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2002年度 キリスト教活動ハンドブック

新入生のみなさんへ

学院チャペルは、明治学院大学に学んだひとびとにとって、決して忘れることのできない思い出の場となるはずです。キリスト教の礼拝形式による入学式は、一部の新入生諸君を除いて、驚きの体験として記憶に留まることでしょう。そして、4年後に迎えるこの学院チャペルでの卒業式における祈りと励ましはいつまでも心に刻まれるものと思います。
さらに、「キリスト教の基礎」を始めとするキリスト教関連科目を学ぶことによって本学の建学の精神であるキリスト教主義教育の意義に思いを致すこととなると思います。
ここで心してほしいことは、書物を読んで勉強することを通じて、あるいは授業を聴講して頭で理解した知識としてだけでなく、学院チャペルで静寂な安らぎを与えられ、キリスト教に心で触れる機会が与えられているのです。
在学中はもちろん卒業後も折にふれて、これらのことは心に浮かび、貴方の生き方の導きの力となりつづけると思います。
皆さんの多くは、これから欧米諸国に旅行したり滞在して、それらの国々の人々と交流する機会を持つことと思います。若い皆さんは地球市民として、率直に誠実に交流すれば良いのですが、それらの国々の生活習慣を深く理解し人々と手を携えようとするならば、キリスト教をさけてとおることはできません。明治学院大学に学んだことの意義を改めて自覚することになるでしょう。
皆さんの明治学院大学における学生生活が実り豊かなものとなりますように。

学長 脇田 良一


明治学院大学のキリスト教精神

私学は、例外はあるでしょうが、一般的には、志のある人(たち)が教育の理想を抱いて建て上げた学校です。そのような数ある私学のなかで、明治学院大学は建学の精神をキリスト教においています。キリスト教といっただけでは漠然としていて、意味がよくわからないかもしれません。明治学院のキリスト教は、幕末にはるばる大平洋を渡って来日したヘボンその他の宣教師たちのクリスチャンスピリットであるといってよいでしょう。ヘボンが医療活動をしながらキリスト教を伝えたということは、21世紀のこんにちに生きる私たちにもいろいろなことを示唆してくれています。人間の魂の救済(信仰)と肉体の癒し(世俗の活動)はけっして矛盾するものではなく、キリスト教は魂と肉体の両方を含んだ全人格的宗教だということを、ヘボンたちは教えてくれました。それはまたフロンティアスピリットでもあります。明治学院百数十年の歴史は、社会で活躍する多くの人びとを輩出したという意味で、フロンティアの歴史と言えます。
明治学院大学は学生の皆さんにキリスト教の信仰を押しつけるようなことはいっさいいたしません。ただキリスト教とはどういう宗教なのか学んでほしいとは思っています。そこで必修科目として「キリスト教の基礎」という科目を設けています。これは明治学院がその存在を証明するための中核的科目です。時代が進み、科学が進歩すれば宗教はなくなると思う人がいるとすれば、それはとんでもない誤解です。現代の世界を見れば、宗教がどんなに重要かわかりますし、宗教の理解なくして世界の人びととの相互理解はむつかしいということも、現代においてますます明らかになってきました。明治学院大学に入られたみなさんには、長い歴史と建学の精神から生れた伸びやかでリベラルな雰囲気のなかで、存分に学び、存分に活動してくださることを願っております。

