「求めなさい。そうすれば,与えられる。探しなさい。そうすれば,見つかる。門をたたきなさい。そうすれば,開かれる。だれでも,求める者は受け,探す者は見つけ,門をたたくものは開かれる。」 マタイによる福音書 7:7−8
Knock the Door, Hug each Other 「扉をたたきなさい,そして互いに抱き合いなさい」。これは,2002年9月10日から20日まで,フィリピンのボホール島で家の建設をしたワークキャンプ中ずっと,建設現場の休憩所に掲げていた横断幕のメッセージです。キャンプ期間中,何回となく着ていたオリジナルTシャツのメッセージ「May God bless U and 愛」(明治学院大学の英語の頭文字MGUと重ね,英語の「I」私と「愛」を掛けている。訳としては「あなたと私に神様からの祝福と愛がありますように」)と並んで,私たちのモットーとなっていたものです。
詳細は,続くページに記されている参加者の報告を読んでいただけばおわかりになると思いますが,フィリピンでのワークキャンプでは,参加者たち一人一人は,いくつかの点でこれまでにない経験をしたはずです。
日頃,大学で「学ぶ」際には,学生は椅子に座って,教壇に立つ教師の提供する知識を受け止めています。いわば,消極的な形で,受け身の姿勢で思想,知識,方法等の「教育」を受けとっています。授業料を払った当然の対価として,サービスを受けているのです。しかしながら,ワークキャンプでは,参加者たちは,参加費を払って,建築資材や大工を雇うための献金を1人3万円近くもしながら,さらに無償の労働を提供しに行ったのです。それもその労働環境は,必ずしも素晴らしいわけではないのです。下手をすると,「鴨がネギをしょって,フィリピンくんだりまで出かけて行った」ということになります。
しかしながら,参加者たちは,日常とは違った価値観をもって行ったのです。日頃,サービスの受け手でしかなかった,あるいはアルバイトなどでサービスの提供者になっていたとしても,それをひとえに「お金」のためでしかなかったものが,無償の,いやいや対価を支払った上でのサービスの提供者,プロバイダーとして現地に赴いたのです。それぞれが,現地の「人」の役に立つために,コミュニティの必要に寄与するために,家がない人を具体的に助けるために,出かけて行ったのです。目的をもって,そして能動的に学びに行ったのです。サービスのレシーバーからサービスのプロバイダーへと,「学ぶこと」「考えること」がコペルニクス的な転換に立たされ,ものごとの理解には,社会の捉え方は,大きな変化がもたらされたはずです。きっと,いままで目にしていたにもかかわらず,見ていなかったもの,感じ取っていなかったものが,うっすらでも見えてきたに違いありません。いや,見ようとする意思が働くようになったに違いなのです。これが,第1に特筆すべき経験でしょう。
第2に,「身体で考える」ことを,久しぶりに実感したに違いありません。コンクリートを作るために,セメントと砂利と土を混ぜるわけですが,僅かな量の砂利でも重くて,腰や背中はギシギシいうし,まぜるためにスコップで前かがみになれば,日ごろ使っていない筋肉が悲鳴をあげます。何かを運んだり,持ち上げたりすれば,体中が泥だらけになるし,顔も埃にまみれます。目はしょぼくれるし,喉は荒れて咳がでます。それでも,参加者一人一人のほんの少しずつの力が合わさると,一面にコンクリートの床は,瞬く間に敷かれるし,ブロックは見る間に高く積まれ,壁として出来上がるのです。
身体で味わったチョットずつの貢献は,目に見えるように「かたち」になっていきます。できあがっていくのです。何かに自分が役立っていることが,常に意識できるのですし,人に役立つものとなるのが実感できるのです。完成した家には,そもそも自分たちに達成感はあるのですが,コミュニティの人々の笑顔からも嬉しさが伝わります。なにより,完成した日の夜には実際に人が住み始め,翌朝には朝餉の香りが漂う家庭になっているのです。私たちのグループは,最大限の歓迎を受け,心のこもった盛大な送別も受けました。私たちは,肌で感謝の意を感じ取りましたし,貢献することの意味を心で痛いぐらい知ったのです。
いわば当たり前だけれど,その経験からは実は遠ざかっている私たちに,「身体で覚えること」の辛さと心地よさとを,改めて教えてくれたのであります。幼き頃の私たちは,拙い指先や全身で覚えたさまざまなことの集積を,知識として脳に記憶させてきています。考えてみれば,私たちの共有する知識とは,実は具体的な経験の集大成なのであり,あるいはその発展型にほかなりません。日常生活では,そして大学での学習生活では,既にある知識をもとに,追体験をし,疑似体験をすることが多いのですが,ワークキャンプにおいては,学習の本来の順序で,かつ原始的なあり方で,体験に意味が与えられ,経験へと成長する機会を得るのです。そこで,私たちのような教師は,教師とは,知識を与える担い手なのではなく,経験を獲得するための道先案内人なのであることを,再確認させることにもなるのです。
第3に,自分を知る,見つめる良い機会になったはずです。外国に行き,私たちから見れば外国人と日常的に接し,異国の文化や宗教に触れ,異なった習慣や食事と向き合うことは,自分とは異なった文化を知ることになると言われていますし,実際,そうした面も当然あります。今回のワークキャンプでも,学科の異なる学生が,ワークキャンプの準備のために集まって,討議をし,研修をいたします。キャンプが始まる以前にも,こうした出会いがあり,交流があるのですが,しかしながら,明治学院大学のグループは,いわば同質的な集団であります。少なくとも,皆それほど価値観に違いはないと信じている一方,キャンプ中の作業で共にする人々,現地の人々は,そもそも文化的な背景の異なる人々であるわけで,簡単には理解できない人々であったりします。そうした人々は,明治学院大学の学生からみればかなり異質に映っているはずです。私たちは,普段,同じような社会層の同じような価値観をもった仲間と,同じような「専門」や「趣味」を共有し合いながら,同じような生活を送っているのです。実はこの地球上には,同じ年代でも,全く異なった価値観をもった「仲間」が生活しているのだ,ということを,ワークキャンプ中の「交流」で知り得ることは,大きな収穫であります。
しかしながら実のところ,短期間で一面的な異文化への接触は,えてして誤解を生んだり,増長させたりしているに過ぎない場合だって多いのです。参加者だって,たかだか11日間のフィリピン旅行で,「フィリピンとは云々」と,知ったかぶりをしかねないわけです。異文化接触の最大の効果は,外から自分を眺めることです。外から社会を捉えることができることです。外から日本を理解する良い機会なのです。フィリピンで働いて,むしろ自分自身を見つめなおし,良く考える機会を得たのではないでしょうか?現在のこと,将来のことについて,働きながらゆっくりと考えたに違いありません。自分自身のオリエンテーションを得るものになったはずです。参加者の報告のなかで,各自の自己発見を読み取ってください。
ワークキャンプでの経験は,実は,その場での貢献と同時に,「その後」に役立てられて,意義を深めるものであるのかもしれません。そもそも大学での教育は,学生が日々受けている教育は,社会に良き貢献をする市民を育成することにあったのではないでしょうか。ボランティアの経験を,「私は,ボランティアを5回しました」というような,回数でかぞえられるものにしないためにも,大学が社会の今と接点を保っていくためにも,この意義は強調されなければならないはずです。
冒頭の聖書の箇所「求めなさい。そうすれば,与えられる。探しなさい。そうすれば,見つかる。門をたたきなさい。そうすれば,開かれる」のどこか一部分でも,皆さんは聞いたことのあるフレーズがあったと思います。聖書が原典であることを,初めて,知った人もあるでしょう。求めれば,与えられる。探せば,見つかる。門をたたけば,開かれる。この先,展開される可能性を表現した聖句であると捉えられますが,逆にみると,与えられるためには,求めなければならないのですし,見つけるためには,探さなければなりません。そして,扉が開かれるためには,門をたたく必要があることも,語っています。機会をただ待っているだけでは,何も起きえないことも同時に示唆しています。
初めに紹介いたしましたように,フィリピン・ワークキャンプでは,ワークしている間,私たちの活動基地に常に掲げておいた私たちが作った横断幕があります。日本とフィリピンを中心に描いた地球を参加者の手で支えているものと,私たちのモットーを記したものです。 Knock the Door, Hug each Other「扉をたたきなさい,そして家に入っていって,互いに肩を抱き合いなさい」というメッセージです。私たちが,苦労をして建てた家には,もちろんドア,扉があります。それをノックすると,そこには私たちからすれば異文化の住人がいます。その住人と肩を抱き合い。意思を通じ合うために,私たちは行きました。扉の向こうには,まだまだ多くのこと,多くの人々がいます。まだまだ,私たらは肩を抱き合いつづける必要があるでしょう。そして,扉をたたきつづける必要もあるに違いありません。
鍛冶 智也 宗教部長
大学宗教部が海外でワークキャンプを行う計画は,2000年春に方針を立て,その年の10月の宗教委員会で了承され,2001年度に実施されることになっていた。当初は,準備の関係で,2001年度とは言っても,2002年3月に実施する予定であった。2002年3月に実施するためには,前年の秋学期の開始と共に参加者募集をし,3月までに参加のための研修をする予定であった。しかしながら,9月11日のアメリカでのテロ事件があり,その後にもフィリピン・サンボアンガのテロなど,世界の情勢が不安定になったため,学長や学院長と相談の上,大学における他の海外引率行事と同様に,年度内の実施を見合わせることにした。
一方,明治学院大学としてどのように海外でのワークキャンプを実施するかが,当時の宗教部長であったマーク・マリンズ教授と副部長であった私を中心に宗教部内で検討された。タイ・チェンマイにあるキリスト教主義の大学パイヤップ大学に明治学院大学の卒業生が働いていると聞き,その方の協力のもとでパイヤップ大学と協力して進めることなども一時検討されたが,ワークキャンプの立ち上げを独自にすることは,過大な人的かつ財政的な資源が必要であると考えられ,ワークキャンプの実施に実績のある外部団体との提携をする方向で詳細を練ることになった。
いくつもの情報源から,家の建設で優れた実績のあるキリスト教主義の国際非営利民間団体(NGO)であるハビタット・フォー・ヒューマニティ・インターナショナル(以下,ハビタット)が推薦され,具体的な検討に入った。2001年5月にハビタットの東・東南アジア地域の代表が来日されている機会を通じて,詳しい活動内容を知る機会を得,その後,6月下旬に大阪でワークキャンプのリーダー研修会が開催されるという情報を得た。ハビタットのワークキャンプにおいては,ワークキャンプのチームをとりまとめ,現地のスタッフと交渉し,プログラムを作成し,安全にプログラムを実施するための責任者であるチーム・リーダーが必要であり,そのためにはリーダー研修会を受けておいた方がよいということであった。2001年度の段階では,宗教部とボランティアセンターが引率の責任を負うということであったので,ボランティアセンターのコーディネーターの谷津倉さんと私が,6月30日から7月1日に掛けて開催された研修会に参加し,チーム・リーダーの資格を得た。この段階で,ハビタットの活動の詳細が分かり,マリンズ部長とも相談して,少なくとも当面はハビタットと提携して,ワークキャンプを行うこととした。
ハビタットは,1976年にアメリカで設立され,これまでに世界76カ国約1,900箇所に現地オフィスがつくられ,世界各地に100万軒以上の住宅を提供してきているキリスト教の理念に基づいて活動するNGOである。キリスト教でも,特定の宗派・教派によらず,またパートナーシップを結ぶ提携先は,信仰,人種,経済状態を問わないエキュメニカルな活動であるため,明治学院大学の提携先として,最も相応しいと判断した。また,アメリカにおいては,赤十字に次いで,認知度の高いNGOであるが,日本においてはまだ充分知られておらず,明治学院大学も今後の日本におけるハビタットの発展に寄与できると考えた。
さて,2001年度の中止を決定したが,翌年度実施するための準備を開始することとした。海外のワークキャンプを実施する場合,参加者に対して,安全面や異文化接触などについて事前に研修をする必要性があったし,なにより現地に行く前に,「一つのチーム」としてグループ化する必要があった。それには参加学生側のリーダーの養成も重要であると考えて,2002年3月12日 - 14日にかけて,伊豆高原のセベレンス館でリーダーシップ研修会を開催した。そこには,ハビタットの日本オフィスのスタッフを講師として,海外ワークキャンプにリーダーとして参加した経験のある関西学院大学の学生2名もリソースパーソンとしてお招きして,参加した明治学院大学の学生とともに,研修会を行った。
2002年度になって,9月中旬に10日間程度の期間,ハビタットと提携してフィリピンに20名程度の規模で,ワークキャンプを実施したい旨の手紙を,学院長と学長宛に4月4日付でだした。その返信として,安全面の危機管理を行ってほしい旨の連絡を受け,実施を承認していただいた。フィリピンをワークキャンプ先として選んだのは,英語が通じること,日本に比較的近いこと,そしてフィリピン南部は治安がよいことが,主な理由である。
先のリーダーシップ研修会に参加した学生のなかで,佐原弥寿子さん(社会学科2年生)を学生側のリーダーとしてお願いすることを決め,彼女と協力して,5月の連休明けに両キャンパスで4回にわたって,ワークキャンプの説明会を行った。参加希望者は登録をしてもらい,登録者に対して,さらなる説明会や研修会の通知をすることとした。参加希望の登録者は,43名となった。その後,登録者を対象に,フィリピンのごみ捨て場に住む人々のドキュメンタリー映画である「忘れられた子供たち−スカベンジャー」の上映を,両キャンパスで計4回行った。その際,各自に鑑賞後にレポートを書いてもらい,またワークキャンプへの参加の意思を確認した。登録者が参加するメイリングリストも立ち上げ,そこでワークキャンプの準備について協議した。その過程で18名が2002年度に参加する学生として残ることとなった。
その後,6月から9月にかけて,佐原さんを中心に計10回の半日研修会をキャンパスなどで行い,8月に2泊3日の合宿,9月に1泊2日の合宿を戸塚の黎明館で行った。その過程で,学生の参加者全員がいくつかの役割を分担し,ワークキャンプの準備を進めていくこととなった。それぞれの役割は,事前にフィリピンの文化,言語,歴史などを学ぶ準備をする「勉強会」担当,現地で日本文化などを伝えるいくつかの催し物準備のリーダーとなる「文化交流」担当,現地に行く前に作る「参加のしおり」と帰国後作成する報告書に責任を負う「しおり・報告書」担当,準備の段階から現地での活動を記録する「記録」担当,現地での健康管理を行う「保健」担当である。「しおり・報告」担当には,実際にはワークキャンプに参加できなかったが,準備の段階には精力的に参加してきた増子和子さん(政治学科4年生)も加わっている。
実施にあたって,ハビタットのフィリピンオフィスは,安全性の高いことが確認された地域を選定し,初参加である明治学院大学チームには,経験の豊富なボホール島のタグビラランの現地オフィスが担当することになった。実施前の1ヶ月は,明治学院大学のチーム・リーダーである私鍛冶とハビタット日本オフィス,ハビタット・フィリピンオフィス,タグビラランの現地オフィスの間で,頻繁にコミュニケーションをとっている。安全管理や責任の所在を明確化するために,ハビタットの書式に,参加者およびその保証人,そして現地でのチームの責任者(鍛冶)がさまざまな項目を記入し,誓約を行った。この時点で,ハビタット,参加者,大学宗教部間で,一種の契約が取り交わされることになった。また,ハビタットが提携している保険会社の保険にも,参加者全員が加入した。
現地の活動内容については,この報告書の他のページを参照していただくことにするが,学生の報告のなかで,GVと記されているのは,グローバル・ビレッジの略で,ハビタットではワークキャンプという用語は用いずに,各国から集まったボランティアが現地の人々と一緒に,住宅の建設を行うために,グローバル・ビレッジという用語を使っているためである。また,ハビタット村というのは,ハビタットが購入した,あるいはハビタットが国や自治体などから借り受けた土地に,何十戸もの住宅を建設していく過程で,コミュニティが形成されていくが,それを称してハビタット村と呼んでいる。そのコミュニティには,自治会も結成されている。
1.Habitatとは
Habitat for Humanity International(以下、Habitat)は、キリスト教の理念に基づき活動する非営利団体組織(NGO)で1976年にミラード・フラーとその妻リンダによって設立されました。HFHIは整備の整った住まいを持つことの重要性を訴え、世界中に存在する劣悪な住居事情やホームレスなどの社会問題解消に向けて活動しています。
Habitatは信仰、人種、職業を問わず、住居問題に関心を持つ様々な人々をパートナーシップを結び、住まいを必要としている家族と共に家を建て続けており、これまでに、10万件の家を提供しています。直接参加型の草の根の活動を続けるHabitatが建築する家には、特別な意味が含まれています。なぜなら、Habitatの家は、家を必要としているパートナー、多くのボランティア、労力、寄付金によって建てられているからです。
Habitat のホームパートナー(家に住む人)となる家族は、自分の家と近隣の住居建築を行うと共に、定期的な家代のローン返済を行うことにより、更なる住居建築に協力しているのです。Habitatは住まいを必要としている家族への”Hand-out” (無料奉仕)ではなく“Hand-up”(自立支援)をモットーとし、多くの人々に“熱意”と“誠意”を行動に移す機会を作り出し、貧困の悪循環を断ち切ることを目標としています。
2.Global Village Program(GV)とは
Global VillageとはHabitatが提供する短期海外建築ボランティアプログラムです。約10日間から2週間の期間、住居を必要としている人々と共に家を建てながら、貧困が家族や地域に与えている影響について学び、また文化の交流をはかります。
―GVではどんなことが起きる―
「家を必要としている人の生活レベルや人生に積極的な変化を与える」「新しい友情を築く」「異文化について学ぶ」「様々な定見を通し、生涯の学びへとつなげる」
―あなたにもとめられていることは―
「世界中の人たちとともに協力して家を建てる」「異文化に対して学ぶ姿勢と敬意を表する」「Habitatの目的とビジョンを理解する」「住居建築プログラムのために資金を集める」
3.Campus Chapters and Youth Programs(CCYP)とは
キャンパスチャプターは学生によって運営される学生主体の公式なHabitat組織です。
キャンパスチャプターの3つの主な役割は:
Habitatのアフィリエートと呼ばれる支部と、ホームオーナー(Habitatの家の持ち主)
に協力し、家の建築、修復作業に従事すること。
学校や地元のコミュニティーにおいて、貧困住居問題や、Habitatの活動に関する啓
蒙活動をおこなうこと。
Habitatの活動を支えるための資金集めに務めること。
学籍番号 | 氏名 | 学年 | 学科 | 係 | ニックネーム | birthday |
---|---|---|---|---|---|---|
02LE1145 | 鈴木まりえ | 1年 | 英文 | しおり・報告書 | まりりん | 11月17日 |
02SW3048 | 矢澤朋徳 | 1年 | 福祉 | 記録・報告書 | とものり | 3月22日 |
01SG1136 | 佐原弥寿子 | 2年 | 社会 | 学生リーダー | やっち | 11月9日 |
01SW1168 | 塚本知沙 | 2年 | 福祉 | 交流会 | ちさ | 1月27日 |
01JP1090 | 滝川祐 | 2年 | 政治 | 勉強会・合宿 | タッキー | 10月21日 |
01KS1217 | 塚本友紀 | 2年 | 国際 | 勉強会・合宿 | つかちゃん | 1月12日 |
01KS1249 | 西脇裕美 | 2年 | 国際 | 勉強会・合宿 | みっくす | 8月21日 |
01KS1343 | 山崎早智子 | 2年 | 国際 | 勉強会・合宿 | さっちん | 6月5日 |
00EE1197 | 高橋由布子 | 3年 | 経済 | 勉強会・合宿 | ゆうちゃん | 1月26日 |
