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本格的な西洋館インブリー館

東京大学大学院工学系研究科教授 鈴木博之

明治学院大学白金キャンパス内に建つ宣教師館 (インブリー館) が、この度修理工事を終えて、新しくよみがえった。

この建物はいつ建てられたのだろうか。そのためには明治学院の歴史を簡単に振り返らなければならない。明治学院は明治19年 (1886) にそれまでの東京一致神学校、東京一致英和学校等が合併して明治学院の名称を決定し、同時に白金に土地を購入して以来、一貫してこの土地をキャンパスの中心として、教育・研究活動を行なってきた。その3年後にはこの土地に宣教師であったバラとランディスが住んでいたことが知られる。そしてそのまた翌年には同じくマコーレイとマクネアが住みはじめていた。つまり1890年 (明治23) には四棟の宣教師館が建ち、4人の宣教師が住んでいたのである。このうち、マコーレイが住んだ建物には、後に宣教師インブリーが長らく住むことになる。したがってその建物がインブリー館と呼ばれるようになるのである。インブリーは1897年 (明治30) に再来日したときからこの建物に住みはじめ、それは彼が1922年 (大正11) に日本を離れるまでつづいたのであった。
以上をまとめてみると、インブリー館は1889年 (明治22) かその翌年に建てられたことになる。現存する都内でもっとも古い宣教師館である。日本全体で考えても、2番目に古い。だが誰がこの建物を設計したのかは、はっきりしない。ランディスあるいはガーディナーといった名前が上がるが、決め手はない。しかし本格的な西洋風の住宅であり、外国人宣教師のために建てられた建物であるから、設計には外国人が関与していたことと思われる。

宣教師館としての特徴

外国人宣教師館に共通して見いだされる特徴は、それが外国人住宅であることから、和洋折衷あるいは和洋混在の形式が少なく、純粋な洋風住宅に極めてちかいものが多いということである。そのなかでも、このインブリー館は外国人住宅としての性格が純粋に現われているもののひとつである。たたみ敷の和室を一切もたないこと、建物の内部にも外部にもどこにも日本風の意匠がみられないこと、間取りをみると廊下をもたず、ホールを中心に各室が連絡されていることなどが、その理由である。インブリー館において日本的と考えられる要素は、室内の格子の極く一部に竹を使っていることぐらいで、これも日本的な意匠を持ち込むためというより、安い材料を使ってインテリアの一部を構成した結果ではないかと考えられるほどである。
また、インブリー館は下見板張りと呼ばれる板張りの外壁仕上げになっていて、これは他の外国人宣教師館とも共通する仕上げである。けれどもインブリー館の板張りは、軒に近いあたりで手の込んだ板の張り方になっている。これはシングル・スタイルと言われる同時代のアメリカ木造住宅にちかいデザインを持ち込もうとしたためではないかと思われる。また、今回の修理で、失われていたバルコニーが復活した。同じように暖炉の煙突も、今回の修理によって屋根の上にその姿を出すことになった。ただし、実際には暖炉に火を燃やすことは出来ない。こうしてよみがえったバルコニーや煙突は、他の外国人宣教師館と共通する特徴である。

住宅建築としてのインブリー館

その一方でインブリー館は張り出し窓を持たず、その点ではいわゆる洋風住宅の華やかさは示していない。全体として、華やかさを感じさせる意匠は、他の外国人宣教師館に比較したときに、それほど見いだされず、意匠上の創意は下見板の変化にほとんど集中している感がある。その点からも、インブリー館は外見上の効果を重視して設計された住宅というより、実質的な生活を重視して設計された住宅ではなかったかと思われるのである。
インブリー館には、かなり後まで、もともと日本人の使用人が居住した付属屋が設けられていた。日本人使用人のための付属屋を備えることは明治学院の宣教師館全体に共通する構成であり、そのことが本屋の構成を西欧的に正統なものとするのに役だっているのである。また、そうした使用人の存在を前提とするため、外国人宣教師館の平面構成には、階段が2つ設けられるのが大半である。いうまでもなくひとつは主人 (宣教師) の家族および来客の使用に供するものであり、いわば表階段である。他は使用人あるいは家族がサービスのために用いるものであり、これは補助階段あるいは裏階段である。
インブリー館にはこうした表階段と裏階段の二種は設けらていないが、付属屋には別個に階段が設けられていたと考えられるので、それがサービス階段の役を果たしていたと思われる。ここでもインブリー館が質実な構成な洋風住宅であることが感じられ、意匠・構成の両面において統一した方針の建築であることが知られるのである。修復後の室内構成や間取りを見て、是非ともニューイングランドの住宅の伝統を味わっていただきたいものである。

インブリー館の価値

インブリー館は、都内においては現存する最古の宣教師館であり、明治維新以後の東京で、最初にキリスト教聖職者たちが多く居住した築地の居留地に建っていた建築がすべて失われている現在、きわめて貴重な建物となっている。洋風住宅のなかで西欧的な特質をもっともよく示す宣教師館は、わが国における洋風住宅の導入過程、洋風住宅の変化の過程を知るうえで、またとない指標となる存在であり、全国的に見ても建築史的価値の高いものである。すなわちそこには、日本人による折衷的な試みをほとんどもたない西欧風の住宅建築が見いだされるからであり、わが国の洋風住宅の変遷過程を知るうえでの基準作というべき位置を占めているからである。
インブリー館は、東京オリンピック開催に関連した1964年 (昭和39) の国道拡張のときに、もとの場所から曵き屋されていまの位置に移った。そして大学の建物の一部として使われてきたのである。けれども建物の傷みも大きくなってきたため、1995年 (平成7) 8月1日から修復工事がはじめられ、二年余の期間をかけて修理された。板張りのペンキの色もあたらしく、すっかり見違えるようになったけれど、できる限りもとの材料を活かし、むかしの姿に復元したのである。ただし建物全体を僅かに高く持ち上げて今後の保存状態がよくなるようにした。また、最初に建てられた時は、インブリー館の屋根には日本瓦が葺かれていたのだが、屋根が重いと耐久性と安全性のうえから望ましくないのと、すでに長く親しまれてきたことから、銅板葺きの屋根のままに修復された。こうした細かい復原や変更は、ひとつひとつ慎重に議論を重ねて決定されていった。できあがったインブリー館を眺めて、以前の姿と比べてどこが変わったか、探し出して見るのも面白いかもしれない。
修復工事の途中で、建設にあたっていた当時の大工さんたちが描いたと思われる墨の絵が壁の中から見つかった。そこには建物を作るための部分図や、外国人に説明するために描いたのではないかと思われる道具箱の絵など、興味深いものが含まれていた。これらはすでに、建物同様、港区の文化財に指定されている。

明治学院とその都市景観

インブリー館の周囲には、チャペル、記念館というそれぞれに優れたデザインをもつ歴史的な建築が建っている。これらは明治学院が百年以上の歴史をここの土地のうえに刻みつづけた結果として形成されたものであり、こうした長期間にわたる歴史を経て作り出された風景は、現在の都心にあってはとても貴重なものである。さいわいインブリー館はふたたび明治学院の建物として使われつづける。建物は使われていないと寿命が急速に縮んでしまう。使われつづけることが、建物を長生きさせる。よみがえったインブリー館が、これからもキャンパスの歴史の証人として、親しまれつづけ、受け継がれてゆくことを期待したい。

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