副学長 鵜殿 博喜


ミッションとヴィジョンの大学

うこそ!明治学院大学へ,そしてキリスト教活動へ。心から皆さんを歓迎いたします。
これまでの高校生活と異なり,大学では皆一緒に強制されて参加する行事はほとんどありません。授業の履修にしても,さまざまな活動への参加にしても,学生一人一人の意思と選択,すなわち皆さんの自主性に任されています。このことは,ただじっと待っているだけでは,大学生活は充実しないことを意味しています。積極的に参加して,学生生活を有意義なものとして下さい。大学宗教部も,多様なプログラムを皆さんに提供しております。次のページから基本的なメニューを掲載しますが,どれも「あなた」が関わることができるものです。感動するものであったり,楽しいものであったり,考えさせられるものであったり,時ににがいものであったりしますが,どれも良薬であることを保証します。
さて,「明治学院大学は,ミッション・スクールだ」という言い方をすることがあります。これは,アメリカの教会が派遣したミッション(使節団)の設立した大学だ,という意味合いから,そもそも宗教的・社会的なミッション(使命)を掲げた大学である,という広い意味も込められていると思われます。ミッションとは,そもそもあることをする時に,根源的な「なぜ?」に答えることです。そこから発展して,その「意味」を多くの人々にも伝えることも,ミッションと呼ぶようになりました。国連などの国際機関が,さまざまな国に行って現地で支援活動をすることを,「ミッションに出かける」と言ったりするのは,このためです。
明治学院大学のミッション,すなわち「建学の精神」は,「基督教による人格教育を基礎とし,広く教養を培うとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的応用能力を発揮させること」(学則第1条)であり,「キリスト教精神,リベラリズムの伝統,国際主義・グローバリズムの実践」(1996年6月14日の明治学院120周年宣言)であります。すなわち,明治学院大学は,皆さんひとりひとりを,自らの主体性・自主性に基づいて,一人の地球市民として,いつでも,どこでも,志をもちつつ社会的な役割を担い続ける知性ある自由な人格として,育成することを謳っています。このミッションは,あなたと大学と,そして世界との関係性を示しています。あなたは,この大学の重要な構成員なのです。
明治学院大学は,同時にヴィジョンも有しています。多くの様々なヴィジョンが,これまでの大学における教育と研究の諸改革の原動力となってきました。ヴィジョンとは,人間の未来への自由であり,「可能なものへの創造的情熱」(ユルゲン・モルトマン)と理解されています。
そうしたヴィジョンの一つに,「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8:32)があります。これは学生手帳にも記されている言葉ですし,世界中の多くの図書館と同様,明治学院大学図書館の入口にも,横浜校舎図書館にはラテン語で,白金校舎図書館にはギリシア語で記されています。キリスト教精神に基づく学問の自由の価値観を示すこのヴィジョンの具体的な多くの事例に,皆さんは,キャンパス内のいたるところで,これから出会うことになるでしょう。この「出会い」こそが,大学における「学び」にほかなりません。
ヴィジョンもミッションもない共同体は,存在意義がないのはいうまでもありませんが,ヴィジョンのないミッションは,目指す理想のない貢献,地図のない冒険,理念なき職業人,精神なき専門家に過ぎません。そして,ミッションのないヴィジョンは,使命なき野望,絵に書いた餅,空虚な夢想家,心情なき享楽人に過ぎません。
あなたの明治学院大学は,ミッションもヴィジョンも共有する大学であり,それを希求し続けています。ミッションとヴィジョンが「生きたもの」として存続し続けるために,明治学院大学の学生である皆さんに期待することは計り知れないものがあります。これから2つのキャンパスで展開される本学のキリスト教活動のさまざまなプログラムで,皆さんと「意味ある出会い」がもてることを,とても楽しみにしております。

宗教部長・法学部教授 鍛冶 智也


大学チャペルと宗教活動について

新入生諸君の多くが通学する横浜キャンパスには近代的で開放感あふれるチャペルが、そして白金キャンパスには歴史の重みを感じさせるチャペルがそれぞれ置かれています。これらチャペルは学業を中心とした学生生活との直接の関係はないように思われるかもしれません。しかし、キリスト教精神を土台とする人格教育を建学の精神とする明治学院大学において、チャペルはこの精神を目に見える形で表している象徴的な建造物でもあります。
ただチャペルも建物がそこにあるだけでは、その存在意義の半分しか満たすことができません。大いに活用されてこそ真価が発揮されるのです。ここでは授業期間中、毎日大学礼拝(チャペルアワー)が行なわれています。