00EB1096 | 春日知幸 | 3年 | 経営 | 文化交流 | リッキー | 2月25日 |
00EB1329 | 山浦史士 | 3年 | 経営 | 文化交流 | のりお | 5月20日 |
00SW1081 | 楠千代子 | 3年 | 福祉 | 保健 | ちよ | 1月15日 |
00SW1260 | 湯泉志緒 | 3年 | 福祉 | 保健 | しお | 8月25日 |
00JU1168 | 齋藤美佳 | 3年 | 法律 | 記録 | みか | 10月5日 |
99E-358 | 得田英里斗 | 4年 | 経済 | しおり・報告書 | えりと | 3月21日 |
99S-055 | 小野真理子 | 4年 | 社会 | しおり・報告書 | まりちゃん | 6月14日 |
99W-185 | 韮澤修一郎 | 4年 | 福祉 | 文化交流 | にらっち | 10月5日 |
98NS-036 | 菊地透 | 4年 | 社会 | 記録 | とぅーる | 7月30日 |
宗教部長 | 鍛冶智也 | チームリーダー | トム | 8月19日 | ||
学院牧師 | 金井創 | かなかな | 9月4日 | |||
スタッフ | ||||||
宗教部事務室 | 森千草 | ちぐさん | 5月29日 | |||
99PO-116 | 増子和子 | 4年 | 政治 | しおり・報告書 | かずちゃん | 3月26日 |
保健:予防接種、応急処置の情報を提供する 救急箱の管理 ワークキャンプ中にメンバーの健康状態を把握し、サポートする
記録:ミーティングや合宿の活動報告 ワークキャンプ中に写真、ビデオ撮影を行ない活動を記録する
しおり・報告書:しおり、報告書の作成
勉強会・合宿:勉強会の資料作成、合宿のプログラム作り、進行役
文化交流:フェアウェルパーティの出し物の決定・準備、練習の進行役
訪問地
フィリピン共和国 ボホール島 タグビララン市
期間
2002年9月10日(火) - 9月20日(金)の11日間
9月10日 | 14:55 成田空港発(PR433) 18:55 セブ島着 セブ・ビーチクラブ泊 |
---|---|
9月11日 | タグビララン(tagbilaran)へ |
9月12日 | 終日 建築現場で作業 |
9月13日 | 終日 建築現場で作業 |
9月14日 | 午前中 建設現場で作業 午後はビーチ |
9月15日 | 休日 島内観光 |
9月16日 | 終日 建築現場で作業 |
9月17日 | 終日 建築現場で作業 |
9月18日 | ハウスデディケーション(House Dedication) お別れ会(Farewell Party) ホームステイ |
9月19日 | セブ・ビーチクラブ泊 |
9月20日 | 7:50 セブ島発(PR434) 13:25 成田空港着 解散 |
治学院大学学生18名、教職員2名・・・・・合計20名
9月10日(火) | |
---|---|
12:55 | 成田空港集合 |
14:50 | 成田空港出発(フィリピン航空433便) |
18:40 | マクタン・セブ国際空港着 バスでホテル(セブビーチクラブ)へ移動 この日はセブで一泊。夕食はホテルのレストランで各自注文。支払いでタッキー大活躍 |
9月11日(水)この日からフィリピン時間(時差は−1時間) | |
05:30 | 起床 |
06:30 | バスで港へ向かう。スーパーキャットでボホール島へ。 ボホールの港でタグビララン・ハビタットとホームパートナーの人たちの歓迎を受ける。ホテルへ移動。 金井先生(明治学院牧師)の祈りで昼飯を食べる、ホテルのプールでひと泳ぎ。軽トラックで移動。 既に完成されたハビタット村見学。そこにあるDAYCARE CENTERを見学。子供(3 - 4歳)の歓迎を受ける。 血盟記念碑見学(注1参照)、その向かいの小学校見学。校長先生の歓迎を受けた後、授業参観! サイト見学。→HINAGDANAN洞窟を見学!→タグビララン市内のショッピングセンターへ。マリリン、集合時間を30分オーバー! ホテル到着。 |
18:30 | 金井先生の祈りで夕食が始まる。この日以降毎日、毎食前には、金井先生の祈りで始まる。歓迎パーティ。ハビタット関係者やホームパートナー、コリンズさんとココ(犬)が出席。タグビララン市長は都合により欠席。チャチャチャ(フィリピンのダンス)を踊る。 |
9月12日(木) | |
06:30 | 起床。 |
07:00 | 朝食、バナナ、チャーハン、ウィンナー、パン、目玉焼き、謎の美味しいジュース(夏みかん?) |
07:45 | ちょっと遅れて出発→原因はとものりの遅刻! |
08:20 | はじめてのワーク。職人頭のリトに作業の説明を受ける。 セメントの砂と石運び。→セメントバケツリレー、 |
10:30 | ブレイクタイム マンゴー、ドーナツ |
12:00 | 昼食 チャーハン、酢豚(えび、いか、とうもろこしなどの炒め物)ヌードル(牛肉、マッシュルーム炒め物)鳥から揚げ、せんいだらけのグヤバノ |
13:00 | ワーク |
15:00 | ブレイク 焼きバナナ、 ついに床が完成! お昼寝。散歩。村の人たちとバスケ、キャッチボール、などなど。 |
16:30 | 雨が降りそうなので早めに切り上げ! |
17:30 | ホテル到着。 |
18:45 | 夕食 フライドチキン、コンソメスープ、しいたけ、にんじん、マッシュルームなどの炒めもの、ライス、ライチゼリー 夕食後、語ったり、プールへ入ったりする。21:30からミーティング。 |
9月13日(金) | |
06:00 | 起床 |
07:00 | 朝食 ご飯、パン、ベーコン、ゆで卵、パパイヤ、朱色のジュース。 |
07:45 | 出発。雲行きが怪しくなってきて、肌寒い。 |
09:00 | 休憩ルームに到着した2・3分後に、急に土砂降りになる。そのまま待機。1時間遅れでワーク開始。 |
12:00 | チャーハン、あんかけ焼きそば、魚、ステーキ、蒸しパン、蟹、おいしかった - ! |
15:00 | ブレイク。マンゴ、マンゴスチン(フルーツの女王様) |
16:30 | ワーク終了。 |
18:30 | 夕食。ご飯、焼きそば、肉 |
21:00 | ライブハウスへ。みんなで乾杯。エリック・クラップトンのTEARS IN HEAVENなどを演奏していた。 |
9月14日(土) | |
06:00 | 起床 |
07:00 | 朝食。ご飯、パン、スクランブルエッグ、ソーセージ(サラミっぽい)マンゴ、パイナップルジュース |
07:45 | 出発 |
08:30 | ワーク開始。雨がちらついていたこの日は、地元の大学生とアメリカ人夫妻がワークに加わる。 |
12:00 | 昼食。チャーハン、魚、野菜炒め、スープ、蒸しパン、肉と野菜のあんかけ この日は土曜日なので、ワークは午前中で終了。 午後からは、White Sand Beachで海水浴。ハビ村のマイケル、ヴィクトールも一緒に海水浴。海は遠浅で綺麗だった。海の中にウニが沢山あった。鍛冶先生がウニを収穫して食べていた! |
15:00 | ビーチにておやつを食べる。鶏肉、鳥の皮のサクサクおかし、スコーンなど。 二ラッチ、外出禁止をくらう! |
18:30 | 夕食。スープ、デザート、鶏肉、ご飯、野菜のあんかけ。 |
9月15日(日) | |
06:00 | 起床 |
07:00 | 朝食。チャーハン、ご飯、ベーコン、目玉焼き、マンゴスチン |
08:15 | 日本製観光バスで出発。 |
10:40 | チョコレートヒル着。(注2参照) |
11:40 | チョコレートヒル出発。 |
12:40 | ターシャ(世界で一番小さい猿)と記念撮影。(注3参照) |
14:00 | 川下り(ロボック川)コリンズさんとココ(犬)も一緒。船上でココナツジュース、ココナツゼリー(果肉)を飲む。バンドがビューティフル・サンデーやビートルズを奏でる。 |
15:10 | 上陸。バスでBACLAYON教会に移動、教会博物館見学 |
16:30 | BACLAYON教会の礼拝(ミサ)に参加。(注4参照) |
17:40 | ホテル到着。 |
18:30 | 夕食。 |
19:00 | ショッピングへ(11人) |
9月16日(月) | |
06:00 | 起床 |
07:00 | 朝食。パン、ゆで卵、赤肉、バナナ |
07:45 | 出発。 |
08:30 | ワーク開始。外壁塗装、途中で豪雨 |
12:00 | 朝食。チャーハン、チキン、野菜炒め、春雨 |
13:00 | ワーク再開。午前に同じ |
16:30 | ワーク終了 |
18:30 | 夕食。 |
9月17日(火) | |
07:00 | 起床。 |
08:00 | 朝食。トースト、目玉焼き、魚 |
09:00 | 出発。 |
09:15 | ボホール大学へ行く。☆とぅーる倒れる事件☆とぅーる病院へ! とぅーると鍛冶先生以外はタグビララン市役所訪問へ。市長のオフィス訪問。あいにくこの日、市長はオフィスを留守にしていたので、市長秘書から歓迎を受ける。 |
12:00 | 市内のレストランで昼食。魚、刺身、肉、豚の角煮、チャーハン、米、ヌードル。 ハビタットのオフィス訪問。 |
14:30 | ワーク開始。壁の塗装 |
17:00 | ワーク終了。 |
18:15 | とぅーるのお見舞いに行く(4人)検査のためとぅーる入院! |
18:30 | 夕食。 |
20:00 | 文化交流の練習。 |
9月18日(水) | |
06:00 | 起床。 |
07:00 | トースト、ハム、卵、ピンクグレープフルーツジュース。 |
08:00 | 出発。 |
08:30 | 窓枠塗り、ドア塗り、床掃除、家の周りの雑草抜きなど、 |
12:00 | 昼食。チャーハン、ライス、えび、牛肉と野菜炒めもの、ヌードル、野菜ととりのいためもの、から揚げ、パイナップルゼリー。 パーティー会場 飾りつけ、バルーン。 |
16:00 | ハウスデディケーション(家の鍵をホームパートナーに渡す儀式) パーティー、文化交流 |
20:00 | パーティー終了。1 - 2人に分かれてホームスティーへ! |
9月19日(木) | |
それぞれ、散歩やホームスティー先の家族と過ごしたり、バスケをしたり、 | |
10:00 | 集合、完成させた家を背景に記念撮影。 |
10:30 | 村出発。 |
11:20 | レストランで昼食。 |
13:30 | フェリー出発。ボホール島とお別れ。 |
15:00 | セブの港に到着。セブでショッピング。エリト集合時間に遅れる。 |
18:30 | 食。ホテルのプライベートビーチでパーティー!子豚の丸焼き、バーベキュー、食後はそれぞれ、ホテルのプールサイドやバーで昨日までの出来事を語り明かす。 |
9月20日(金) | |
05:30 | 起床。バスでセブ空港へ。 |
07:50 | マクタン・セブ国際空港発。フィリピン航空434便。 |
13:25 | 成田空港着。解散! |
WELCOME PARTYでは、HabitatのStuffからのMessageやHomepartnersの紹介、私達チーム側からは、チームリーダである鍛冶先生の代表挨拶、チームTシャツである
「May God Bless U and I・愛」の説明をしました。
そしてPresentationでは、The Boomの「風になりたい」を各自が持ってきた、あるいは作ってきた楽器付きで踊りました。現地の人々からは「チャチャチャ」というテンポのよい踊りを教わり、最初は少人数だけで踊っていましたが、最後には全員が加わり盛り上がりました。ここで簡単にプログラムを紹介します。
House Dedicationとは家の中に入って、司祭が家とホームパートナー
そして私達を祝福し、ホームパートナーに家の鍵を手渡す儀式。
手順はというと…
まず、現地の司祭の方がホームパートナーに渡す聖書を祝福。
チームリーダーと学生リーダーがテープカットを行う。
司祭が家の中に入って、祝福に祈りの言葉と水を使う。
(水を家のあちらこちらにかけていた。)
と、このような手順で、2件(4世帯)の家でHouse Dedicationを行いました。
私達の誇りの学院牧師も現地で大抜擢され、「イエスキリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりがこの家庭にありますように」という祈りをされました。
Farewell Partyは、私達がワーク中に休憩をとっていた部屋の前で行われました。市長などの挨拶の後、ハビタットからチームのメンバー1人1人に感謝状が渡されました。次に、私達チームメンバーの紹介から始まり、CMでお馴染みの「武富士」のダンスを4人が踊り、その後チーム全員で「Oh Happy Day !」など他3曲を披露しました。最後に「ジェンカ」と「マイムマイム」のやり方を説明して、現地の子供達を誘って、一緒に楽しみました。発表が終わった後、村の人達がいくつかのグループになって私達に演劇やダンスを披露してくれました。後はHabitatのスタッフがゲームを催したり、大きなノリのよいバックミュージックと共に村の人達とチーム全員が一緒になってダンスをしたりと、とっても盛り上がりました。パーティが終わり、私達は、それぞれのホームステイ先となる家へ向かいました。
1.やっぱり小さい村なので、みんなが村の人のことをお互いによく知っているということ。家というものがプライベートなものでない、というところ。(←日本と価値観が全然違う)
2.私が泊まったところは、村の中でもあまり裕福な方ではなく、家には必要最低限のものしかなかったけれど、とってもとってもとーっても温かい家族が住んでいる家でした。私もホストファミリーもあまり英語が得意ではなかったけれど、言葉なんて大して重要ではなかったです。スケッチブックに似顔絵を描いてあげたところから、急速に仲が深まりました。shyだったはずのお父さんでさえ日本語の辞書を持ってきて私に突拍子もない日本語で何度も話しかけてきてくれました。近所の人ともすごく仲良くなったし。何時に帰っちゃうの?と涙目で聞かれるのが一番辛かったです。どんなに住んでいる場所が離れていても、言葉が違っても、人と心を同じにすることはできるのだな、と身にしみて感じました。
高橋 由布子
私がホームステイした家っていうのは、知沙と同じで、Susanという人の所。家はハビ村では珍しく、2階建て。彼女は日曜日に観光したときに私たちを案内してくれた人でもある。
正直に話すと、あんまり話していない。この人の家にたどり着いたのも、遅かったし激疲れだったんで、すぐ寝てしまいました。(せっかくのいい機会なのに、もったいないことした)「私は体調が悪く、すぐ寝たいんだけど、話とかできなくってごめんなさい。」って言った私にSusanは本当に優しくって、「夜中でもいいから、つらくなったら私の部屋を叩いて、起こしていいのよ。」と言ってくれた。その言葉に本当に救われた気持ちになって、爆睡しました。
次の朝は、朝食を作ってくれて、話をした。部屋を見てみると、なっ!なんと、電子レンジがあるではないかっ!!かなり驚いた。どうやらマレーシア(ん?インドネシアだったかもしれない)に住んでいた時に買ってきたものらしい。(けど、今は壊れていて使えない。)ん - エピソードっていってもこのくらいしか思いつきません。もっとたくさん話せばよかった。
佐原 弥寿子
1.まず、ホームステイ先に着いて驚いたことは、すでに家が真っ暗で、みんな寝ていたということである。私の中には、ホームステイする時は、家族全員が笑顔で迎え入れてくれるという想像の世界があった…。そのため、「もしかして、私は全く歓迎されていないのでは?」という思いから私のホームステイは始まったのだった。
しかし、私の訪問で寝ていたのを邪魔したのにもかかわらず、笑顔で挨拶してくれて、就寝準備やトイレの位置、家族紹介などを小声で教えてくれたのだった。そして、小さな子どもたちがいるということで、すでに寝ていたということも分かり、私は少々ほっとすることができた。
朝方、家族のことなどを詳しく教えてもらったが、私が英語をよく理解できていないことに気付いてくれ、簡単な単語でゆっくり話してくれるなど、気を遣ってもらい、とても嬉しく感じた。と同時に、自分にもっと理解できる力があれば、余計な気を遣わせず会話が弾んだのではないかと思い、悔しかった…。
また、子どもたちは英語が話せなかったため、私との会話は、殆ど笑顔だった。しかし、言葉はなくても、お絵かきや折り紙、抱っこや高い高いなどで楽しく遊ぶことができ、人見知りをすることなく、私と遊んでくれた子どもたちにとても感謝している。
2.私のホームステイ先は、祖母と孫娘2人の3人で暮らしており、子どもたちの両親は仕事のため他で暮らしているとのことであった。家の中には、テレビ・DVD・携帯電話などがあったため、経済的には安定しているのかなぁ?という印象だった。
しかし、両親が小さな子どもたちと一緒に暮らせていないという現実は、とても寂しく感じた。祖母自身も、小さな子どもたちを一人で育てていることにとても疲れていると言っており、私の目から見ても、明らかに疲れている様子だった。
もし、この家の近くに仕事があれば、両親も子どもたちと一緒に暮らすことができ、祖母も大変な思いをしなくてもすむのだろうなぁ…、せめて子どもが小さいうちは一緒に暮らして、両親からの愛情をいっぱい与えて育てて欲しいなぁ…、立派な家があっても、そこで一緒に暮らせなければ意味がない気がするなぁ…、などの思いが私の中に浮かんだ。だが、現実には、家を持つためには仕事が必要、仕事がないのならば離れて暮らす他ない。という両親にとっても辛い、仕方のない選択なのだと思うとなんとも複雑な気持ちになった。理想を求めれば果てしなく続いてしまうが、よく考えてみれば、両親と一緒に暮らせなくても、子どもたちが安全な家で守られて生活できているだけでも幸せなことなのかもしれないと思うようになった。
楠 千代子
れしかったことは、あまり英語が伝わらなくても表情や仕草でお互いの気持ちが伝わったこと。驚いたことは、洗濯機や掃除機などは無いのにカラオケの機械があったこと。日本とフィリッピンとは、必需品とするものに違いがあるなと感じた。それとも、たまたま、私がステイした家が金持ちだったのかな?シャワーは、ホースからちょろちょろ出る水で水浴びをしただけだった。
心が複雑になったことは、私が、ベットに寝ている下でマットを敷いて子供達が寝ていたこと。私は、お客様扱いされていたってことなのかな?フィリッピンが友達の国になったことで、もっと知ろうという気持ちになり、実際に行くことができたことで身近なものになりました。
齋藤 美佳
1.ごくごく平凡な3人家族?(正確には3人兄弟で暮らしていた)だったので、あまり印象に残ることはなかった。(あったけどみんなの話を聞くと同じ)なので、悲しかったことについて書いちゃいます。その日は一番下の女の子(13歳)の友達2人が泊まりに来ていて、夜は4人でお話をしていた。いろいろお互いの国のことをはなし、ねたが尽きたころ、遊びに来ていた男の子に「君は紳士だ」とおだてられ、「君のスニーカーと俺のサンダルを交換してくれ」だの、「この前ホームステイしにきた人は服を何着も置いていったし腕時計もくれた」、「あるひとは帰るときに手紙とお金を置いていった」などいろいろ言われ(別に脅しっぽくはないけど)いかにもなんかちょうだい、みたいな感じになり、とても不快な夜だった。
2.日本への憧れが強いなーと感じた。
山浦 史士
1.今までつくってきた家はどれも同じ家だけど、ホームステイをして実際にその家にそれぞれの家族の生活がある、ということを見て、感動した。
2.私はフィリピンでその空気や時間の流れ、笑顔を絶やさない人々をうらやましい、と思ったが、自分が貧しい、ということをすごく気にしているお父さんと過ごして、それは自分が外部者だからかなと思った。
山崎 早智子
1.ホームステイをしたのは最終日。それより前に家を建てる作業をしていたこともあり、家の中のことは想像がついていたので、改めて驚いたことは特になかった。落ち着けて、とても居心地が良かった。家族と話していて驚いたことは、ホームステイ先の家はお父さんとたった一人の大工さんで建てたということ。私たち家族の時はボランティアの人達がいなかったと言っていた。私の聞き取りが確かならば、2ヶ月くらいで完成したとのこと。私たちも経験したあの重労働をたった2人でやったなんて驚きだった。うれしかったことは、私が夜シャワーを浴びている間に、家族が私のスケッチブックに内緒で絵を描いてくれていたこと。翌日の朝気付いてビックリ!朝出発する直前には、お母さんがどろどろに汚れてしまった靴を磨いてくれた。もう履けないと思っていた靴。また洗って履こうと思った。優しさでいっぱいの家族でした。
