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修復家の目とインブリー館「文化財の修復とは何か」

文化財建造物保存技術協会 高村功一さん

修復は調査から入るのですね。

歴史的調査は東大の鈴木先生の方の仕事ですが、私たちは建物の仕様の調査と使い勝手や間取りの変遷から入ります。

インブリー館とはどんな建物なのでしょうか。

まず、典型的な住宅であること、そして、日本の洋風建築の中でも明治20年代と初期に属することです。扉の握り玉など、建築金物の中には輸入品が多くありましたが、基本的に国産の材料を使い、洋風建築の技法を取り入れたということです。もちろん、日本人の大工の仕事です。在来の日本の工法を洋風建築にうまく融合させています。

それはどんなところですか。

建物内外装の化粧材の大部分は洋風の工法で、外壁の板張り、窓、ドアなどの建具、床の寄せ木張り、階段、ペンキやワニスの塗装仕上げなどは、日本にはなかった方式です。
壁の仕上げは、洋風建築であれば壁紙を貼るのでしょうが、インブリー館は漆喰塗りで白・灰・黄と3色に分けて塗って仕上げていますし、見えない屋根の小屋裏の架構なども日本式です。
日本の大工は苦しんではいますが、初めての仕事ではありませんね、もしくはしっかりとした設計士がついていたのかどちらかでしょう。

どうしてそのようなことがわかるのですか。

見よう見まねの仕事の場合は、目で見えるところしか作れず、目に見えないところは今までのやり方になります。解体して表から見えないところまで見て見ますと、インブリー館は本格的な仕事であることがわかりました。
建築プランは一度作った人がいれば作れますが、見よう見まねでは、見ているだけなので、あり合わせ的でデザインも自分の経験から目に入ったままに使ってしまいます。つまり、日本にない西洋風の文様と見ると、西洋風というだけで使ってしまったりして、結果として作った人の経験したものがすべて出てきます。本人の主観が反映されてしまうのです。
そのような仕事としては、松本の開智小学校や佐久の中込小学校などがあります。インブリー館はすべての部分ですっきり納まっています。

見えないところまで、西洋風なのですね。

柱を考えてみると、日本ではまず建物の隅に立てて、あとは半間間隔で立てていきます。インブリー館はすべての柱が表から見えないことを前提に、大壁構造となり、柱は必要に応じて間柱的に入っています。日本の柱は横材の「貫き」が入り、四角を組み合わせた形になりますが、インブリー館は現代建築のように「筋交い (ブレース) 」が入り、三角を組み合わせたように構成されています。ただ筋交いには西洋建築を100%作り込んでいる大工とは違う点が見られます。明治20年代になると西洋建築の架構は、日本に浸透してきています。

修復にあたり注意したことはなんでしょう。

まず、古材を残すことです。インブリー館では新材の使用は、腐りやすい足元まわりや、屋根の小屋裏の火災による焼損のはなはだしい部分を中心に一割程度です。これはさほど多くなくむしろ少ないほうといえます。木材は同じような材種を使い、節目などもそろえ、取り替え材は「1997年修補」という焼き印を裏に押しています。
二つめはその建物の来歴の調査を、資料と部材の2つから行うことです。これで使い方の変遷がわかります。そしていつの時代に設定して修理・復元するかを考えます。現状修理というのは現状のまま修理することで、復元修理は建築当初に復元する場合と文化財的に一番価値のある時に復元する場合とがあります。インブリー館の場合は、生きて使われている建物ですから、明治学院のインブリー館の使い方に合わせて一部整備しながら、当初に近い形に復元していくという方向をとりました。
三番目はできるだけ昔の工法通りに作業することです。漆喰壁も材料だけでなく、コテなどの道具も昔に近いものを使います。そして職人はできるかぎり地元の職人を使います。後々の保存のためにも地元の職人が望ましいのです。完全になくなってしまった技法ではないので、職人に説明すればできます。一方、ドアノブの握り玉は昔のものを見て、有田焼で特注で復元したりもしています。

復元といいつつもやはり、創造的な仕事ですね。

確かに復元の仕方に個性は出て、仲間で見れば誰の仕事とわかりますが、極力個性が出ないようにしているのが私たちの仕事です。復元された後のインブリー館の使われ方も、いつまでも同じとはいえません。ですから、建物の使い方が変わっても本体をいじらず、対応できるように設備類を露出にして取り付けるなどの工夫をしてあります。

当初と一番変わってしまったのはどこでしょうか。

夜の雰囲気だと思います。最初はランプ、次にガス灯、そして電灯へと移り変わり、その光と影が醸し出す空間でしょう。

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