横浜:月曜日 - 金曜日の12:40 - 13:00
白金:月曜日・火曜日・木曜日・金曜日の12:35 - 13:00
   水曜日の17:30 - 18:00

チャペルアワーでは教職員、学院牧師、宣教師、学生などによるメッセージが語られるほか、音楽主任、学生団体による音楽礼拝など多様なスタイルの礼拝が行なわれています。
大学は決められたカリキュラムをこなすだけの学びではなく、自ら学ぶ機会、対象、テーマを探す場所です。そうした学びを通して自分なりの世界観、人生観、価値観そして真の教養を身につける場所でもあります。その目的のためにチャペルはさまざまなチャンスを提供しています。上記のチャペルアワーもその一つ。
日本では宗教というと敬遠されるか、毛嫌いすらされる傾向があります。ところが学生諸君が留学したり、ある程度長期間海外に滞在すると多くの人が「あなたの宗教は?」と問われた経験を持っています。世界の人々と出会っていくのに宗教的な素養は欠かせません。世界の多くの人々が自分の人生観と宗教を結びつけて生きているからです。
宗教に裏付けられた人生観とはどのようなものか。そんなことを考える上でもチャペルアワーでのメッセージは有益です。もちろん、チャペルだからといってキリスト教信仰を絶対のものとして押し付けることはありません。一つの価値観と向き合い内的な対話をすることによって、自分の生き方を確立していく。そのような機会としてチャペルアワーを活用してください。
また、大学における宗教活動はチャペルアワーだけでなく、大学宗教部、学院宗教センターが協力してさまざまなプログラムが提供されています。読書会や聖書の学び、オルガン講座・音楽会・映画上映会やチャペルライブ、ワークキャンプなどのボランティア活動や「平和を考える旅」、キリスト教週間やクリスマス関連行事、文化的な催しとしては宣教師によるピース・カフェや料理教室・着物の着付けと抹茶を楽しむ会、さらにはアリーナを利用してのバスケットボールなど、年間を通じて数多く用意されています。これらの行事の中には企画・実施を学生諸君と共に行なうものもいくつかあり、計画から積極的に参加していただくことによって新たな世界が開かれてゆくことでしょう。
宗教部事務室は横浜キャンパス、白金キャンパス両校地に置かれています。どうぞ気軽に立ち寄ってください。いろいろな情報が得られるだけでなく、皆さんのアイデアも活用させていただきます。そこから新しい活動が始まっていきます。スタッフ一同、どなたでも来て下さるのを楽しみにお待ちしています。

学院牧師 金井 創


キリスト教活動の案内

[ 宗教部とは ]
宗教部は、明治学院大学のキリスト教活動全般を担当している大学の組織です。白金校舎は、チャペルの向かいの記念館という建物の1階に、横浜校舎は、チャペル脇の建物の中に事務所があります。事務所にいらっしゃるのはいつでも歓迎いたしますし、事務所の隣りには、それぞれ学生のキリスト教活動に使える集会室があります。

[ 宗教センターとは ]
本学には学院全体のキリスト教活動にかかわる部門として、「明治学院宗教センター」が置かれています。中学、高等学校、東村山高等学校、大学それぞれの宗教活動について連絡、協力する組織として1998年に発足しました。

[ 学院牧師とは ]
明治学院ではキリスト教主義教育推進のため、またキリスト教諸活動を活性化するため1996年度より「学院牧師」の職を置くことにしました。学院牧師は他のキリスト教主義大学ではチャプレンとも呼ばれ、その働きは「本学院の勤務員、学生、生徒、卒業生及びその家族よりの求めに応じ、キリスト教による信仰指導」を行なうと規定されていて学院のキリスト教活動を行なうと共に、学院関係者の信仰的、宗教的な相談を受けることも働きのひとつとしています。
また、横浜キャンパスのチャペルでは毎週日曜日、明治学院教会が礼拝を行なっています。これは平日のチャペルアワーとはまた別の、地域教会としての礼拝です。学院牧師はこの明治学院教会にも責任を担っており、日曜日は教会の牧師として活動しています。学院教会には地域の方たちが集ってくるほか、本学の学生、卒業生も参加しており、子どもからお年寄りまで、礼拝と交わりを共にしています。

[ 大学礼拝 ]
本学では授業のある毎日(但し土曜日を除く)、チャペルで礼拝(チャペルアワー)を行っています。内容はパイプオルガンによる前奏を聴き、讃美歌を歌い、聖書に基づく講師のメッセージがあります。講師は本学の理事、評議員、教職員、外来講師、学生など、さまざまの分野の方々が担当します。若い皆さんの関心のあるテーマや、今、社会で起きている問題などを取り上げますので、キリスト教的背景の有る無しに関係なく広く皆さんの出席を歓迎します。
聖書と讃美歌はチャペルに用意してあります。

[ チャペル・アワー ]
白金チャペル/第1部 12:35 - 13:00(月・火・木・金)
白金チャペル/夕礼拝 17:30 - 18:00(水曜のみ)
横浜チャペル/第1部 12:40 - 13:00