2.一緒に過ごして考えたこと、感じたこと 家族との話の中に「フィリピンはpoorでしょ?日本はrich。」という言葉が出てきた。しかし私は村の人々の生活に関して言えば、poorと感じることはなかったし、かえって豊かな生活をしていると感じた。一つに、物質的なものが家庭に整っていたからそのように感じたのかもしれない。もう一つは私がもっと劣悪な生活状況を想像していたからかもしれない。しかし家族からの「poor」という言葉の影には、目に見える物質的な豊かさからは読み取ることが出来ない状況が存在しているのではないかと思った。しかし私が確かに感じ取ったのは、HabitatVillageが安全で安心して暮らせるところであるということ。家族との話から、フィリピンの人たちは、日本の生活を実際のそれよりrichに思い描いているように感じられた。自国と他国との比較、これが逆に彼ら自身が彼らの生活をよりpoorと認識し、表現することにつながっているのではないかと感じた。
小野 真理子
ホームステイ先の家に入って最初に目に入ったものは、家族ではなく壁を動き回る2,3匹のねずみであった。そして、トイレを借りると、日本ではみたことのない巨大なクモが!!クモと見つめあいながらトイレを済ましたのだった。
私はALEXさんの家に泊めてもらった。家族はALEX、妻のJOSEPHINE、5歳、3歳、1歳の子供、JOSEPHINEの母親であるERLINDAの6人家族である。そして、わたしが家に入るとすぐに近所に住む親戚のFELYというおばさんがきた。彼女はとても話が好きな人で、次から次へと話を振ってくれた。一番話をしたのは、実は家族ではなくてFELYかもしれない。
始めにフィリピンの地図を見せながら、多くの島について説明をしてくれ、ちょっとしたフィリピンの歴史の授業を受けているようだった。10歳になる息子が、この地域のカラオケ大会のようなコンテストで優勝したのだとうれしそうに話すFELYの笑顔が印象的だった。突然彼女が、日本で10歳くらいの子供は働けるのかと真剣な顔で聞いてきた。働けないことを知ると、息子を日本で育てて、働かせてほしいと言われてしまった。私は、まだやりたいことがあって、子供を育てられる自信がないと返したが、息子を働かせたいと思う彼女の心情をうまくくみ取って、返事を返すことが出来なかった。ALEXとJOSEPHINEは20歳で結婚し、26歳で3人の子供がいる。彼女に結婚はしないのかと聞かれた。若いうちに結婚して、子供をたくさん産むべきだといっていた。子供の話になり、FELYの知り合いの話を聞いた。日本に出稼ぎに行き、フィリピンに戻ってきたときには父親のわからない子供2人を産み、未婚のまま連れて帰ってきた女性がいるという。こうした出稼ぎで国を離れる人、その家族に対して政府は何かしらの補助などをしているのだろうか。
そして、起床するとJOSEPHINEは仕事に出かけていた。子供たちの面倒、家事を父親がしていた。父親が家にいるという日本ではあまり見かけない光景に驚いた。おばあちゃんのERLINDAもスーパーマーケットで働いているという。この家族は、女性が家計を支えているのだ。子供をおぶりながら台所に立つ彼の姿を見ながら、いろいろと考えてしまった。
たった数時間の出会いの中でも、村に住む人々が考えていることに少しだけ触れられ、家族のあたたかさ、気遣い、3人の子供たちが私を一生懸命見つめる視線、屈託のない笑顔をもらった。
西脇 裕美
ホームステイ先にて。CABARDO家にお世話になった。五人家族だが、ちょっと構成は複雑。夫婦とふたりの息子、それに夫のいとこ。共働きで、子供がまだ3歳と1歳ということもあり、いとこの存在は結構重要なようで、家事(洗濯や食事の用意)や子守りを担っていた。 10時前にはホームステイ先に到着し、それから12時過ぎまで、色々なことを話した。たとえば、「‘もしもし’ってどういう意味、いつ使うの?」とか、「‘ありがとう’はsalamat(サラマ)だと思うんだけど、‘どう致しまして’は何て言うの?」など、知っている言葉をきっかけに、お互いの緊張をほぐした。その後は、ワークのことや、UB(University ofBohol)に行ったことなどを話した。その中で、彼らにとって最も興味・関心を誘った話は、物価や日本人の平均サラリーのことなどであった。「1ペソは何円か。教師のサラリーはどのくらいか。エンジニアはどうか。」など。彼らとの間に物質的格差はもちろんあるが、そのことにそれほど卑屈になっているという印象は受けない。また、同じ家で生活してみて不便だと思うことも特になかった。感謝するべき点は幾つかあって、ひとつには、彼らのベッドを貸してもらったことである。もっと正確に言えば、区切られた寝室のスペース全てを提供してもらったことである。そうした他人への配慮、サービスは朝食にも見られた。パンに、ご飯に、魚に、ウィンナ―、それにラーメン!?(スープなし)など。恐らく毎朝こんなに食べてないだろうというくらいの品数と量が出てきた。
最後に、他の人には、恐らくなかったであろうエピソードを述べる。前述したとおり、この家には夫のいとこが一緒に住んでいる。この人は20歳くらいの女性で独身。自分ももちろんシングルだ、という話になったら、おじさんが一言。「じゃあ、Carol(いとこの名前)なんてどうだ」なんて話になって…。もちろん、ジョークだと思うけど、その話が延々と続いても困るので、「あはは」っとか笑って話題を変えました。おしまい。
滝川 祐
1.私のホームステイ先は父・母・子ども4人(20歳、9歳、7歳、5歳)の6人家族だった。しかし、家族のメンバーを認識するのは時間がかかった。なぜかというと、その家の周りにはいろんな人が集まっていたり、また家族以外の人の家の出入りが激しかったからだ。私はそれにとても驚いた。家でくつろいでいたのでてっきりここの家の人かと思った人は、実は近所の人であったり・・・。「今の子は近所の子よ」と後で教えられたり・・・。日本ではめったに見られない光景だった。私が村を散歩していると、たずねる家の人は必ず「あがっていきなさい」と誘ってくれた。初対面で、しかも外国人の私を気持ちよく受け入れてくれくれていることがとてもうれしかった。また家族の人たちが日本語に興味を持ってくれていたことにうれしかった。あいさつや物の名前など、何かと「日本語ではなんと言うの?」と聞いてはノートに書きとめる姿に感動した。
2.6人で暮らすにはあまりにも小さな家で、正直とても驚き、現実を見て胸が痛んだ。寝室とリビングしかない。プライバシーなんてない。でも私にはその家がとても明るく感じた。みんなで1つの場所に集まって、話題を共有し同じ時間を過ごす、という中に私も混ぜてもらって、家族・人の暖かさを感じた。人数も多いせいか、絶えず誰かの話し声や笑い声が家の中にはあって、私も楽しい時間を過ごすことができた。人間には衣・食・住のどれもが欠かせないけれど、それよりも人とのつながりの大切さを実感した。そしてそれは家族だけではなく、ハビタットの村全体に感じた。家族以外のものを排除することなく、誰でも気持ちよく迎え入れる。きっとそれが村全体にみられる人の暖かさ・活気、また他人への配慮の心を生むのかな、と思った。人間は人間の中で成長していくものだとあらためて思った。
湯泉 志緒
1.驚いたことと言えば、ホームステイ先に連れて行ってもらったら家族が誰もいなかったこと。結局つかちゃんのホームステイ先に泊まらせて頂いた。嬉しかったことは、朝食がもの凄く豪華で、おいしかったこと。つかちゃんと私はかなり感動した。
ホームステイ先のお父さんは海で働く人だったので家に居なくて、会えなかったのが残念だった。14歳の長男が、小さな妹のお世話をずっとしていて、かなりしっかりしていたので感心してしまった。お母さんもずいぶんと頼りにしていた。
2.実際、あまり一緒に過ごすことができなかったし、話すこともできなかったのが残念だったけれども、豪華な朝食を作ってくれたり、ベッドを貸してくれたりと温かいおもてなしを受けて、心から心から嬉しかった。
あと隣近所同士が本当に仲良くて、ずっとホームステイ先の家族の人だと思っていた人が実は隣の人だったということがあった。とにかく人の出入りが本当に激しくてみんな仲良しだな - とご近所付き合いがあまりない私にとっては羨ましい光景でした。
鈴木 まりえ
なんといってもまずはトイレです。これにはびっくりしました。紙が、普通にない!あるのはおっきなバケツに汲んである水のみ・・。当日、私はお腹をこわしていたので夜中に何度もトイレに行きました。最初紙が無いので、どうするのかと尋ねたところ、そこにある石鹸を使って手で洗えと。仕方ないのでバケツの水で手を濡らし石鹸をつけて、直に洗いました。お尻は<拭くもの>だと思っていた私にはなんとも不思議な経験でした。手で<ぬぐう>人もいるということは知ってはいたけど、いざ自分が、となるとなかなか勇気がいりました。 また、慣れていないせいか、きれいに洗えた実感が無いので気持ち悪かった・・。ただ、この日は何度もトイレに行ったので最後のほうはもうどうでもよくなってしまいましたけど・・
その他の感想。私がおじゃました家族はアルティガス家でした。いつも私たちを乗せて走っている軽トラの運転手さんの家です。お父さんと奥さんと子供二人の四人家族です。寝るまでの間(みんなが夜庭先で談笑していた頃)、御夫婦といろいろ話すことができました。寝床は簡素なものでしたが、私に譲り、家族はリビング(?)の床で寝てくれました。蚊帳をベッドに付けてくれ、蚊に刺されずにすみました。とてもありがたい配慮でした。話しの中でいろいろなことをきかれました。日本のこと、結婚について・・等です。
特に印象に残っているのは、クリスチャンでない私がクリスチャンの大学に通っていること、また、宗教をもっていないこと、キリストを信じないことを彼らはとても不思議がっていました。また向こうでは、私の歳で結婚を考えていないのは珍しいようで、ガールフレンドはいるのか?などの話題も・・。その他に、私からの質問にもいろいろ答えてくれました。マニラなどの都市部に住む人との暮らしぶりの違いなどについてです。
話しの中で、都市部には裕福な人が多く、もっと丈夫で設備の整った家に暮らしている人も多いが、中には(スモーキー・マウンテン付近で暮らす人のように)とても貧しい暮らしをしている人もたくさんいる・・、と教えてくれました。それに比べると、ここは田舎だが我々は幸せだ、というようなことを言っていました。 最後のほうで、「ここはいいところか?」と聞かれた時、「ええ、とてもすばらしくっていいところです!」と、思わず出た私の無配慮な返答に、彼らの顔が一瞬曇ったのが忘れられません・・。やはり、日本との生活を比較してしまうと、彼らの生活はあまりに単純で、住む家も簡素なものです。しかしそれでも彼らにとっては、ブロックを積み上げただけのこの家でも、自分たちの家だということに誇りを感じているようです。ワークでの苦労が報われた瞬間でした。
話は変わりますが、この日は思ったよりも早く寝てしまいました。彼らが「もう寝よう・・。」と言ったのでそうしました。やはりフィリピン人は寝るのが早い!と驚きました。 しかし翌朝、四時か五時頃にはお父さんは仕事に出かけ、奥さんも八時にはスーパーマーケットの制服を着て出かけてしまいました。しかもちゃんと朝ごはんまで用意してくれて・・。まったく食欲がなく、ほとんど食べられなかったのが申し訳なかったのですが、彼らの生活サイクルを考えると早く寝るのも納得でした。夫婦が出た後、残ったのは私と子供二人、その他近所に住んでいる親戚の娘さんがホームヘルパーとして家にいました。 彼女はアルバイトとして、昼間は子供の世話をしているらしいのです。こういう形で、この村の中では持ちつ持たれつ的に経済が上手くまわっているようです。 でも、大きな視点で見れば、貧困故に共働きせざるを得ない状況や、またそのために家に残ってしまう子供のために、ヘルパーを雇い、アルバイト代を支払い、結局支出が増えてしまうこと・・。こういったことは、ほかの国にもあることだとは思いますが、以前勉強会でも話し合っていた、「経済の悪循環」というものを漠然とですがリアルに感じてしまいました。
菊地 透
私はスーザンという4人の子供をもつ女性の家にホームステイしました。ホームステイをして驚いたことは、ホームステイ先での家は二階が改築されていて住み易くされていたことです。同じサイトの中でも経済的格差があるのだと思いました。また、私達は特別扱いをされているなと思いました。ホームステイ先の子供から私とやっちとが、二人で寝たベッドは普段4人で寝ていると聞きました。彼らにとって私達は,大切に扱うべき存在なのかもしれないのですが、私としてはもっと家族として過ごしたかったなあと思いました。
塚本 知沙
驚いたことは、自分が悪いのかよくわからなかったけど、フレンドリ−な態度ではなかった。感じが悪いってわけではなかったけど。一緒に考えたことは、特になかったな。
矢澤 朋徳
私がお世話になったホストファミリーは父マイケル、母スーザン、長女クリスティーヌ、長男ジュンジュンの四人で幸せそうな家族でした。どんなカルチャ−ショックが待ち受けているのか期待しながら家の中に入ってみると以外にも普通でちょっとがっかりした様な気持ちがあった。生活するのに必要なものは全てそろっており快適さも感じられた。私がこのホームステイで目標にしていたことは私に無い生活上での楽しみ方を見つけることでした。そのためにたくさんの質問を用意し、視野を広くしてより多くの所に目を向けるということに注意しました。しかしながら、状況は反対で家族からの質問攻めに追い込まれてしまいそれに答えるのがやっとだった。それに加え3歳のジュンジュンが私の膝から離れず冷や汗タラリ。周りを見渡す余裕も無く時間が過ぎていってしまった。いつの間にか家族が寝る準備を始め何も考える間も無く疲れのせいかあっという間に寝てしまった。翌朝、目が覚めると朝食の用意がされていてビックリ。誰がこんなに食べるの?って感じで不思議に思いながら食事を取りました。私はそんなに朝食を食べないのですぐに食べ終わり家族が食べ終わるのを待っていました。しかし、なかなか食べ終わらずフィリピン人の食欲のすごさにちょっとしたカルチャーショックを受けることができた。朝食を食べ終わる頃隣の子供が遊びに来て一緒に遊んだ。私は近所の友達と遊ぶということが無かったので少し羨ましい感じもした。目標は達成できたとは思えなかったが本当に貴重な勉強ができたと思う。
春日 知幸
僕のホームステイ先は父親:ジェシー、母親:ステラ、一女:ベナディット(18)、二女:ナミ(5)の四人家族。ジェシーは無職で、ステラが働きに出るのを毎朝バイクで送り迎えしていた。ステラがいない間はベナディットが家事をしていた。ナミはお絵かきに夢中。ジェシーの生活はテレビを見たりカラオケしたり、ナミの相手をしたり、といったところか…。とくにビックリすることのない、日本でもありそうな家族。というのが第一印象。事前合宿の勉強会のなかで「フィリピンでは女性のほうが働き者で、地位も高い」と聞いていたけれども、家庭のなかでは、例えばカカァ天下というような上下関係はなく、とても仲の良いご夫婦でした。
ビックリしたことと言えば、やはりバスルームくらいで、便器の横に水を一杯に張ったでかいバケツがど - んと置いてあるだけ。「これを待ってたんだ!」と心のなかで叫びつつ、汚くて不便な風呂場に感動しながら手桶で汗を流した。
このほかに考えたことと言えば、ジェシーたちの家は自分で勝手にもうひと部屋増設したり、家のまわりを柵で囲ったりして個性のある家だったように思う。建てられた家はみな同じ形、デザインだけれども、こんなふうにしてひとつひとつの家がそれぞれ違う個性を主張し合っているんだな - と思った。最後に、一夜だけのホームステイはあまりにも短いと思った。家の人と交流してなにかを得るには時間が足りなかった。もっとたくさん話をしたかったし、一日を通してのあの村での人々の暮らしを見てみたかった。でも、もしあと一日あの村で生活していたら日本に帰れなくなっていたかもしれない。
韮澤 修一郎
僕がホームステイした家の家族構成は母と息子(ヴィクトール、21歳)の二人暮しだった。ヴィクトールの父親は兵士で彼が3歳の時に銃で撃たれて亡くなったそうだ。彼は現在大学で電気工学を専攻しOJTを受けている最中なのだそうだ。彼は末っ子で、姉はみんな遠くへ嫁に行ったそうだ。このあたり、僕の英語力不足でかなり曖昧なのですが。
彼はハビ村に住んでいて、家を建てている時に仲良くなり、土曜の午後には僕らと一緒に海で遊んだりしていたので、彼の家にホームステイすると決まった時には、ヴィクトールと僕と二人で喜びあった。そして、もう一人、ハビ村に住んでいて家を一緒に建てている時に仲良くなったマーナル(18歳)が僕とヴィクトールの家に一緒に泊まることになった。結局僕らは、僕を真ん中に川の字になって三人で仲良く寝た。
夜、僕ら三人がヴィクトールの家で話をしていた時、これも同じく仲良くなったマイケル(14歳)という村で一番元気な少年が、僕のホームステイ先に訪ねてきて、『散歩に行こうよ』と誘いに来た。そこで、僕ら4人は夜の10時ぐらいにみんな(明学チーム)のホームステイ先を家庭訪問(冷やかし)しにいった。それがきっかけになって、みんながそれぞれのホームステイ先の子供達と一緒に外でふざけはじめた。
僕は、ホームステイの時、ほとんど外で遊んでいたので僕のホームステイの体験は、ほんの少しだけ彼の母と話をして、あとは、三人で川の字になって話をしながら寝たこと。そして、朝食を三人で食べたこと。これぐらいだった。そして、朝食の後、昨夜に引き続き、散歩(みんなの冷やかし)にでかけ、ミカのホームステイ先の家に行き、そこで、金井先生とミカ、そして僕とで『MY WAY』や『煙が目にしみる』などをカラオケで歌っていた。僕のホームステイの体験はこんな感じだった。
得田 英里斗
ワークキャンプの最終日、私たちは各メンバーが分かれてホームステイをさせていただきました。私が泊めてもらった家は村では珍しくお子さんが一人という3人家族の家でした。家に着いたもののご両親はおらず、お子さんが一人でいます。聞けば教会の集まりに行っているとのこと。彼らが帰ってきたのは10時も過ぎたころでした。フィリピンではほとんどの人がカトリックのキリスト教徒ですが、このご両親、Roger C.Aculladorご夫妻はプロテスタントの信仰を持っていました。非常に熱心な、そして自覚的な信仰を持っているご夫妻です。日曜日の礼拝だけでなく、こうして平日水曜日の集会にも欠かさず出席しておられるのです。
フィリピンの言語といえば英語のほかにタガログ語があるということしか知らなかったのですが、ボホール、セブ一帯の地方はビサヤ語です。ホームステイではぜひこのビサヤ語を教えてもらおうとひそかに期待をしていました。ところが、私がプロテスタントの牧師であることを知った彼らはそれどころではなく、大変に喜んで早速聖書を取り出して一緒に読もうということになってしまいました。
私の持っていたギデオン聖書(英語・日本語対訳)を開いて「この英語はすばらしい」ということから始まって、彼らの聖書と見比べながら次から次へと聖書の話、信仰の内容の話と、会話はほとんどこのようなものでした。私は英会話が全く苦手だったはずなのに、聖書や信仰のことになると彼らの話す英語がわかるという不思議な体験をしました。同じ信仰は言語の障害や民族の違いをもこのように超えていくのだということを味わったひと時です。
翌朝も夫婦で朝食の支度をしながら、また身支度をしながら3人で一緒に今度は賛美歌を歌いました。英語の賛美歌を手渡されて、知っているのはあるかと聞くのです。日本の賛美歌と同じメロディのものをいくつか発見すると、じゃあ一緒に歌おうということになったわけです。「あなたが今日ここに来てくれたのは、まさに神の恵みと導きです」と言ってくれた言葉が忘れられません。ご主人もお連れ合いも市役所に勤めている方たちなので、小学校に登校するお嬢さんともども朝7時30分には出かけていきました。短い間でしたが熱い会話、篤い信仰、そして厚いもてなしに出会った得がたい経験でした。
学院牧師 金井 創
私は、ハビタットの建設した家のあるコミュニティ(ハビタット村)で自治会長をしているカドナスさん宅にホームステイをした。全体の見回りを終えて、夜にうかがった時には,その家のミスターは、まだ働いていて不在だった。当初、夫人だと私が思った(すっごく若い奥さんだな!って)方が、「2階で寝て下さいね」と、おっしゃったので、夫が不在の時、初対面の女性−夫人といろいろと話し込むことには問題を感じたので、さっさと寝てしまった。翌朝は、2人とも6時には家を出て働きに行くというので、朝食は向かいの家のスーザン宅でするということだった。
翌朝、5時30分に起きて、ミスターと話をしていたら(これまでにも彼とは何回も話しているが...)、私が夫人だとかってに思い込んでいた女性は、彼の娘であり(やっぱりね - 若すぎると思ったよ)、夫人は島の反対の場所にあるビール工場に住み込みで働いているので、1週間に1度しか戻らないということを聞いた。雇用環境の深刻さを、そこで知ったが、娘さんなら昨晩,いろいろと話をすれば良かったのに、と若干後悔した。
ということで、私がかってに誤解したエピソード以外は、ゆっくり寝た思い出ぐらいしかないのです。5時30分に一斉に鶏が鳴いたのには、とっても驚いたけれども....
