生になってから増えたように思います。

ゼミは岡本昌雄先生(現 名誉教授)のイギリス文学のゼミに入りましたが、当時は英語より映画に夢中でした(笑)。先生はそんな僕を尊重して、うまく泳がせてくれていたのだなと今では思います。まともな発表は1回しかしなかったのですが、放任の方針を決めてくださり、大学外での活動も含めてやりたいことを後押しして頂きました。

白金キャンパスの雰囲気も好きでした。特に昼休みのチャペルの時間が好きで、よく行っていました。パイプオルガンの音色に耳を傾けるのが好きで、パイプオルガン講習の受講を考えた時期もありました。

サークルはシネマ研究会(シネ研)に入りました。当時シネ研では真面目に自主映画を作っているメンバーもいましたが、たいていの人たちは映画を批評したり、飲み会でクダを巻いたりしているイメージが強かったです(笑)。私も例に漏れず幽霊部員でしたが、ロシア留学の前年、シネ研の先輩でリーダー格だった方と川崎でルームシェアをしました。フランス文学や映画、哲学、サブカルに精通した方で、本棚には面白そうな哲学書、漫画やCDが並んでいました。先輩の本棚に加え、その時期にまとまって世界文学の古典作品群を読みました。社会人になるとなかなか時間がとれなくなるので、大学時代に文学に触れ長編小説に取り組めたのは貴重な経験でした。当時読んだ本は、すぐに何かに生きるわけではないけれど、自分の中に蓄積され、滋養のように効いている気がしています。

当たり前を疑うことも大切

明学の教育理念“Do For Others”は、在学中からある程度は認識していました。5つの教育目標を今、改めて見て、明学で教えてもらったと思うのは「他者を理解する力」でしょうか。やはり植木先生やロシア語の芦原先生に出会ったことがきっかけで様々な経験をし、徐々に身につけた力だと思っています。お二方は過保護すぎず、ちょうどいい距離感で私を見守ってくれました。今振り返っても、とてもありがいことだったと感じています。

社会に出ると、5つの力は全部必要ですよね。ただ、無批判に「この5つの力は大事だから身に着けよう」とするのではなく、まずはこの5つの教育目標をつくった大学関係者やその意図も含め、ある種、批判的な視点を持って疑う姿勢も大事だと思います。世の中で当たり前だとされていることを疑い、異なる視点から考える癖づけできる時間の確保は、大学生の特権ではないでしょうか。世の中の美辞麗句や常識に疑いを持ち、時には背伸びをして自分を追い込む。大学とは、様々な経験を通し自身の批判的視点を養うために存在するもの、と個人的には思っています。

私が考える明学の良さは、学生の個性尊重の雰囲気を土台に、学生が大学に寄りかかることなく個を磨けること。だからこそ大学のブランドにプライドを持たず、社会に出ても自分の足で踏ん張ることができる。明学にはそうやって道を切り開いている卒業生が多いように感じます。

内なる声に従ってみよう

今は就職活動がスタートするタイミングも早くなっていて、学生たちは大変だろうなと思います。20代前半で自分がどう生きていきたいかなんて決められないですし、決め切らなくていいと思います。就職は面接官や企業という特定の関心を持った他者との関係性の中で決まっていくものなので、選ばれるかどうかは自身の実力というよりも、単にその他者の持つ関心に合わせ自身の鋳型をつくって演出できるか否かです。

二つの道があったら、内なる声に素直に寄り添ってみたらどうでしょうか。その道はもしかしたらより厳しい道であるかもしれません。しかし、一度、そちらの道を選んでしまえば、知らず知らずのうちにその道に沿った実力を養うことができるはずです。一見すると、その道は単なる回り道で、無駄な時間に思えるかもしれません。しかし、そんな無駄な周り道も、後々振り返ってみると、自身にとって何かしらの意味づけができる時間になるかもしれません。内なる声に従い、自身の目標から逆算したより厳しい道であれば、そんな遠回りの時間にも意味づけと、その意味づけを通した物語の編み込み作業ができるのではないでしょうか。

自分が歩いた道を後から振り返って物語として語ること、この語り口が真に迫ったものになるか否かの境目は、「内なる声に従ったか」にかかっているような気がします。世間でいわれる「キャリア構築」なんて言葉、まやかしと割り切って難しく考えなくていいのではないでしょうか。一度内なる声に従って振り切ってしまえば、その後の尻拭いは自分自身でできます。歩んだ道のりを振り返り、分析し、再構築する過程で、粘土細工を作り直すように、改めてこねくり回せばいいのですから。初めは不細工に見えるかもしれませんが、時間が経って何度も作り直している間にそれなりに良く見えてくるはずです。

やりたいことが見つからない場合は、自分が好きかもしれないことに一定期間打ち込んでみるといいと思います。例えば、私は全くの未経験で、禅寺の接心に参加し、以来、細々と続けています。このように大学時代は無駄や回り道が許されています。だから、少しでも関心があるものがあれば、ちょっと背伸びをして自分を押し込んでみたらどうでしょうか。

私はロシア留学中に経験した人種差別をきっかけに人権や社会問題に興味を持ち、その後、東日本大震災をきっかけに、自然災害や原子力発電、日本の無常観へと関心、及びその強度が変動してきました。その長い期間の移ろいが、現在の世界気象機関での勤務につながっています。内なる声に従い、その時々の関心に従えば、おのずと、もしかしたら自身が気づかぬ間に、道は開けていくものなのかもしれません。今、その入り口に立ったばかりの私は、そんな風に感じています。

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