[ 特別礼拝 ]
特別礼拝は(1)イースター・新入生歓迎、(2)キリスト教週間、(3)クリスマスの3つの行事ごとに行います。
イースターは日本では馴染みのない言葉ですが、キリストの復活を覚える日としてキリスト教界では盛大に祝われています。本学では新入生の歓迎を兼ねたイースター特別礼拝を行います。
クリスマスは明治学院のキリスト教活動では最大の行事で、多数の学生が出席しています。音楽系サークルも出演協力して祝福します。
ここではイースターとクリスマスの日程をお知らせします。

[ 新入生歓迎イースター特別礼拝 ]
(白金チャペル) 4月17日(水) 17:30 - 18:00
(横浜チャペル) 4月18日(木) 12:40 - 13:30
横浜では授業時間短縮となります。

[ クリスマス特別礼拝 ]
(白金チャペル)12月11日(水) 17:30 - 19:15
(横浜チャペル)12月 9日(月) 12:40 - 13:30
        12月13日(金) 12:40 - 13:30
白金では第6時限休講、横浜では授業時間短縮となります。

[ キリスト教週間 ]
特定の期間をキリスト教週間として、キリスト教行事を実施します。福祉事業、医療活動、教育事業、政治活動など社会の幅広い分野に働く方の講演や、パイプオルガンやフルート演奏などの音楽会、話題作となった映画の上映会や写真展などを行っています。なお、2002年度のキリスト教週間は横浜校舎が5月27日(月) - 31日(金)、白金校舎では10月中旬の予定です。時間や場所など詳細については白金通信や学内の掲示、週報、ホームページ等で確認してください。

[ 宗教部読書会 ]
読書会は誰でも自由に入ることができる講座です。授業のある期間に設定されていますので、時間の都合のつく方は参加してください。
『モリー先生との火曜日』を読む
講師:土屋 博嗣一般教育部教授
日時:毎週火曜日5時限(16時45分 - 18時15分)
場所:横浜キャンパス・宗教部集会室
内容:何年か前にアメリカでベストセラーになった『モリー先生との火曜日』(ミッチ・アルボム著・別宮貞徳訳・NHK出版・1600円)をみんなで少しずつ読みながら、人生の意味について考え、後悔をしない生き方のヒントを探してみたいと思います。

・「読聴会」…ディケンズに何を学ぶ?…
講師:久山 道彦一般教育部教授
日時:毎月第2、4火曜日 午後9:20 - 10:20(5月14日より)
場所:白金キャンパス キリスト教研究所(本館9階南ウイング)

内容:「読書会」というのは、何か不思議な言葉です。何故、皆で集まって本を読むのでしょうか。やりたいことが山ほどあり、ただでさえ時間が足りない私達が、自分一人で「読書」すればそれで済むとも思えるのに、いったい何故、わざわざ「会」を開いて偕に本を読むのでしょうか。そんなことを考えているうちに、二週間に一度、同じ本を読み、友の想うことを聴き語らう場を持てないかと思いました。授業後のひととき、友の言葉の中に、その表情の中に、一人で読む時には得られない「宝」が発見できそうな気がしてきました。この集まりの名を「読聴会」としたのもそのような想いからです。始まって10年目を迎えますが、毎年、色々なメンバーが集う、気楽でささやかな会です。本を媒介として「自前の頭」を創りながら、柔軟にして強固な志を持って、私達を取り巻く現実を、そしてなによりも自分自身を深く探求していきましょう。
今年度は、「ディケンズに何を学ぶ?」と題して、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの小説を読み、人生を生き抜く力となる「何か」を学びたく思っています。初回に作品を決め、ゆっくり読み進み、想うところを語り合いましょう。邦訳の新潮文庫版を使用しますから、入手し易く気軽に読めるでしょう。読後にビデオも鑑賞したく思っています。大学時代に何か変わった経験をしてみたい方、この案内を読んで興味を覚えられた方、この作家がお好きな方、嫌いな方、誰かの読後感想を聴きたいと思っておられる方、「五月病」にかかりそうな方、「世の中が間違っている」と断じたい方、「人間なんて所詮そんなものよ」とうそぶいておられる方、議論をふっかけたくて仕方のない方、孤独や憎しみ、嫉妬に苦しむ方、読書によって自分の心や精神を立て直そうとしておられる方等、飲み物を片手に、おやつを楽しむつもりで是非どうぞ。時々または偶然の飛び入り参加者も大歓迎です。

・Hawaiian English Bible Class
講師:ODANI, Sean講師(英語)
日時:《5月9日、16日》木曜日 午後16:45 - 17:45
場所:横浜キャンパス(決まり次第追ってご連絡します)
内容:This Bible study will take a look at the unique Hawaiian English Bible. Descendants of Japanese immigrants make up 20%~30% of Hawaii’s population. Their ancestors , the Issei and the Nisei contributed significantly to development of the style of English spoken in Hawaiian today. This study will compare the Japanese Bible, the standard English Bible, and the Hawaiian English Bible.