宗教部長 鍛冶 智也
昨日の夜、愛しの我が家に着きました - 。あんなに強烈だったハズのGVが自分の中で少しずつ薄れていってしまうのかと思うと、ものすごく寂しい。まだまだ心の整理なんて、できそうにないし、これからもできる気がしない。けど、それでもいいと思う。今のこのほんわ - かしつつも、切ない気持ちのままでもいいかもしれない。
誰かに「あなたの宗教は何ですか?」、「あなたは神を信じますか?」と聞かれた時、何故か身構えてしまうことってないだろうか?「宗教」に対してマイナスのイメージを持っていないだろうか?少なくても、私はそうでした。そして、無宗教者が多い日本人の多くがそう感じていると勝手に私は思っています。
ちなみに、私の母は日蓮宗の信者です。そこまで熱心な信者ではないけれど、私が生まれる前からそうです。私が小さいころ、母に何かを相談しても「勤行しなさい。人間にはできないことを仏様なら助けてくれるよ。」と話の最後に言われ、話を終わらされることが多かった。はっきり言って、私はこの言葉が大嫌いだった。「仏様でも神様でもなくて、私はお母さんに助けてもらいたいのに…」と思っていた。この言葉を聞き続けていたので、「宗教」に対して良いイメージを持たなくなった。
そんな中、GV中にフィリピンのキリスト教のミサ(夕拝)に参加することが出来た。正直に言って、前で話している人が何を言っているのか分からなかったし、一つ一つの動作の意味もサッパリ分からなかった。しかし、一つだけはっきりと感じ取られたのは、「ここにいる全員の人が幸せになりたい(幸せでありたい)と願っている」ということ。そして、そういう願いを全員で分かち合っている、ということ。
こんなこと言ったら、信者にボコボコにされそうだけど、「宗教」ってもしかしたら、神様や仏様自体も大事だけど、それ以上にもっともっともっともっと大事なのは神様や仏様を囲んでいる人間同士の輪なのかもしれない。色んな人が集まり、お互いがお互いの幸せを祈ることによってできる人間の輪。
話は変わりますが、鍛冶先生は「大学生が書くのは感想文じゃなくて、レポートです。」とよく話していたけど、では、宣誓文っていうのはいいのかしら?まぁ、先生が「ダメ!」と言っても、どうしても書きたいので、書いちゃいます。その前にちょっとした話をしたいと思います。私が高校生だったころ、英語の文法の授業で先生がこんな話をしていました。「“love狽ニか“know狽ニか“live狽ニいうのは現在進行形では( - ing)で使われることはない。何故かというと、誰もその言葉の動作を表すことが出来ないからだ。」と話していました。けれど、私はこの通りだとは思いません。私はフィリピンでみんなと過ごしている時にはっきりと“I知 living right now.狽ニ感じていたから。すごくいい表情をしているみんなの顔を見て、また、自分自身もいい表情をしていることを実感できていたから。上手く説明できないけど、そんなカンジです。
ハビタット村に住んでいるVictorという男の子にも約束をしたことがあります。ついでだから、今、私の文章を読んでいる全ての人にも約束します。私は“I知 living狽ニ感じさせてくれるフィリピンにまた戻ってきます。明学でもCCを作って、毎年(または年二回)フィリピンに明学生がフィリピンに行けるようにします。なかなか大変なこともあるだろうけど、私はまたフィリピンに戻ります。
最後に一言。記念すべき初GVをみんなと過ごせたことを最高に嬉しく思います。フィリピンや日本で会った人全員に出会ったことを感謝します。まだペンキが体についてる
佐原 弥寿子
1.フィリピンに来た!という実感も大して沸かないうちに、ワークをする村を訪れ、周りの完成した家々を見るたびに、「本当に私たちにもこのような家が建てられるのだろうか?」という気持ちになっていった。そして、実際、私たちが建てる家を見たとき、「殆ど出来上がっているじゃん!こんなに出来ているものなんだ…」と正直驚き、「こんなに出来ているのに、一体、この後、私たちに何か手伝えることがあるの?私たちが来たことに意味があるの?私たちは必要とされているの?」という思いが私の中で渦巻いていた。
だが、確かに、家の建設に関する知識もない私たちが大したことが出来るわけもなく、そんなに期待されても困るわけで、「何をそんなに自分に自信をもっているんだ?役に立ってないと思えるぐらいが丁度良いじゃないか!」と自分の中で開き直って、次の日からのワークに取り組む気になった。
実際は、石や砂運び・セメント運びなど地味な作業ではあるが、人手がある方が助かる作業が残っており、「あっ、少しは私たちも力になっているかなぁ…」と実感することができた。ワークは、今まで経験したことのないもので、かなりハードであった…。しかし、自分たちが運んだ石と砂でセメントができ、そのできたセメントで床ができていく、数時間後には床が完成する。という風に、今さっき頑張ってやったことが、目の前で誰の目に見ても分かる、形あるものになっていくという感覚は、普段なかなか体験することのない大きな喜びと誇りを与えてくれ、やりがいというものを感じさせてくれた。
また、ハードなワークでも、みんなで声を掛け合いながら一緒にやり、大工さんとは笑顔という言葉でやりとりしながらやれたことが、とても楽しかった。特に、セメントのバケツリレーでは、手に手をとって共に作業している、一緒に造っているということが感じられ、大変な作業であってもみんながいたから楽しくできたし、大変だったからこそそこに楽しさが生まれたのだと思う。
つまり、そこには、自分が辛い時には仲間に助けてもらう、自分に余裕がある時は仲間を気にかけ助けてあげる、あるいは、自分でも気付かないうちに仲間を救っていたり、仲間に助けてもらっていたり…など、お互いが支え・支えられという関係が生まれていたのだと思う。そして、それは、人が生きていく上で必要な関係だと感じた。この関係を見失ったとき、築いていくことができなくなった時、人は人の温かみを忘れ、孤独に陥るのではないかと思う。そして、ここフィリピンで、このワークキャンプを通して、楽しい・嬉しい・辛い・苦しいなどの感情を仲間と共に分かち合っていく中で、私はたくさんの人の温かみを感じることができ、人の存在、そして自分の存在を見つめ直すことができた。
2.今回で、私は家の重要さというものを実感した。家は、雨や風などの自然現象から身を守ってくれるだけでなく、食べる・寝るなどの人として最低限の生活を営む場としても不可欠であり、また、心の安らぎや労働力の再生を行う場でもあり、家といってもその役割は非常に大きい。
まず、最初に思ったことは、私がこのフィリピンのワークキャンプに参加することができたのも、日本において、私自身に自分の家といえる居場所があり、そこで心身共に安定した生活を送れていたからだということを忘れてはならないということである。そして、そのような環境で生活できていることに改めて感謝しなければならないと思った。もちろん、日本でもホームレス急増などの話から、多少なりとも自分の生活環境を考えることはあった。だが、きっと、日本でこのまま生活をしていただけであったなら、このような自分の生活環境を改めて意識することはなかったように思う。日本を出たからこそ、自分の家の存在を始めとして、自分の生活環境を今までになく客観的に捉えることができるようになった。
また、ハビタットでは、家が持てる条件として、両親と子どもがいて収入がある世帯ということがあげられている。これはある程度、生活が安定していなければならないわけで、自立援助という視点から考えると、このような条件が必要になることも理解できる。ただ、私が思ったことは、中には、このような条件を満たすことができなくて、枠の外に追い出されてしまう人がいるということ、そして、そのような人々の存在を忘れることなく、目を向けていく必要があるということである。
なぜなら、ハビタットの活動をすればするほど、私たちは、きっと、その中だけの視野・世界観になってしまうため、そこにいる人々、条件にあった人々に対してだけ手助けすればよいという考え方をするようになってしまう気がしたからである。きっと、条件の枠に当てはまらず、もっと劣悪な環境で生活している人は、まだまだたくさんいるはずである。家が欲しくても、仕事がなく、お金がない人は、まだまだたくさんいるはずである。そして、そのような人々ほど、自ら助けを求めることもできずに、どんどんと社会の隅の方に追いやられ、忘れ去られていることが多いのではないだろうか。だからこそ、私たちは、決して視野を狭めることなく、このような枠に当てはまらなかった人々の存在というもの意識し忘れてはならないと感じた。
楠 千代子
フィリピンでの生活から感じたこと(9月21日の日記より)本当にフィリピンに行ってきて良かった。GVへ行こうと決める前は、病気になったらどうしようとか、集団生活が苦手な私が、10日間みんなと生活できるのかと悩むことが多々あった。でも、行動に移して良かった。フィリッピンへ行き、たくさんの笑顔に出会い、日本の空の数十倍もありそうな青い空に出会い、泥道を歩いた思い出。出会った人それぞれが私にスマイルをくれた。あの笑顔は、ずっと忘れないだろう。感動したこと。自然のすばらしさ、壮大さを肌で感じたこと。心を動かされたこと。日本にいたらあんなに空を見上げることも、たくさんの星を見ることもなかった。まだ、頭の中では、フィリピンに私はいる。なんだか故郷がフィリッピンのようで、そこから離れて日本に来たような感じがする。フィリッピンでの生活は人間的だった。人間らしかった。本来の人間のあるべき姿であるような。日本は、機械的に動いているように見える。水道水が飲め、洗濯は機械がしてくれて、トイレの水やシャワーは勢いよく流れて便利だが、便利になったことで忘れてしまったこともあると思う。私はフィリッピンで生活をして、その忘れていた部分を思い出したような感じがする。それは、目には見えなくて心がとっても温まるもので私の胸の中にずっとしまっておきたい大切なものだ。
齋藤 美佳
この10日間は、本当に自分について考えられ、発見できた(ちょっとだけど)旅だったと思う。知らない国へ行き、経験したことのないことに夢中になって取り組み、同じような考えの仲間と出会い、自分を振り返るいい機会だった。行く前のこの旅の位置付けとして、ただの観光でも、思い出作りにいくわけでもない(いい思い出になったけど)と思っていたので、思うような旅ができて大満足。今までの自分が少しでも変わるきっかけになったかなぁ?でも実際帰って数日たってもあまり実感ないけど・・・
一番よかったなと思うのは、いろいろな人の話を聞けたかなーってことかな。先生たちをはじめ、メンバーの本音というか、今思ってることなど普段話さないようなことを聞けたし、話し合えた。この旅限りではなく、この先もいろいろ関わっていきたいなーと思った。この活動を終え、初めて心から大学に入って良かったなーと思えた。
山浦 史士
このGVの直前に授業があったこともあって、出発するとき私は心の準備がほとんどできていなかった。そんな気持ちで見たセブはとても衝撃的だった。雑然と並ぶ屋台、板を合わせただけの家、私たちを見上げる鋭い目・・。物質的な貧しさも感じたけど、それよりも張りつめたような空気がとても苦しかった。貧しさを肌で感じて、こんなところで私に何ができるのだろうか、という不安ばかりがつのった。しかし、ボホール島に着いて私の気持ちは変わった。港での歓迎から始まって、現地スタッフの方たちとの出会い、街の人の笑顔など、ボホールでは街全体がゆったりしてあたたかく感じられた。そんなボホールの街をジープに乗って感じるうちに、ふと「私は何もできなくてもいいんだ」ということに気がついた。自分では全くそんな気はなかったが「私に何ができるのか」という不安の裏には「何かしてあげなきゃ」という哀れみや、かわいそうだ、と思う気持ちがあったと思う。しかし、ここの人たちは私がいてもいなくても家が粗末でも日々を生きて、生活している。私にとってはここでの生活は特別だけど、ここの人々にとってはこれが日常なんだ。そんな当たり前のことに気がついてフィリピンの生活を受け入れられたとき、ここでの生活が私にとっても日常になり、自分がボランティアだ、とも感じなくなったし、彼らを貧しい人々、とも思わなくなった。この気持ちの変化があったから、その後一人の人間と人間との交流ができたと思う。
これは、このGV中に私に起こった変化、私が考えたことの一つだ。こんな当然のことを理解する、というか、感じることから私の旅は始まった。この後もフィリピンでは自分の中での変化が色々あったし、貧困のこと、将来のこと、生きることなどこれでもかというくらいいろいろなことを考えた。今日本に帰ってきてかつての生活に戻りつつあるが、フィリピンで感じたことは心の中で生き続けている。でも、一番大きな変化はついこのあいだまでは全く知らなかったボホールのあの人たちを知り、日本に帰ってきた今も彼らがあそこで生きていることを感じられ、つながりを感じていることかもしれない。
山崎 早智子
なぜ「家」なのか。GVに行く前に消化しきれなかったこの疑問が、GVを終えた今少しずつ解かれつつあるように感じる。私たちは一人ではとても成し得ないことをやり遂げることが出来た。一人一人の力はほんのわずかなものであったと思うけれど、日々仕上がっていく家を見ていると、みんなの力がこんなにも大きなものになるのだと実感した。機械といえばセメントを作る機械が一つあるのみ。あとは全て手作業だった。まさに一人一人の手で家を完成させたと言って良いだろう。
家はそれだけでも役割を果たすし意味を持つけれど、Habitat Villageのように家が寄り集まり、人々がそこに集うことによって、より大きな意味をもつようになるのではないだろうか。家は家族と過ごす場であり、家族だけの空間を作り出すけれど、決して閉鎖的なものではなかったと村で過ごして実感した。村の中でそこは開かれた空間であり、一つのコミュニケーションの場でもあったように思える。Habitat Villageでは、村全体で家の完成を見守り、迎え入れるといった雰囲気が感じられた。これが村のあの穏和な雰囲気に直接つながっているのだろう。一軒の家が建つごとに、村のコミュニティがより深くなり、大きな膨らみを見せていくのではないだろうか。一軒の家から始まり、そこに村ができ、コミュニティが形成される。その一端に関われたことを嬉しく思う。また村の人たち、そしてチームのメンバーと共にあのような素晴らしい時を過ごせたことが何よりも嬉しかった。チームで掲げた横断幕のように、毎日お互いが『Knock the door』で、最後には『Hug each other』だった!