・聖書を読む
講師:大塩 光 蒲田新生教会牧師(本学卒業生)
日時:毎週木曜日 午後14:25 - 16:00
場所:白金キャンパス 記念館1階宗教部集会室
内容:とにかく、まず聖書というものを読んでみましょう。知識優先ではなく「聖書本文」 そのものを皆で味わい、率直に感じたことを語り合い、分かちあえれば幸いです。題材としてはマタイによる福音書の「イエスの山上の説教」を取り上げてみたいと考え ています。イエス・キリストが一体何を語っているのか、それぞれで思ったことを出し合う機会としましょう。

[ Peace Cafe ]
水曜日限定のCafeです。手作りのお菓子を食べながらゲームをしたり、文化や習慣などいろいろなことについて話し合ったりしています。一人で参加してもすぐに打ち解けられるアットホームなプログラムです。試しに一度覗いてみて下さい。きっと楽しい時間が過ごせると思います。
白金校舎:水曜日12時30分~午後4時
横浜校舎:第2、第4水曜日午後1時~4時
*白金校舎では、毎週Cafeを開きます。毎月第1、第3水曜日はゼブリ宣教師夫妻が担当しますが、他の日についてはスタッフが交代でプログラムを担当します。

[ コーヒーハウス ]
沖縄に行こうということで、金井創学院牧師が情報をたくさん披露し、沖縄の文化・歴史・政治などについて学んでいきます。沖縄で10倍楽しく過ごす方法なども話し合います。コーヒーが嫌いな方は紅茶や緑茶もありますので、気軽に参加してください。
日時:《2002年4月12日から7月5日》毎週金曜日 16:30 - 18:00
場所:横浜宗教部集会室
特に、「沖縄から平和を考える旅」に関心のある方は是非出席してください。後期は2003年度の旅について話し合いたいと考えています。

[ オルガン講座 ]
両校舎のチャペルにはパイプオルガンがあり、毎日の礼拝や行事で演奏されていますが、聞くばかりでなく、弾いてみてパイプオルガンのすべてを体験しよう、という講座です。横浜・白金校舎それぞれのオルガニストが、演奏のかたわらレッスンを行っています。パイプオルガンへの興味は皆さまざまで、内側にもぐりこんで熱心に構造を調べる人、憧れのトッカータとフーガをめざして練習に励む人などいろいろです。発表会や礼拝で演奏する機会もあります。授業と異なり一人一人の事情に合わせてカリキュラムが組めるので、皆それぞれ楽しんだり、たまには苦しんだりしながらパイプオルガンとつきあっている、という、キリスト教主義学校ならではのプログラムです。横浜校舎ではリードオルガン、パイプオルガンと他の楽器等とのアンサンブルの講座もあります。白金・横浜校舎それぞれ以下の方法で受講者を募ります。 オルガン講座2002年度受講生募集要領
原則として鍵盤楽器経験者を対象とします。

(横浜校舎の場合)
履修登録4月19日(金)までに、所定の申込み用紙に記入し、宗教部に提出、オルガニストと個別に面接・相談してください。希望者多数の場合は、オーディションを行います。
オルガン講座発表会 秋学期予定

(白金校舎の場合)
4月19日(金)までに、所定の申し込み用紙に記入し、宗教部事務室に提出して下さい。オーディションと面接を行います。
4月22日(月)、23日(火)、24日(水)いずれも14:00 - 16:00の間で都合のよい日時にチャペルに直接おいでください。
課題曲は2曲、讃美歌541番とJ.S.バッハ・インベンション第13番イ短調です。楽譜は宗教部に用意しています。