Habitat Villageでは村の人たちのコミュニケーションがとても盛んだったように思える。子供が多いこともあって、子供たちの仲の良さが際立って目に付いた。逆に大人たちの姿をあまり見掛けなかったが仕事に行っていたのだろうか。大人たちはお互いどのような関わりを持っているのだろう。またHabitat Villageは村の外とどのようなコミュニケーションを図っているのだろう。これらについては疑問が残った。Habitat Villageで感じた安全で安心できるあの雰囲気は、フィリピンのどこでも見られるわけではないと思う。私たちが車から目にしていた家々に住んでいる人たちはどのような生活を送っているのだろう。人々が自立し、安全で安心して暮らせる家を持ち、またそのようなコミュニティを形成するにはさまざまな方法があると思うが、今回私たちが携わった家造りも一手段であったことは言うまでもない。村の人たちやチームメンバーと過ごした11日間、家造り。どれもが素晴らしいものだった。
小野 真理子
フィリピンで過ごした10日間を簡潔に言おう。「私、西脇裕美、を取り囲む世界が一回り大きくなった」である。世界という曖昧な言葉だけれども。
日本の感覚のまま行った私には、刺激、衝撃があまりにも多すぎた。自分の目で見て、肌で感じ取ることの意味に気づけた。フィリピンの人々と関わっていく中で、彼らのあたたかさに触れることが出来たのはもちろん、気持ちをストレートに表現する人だと感じた。私をじっと見つめる子供たちと何度目が合っただろう。話し掛けるとすぐに笑顔で反応してくれる子、手を力強く引いて走り回る子、おんぶをしてほしくてせがむ子もいた。突然陽気に踊りだす、歌を口ずさむ、好きな人ができれば真っ直ぐに思いを伝える。日本で私は、こんなに素直に思いを出せていただろうか。この10日間で、喜怒哀楽すべてを感じたし、その思いを出せた気がする。少なくとも、9月9日以前の自分よりは。何もかも忘れて村の道を走ったとき、ホテルで自己嫌悪になったこと、歌いながらホテルに帰ったあの日、メンバーと深い話をしたとき、パーティーで踊ったこと、別れ際に涙が止まらなかったこと。意識をして、頑張って表に出そうとしていた訳ではなく、自然とそうなっていた。気持ちをうまく出せずに悩んでいた頃よりは、心が落ち着いていたというか、すっとして、穏やかだった。メンバーと話して、外から見た私を聞けることもあった。いつも、内からの自分しか見ていなかった私には、気づくことができなかったものが見えた。
日に日に出来上がっていく家を見ながら、一人ひとりの動きは小さいけれど、その重なりで大きなことができるのだと改めて発見した。完成した家を目の前にして、私がやってきたことは少しも無駄ではなかったのだと思えた。ある家族の新しい生活が始まるこの家に、一部ではあるが手伝いとして携われたことがうれしい。
携帯電話や時計を気にしながら忙しく動き回る日本での生活を思い返し、フィリピンでの時間の流れ方はゆっくりだった。トイレ、きつい排気ガスのにおい、野放しの犬、物価の安さなどショックを受ける場面も多々あり、日本で考えていた価値観を壊された。
手を振れば、振り返してくれた村の人々、ボホールの人たち、みな知り合いのようなあの雰囲気が大好きで、居心地が良かった。日本では、孤独を感じることがあっても、フィリピンでは感じなかった。出来ることなら、あの村に帰りたい。家を建てに行き、完成させた喜びを得たけれども、それ以上に多くの刺激を受けた。測り知れないほどのパワーをもらい、体中に力が蓄えられている。今なら、何でもできそうだ!自分と向き合え、私という存在がここにいて、ちゃんと呼吸しているぞと感じることができた。ハビタット、フィリピン、村の人、今回共に過ごしたメンバー、ありがとう。とても前向きで、晴れ晴れとした気持ちの私がここにいる。
西脇 裕美
帰国して、できた写真を見ながら、確かに数日前まで目の前に存在していた村やそこに住む人たち、色々な出来事を思い出す。毎日のようにかかっていた音楽は耳に残るものも
あれば、忘れられていくものもある。remembranceとしてもらった貝殻はその匂いを失いかけている。
このGVは自分にとって何だったのだろうか。錯綜する頭の中で、何かを吐き出すことで見えてくるものがあるのではないかと考えている。
出発前の自分は、一抹の不安よりも、漠然とした希望と期待でいっぱいだった。それは幾度かのミーティングと合宿が、チームの結束を固め、GV成功への自信と根拠を与えたため、自分にとっては未知の世界への憧憬しか残らなかったせいだと考えている。
「GVは大きな物語であり、文脈である。」出発前、自分はGVをこのように捉えていた。それは、自分の知らない時期からこのGVは動き始めていて、これからも何らかの形でつながっていくのだろうという、時間軸からの見解である。しかし、このGVはまた、‘人をめぐる’「大きな物語」でもあったと言える。ハビタットのスタッフ、村の子供たち、ホームステイ先の家族。挙げれば切りがなく、もちろんGVのチームのメンバー。その大きな支えの中で、自分の果たし得た役割がどれほどのものだったのか。そのことを考えることは、当初の参加目的のひとつである、そもそもボランティアとはどういうもので、どういった力を発揮し得るのかという疑問に、何らかの見解を与える。
何かのために、誰かのために貢献しているといった感覚は、自分の中にはあまりなかった。ワーク中は黙々と働き、大工や子供たちとの交流を通して有意義で、満足のいく時間を過ごしていた。そうした中でふと現れた、「このワーク・経験は、もしかしたら自己満足かもしれない」という問題提起に、必死に言葉を紡ぎ、反論を試みようとした。まるで、見たくないものを消し去り、無視するかのように。たとえば、「僕らが、この地で、交流を通して異文化に触れるのと同様に、彼らもまた僕らという異文化に触れ、視野を広げられるのではないか」など。しかし、これではまったく、説得力がない。経済的話にすれば、洗濯をお願いすることで臨時収入を創出することになる。あるいは、必要最低限の大工を雇い、単純作業はボランティアに任せることで住宅の低コスト化を図ることができる、などメリットが見えてくる。ただ根本的問題として、なぜ自己満足ではいけないのか、を検討する必要がある。前提は、恐らく「自己の満足は、必ずしも他者の満足(ニーズ)になるとは限らないから」というところにある。具体的には、なるべく多くの(一定の条件を満たした)人に家を提供するというニーズに、素人集団としての自分たちがどれだけこたえられているのか、ということである。このことに関しては、前述した経済面からのみならず、効率性の面等も考慮される必要があり、はっきり言って、よく分からない。ただ、それでは自分の果たし得た役割についての言及が不十分である。もちろん、そんなことを考えることは不毛だという話にする気はない。自分の些細な労力が、大きな力になり得る可能性を持っている。そのことを、ボランティア、自己満足という点と絡めて考えていきたい。そして、GVとは、つまり自分にとって何だったのかを述べたい。
心的安定としての家族、物的安定としての家。自分は、その後者にボランティアとして携わることに意義を見出していた。なぜなら食と職の安定に加え、家族という心的安定を得た人たちが、物的安定としての家を持とうとしている現場に居合わせるのである。非常に貴重な経験である。実際の具体的経験は、そこに達成感という満足と家というものへの愛着をもたらした。自分がGVを通して学んだことは、物質的貧困についてのみではない。ダンスやビリヤード、カラオケといった遊びの文化。思い出せば一人一人ではなく、村の仲間たち皆の顔が一斉に浮かんでくるあの連帯感。それらに見出すことのできるコミュニティの強固さと、豊かさ。そうした発見や、自分にとってのあふれる喜びや感動が、誰かに伝わるだけでも十分である。さらにその誰かを鼓舞し、同様の、いやそれ以上の経験を積むきっかけになれば、もう自己満足の域は超えていると言うことができる。
ボランティアは、一回性よりも、他者を巻き込みながらの継続性にその力を発揮していくのではないか。自分たちの一軒が、もしかしたら次の一軒。そして、さらに次の一軒につながるかもしれない。そんな地道ではあるけれども、大きな可能性をこのGVは内包している。つまり、自分にとってGVとは喜びと満足と感動に満ちた大きな経験であったことは前述した。その一方で、全体にとっては、小さな、けれども確実な一歩であったのではないか、と考えている。
最後に、このGVに携わった全ての人たちに感謝を込めて。ありがとう。
滝川 祐
はじめ、このGVに参加する事が決まった時は、ボランティアをするんだ!という気持ちがあった。しかし、現地に着いて作業をしている時、ボランティアをしに来ているという気持ちは全くなく、ただ単に、この20人のメンバーとフィリピンの人たちで家を建てて楽しく生活しているという気持ちしかなかったように思う。この11日間、ボホール島での生活は、今まで20年近く生きてきたけど、その中で一番幸せな時間だったように思える。楽しかったり、悩んだり、自己嫌悪に陥ったり、泣いたりと、感情が激しく変わる11日間は自分と向き合うのに最適だった。
買い物に出かけた時、子供が寄ってきて買い物袋をひっぱるから、私は「取られる」と思い、その子供を冷たくあしらった事がある。あとから知ったのだが、レシートをもらうために居ただけだったのだ。私にはフィリピン=貧しい=危険というイメージがついてしまっていて、本当はまったく違うのに、そんな態度を取ってしまった自分に腹を立てたし、その時の子供の顔が忘れられなかった。ずっと、その事で悩んでしまったし、自分は何をしているんだろうという、どうにもならない気持ちのまま生活していた時期もあった。でも、自分の弱さ、コミュニケーションの下手さ、一人じゃ何もできない未熟さにもろに直面して1回下まで落ちたからこそ、それからの生活を楽しめたし、自分なりに納得いくように目で見て体験できた気がする。
家作りはハードな時もあって(セメント運びなど)大変だったけど、みんなで一つになって作業する喜びがあったから本当に楽しみながらできた。ハビ村の人たちの笑顔、あんな笑顔は日本にはない。子供たちと遊ぶ事が本当に楽しくて楽しくて、村中を子供にひっぱられながら駆け回ったこともあった。みんな好奇心旺盛で、キラキラした目をして甘えてきてくれて、子供が大好きな私にとって、一番幸せな時間だったように思う。村を歩けば手を振って、名前を呼びながら近寄ってきてくれて、私たちを楽しませてくれた。いきなり来た日本人を心から歓迎してくれて、こんなに優しい人が同じ時を生きているんだと思うと幸せになれた。海のキレイさ、排気ガスいっぱいの街、豪華な家の隣にある小さく貧しい家、セメントだらけの服、スコール、ダンス、印象に残っている事は本当にたくさんありすぎて、今も何から書けばいいのかわからなくなってしまう。
観光の中でも、その幸せを感じることができたのはロボックリバーの川下りだ。川沿いの人々の家は今にも壊れそうなくらい貧しいものだった。けれど、その人々は日本人である私から見ると、人間にとって一番幸せな生き方に見えた。もちろん、それは経済的に豊かな国に生まれた私のない物ねだりだけど、生きるために生きている人に出会って、私たちは色々な余計なものに悩まされすぎているし、影響されすぎていると感じた。自分の気持ちをストレートに表現して、シンプルに生きる事が一番だと学んだし、日本では一度も感じたことのなかった「生きている」という実感を得る事ができた。
帰国するときは本当に帰りたくなくて悲しくて泣いてしまったが、私には日本でもできる事はあるし、これからだと感じている。
こんな素晴らしい経験をさせてくれたハビタット、一緒に家を建てたメンバー、村の人たち、優しくしてくれた職人さん、そしてフィリピン、全ての人に感謝している。飛行機とフェリーで5時間ちょっとの、あの村には今も、のどかに暮らしている人たちがいると思うと、もっと前向きに生きていける気がするし、ちゃんと生きようと思う。そして、いつかアノ村に帰ろうと思う。
塚本 友紀
「よし、フィリピンの人たちといっぱい交流するぞ!!」と意気込んで出発したものの、ハビタットでの初日の活動中はモヤモヤした気持ちだった。交流の仕方がわからなかったのだ。自分があまりにも英語がしゃべれないことにとても焦った。意思疎通ができないことがこんなにつらいのかと思った。この不安をずっと抱えながらのフィリピン生活ではあったが、彼らとともに活動している中でモヤモヤした気持ちはどんどんなくなっていった。
コミュニケーションというのは、言葉だけのやりとりではない、ということを私は彼らから学んだ気がする。ジェスチャー・表情など、相手を知る材料、また自分を伝える材料はたくさんあるのだ。文章ではあまり伝えられない分、時間もかかるし大変だけれど、伝わったときには本当にうれしく、幸せだった。ただ歌っているだけでもお互いが笑顔でいられ、幸せで楽しい時間・空間を共有できたと思う。今までこんなに真剣に相手と向き合いながらコミュニケーションしたことなんてなかったと思う。住んでいる国も環境も、話す言葉も違うもの同士でも、いろいろな手段で交流することができることを、たった10日間の間で実感した。日本でのこれからの生活の中で、これはすごく重要なことではないかと思う。
また私にとってワークは思った以上に辛かった。セメントや石を運ぶというような重労働は、とてもよい経験になった。このような重労働にもかかわらず投げ出したくならなかったのも村の人たちとの交流があったから、またGVのメンバーが側にいたからだと、と今思う。途中、笑顔がなくなることもあったけれど、そんなの時みんなの元気が私にも移っていく感覚を覚えている。誰もが自分の殻に閉じこもっていることがなく、誰かを心配したり励ましたり、楽しませたり・・・。私はずっとこのような環境にいることが心地よく、うれしかった。一人一人の力はとても小さくてつぶれてしまいそうなときでも、ちょっとずつの力が集まればとても強い力となる。身体面でも、精神面でもこれを強く感じた。
私たちは家を建てる“ボランティア”に行ったのだけれど、「建ててあげている」という義務感はまったくなかった。逆に、楽しませてくれたり元気をもらったり、彼らからもらった物のほうがたくさんある。彼らから「来てくれてありがとう」とたくさん感謝されたけど、「私のほうこそたくさんの笑顔・幸せをありがとう」と感謝の気持ちでいっぱいだ。たしかに私たちの行った活動は目に見える形で人の役にたち、私はそれにそれを達成できたことはとてもうれしい。しかしそれだけではなく、その活動を通して出会った人との交流がかけがえのない物として残っている。 そして、ワークが休みの日に様々なところを見学できたのもよかった。その中でも川下りをしたことがとても印象に残っている。そこで見た景色はずっと忘れないだろう。今まで見たことのないような自然には圧倒されるばかりであった。また川沿いで暮らす人々を目の当たりにして、「家」の重要性、私たちの活動の必要性が初めて身にしみた。フィリピンには私の想像以上の衝撃的な「家」がたくさんあった。私たちの活動が少しでも人々の役にたてばいいな、と思うと同時に、まだまだ隠れていて満たされないニーズはたくさんあるのだろうとも思った。
フィリピンでの11日間の生活の中で私はたくさんの人に触れ、たくさんの物を見たり聴いたり感じたりして、自分の中に吸収していった。そしてそれが今までの自分を見つめなおす機会にもなり、これからの自分を考える機会にもなった。たくさんの経験をさせてくれたフィリピンに感謝の気持ちでいっぱいだ。そして絶対にまた行きたい。
湯泉 志緒
今、本当に心から思うこと。「大学1年でこんなに素晴らしい経験ができて私はなんて幸せ者なの - !!」だいぶん焼けてしまった肌に、爪や腕、前髪にまでペンキを付けて帰ってきた私は、いまだに爪に付いているペンキがとれずじまいです。(本当はあまり落としたくないのが本音。もう本当にフィリピンにいないんだという実感が湧いてきてしまうから。)時計を見れば、時間を1時間戻してフィリピンタイムにし、ホテルを出発した頃だとか、休憩中にマンゴを食べている頃だとか、マイケルの奇声がうるさい頃だとか(ほぼ1日中だったけど)、今ハビ村の人は何をしているんだろう・・・などと、とにかく想像にふけっています。
日本に帰って約10日。私はいまだにこんな状態から抜けられません。それ程、私にとってこの旅は1日1日がとっても刺激的でした。日本にいれば考えないこと、考えようともしないことをフィリピンに行けば、おのずと考えさせられることが多々ありました。 例えば宗教。フィリピンでは実に宗教が日常生活に深く関わっていて、ミサに出席した時は現地の人の本当に篤い信仰を目の当たりにしました。また聞いた話によると、私達が訪れたボホール島のあの一番大きなショッピングセンターでは決まった時刻にお祈りがあるらしく、その時間になったら店員さんもお客さんも一切動きを止め、お祈りをしていたそうです。
フィリピンに来て3日目の夕食で鍛冶先生と金井先生と話をしていた時、私は「なんで宗教を持つのだろう?」と言いました。その私の言葉に、鍛冶先生は「そのなんでは世界からして見れば、逆だよ」、つまり「なんで宗教を持たないの?」ということでした。私は正直驚きました。ある時、Julietに「What痴 your religion?」と聞かれて、「No religion.」と答えたら、「Not good.」と言われたことがありました。Julietの言ったことの真意はよく分からないけれど、持っている人にとっては宗教を持たない人が何を信じてどうやって生きていくのか不思議でしょうがないことや、宗教を持たない人は世界的に信頼されにくいという話を先生から聞いた時、Julietもそのようなことを思ったのかもしれないなと思いました。今から思えば、イギリスに修学旅行に行った時も家族で旅行した時も、現地のガイドさんや、仲良くなった現地の人に「What痴 your religion?」とよく聞かれたことを思い出します。フィリピンに行って、世界から見れば私のような日本人のほうが珍しいことに気付かされ、宗教について無知ではいられないと実感しました。
今、この感想文を書いていても、フィリピンでの生活が本当に鮮明に蘇ってきます。初めは驚いてしまったデコボコ道が私の中ではだんだん心地の良いものになっていったこと、行きも帰りもトラックの中からバイバイするとほぼ全員が笑顔でバイバイを返してくれたこと、壁にセメントを塗っている時、目にセメントが入って片方のコンタクトを取って片目で作業したこと(つらかった - )、みんなでやった地道なセメントリレー、高い所に乗って作業しているみんなの姿、小学校を訪れて後ろの席で授業に参加させてもらった時前の席の子供達が好奇心いっぱいの目で私達をチラチラ見てきたこと、Sun Miguel Beerがかなりおいしかったこと、ホテルのバーのお兄さんが日本へ行ってお金を稼ぎたいと言ったものすごく真剣な眼差し、ターシャの目の大きさ、教会できれいに響いていた聖歌隊の声、私達の汚れた服を丁寧に洗ってくれていたおばさんの姿、トゥ - ルの緊急入院、ユッちゃんが口内炎痛い痛いと訴えていたこと、外に出るのが好きではなかった子に私達が遊ぼうと誘うと喜んで出て来てくれたこと、リッキーが子供を抱っこしていたこと(!)みんなで歌って・踊った文化交流、二ラッチのソロ、鍛治先生のダンス、ジョハーニのダンス、ホームステイ先での豪華な朝食、別れ際のリチャードやマリーンの涙、笑顔でバイバイして見送ってくれたハビ村の人達・・・もう全然書ききれません。こんなにたくさんの良い思い出ができたのも、みんなと鍛治先生・金井先生と行けたからだと心から思っています。正直言って、1年生が1人だけだと思っていたので少し不安だったし、(その時はとものりが1年生だとは思っていなかった)フィリピンへ行くのもかなり悩んだし、みんなとうまくやっていけるのか不安でしょうがなかったけれど、今は行かなかった自分を想像すると怖いし、なによりもフィリピンへ行かなかったらみんなと仲良くなれなかったと思うと・・・恐ろしい・・・。もう本当 - に行って良かった。ハビ村の人達、ハビタットのスタッフ、先生、そしてみんなどうもありがとう。
最後に一言(鍛治先生にボキャ貧と言われそうだけど・・・)「もう本当に超・超・超・超・超 - 楽しかった!!」
鈴木 まりえ
今回のワークキャンプを通して、見たもの・聞いたもの・味わったもの・嗅いだもの・感じたこと・学んだこと、そして発信したもの、という五感から得たものは非常に大きかった。
海外初経験の私にとって、フィリピンという国のもつあの何にでも染み付いているかのような独特な空気の匂い、湿り気などは、写真や本から得られるものにはやはり限界があるということをいやというほど教えてくれたし、それらの未知で新しかった刺激が、(今となっては)多少懐かしくも感じてしまうことなど思いもよらなかった頃から、自分の思い描いていた空想ともいえる世界に浸って、半ば行った気になっているような状態のままで空港に降り立っていた自分に、リアルな現実が押し付けられ、目を覚まさせずにいられなかった。
滞在中に起こったいくつかの自分に関わってきた出来事も、私のからだ(や心)を通して、いっそうリアルなものとして私の中に出たり入ったりしてきたので、あたかも今でも忘れられないようにと、がんばって残り続けているかのようにも思えるのだ。
私もそれを、確かに苦痛ではあるが、満更厭だというわけでもないらしく、むしろ多少は心地好い余韻にでも浸っているかのような、そんな不思議な気持ちでここ数週間を過ごしてきた。と、細かいことを書き出すと終わりがないように思われたので、漠然と書いていたが、これもまた先が見えないので、結局内輪ネタで終わってしまいそうだが、少し具体的なことも書かせていただこうと思う。
正直、私はみんなの中で、おそらく最も早く日本シックになったろうと思う。それは不慣れな土地への不安や、風土が肌に合わないことも確かにあったと思うが、そうではなくて、そういう状況に立たされた時のあまりに無力な自分、なんというかボクシングやK1チャンピオンの前に突然立たされた瞬間、または気が付いたらライブハウスのステージの上に立っていた・・とでもいう様な、夢でよく見るような「本番当日の恐怖の瞬間」が実際に襲ってきたからだ。特に貧困の場面を垣間見てしまう時など、どうしたらいいのだろうと考えることはできるが、結局今ここでは何もできそうにないと自分でわかってしまうと、「クニに帰って出直してきますっ!」か、もしくは「もっと修行してからお相手願います!」という気持ちで一杯になってしまったことは今でも覚えている。
みんなが、今ここで自分たちができること、やりたいことを、フィリピン人や仲間同士との交流などを通して心から楽しみ実践しているのを見ていると、みんなや先生がとても賢く見え・・ん?(先生は当たり前か・・)、素直にうらやましいと思えた。そんなみんなの姿を見ていて、また見習いながら、もう今は本番なんだよなぁと思えるようになってからは、そんな気持ちも海外への不安や新しかった刺激と共に和らいでいったように思う。(おなかへの刺激がこの後代わりにやってきたのだが・・。)その点ではみんなと一緒に旅ができたことを、またみんなに対しても、私のほうで勝手にとても感謝しています。とは言え、「修行積んでから、またいつか!」的な気持ちは、向こうではネガティブな方向に働いてしまったが、本来のポジティブさと勢いを日本まで持って帰り、それに近いところでがんばって行きたいと強く思えたことは、自分でも何かを掴んだ瞬間のような気がして嬉しかった。フィリピンの旅でそのような「動機づけ」が持てたことが嬉しかった。「いいお土産ができた・・」と早くもそんな気分になってしまっていたと思う。
それから引率(?)の鍛冶先生についても・・。実は、ある時、私は先生とホテルで同室の男の誰かに(参加者でない方は誤解しないで頂きたいが)用事があり誰もいない部屋に入った時、偶然に先生の家族の写真のパウチを見つけてしまった。それまで今のようなみ姿しか知らなかったので、そこに黒髪がのっかっている顔写真を見て、自分の中の先生に対するイメージが一変した。 というか(イメージに!)幅が出た。
そんな折、私は自分の身体からリアルな痛みが出始め、ついに初海外で初入院!!という快挙?を成し遂げた(そしてなぜか表彰されまでした)のであるが、その際近くの病院まで先生も当然のような顔をしてついて来てくれたのだ。私が英語で診察など受けられるはずもないこと、そしてあまりの痛みにとても一人でなどいられなかった、という点で嬉しかったが、それ以上にちょっときまずいことがあった。
ひとつは先生がこの後のシーフードレストランをとても楽しみにしていたこと。そしてもうひとつは、牧師である金井先生と共に誓ったはずの私の禁煙宣言が、なんともあっけなく破られ、前日に大失望されたばかりであったから!
ひとつ目の気まずさはすぐ解消された。「気にするな」と何度も私に言ってくれたし、事後報告によるとシーフードもしっかり満喫してきたようだからである。けれどももうひとつの方は医者にたばこは吸うか?何本くらいだ?と、しつこく聞かれるのでその度に、本当のことを知っている人が、(その翌日に!)何食わぬ顔をして隣で私との通訳をしているということ、また少しでもいい診察になるようにと自分も願うてまえ、目の前で今一度真実を暴露せざるを得ないこの状況ったらなかった。また個室に入ってからも「神様との約束を破った罰だ!」と、たばこの肺への害よりひどいんじゃないかと思えるほど、また点滴以上にチクチクと肺の近くを射され攻められ続けたので、私は先生が天使にも悪魔にも見えた気がした。
けれども、先生の学生時代のことやハビタットのことなど、あの時二人っきりで話したいろいろなことは、私にとっては忘れがたいものになったし、(実際は途中で中断され、全然話し足りない気が私はしていたが)それまであまり私からは話しかけたことがなかったので新鮮だった。本当は・・(?)やさしくて朗らかな純粋な人なんだなぁと思った。正直今まで斜に見ていた自分があの昔の写真を見た時に感じた印象がまさにそれと同じだった。あの時そうかなぁと思っていたのが、実際そうだったので嬉しかった。
そんな初めて尽くしの経験の中で親身になってくれた鍛冶先生に感謝するとともに、朦朧としながらベットから見上げていた私の目には、優しかった先生の天使とも悪魔ともつかぬぼやけた輪郭の背後に、いろんな意味で「カミ」が乗っかっているような幻覚を見たような気がした。そんなとき「キリストパワー」(とものり作)と先生の「天罰」の言葉をほんとに信じてしまった自分に可笑しくなって、痛みも少し和らいだのであった。(これ、冗談ですよ。怒らないでくださいね。)
そういえばナンシーさんのいつもちょっと濡れているあの黒髪も印象的だったなぁ。船着場まで見送ってくれた時の、男顔負けの強い握手のすぐ後にきた涙も私には忘れられません。ほかにも日曜の休日、犬、にんじん、田舎道、現地の人やたくさんの子供・・。本当に数え上げたらきりが無いのでこのへんでやめますが、今にして思えば出発前の自分なりの動機付けなんて、もうどうでもよくなりそうです。大勢でのこの旅に今は何の疑問も後悔もありません。反省点は幾つかあるけれど・・。
けれども、一人旅では絶対に味わえない内容であったであろうあのキャンプから帰国し、ふと一人になった時、あの十一日間が逆になにか現実離れしているようで、妙な在り得なさを感じました。帰国した実感はすぐにわいたのに、さっきまで行ってきたという実感がわかなかった。あれだけいろいろみてきたのに、急に全部うそっぽく思えてしまったことに恥ずかしくなりました。それでもやはり次へのステップに向けて早くも動き始めているみんなを知るうちに、現地の人との交流を思い出し、みんなともフィリピンともまだつながっているんだなぁという気持ちになれました。
今回の旅は自分にとって本当に笑顔の多い旅だったし、みんなも多分そうだったろうと思う。一人ではこんなにしょっちゅう笑っていられなかったろうと思う。それは、性格も感じ方も違う人達が集まっても、「家づくり」という共通の目的を持てたからだと思う。それを忘れてはいけない。目的があれば大勢でいっても楽しいし、より深くわかり合えるということを改めて思い知らされた今回のワークキャンプであった。「いやぁー、ワークキャンプってほんとにいいもんですねー。」って思いました。一足先に僕は卒業したけど、ほんとまじで、2002GVのみんな最高ー!! ほんと楽しかったっす!!
と、どこが具体的だ、というところや参加者にしかわからないことばかり長々と書いてしまいましたが、そうでない方にも読んで頂いた方にはとにかく楽しかったことだけは伝わったかなと・・・。それだけかよっ!となつかしの芸人に言われてしまいそうですが・・。 まだまだ書きたいことたくさんあるけど、もう充分くどいのでまたみんなと直接会ったときに話しましょう!!
菊地 透
今回のGVワークキャンプの中で、私達はとても貴重な体験をしたと感じています。その中でいろいろと考えて正直頭の中はいまだにぐしゃぐしゃです。帰国してすぐは、ひとつのことを成し遂げた達成感に満ちていて、楽しい気持ちだけでした。しかし、落ち着いてくると、みんなに伝えたいことが次から次へと浮かんできて何をしたら良いのかと悩み続けてきました。そして、私は今回のGVを通してこれだけは残したいと思うことを残そうと思います。
それは、Habitat village の人たち、特に子供達と触れ合って過ごした時間です。小学校入学前の3歳から5歳ぐらいの子供達が、私達がワークをしている間はいつもそばにいました。そこで近づいて話し掛けてみると、英語をあまり理解できないようでした。私は子供達とコミュニケーションをとるためには、言葉以外の方法を使うしかないと思い、だっこしたり、おんぶしたり、一緒に走り回ったりと夢中で子供達と遊んでいました。子供達と過ごした中でこんなエピソードがあります。ニコール、アンソニー、バネッサ、ドゥッサという3歳から5歳の子供達と遊んでいたときのことです。子供達が手をつなごうと私の両手を取り合って喧嘩をして、ニコールが泣いてしまいました。私が彼女をなだめ、泣き止んだので、彼女の手をつなごうとすると、今度はアンソニーが座り込んで泣いてしまいました。そこで、今度は彼をなだめようとすると、他の子供達は走り去ってしまいました。それが分かったとたんに彼はおんぶをねだってきました。泣きまねをして私のことを独占したかったようでした。こんな風に毎日を過ごしていくうちに、私の気持ちが通じたのか、サイトに行くたびに、「チサーチサー」と多くの子供達に、また、遊んだことのない名前も知らない子供達にさえ、呼ばれるというとても楽しい時間を過ごすことができました。
私は子供達と過ごした時間から忘れていた何かを教えられました。言葉以外でコミュニケーションをとる大切さ、素直な気持ちでいること、人としての素朴な純粋さ・・・。日本にいたときには携帯のメールで相手の気持ちを量ろうとしていた自分はこのことを忘れていました。そして子供が大好きで喜んだ顔が見たくて夢中になってしまう自分がいるという自己発見もできました。
こんなに貴重な体験ができたGVの日々は私の心に永遠に残り続けます。しかし、これで私の中に終止符が打たれたわけではありません。今回はただ夢中で過ごした日々をただの思い出としてでなく、もっといろいろなことを学び、今後の自分の課題としていきたいと思います。大好きなハビタットの子供たち。彼らがいつも笑顔で私達に接してくれるので、その明るさからは気づかなくとも彼らが着ている穴の開いた色あせたTシャツから、貧しさを再認識させられました。彼らのために私ができることを、11日間一緒に過ごした大切な仲間と考えていきたいと思います。
塚本 知沙
飛行機を降りるとそこはマンゴ−の国でした。マンゴ−の国はフィリピンという名のついた国でした。日本からやって来た総勢18人と小人2人はフィリピンの人達と仲良くなりました。フィリピンの人達はshyだったけど明るくて優しくて、そして親切で思いやりのある人が多かったのが印象的だった。言語能力のあまりない自分は、うまく伝えられない時や、何を言ってるのかわからない時があって、もどかしい時もあったけど、相手の気持ちが少しわかるような気がする時や、言いたいことが少し伝わった時もあったのは事実だった。時に言葉は無力であるように、言葉がなくても伝わる気持ちがあることを再認識できた。GVを経験して得たモノや失ったモノはまだわからない。
人は少しずつだけど確実に変わっていく生き物だからどっかしら変わったのだろうけど。そんなことは自分にとってはどうでもいいことだ。どこが変わっただとかさ。どうでもいいんだ。毎日自分の歩んでいく道を手探りで探しながら進んでいくことができればいいから。その道の途中にGVがあった。それだけ。ただそれだけ。
毎日楽しく生きたい☆そういうこと♪マブ−ハイ!!
矢澤 朋徳
毎日いろんな刺激があって本当楽しかった。ワーク初日いきなりの重労働。これが毎日続いたらどうなるの?初日からちょっと不安になった。何日かするとワークにも慣れてきて家が徐々に完成に近づいて行くのが楽しみになり疲れながらもなぜか楽しかった。それは疲れるまで働く充実感とみんなとの「協働」であったからだと思っています。私はこれまで団体行動が苦手で今回のワークキャンプで少しでも克服したいと思っていたのでこの「協働」で家を建てるということができてひそかに感動した。
その他にも感動したことはいくつかあってその中でもフィリピンの果物の美味しさには感動を超えたものがあった。バナナ、マンゴー、マンゴスチン、グァバノ・・・すごい幸せを感じる毎日だった。休日の観光では絶景のチョコレートヒルや川下りなどで癒された。ホテルでは毎晩お酒を飲みながらみんなと談話。お酒のおかげでいろんな秘話も聞けたりした。あっという間にワークキャンプも後半に入り家の方もほぼ完成。嬉しさの反面終わりの近づきに悲しくなった。ホームオーナーに鍵を渡す日、これからこの家で生活が始まるのだと思うと、本当にこれで完成でいいのかもっと丁寧にやるべきではなかったのかなど変に不安を持った。お別れパーティでは練習を重ねた歌や踊りが披露でき満足感でいっぱいだった。このワークキャンプには特別な気持ちになったことがたくさんあって本当参加できて幸せに思います
春日 知幸
僕がフィリピンワークキャンプ直前に掲げたテーマは、「生きる」でした。どうしてこういうテーマに至ったか、出発直前のメーリングリストにはこう書いてあります。
僕が一番フィリピンワークキャンプに期待していることは、「今を生きることにがむしゃらになっている人たちに逢うこと」僕らのいま住んでいるこの世界では、自分の将来とか人生、自分自身の存在に対していろいろ思い悩むことがたくさんありすぎて、ついつい立ち止まって考え込んでしまうけれど、明日僕たちが行くそこには、あれこれ考えずにとにかくひたすら生きることに一生懸命な人たちがいる。彼らを見て、彼らと触れ合い、彼らの「生命のエネルギー」を感じてきたい。そんな彼らとの出逢いを、これからの自分の「生きるエネルギー」に変えられたら…と思う。
フィリピンへ行く前の自分は、自分の考えていることをなかなか行動に移すことが出来なくて、身動き取れないでいる自分にものすごく息苦しさを感じていました。自分のまわりにいて、めちゃくちゃ元気でActiveに活動している人たちを見ていて、「この人の何処からそんなエネルギーが出てくるんだろう」と真剣に考えたりして、なんとかその活力を自分のなかに創り出すことが、それまでずっと追い求めてきた大きなテーマでした。そして、もしフィリピンで、そこに暮らす人たちとの触れ合いのなかで彼等の生命力、バイタリティを身体いっぱいに浴びて、それを自分のものにすることができたのなら、その土地を自分の一生の生活の場としても構わないくらいの気持ちでいました。そんな動機から、「家を建てる」という本来の目的とは別に、「生きる」ことを探訪する旅の中で、セブからボホール島へ渡ったキャンプ2日目にいきなり驚きの体験をしました。ホテルに荷物を置いてからハビ村の保育所や血盟記念碑の向かいにある小学校に見学に行ったときのこと、思わず食べてしまいたくなるくらいかわいい子どもたちの歌にこっちまで目を輝かせて聴いたり、一緒にフィリピン語の授業を受けたりしてほんの少しの時間をともにし、いよいよ帰ろうというときに、子どもたちが声をそろえて「good bye good bye…」と合唱したあと、最後に決まり文句のように右手こぶしを突き上げながら「Ma bu hay!」と叫んだ瞬間、「わぁ - っ!」と、なんだかうれしくなって身体がブルブルっとふるえました。あとになってそれが「ALIVE!(生きる)」を意味する言葉だと聞いて、またふるえました。 なんという偶然だろう・・・!自分がこの旅に課したテーマをこんなところで子どもたちの口から聞くことになろうとは。「Ma bu hay」
この言葉がどんな教育的意図をもって子どもたちに教えられているのかわからないけれど、子どもたちが仲間と一緒にこぶしを高く掲げて「生きる!」なんて言ってしまうようなこの国、この島の風土、文化に、好奇心と愛着をいっそう強く抱きました。いよいよ今回のワークキャンプの名目上の目的であるハビ村での建築作業がはじまってから中日を迎えるまでの3日間は、まず初日からコンクリートの材料になる砂・砂利を運ぶときのあの重さに驚き、小さい体なのにひょいと担いで運んでいく14歳の少年に驚き、みんなで力を合わせて床をすべてコンクリで埋めたときの感動や、友だちになった奴らとバスケをして、「あぁ、スポーツは本当に世界をひとつにするんだ」ということを実感したり、、、挙げたらきりがない感動と発見の連続で、一日と同じ日はなく毎日が新鮮でした。感動と発見は様々だけれども、この3日間で「生きる」というテーマに関連して共通に経験したことは、「あとさき考えずにその日その瞬間を精一杯、一生懸命になってやった」ということです。一生懸命砂を運び、ブロックを組み。一生懸命になって遊んだ。仕事をサボるときにも一生懸命になってサボった。 なにも考えずに、とにかく「いまを生きる」!こんな経験はずいぶん長い間していなかったように感じました。こんなに何かに夢中になったのは、小学生の頃辺りが真っ暗になっても親が叱りにくるまで友だちと外で遊んでいたとき以来だろうか。そんなことに気がついたのも中日の夜になってからでした。ワークキャンプもちょうど半分を過ぎて、終わりが見えるようになってからは、趣きがガラッと変わりました。それまでゆ - っくりと流れていた時間が堰を切ったように流れ出し、もうどうしようにも止められなくなりました。その日その瞬間を思い切り生きる生活も、終わり(先)が見えるようになってからは、コンクリートで溝を埋める作業を黙々としながら、旅から帰ったあとの生活や将来のことをいろいろと考えてしまうようになりました。それからはもう、ものすごいスピードで一日一日が過ぎ去り、いつの間にかフェアウェルパーティーがはじまり、ホームステイの夜、ハビ村での最後の朝が来て、半ば放心状態のままセブへ向かうフェリーに乗っていました。いま、この旅を終えて、旅の中に自分が探していたモノを見つけられたのか。結論から先に言ってしまえば、この問いに対する答えは「NO」です。あの、キャンプ前半の、たしかに自分が「生きていた!」という記憶は、実生活から離れた旅の中だからこそできた経験でした。旅をすると、たしかに「生」が映える。これが、危険と隣り合わせな命懸けの一人旅であれば、もっと鮮やかに映えて見えてくるでしょう。しかし、旅の中で得られるような「生」を糧に生きようとするなら、一生旅のなかに生きるしかない。きっと、探し求めているモノはいつもの日常の生活の中にしかないんじゃないか。
これが、この旅における僕の結論です。なんか、Global Villageとはかけ離れたところへ来ちゃったけど、これが僕のフィリピンワークキャンプでした。得るものは他にもたくさんあったし、自分のなかに変化も生まれた。あれこれ考え込んでじっとしてないで、なんにも考えずにとにかくやってみる!そんなふうに自分を変えていこうと思ったのは、ハビ村での経験と、夜な夜な仲間たちとSanMiguel片手に語り合えたおかげです。でっかい壁にぶち当たっても、身動きとれなくなったとしても、みんなで生きていこうさぁ! 「Ma bu hay!」
韮澤 修一郎
このGV中に僕の心を特に痛めた出来事があった。それは、土曜日の午後の出来事だった。僕が日本から持ってきた日本の雪や自分を写した写真を彼らに見せた時だ。僕が友達になったMARNELが僕との友情の思い出に僕の写真を欲しがったので彼に僕の写真をあげた。日本とフィリピンは飛行機で4時間、ボホールまではそこからフェリーで一時間半の距離だ。半日の距離。しかし、家を建てるお金もない彼らにとって、僕らに再び会う機会は一生こないかもしれない、僕らも、日本に帰って日常生活に戻ったら何かと忙しい日常生活に押し流されて彼らに会いに行く機会を見失うかもしれない。そのことは、僕も彼らも分かっていて、余計に、今という時をお互いに楽しんでいたのだが。
MARNELは僕が写真をあげた代わりに、彼の帽子を自分の思い出にと僕にくれた。その時、他の子供達が僕の写真を欲しがったので、彼らに僕の写真をあげてしまった。MARNELとしては、自分は僕の写真と帽子を交換して友情の絆を深めたのに、他の(子供)達に僕が写真をあげたのが不満だった。そこで、僕に僕が着ているTシャツと自分のTシャツを交換しようと言ってきた。つまり、Tシャツの交換によって、他の人間と差をつけようと考えたのだ。
ハビタットの規定に、贈り物をしてはならないというものがある。理由は、贈り物をあげることによって、贈られた側のコミュニティーが破壊される可能性があるからだ。日本人にとっては、たいした価値のないもの(値段の安い)ものでも、物価の差からフィリピン人にとってはかなり高価なものになってしまう。その彼らにとって高価な物を贈った場合、「何であいつは日本人に物をもらって、俺はもらえないんだ」という、コミュニィティーの破壊につながってしまう。
僕は、そのことが念頭にあったので、とりあえず、最後の日に交換しようと彼に言った。そして彼は納得してくれた。その日、鍛冶先生と相談した結果、彼には月曜日にTシャツの交換はできないことを伝えることになった。
月曜の朝、MARNELに声をかけ、彼に「これはボホール島での思い出だから、交換することはできない」「でも、だけど日本に帰ったら手紙を贈るよ」と伝えた。しかし、彼はノープロブレムと言ってくれた。しかし、彼の後姿が何ともさびしげで、僕は、いたたまれない思いをした。僕が、写真を渡す時に注意して、二人っきりの状況を作り出して、写真を渡せばよかったのだ。これが、僕の一番心を痛めた出来事であった。
このキャンプを通じて感じたのは、僕のあのいい加減な英語でよくお互いの心が通じ合い、友情という絆を築けたなと思った。そして、大切なのは語学よりお互いを受け入れ理解しようとする心であると感じた。言葉という道具をいくら持っていたところで、そこに心がこもっていなければ言葉は生きてこないものだと感じた。
そして、僕の最も嬉しかったことは、自分の心が日本人よりはるかに感受性の高い彼らに受け入れてもらえたことだ。このことが、フィリピンに行った自分への最高のお土産であり喜びだった。時と共にワークキャンプ自体の記憶は薄れていくだろうが、この受け入れてもらったという感覚は一生僕の中に生き続けるだろう。
得田 英里斗
今年はじめて行なわれたフィリピンでのワークキャンプ。私はこの旅に参加するにあたり、二つの負い目を感じていました。一つは準備のプログラムにほとんど加われなかったということ。学生の皆さんは数ヶ月前からミーティングや合宿を行ない、ワークキャンプに向けて精神的・具体的な準備を進め、緊密な仲間作りも行なってきました。しかし、私は他の行事と重なってそれらに参加することができませんでした。旅のスタートの時点ですでにあらゆる意味で後れを取っているというあせり、また彼らが一生懸命準備してきた一つ一つに全く貢献していないという負い目が心を重くしていました。しかし心優しい彼らは私を邪魔者扱いせずに仲間として迎えてくれ、全員の名前すらまだ覚えていなかった私を共に働く一員にしてくれたことはありがたいことです。
もう一つの負い目、それはフィリピンに行くということ自体に対して抱いた思いです。太平洋戦争において日本はフィリピンにも侵略し、多くの人の命を奪い、数年に渡って過酷な支配者としてふるまいました。それは私の祖父ぐらいの世代がなした仕打ちですが、同じ日本人としてフィリピンの人々に大変申し訳ない思いをぬぐい去ることはできません。フィリピンに行って家を作るということは、私にとってある種のつぐないでもありました。私たちが行ったボホール島はルソン島、ネグロス等、セブ島、レイテ島などに比べるとかつての暴虐な日本人の足跡は少ないのだと思います。けれども、滞在中機会があればこうした日本の犯したあやまちについてフィリピンの方と話をしなければと考えてはいました。ただ、ワークキャンプという性質上、また私の英語力のなさでなかなかその機会は訪れません。
結局、そのことに触れて話が出来たのは滞在したホテルの従業員の方たちとでした。「かつての日本はあなたがたフィリピンの人たちに対して本当にひどいことをしました。多くの尊い命を奪いました。それは私がしたことではありませんが、日本人としてそのことを申し訳なく思っています」ということをなんとか伝えました。彼らはそれに対して、「過去のことは忘れよう。大事なのはこれから仲良くしていくことですね」と答えてくれました。彼らもまた直接被害を受けた世代ではない人たちでしたので、そう言えたのかもしれません。しかし、その言葉によって心が少し軽くなったのは確かです。
こうして始まったワークキャンプでした。旅全体を通して見れば、それはワークというより建築体験ツアーとでも言うべき日々でした。つまり、家も作ったけれどそれ以上に熱い歓迎を受け、向こうの方たちによっていろいろな所に連れて行ってもらった旅だったということです。観光の名所やビーチ、小学校や大学、シティホールやライブハウスなど実に多くの所を案内してもらいました。それらも含めて貴重な体験だったといえましょう。
建築現場にはいつも子どもたちがやってきて、手伝ってくれたり一緒に遊んだり、あの子たちの笑顔が印象的でした。澄む家があって子どもたちが笑顔でいられること、平和とはまさにこのようなことを言うのだと思いました。
フィリピンは人口の90パーセント以上の人たちがクリスチャンです。信仰が生活に根付いているというか、すべての根底を支えていることをいろいろな場面で感じさせられました。タグビララン市に買い物に行ったときのことです。大きなショッピングセンターでこんな光景を目にしました。ちょうど夕方6時になった時、館内の放送が始まりました。するとその場にいた全員が一切の動きをとめて、その言葉に耳を傾けています。祈りというか小さな礼拝が始まったのです。中には胸の前で十字をきっている人もいます。祈りに応答している人もいます。それは客だけではありません。従業員もすべてです。レジを打っていた従業員もただちに手をとめて祈りに加わっています。いままでの喧騒が嘘のように静寂なひと時が始まりました。ちょうど時間がとまったような不思議な世界でした。同じような光景はセブ島からボホールに向かうフェリーでも見られましたし、いろいろな人と話している中にも生活の中に確かに宗教が位置付けられていることを教えられました。
そのように生きている人たちから見れば、日本人のように宗教を持たない人々は理解しにくいのでしょう。「あなたの宗教はなに?」と聞かれて「特にありません」と答える日本人に彼らは驚きます。「それでどうして人間として生きていけるのか。日本人の心の中は空虚なのか」と彼らが言うのも無理はありません。こうした問答を経験した学生はショックを受けたことと思います。宗教がないことに驚かれてびっくりするのです。これも一つのカルチャーショックだったでしょう。この経験も多くの出来事の中に埋もれさせることなく、これからの生き方を通して問いつづけてほしいと思います。
異文化体験とは異なる生き方をする人々との出会いをすることだと思います。それは同時に彼らを鏡として自分を写し出す経験でもありましょう。宗教的な違いも含めて、私たちは自分というものと向き合う機会を得ました。私たちが日本人としてどれだけ豊かな国に生きているのか(それはまた世界経済という大きな構造の中で私たちが支配する側、犠牲を強いる側に立っていることをも意味します)、私たちはいかに日頃自然から切り離されて生きているのか、また私たちは毎日をなぜこんなにあわただしく生きているのか、フィリピンの人たちとの出会いからこのように様々なことを考えさせられました。
このような体験を共にした参加者一人一人をいとおしく思います。彼らとも貴重な出会いをすることができました。この豊かな交わりが学生生活を支えるものとなり、さらに大きな輪に成長していくことを願っています。
学院牧師 金井 創
白金校舎でのチャペルアワーで、メンバーがフィリピンワークキャンプで感じたことを話しました
白金キャンパス 2002年10月15日 - 10月18日 12時35分 - 13時
10月15日 火曜日 奨励者 楠千代子・湯泉志緒 社会福祉学科3年
讃美歌:391番、539番. 聖 書:マタイ7:24−27(新12頁)
テーマ:小さなわたしたち
10月17日 木曜日 奨励者 韮澤修一郎 社会福祉学科4年
讃美歌:391番、539番. 聖 書:マタイ7:24−27(新12頁)
テーマ:旅に出る理由
10月18日 金曜日 奨励者 齋藤美佳 法律学科3年 得田英里斗 経済学科4年
讃美歌:391番、539番. 聖 書:マタイ7:24−27(新12頁)
テーマ: 絆−きずな−
10月29日 火曜日 奨励者 滝川 祐 政治学科 2年
讃美歌:391番、539番. 聖 書:マタイ7:24−27(新12頁)
テーマ:「伝えること。つなげること。」
夕拝 17時30分 - 18時
10月16日 水曜日 奨励者 佐原 弥寿子 社会学科2年
讃美歌:391番、539番. 聖 書:マタイ7:24−27(新12頁)
テーマ:Live + - ing
(10月15日 火曜日)
初めまして。「ちよ」です。「しお」です。今回、私たちは、9月10日から20日までの11日間にわたって、宗教部主催、フィリピン・ワークキャンプにメンバーの一員として参加させて頂きました。このフィリピン・ワークキャンプは、世界中の住宅環境に恵まれていない方々に、安心して生活できる住宅を提供したいと活動しているNGO「ハビタット」と共に、私たちもボランティアとして、住宅の建設をお手伝いさせて頂くことを目的として行われたものです。
きっと、「フィリピンへ行って、家を建ててくる」といっても、いまいちイメージが湧かないと思います。私たちもそうでした。家といっても、私たち日本人が住んでいるコンクリートでできた丈夫で大きなものではなく、ブロックやセメントを主としたシンプルな家です。しかし、人が住む家を建てる訳ですから、もちろん、家の建設の専門家である地元の職人さん、大工さんの協力が必要となります。そのため、私たちは、彼らの指示のもと、彼らと共に作業していくことになります。そんな私たちが出来る作業といえば、セメントの材料になる石や砂を運んだり、床になるセメントをバケツに入れて運んだり、壁になるブロックを積み上げていったり、壁にセメントを塗ったり、窓やドアにペンキを塗ったり、など単純な体力勝負の作業が主となります。
このような説明を聞いても、まだ、いまひとつ、イメージが湧かないだろうと思います。私たちもそうでした。そのため、フィリピンでの初日の作業では、砂や石をつめた袋を持ったとき、「こんなに重いものがあっていいのだろうか…??」、セメントのバケツリレーをしながら、「いつまで、こんな同じ事を繰り返さなきゃいけないのだろうか…??」、「こんなに汗だくになるものなのか…」と想像以上の過酷な作業にビックリしました。
すると、気合いをいれて作業に臨んだ私たちも、次第に、笑顔が消え、会話が消え…という状態に陥ってしまったのです。しかし、そんな時に私たちを助けてくれたのが、一緒に作業をしている地元の人々、仲間たちの笑顔や励ましの言葉でした。「ちよ、笑顔がないよ!大丈夫?」とか「ちよ、変わろうか?」とか「ちよ、少し休んだら?」と誰かしら声をかけてくれたり、笑顔で話し掛けてくれたりしました。誰が、言い出したわけでもなく、自然にお互いを励ましながら、いたわりながら作業していました。そんな、周囲の何気ない一言や存在が、私たちにとって大きな支えとなり、「一人でやってるんじゃないんだ!」「みんながいるからやっていけるんだ!」ということを実感させてくれました。
きっと、このような人の存在、仲間の存在や人の温かさをここまで感じることは、普段の生活ではなかなか味わえないものだと思います。家を建ててくるという一つの目的に向かって、みんなが一つになっていたからこそ、お互いの存在を認め合うことができ、支え・支えられるという関係を感じることができたのだと思います。このように、私たちは、まず一つ、このワークキャンプを通して、自分は人に支えられながら存在していること、人はお互いに支え合う必要があるものなのだということを教えられました。
そして、もう一つ、私たち二人には、とても印象的な体験があります。それは、初めて自分の言葉が通じない世界に出会ったということです。私たちにとって、今回が初めての海外でした。もちろん、今まで学校で英語の勉強はしてきましたが、英語を話すという機会がほとんどなかったので、とことん英語が苦手でした。フィリピンでも英語が使われていることは、行く前から分かっていましたが、私たちは、強気で、なんとかなるだろうと思って何も対策せずに向かってしまいました。案の定、私たちは、地元の人々との言葉の壁にぶち当たり、玉砕したのを覚えています。
「相手の言いたいことがわからない」「自分の伝えたいことがうまく伝えられない」という、もどかしさを嫌というほど体験してきました。特に、相手の質問が聞き取れなくて、答えられないことに、どうしていいか分からなく、ホント情けない気持ちでいっぱいになりました。そのため、次第に自信がなくなり、気付かないうちに地元の人々との交流を避けるようになっていた気がします。フィリピンの人たちとの交流をとても楽しみにしていた私たちにとって、この出来事は孤独を感じさせるものでした。
しかし、そんなことで悩んでいる私たちに対して、彼らは優しく笑顔で接してくれたのです。私たちのそばにはいつも、私たちの下手くそな英語を一生懸命きいてくれ、分かろうとしてくれる彼らがいました。私たちが英語が苦手なのを察してくれて、ゆっくりと話し掛けてくれたり、簡単な単語に言い換えてくれる彼らがいました。表情をじっと見て、体調を気遣ってくれる彼らがいました。そして、彼らのやり方で私たちを楽しませようとしてくれました。彼らは、言葉のやり取りではなく、歌やダンスをするだけで、お互いが笑顔になれ、楽しい時間や空間を共有できるということを、私たちに気付かせてくれたのです。
もちろん、英語が話せれば、いろんな会話を楽しむことができ、お互いをもっと知り合えるに違いありません。そのためにも、英語ができることに越したことはないでしょう。私たちも、「もっと英語が得意だったらなぁ…もっとたくさん話ができたのになぁ…」という後悔が今もあります。ただ、今回の私たちは、英語ができないからこそ、いい体験ができたと思っています。言葉が通じない分、お互いが全身で分かり合おうと努力し、近寄ろうとする姿勢、ここから私たちは相手の優しさ・温かさを肌で感じることができましたし、また、私たちのそういった思いも、彼らにとどいたのではないでしょうか。この双方向のやり取りの中で、目・笑顔・表情・しぐさ・沈黙など言葉では伝わらないもの、言葉以外に気持ちを伝えるものが、たくさんあることを彼らに教えられました。
きっと、何より大切なのは、自分がこのようなジェスチャー・表情、またちょっとした単語を使って、自分の持っているすべてで相手と向き合おうとすることなのではないでしょうか。このように相手の目、しぐさを見てじっくり向き合うことの大切さを、私たちは普段の生活で忘れてしまっていたような気がします。相手の伝えたいことを、時間をかけてでも一生懸命分かろうとすること、自分の伝えたいことを、あらゆる方法を使い伝えることは、頭も使い、時間もかかり、本当に大変です。しかし、伝わったときには、それ以上の大きな喜びを、お互いが持つことができるのです。このような時間の共有により、簡単な言葉での会話だけよりもいろんなものが伝わってくることを、私たちは、彼らとのかかわりの中で、体で実感し体験してきました。大切なのは、決して言葉ではなく、その時、その場所にお互いがいて、心から向き合うことだと、彼らの中で感じました。
このように、改めて振り返ってみると、私たちは、様々な場面で、多くの人に支えられていたと思います。正直なところ、「果たして、本当に、私たちは家の建設に何か役に立って来られるのだろうか?」という思いもなかった訳でもありません。しかし、事実、私たちが、コツコツと運んだ、積んだ、塗ったものが家の一部となり、形あるものとして残り、そして、そこで生活をする人がいます。この運んだ、積んだ、塗ったという作業は、家作りのほんの小さな作業に過ぎません。しかし、たくさんやれば、何度もやれば、運んだ砂や石はセメントに、そのセメントは床に、積んだブロックは壁に、塗ったものは見栄え良くなり、というように次第に大きなものへと変化し、確かに家の一部となりました。この一つ一つ作業は、家を支える重要なプロセスだったわけです。このことから、私たちのような小さな力でも、集まれば、大きなものになることを、この家作りを通して実感することができました。
また、たった一つの石、たった一つのブロックでも、一つ失えば、家は不安定になり崩れてしまいます。それと同じで、共に作業をした人々のうち、誰か一人でも欠けてしまえば、一つの力を失い、みんなの心にも穴を空けてしまいます。そこから、私たちは、人は、一人として欠くことのできない存在だということを教えられました。
人は、一人だと、時として、無力さや、むなしさ、寂しさから、自分の存在すら否定してしまうことがあります。しかし、今回、私たちは、家作りを通して、生活を通して、地元の人々との触れ合いを通して、みんなの中で、支え・支えられという関係を築いていきました。その中で、自分の存在が認められ、相手の存在を認めることができ、そして、自分の居場所というものを探し出すことができました。一人の力や存在というものは、本当に小さなものでありますが、一方で、一人一人はかけがえのない大きな存在であることを思い知りました。
私たちも、ご覧のように、見た目からいっても「小さく」、「ちっぽけな自分」を感じることもあります。周りにも、どんな存在として映っているのか分かりません。しかし、少なくとも、私たちの心は、このワークキャンプを経験し、人一倍大きくなって帰ってくることができたと思っています。私たちがこう思えるのも、一緒に行った仲間たち、フィリピンで出会ったハビタットの方々、大工さん、子供たち、村の人たち、そしてこのプログラムに協力してくださった人たちが周りにいたからです。心から感謝したいと思います。
楠 千代子 湯泉 志緒 社会福祉学科3年
(10月17日 木曜日)
この夏僕は、金井先生、鍛冶先生を含め総勢20名の仲間たちと、フィリピンのボホール島へ「貧困層にあって人間としての尊厳ある生活を妨げられている人々のために家を
建ててくる」という主旨のもとで、アメリカのNGO「Habitat for Humanity International」のGlobal Villageプログラムに参加してきました。9月10日 - 20日までの11日間は、1日と同じ日がなく、毎日がとても新鮮で充実していました。
みんなで重たい砂と砂利を運んで、コンクリートをバケツリレーして床を敷き詰めた時の達成感や、ワーク以外にもその村でたくさんの子供たちと遊んだこと。一緒にバスケットボールをして「あぁ、スポーツは本当に世界をひとつにするんだ」ということを実感したり。体調を崩して入院してしまう仲間が出たり、バスのたち乗りをして、リーダーの鍛冶先生から謹慎処分をくらったり、毎晩、ホテルの小さなバーでは60円程度のビールを片手に仲間たちと語り合い。ワーク最後の夜にパーティーでみんなで一生懸命練習してきた「OH HAPPY DAY」を披露したこと。そして、ホームステイの夜・・・・。どれも日本にいては、体験のできないことばかり。とにかく、いろんなことが凝縮され、中身の濃い11日間でした。
そもそも、僕がこのワークキャンプに参加しようと思ったきっかけは単純でした。大学生活最後の夏休みに学生の間でしかできないことをしたかったことと、「家を建てる」という文字通り建設的な作業に、開かれた希望にあふれる将来を想像して強く惹かれました。 きっかけはごく単純でしたが、実際に僕がフィリピンは行くことを決めたのには、他に大きな理由がありました。聞くところによると、そこには「今を生きることにがむしゃらになっている人がいる」らしい。ゴミの山の上に家を建てて貧しくて、汚くて、生と死が日常的にやってきてものすごく人間臭くて、その日一日を精一杯、あれこれ考えずにとにかくひたすら一生懸命な奴らがいる。そんな彼らに会い、彼らに触れ、彼らの「生命のエネルギー」を感じてきたい。そして、彼らはとの出会いをこれからの自分の「生きるエネルギー」に変えていきたい。そう思いました。
そんな動機から「家を建てる」という本来の目的であるワークキャンプとは別に「生きる」ことを探訪する旅が始まりました。このたびの中で、ボホール島へ渡って最初の日に、いきなり印象的な体験をしました。ハビタットの管理している村の中にある保育所という小学校に見学に行ったときの出来事です。めちゃくちゃ元気でかわいい子供たちの歌にこっちまで目を輝かせて聴いたり、一緒にフィリピン語の授業を受けて、いよいよ帰ろうかというときに子供たちが声をそろえて「good bye good bye」と言った後、ごぶしを突き上げてフィリピン語で「Ma bu hay」と叫んだのです。その時は、ただ「わぁー」となってビックリしたのだけれど後になってそれが「ALIVE」(生きる)を意味する言葉だと聞いて感動しました。
「Ma bu hay」この言葉がどんな教育的意図を持って子供たちに教えられるのか分からないけれど、子供たちが仲間と一緒にこぶしを高く掲げて「生きる!」なんて言ってしまうようなこの国、この島の風土、文化がとても好きになりました。いよいよワークキャンプの主旨であった建築作業が始まってからは、働くにしても、子供たちと遊ぶにしても、頭の中をからっぽにして「後先考えずにその日、その瞬間を精一杯一生懸命になってやった」ということを鮮明に記憶しています。一生懸命砂を運び、ブロックを組、一生懸命になって遊んだ。仕事をサボるときにも一生懸命になってサボった。なーにも考えずにとにかく「今を生きる!」そんな経験はずいぶん長い間していなかったように感じました。たしかに自分が「生きている」ことを実感できた、感動的な毎日でした。
ワークキャンプもちょうど半分を過ぎて、終わりが見えるようになってからは、趣きがガラッと変わりました。それまでゆ - っくりと流れていた時間が堰を切ったように流れ出し、もうどうしようにも止められなくなりました。さらにそれまでの、その瞬間を思い切り生きる生活も、終わり(先)が見えるようになってからは、コンクリートで溝を埋める作業を黙々としながら、旅から帰ったあとの生活や将来のことをいろいろと考えてしまうようになりました。それかれはもう、すぎスピードで一日一日が過ぎ去り、いつの間にかホームステイの夜、ハビ村での最後の朝が来て、帰りのフェリーに乗っていました。
いま、この旅を終えて、あのキャンプ前半の、確かに自分が「生きていた!」という記憶と、先のことを考え出すようになったら明らかに目の輝きが失われていってしまった経験は、今後の僕の人生を左右するようになりました。フィリピンで経験したように、今、目の前にあることをただ見つめて生きていきたい。そう思います。
みなさんは、今、「生きている」という実感を持って生活できているでしょうか。人間はどんなときに「生きている」ことを実感できるのかなと、ちょっと考えてみました。例えばスポーツに熱中している時、趣味に没頭している時、仕事に打ち込んでいるとき、はたまた大好きな人と一緒にいるとき、どうでしょうか?僕はどんな方法であっても、今、自分が「生きている」実感をつかんだ生き方をしたいと思います。
それでも、もし、行き詰まって、自分の生命の輝きをかんじられなくなったら、旅に出てみるのもひとつの手かもしれません。長々とくさい話をしてきましたが、結局何が言いたかったかというと、つまるところ、「フィリピンに行ってみたら?」ということでした。
韮澤 修一郎 社会福祉学科4年
私は、フィリピンから日本へ帰国後、すぐに親しい友人に会いました。彼女は、私に向かって「ミカ、人間らしい顔になったね」と言いました。私は、その言葉の意味がよく分からず、私が、フィリピンへ行く前は人間ではなく何か他の存在だったのかな? と冗談まじりに思っていました。でも、事実、私は、この通りフィリピンへ行く前も帰国後も、一応、人間であるわけなので、と思い直しましたが。その彼女の言葉の裏には、「人間らしく生きる『魂』が私に宿った」ということになるのかなと思いました。
フィリピンでの生活を思い返すと、『魂』という言葉の示すものが、そこでの生活に生きていて、10日間という短い期間に私がその生活に触れて、その感触が私の顔に映ったと思いました。私はフィリピンへ行って、いろんなことをゆっくりと考えるようになりました。日本の忙しい生活の中では、浮かんでは、すぐに消え去ってしまった「思い」をゆっくりと考えるようになりました。
人間が、人間らしく生きるために、何が必要であって何が必要でないか、そのことを考えさせるものが、フィリピンの生活にはありました。その必要な「何か」は、私には目に見えなくて、忘れやすいものなのだけれど、心がとっても暖まる大きな大切な空気のような存在でした。私は、これからも、その心暖まる「何か」を忘れずに生きたいです。
齋藤 美佳 法律学科3年
たちは、ハビタット フォー フィューマニティー インターナショナルというNGOのグローバルヴィレッジ、このNGOではワークキャンプのことをグローバルヴィレッジと呼んでいますが、このプログラムに参加してフィリピンのボホール島という場所に行ってきました。
僕はフィリピンでメチャクチャ楽しんできました。ボホール島での初日は、プールの中で「サン=ミゲール」というビールを飲んだり。ワーク中は、子供達とふざけあって、髪にペンキを塗られたり、からかい合ったり、日本人どうしでもふざけあったり、作業自体も楽しかったですし。夜は夜で毎晩ホテルのバーで仲間とビールを飲んでいました。ワーク後の一杯、幸せになれる瞬間でした。ボホール島のホテル最後の夜は、仲良くなったバーテンからビールを奢ってもらい、同じく仲良くなったホテルの従業員と回し飲みをしたりしていました。ワークの途中で『とぅーる』という仲間が入院するというハプニングがありましたが、とにかく楽しんできました。
そもそも、僕がこのワークキャンプに参加した理由ですがそれは、二つあります。僕は、自分を変えたいと思った事です。僕は、大学に入った時、今までの自分とは違った可能性を見つけようと思っていました。それには、何か日常とは違った体験をしなければ変われないと思っていました。
もう一つの理由は、僕は3年生の時にこの大学に編入してきました。その時に、ここで過ごせる期間は2年間しかない、その2年間で何かを成し遂げたい、明治学院にいた証しみたいなものを残したいと思ったことです。3年生の時は何をしてよいかわからず、ただ漠然ととした日々を送ってきました。ただ、なんとなく海外で何かをして来たいという思いはありました。4年になり、就職活動が一段落して今年の夏が最後のチャンスで、もうこんなに自由な時間は僕の人生の中でないだろう、だから今、何かをしなければ二度とチャンスはこないだろうと思っていました。そんな時、偶然、友達にこのキャンプのことを知らされ、それで参加を決めました。
結果を言うと、帰国後、周りの環境は多少変化しましたが自分自身の内面は変化しなかったと思います。それは、10日程度少々異なった環境ですごしたところで20年以上生きてきた、積み上げてきたものは変わらないということだと思います。でもそれは当然のことだと思います。フィリピンにいた時は、ハビタットの現地スタッフがサポートしてくれて、なにより、僕たちには鍛冶先生がついていました。ですから、いざという時は彼らが何とかしてくれるという安心感があり、その安心感に自分を甘やかしていたと思います。しかし、その分だけ危機意識は少なく、その分、楽しめた事は楽しめましたが、自分がおったリスクは少なく、自分の人生を変えるほどの経験はもっとリスクを負わないとつめないんだなぁと感じました。
僕は、むしろ、フィリピンから帰ってきてからの、今の方が学ぶ事は多いと思います。実際、今回参加した明学チームの中で、今現在、様々な問題が起きていて、その壁を、チームで乗り越えていく時、自分が、そしてみんなが、一歩一歩成長しているのを実感しています。先週は僕たちの活動が掲載される新聞記事をめぐって、トラブルを起こしました。また、今週は、白金祭そして今後の活動方針に関する問題がもちあがっています。フィリピンに行くという目標を達成した今、僕たちは新たなチームのあり方、そして今後の目標を模索しています。
僕たちは、フィリピンで家を建ててきました。しかし、同時に『絆』という目に見えないものも築いてきました。そして、『絆』を築くことも家を築くこと同じように大変な努力が必要です。しかし、『絆』を壊す事は簡単です。ほんのちょっとした行き違い、勘違い、考えの方の違いで、ほんの一瞬で崩壊する可能性を秘めています。『絆』と家との最大の違いは目に見ることが出来るか出来ないかです。家が壊れた時は、目に見えるのでそこを補修すればよいのです。しかし、目に見ることの出来ない『絆』は崩壊していることにすら気づかないことがしばしばあります。『絆』を保ち続けるには、努力が必要です。その努力を怠ったときに『絆』は崩壊するのです。
僕たちは、フィリピンから帰国した今、新たな家を作り始めています。それは、僕たちが体験した事を自己満足に終わらせないために、そして『絆』を保ち続けるためにこの活動を来年以降も継続していくための家作りです。この家は、まだ設計図すら出来あがっていません。僕が卒業するころに、この家の土台が出来ていれば良いと思っています。しかし、この家は絶対に築けると僕は信じています。なぜ、こんなに自信をもって言えるかというと、僕はチームの一人一人を信じているからです。フィリピンで築いてきた『絆』はこんな事じゃ壊れないと。
僕は迷った時はいつも原点に返るようにしています。これを始めた時は何を考えていてなにを目指していたのかということを。自分の気持ちに正直に生きようとします。そうすると、自然に力が湧いてきて、前向きにいきれます。自分の気持ちに素直に生きている時は、どんな苦しい事でも前向きに乗り越えられます。僕がこの大学にいた証しは『絆』を築けたことだと思っています。
今日はここに、フィールドスタディという授業で一緒に北京にいった友達にきてもらっています。そして、聖書を信じる友達にも来てもらっています。いまここに来てもらっているみんなとの『絆』が僕がこの大学にいた証しだと思っています。最後に、僕がこの『絆』というテーマをえらんだ理由ですが、僕は、今まで築きあげた『絆』をこれからも大切にしていきたいという思いを込めてこのテーマを選びました。
得田 英里斗 経済学科4年
(10月29日火曜日)
「伝えること。つなげること」。このタイトルで話を進めていきたいと思います。9月10日から、11日間の日程でフィリピンに行って来ました。メンバーは20名。それぞれ参加動機はバラバラでした。自分の参加動機は、「家を作る」という稀有な体験をできること、ボランティアやNGOへの興味、海外・アジアへの関心、そして「これは面白そうだ」という直感でし た。そうした興味や関心といったアンテナを意識的に張っていたため、この企画にめぐり合えたことは、必ずしも偶然であったとは言えません。しかしながら、図らずもこの時期、このタイミングに、こういった企画に参加でき、多くの仲間に出会えたことは、今後の学生生活に当然のことながら、変化を与えていくと考えています。
直感的に参加を決めた部分もあるこのボランティアではありますが、四之宮監督の映画というキーワードによって結び付けられることになります。「忘れられた子供たち - スカベンジャ ー」あるいは「神の子たち」。この映画は、スモ―キーマウンテンを舞台に、ゴミを生活の糧にする人たちの物語です。これほどの貧困に直面する機会は、今回の滞在中はありませんでしたが、それでも物質的貧困を感じた場面もありました。それは、大部分は日本との比較という点からの貧困で、それほど支障をきたすものではありませんでした。ハエのたかった市場や、排気ガスの充満した道路。ホームステイ先での経験。特に、コンフォートルームなど。家によっては、シャワーがあるのに、冷蔵庫がなかったり。内装が施されている家もあれば、ブロック剥き出しの家もあったり。
出発前、自分を含めて何人かのメンバーの意気込みは、ホテルに泊まること、しかもプールまで付いているホテルに泊まることに若干の抵抗感がありました。しかし、文化の違い、生活の違いから、生活のスタイル、リズムを変えることは、体力的疲労に加え、精神的疲労を重ねることになり、確かに辛いだろうという正直な気持ちを、現地で抱きました。
家族を心的安定と考えるならば、家とは物的安定である、そんなふうに考えています。今回のワークは、その後者に携わるということです。衣食住という言葉がありますが、すべてを満たされている人間には、それらについて立ち止まって考えることは、なかなかありません。ホームステイ先の家族を例に考えてみます。まず、衣服について。普段着はTシャツにハーフパンツといった感じでした。出勤の際は、オフィスで働いているということなので、それなりの服装でした。次に、食に関して。やはり気を使ってもらっているのではないかな、と思えるほどの量を朝から出してもらったのですが、夜にアイスキャンディを食べているところなどを見ると食の面でも安定が見られました。住居に関しては、非常に簡単なつくりの家でした。そのことは、値段という点から考えると露骨で、ホームパートナー、つまり家の購入者が10年かけて払いつづける値段は、メンバーの言葉を借りると、「一括購入できるじゃん」という額です。
このことから何が言いたいのか。絶対化と相対化という話ができそうです。例えば、自分の家は一括購入できるようなものではなくて。それが自分にとっては絶対で。しかし、当然のことながら、そうでない家で暮らしている人がいて。世の中には、家のない、ホームレスと呼ばれる人たちがいて。そんなことは、フィリピンに行って初めて気がつくことではなくて。
そもそもボランティアだって、自分にとっては今回が初めての経験で、帰国直後はこの活動に絶対的なものを感じていて。でも、今は少し落ち着いてきていて…。結局、色々な価値軸がある中で、自分が知っていたものはひとつだけで。それは何も知らなかったことに等しくて。1本の新たな価値軸は、自分の中に相対化を促して。自分はそれを絶対化するのではなく、更なる相対化への出発と捉えるのです。つまり、新たなものを見つめるためのスタート地点に立ったことに過ぎない、そういったことを言いたかったのです。
自分の成し得たこと。それは、具体的な事実を足し算した全てであり、それ以上でもなく、それ以下でもありません。つまり、砂と砂利を汗まみれになりながら運んだこと。ブロックを積み上げたこと。現地の子供から、大学生から、大工まで数多くの人達と交流をしたこと。しかし、帰国後すぐの時点では、自分の成し得たことについて、あまり自信を持てませんでした。それは、この活動に参加したことには満足していましたが、それ以上の自信は持てなかった、ということです。ただ、今は「あまり難しく考える必要はない。やったこと、そのすべてが自分の成し得たことなんだ」と思えるようになりました。この経験は、満足であり、喜びであり、「楽しかった!」、「参加してよかった!」、そんな経験でした。そのことは、素直に受け止めておいていいのだと思います。
ここからが、いよいよ本題です。過去と未来をつなぐということ。とにかく、現地に行って、家を作ってくる。そのことへの期待と不安。それを共有することで結ばれたチームは、実際の経験を通じてさらに、その結束を深めることになります。そして、帰国。ひとつの区切りを見たわけですが、このままでは終わりません。この経験を終えた自分たちがするべきことは、伝えることだと考えています。なぜなら、ひとつには、伝えるに値するほどの経験であったからです。自分たちの貢献できたこと云々について以上に、単純ではありますが、でも多くの人たちの大きな親切と優しさがあって、その行為への感謝の気持ちが自分の中にはあります。
ふたつには、些細ではありますが、それでもボランティアの力を、確かに必要としている人たちの存在を知ったからです。そして、最後に、伝え、つなげることに、ボランティアの可能性を見るからです。「楽しかった!」、その気持ちは原動力として、自分たちの活動を支え、またこのチームをより強く結び付けていくのだと確信しています。
第1回目、2002年の9月に、20人のメンバーが携わった家が、確かに、物質的に、フィリピンの地に存在するということ。そして、2回目、3回目と続き、この広い世界に、小さな足跡を残していくことができるということ。お金と時間をかけて、自分たちが残したものは小さな家で、自分たちに残ったものは大きな満足で。何度も同じことを繰り返すだけのように見えるこの活動も、要領が分かれば効率は上がるし、規模が膨らめば柔軟性をもって臨める。「ボランティアは、1回性よりも継続性に力を発揮する。」そのことを証明するための活動になる必要はありませんが、そのことが結果的に明らかになっていくのではないでしょうか。今のこの時期は、今回の経験を総括し、消化し、そしてより多くの人に伝える時期です。そうした活動を通じて、それぞれのメンバーの中に新たな1軒、次の、来年の1軒がある程度の確かさをもって見えてくるのだと考えています。
最後に、幾つかエピソードを紹介します。まず、効率性とおかしな程の真剣さ。今回の経験は、何らかの効率性を、今後の活動にもたらします。素人集団であっても、現場において、1度の経験を積んだ人間がチームにいることは、ゆとりと安心を与えます。そうした効率性は歓迎されるべきでしょう。ただ、効率の悪さや、いま考えると時間の浪費に思われることも、まじめさと真剣さをもって取り組んでいました。自分たちはもう2度と話し合わないであろうことに悩み、考える時間をもったことに、後悔はしないはずです。例えば、トイレットペーパーはどれほど用意していけばいいかとか。洗濯物は、木と木にロープを結んで、そこに掛ければいいのではないかとか。あるいは、どれを個人で持っていき、どれを全体として持っていくかなど。出発前の、こうした時間は、未知への不安をともに共有した時間として、ただの笑い話では終わらせることのできない重要性があったと思います。
次のエピソードです。床にセメントを流し込む前の段階として、石を敷き詰めるという作業があります。その作業中に大工から言われた言葉。「この体と腕とを使って、ひとつひとつ積み上げていくしかないんだ」。身振り、手振りをしながら、日本のハイ・テクニックに対する言葉として、彼は自身の作業についてそのように語りました。日本のハイ・テクニックは、こうした手作業を一気に処理できる力をもっています。ただ、その日本の技術が、フィリピンの、あの自分たちが活動した村で必要かどうかは分かりません。なぜなら、ひとつには、大工の仕事を奪うことにつながるかもしれないからです。もうひとつには、メンテナンスの問題があります。その場所ごとの条件や制約があり、例えば、高温多雨の気候に耐え得る機械であるか。メンテナンスは簡単で、しかも低コストで可能か、など考慮されなければならない点が幾つかあります。今回の作業現場では、水と砂利と砂を混ぜ合わせてセメントを作る道具はありましたが、あとは1輪車やシャベル、その程度のものしかありませんでした。しかし、その程度のもので、家は確かに作れるのです。
最後のエピソードです。ワーク中に考えたことは何ですか。ある人にこう質問され、少し戸惑ってしまうものがありました。ワーク中は黙々と仕事をし、そのことを楽しんでいました。特にこれといって、今の自分の行為が誰かのためになっているといった意識を持って、責任感や使命感から働いていたわけではありません。もちろん、何の貢献もできないボランティアでは、行く意味がありません。家の建設のボランティアという形で、自分たちが貢献をしたことは事実です。たくさんのことを享受したという謙虚さと、確かに貢献をしたという自信。そのことを押さえながら、最後に考えることは、自分たちのワークに対する真剣さを支えたものは何だったのかということです。確実に言えることは、自分たちのワークへの姿勢、態度は、好意的に受け入れられていたということです。それは村の人たちとの日々が証明しています。もしかしたら、無意識的にではありますが、そのことを求めていたのかもしれません。
「人が信頼できるようになった。」あるいは、「どこに行っても、やっていける自信が持てた。」これらは、チームのメンバーの言葉です。そうした、信頼や自信は、真摯な態度で臨む人間と、それを受け止めてくれる寛容な人間の産物なのではないでしょうか。そのことは、日本人とフィリピン人との、今回の具体的な経験から演繹的に言えることだと考えています。
滝川 祐 政治学科2年
私たちがワークキャンプ(グローバル・ビレッジ)を成功させることができたのは、宗教部スタッフ、ハビタットのスタッフ、そして、親愛なるハビタット村の方々の温かい多くのサポートがあったからです。サポートしてくださった多くの方々に心より感謝しています。ありがとうございました。
報告書係 小野真理子 鈴木まりえ 得田英里斗 増子和子