[ 手話講座 ]
この講座は、聴覚にハンディキャップのある人たちとのコミュニケーションツールの一つとして、手話を共に学び合おうといういう目的で行われるものです。春学期は、手話を初めて学ぶという人のために「手話入門」の内容で、言葉(単語)を増やしながら、簡単なコミュニケーションができるようになることを目指します。秋学期は、習得した内容の上にたってブラッシュアップを目指します。また、春学期・秋学期を通じて、手話歌(ゴスペルソング)も取り入れ、その成果披露として礼拝での讃美もしたいと考えています。
日時:木曜2時限(11:00 - 12:20)     4月18日(木)スタート
場所:横浜校舎 チャペル集会室

[ 学生宗教活動懇談会 ]
大学の宗教行事を積極的に支援している学生サークルがあります。新入生歓迎会、明治学院音楽祭、クリスマスツリー点灯式、クリスマス礼拝などの行事には宗教活動協力学生団体所属のサークルが出演しイベントを盛り上げています。2001年度現在所属サークルは以下の通りです。
(1)グリークラブ (2)管弦楽団 (3)吹奏楽部 (4)白金ベルハーモニーリンガーズ (5)チャペルクワイア (6)クラシックギター研究会 (7)ヘボン聖書研究会(8)アナウンス研究会(9)インラインスケート(10)舞台技術研究会 (11)国際クリスチャン同好会 (12)グリーンリーヴズ (13)JAZZ研究会 (14)L.M.S (15)ゴスペルクワイア
これらの学生団体のリーダーと宗教部とが1年に1 - 2度会合し、行事計画やサークル活動相談などを行っていますが、その会議のことを学生宗教活動懇談会といいます。

[ ペンテコステの集い ]
ペンテコステとは、イースター、クリスマスにならぶキリスト教会の三大祝祭のひとつです。これは白金キャンパス周辺にある日本キリスト教団の諸教会と共催で行なわれる集いです。近隣教会と学院が良い協力関係で結ばれるよう30年にわたって行なわれてきました。今年は第一部・礼拝、第二部・音楽の集いとして計画しており、特に第二部では諸教会の聖歌隊、あるいはバンドなどの出演を予定しています。学生のサークル等の参加も歓迎しますので、興味のある方はお問い合わせください。今年は5月19日の予定です。

[ ワーク・キャンプ ]
国内・海外のワークキャンプを計画しています。国内は栃木県の西那須野にあるアジア学院にて3泊4日の予定で行なうプログラムです。アジア学院はアジア・アフリカ諸国から農業、牧畜についての研修をするための留学生を受け入れいている学校ですが、日本の学生たちの農業・畜産の体験学習も受入れています。2002年度も宗教部を窓口にワークキャンプを実施します。家畜の世話や畑での作業、施設の修理など、日頃経験できないような作業ばかりですが、農作業初体験の方でも大丈夫です。働いて汗を流すことの気持ち良さ、空腹と食事の有難さなど、労働に限らない沢山の経験が待っています。2001年度は明治学院中学、東村山高校の学生達と一緒にキャンプをしましたが、学部・学年を超えた仲間を見つけることが出来るいい機会だと思います。2002年度のキャンプ日程は8月6日(火) - 9日(金)を予定しています。
海外ワークキャンプはキリスト教主義のNGOであるハビタット・フォー・ヒューマニティとの協力で、一週間程度の期間で住宅建設を行なうプログラムを計画しています。一戸を完成させて住人となる人に鍵を渡して完了します。詳しくは白金事務室に問い合わせて下さい。

[ 平和を考える旅 ]
平和を考えるスタディーツアーです。2002年度も前年度と同様8月下旬に沖縄県を訪ね戦跡や文化遺産などをみて廻る予定です。旅の参加条件としては事前学習会になるべく出席し、沖縄の文化や歴史などに親しむことです。春学期には沖縄に関する学習会を開きますので、参加希望者はぜひ出席して下さい。
2001年度の平和を考える旅では、これまでの戦跡巡りの学習と併せて沖縄に残されている手つかずの自然を満喫するプログラムも立てました。また7日間の旅のうち一日は自由行動日として、小人数で自分達の関心に合わせて沖縄を楽しんできます。2001年度は秋以降も様々な活動を続けて友情を深めてくることが出来ました。報告書が宗教部事務室にあり、旅の様子については、ホームページでも特集を組んでいますので、過去の旅も併せてご覧ください。

[ 演奏会 ]
現在は主に横浜チャペルで年に2 - 3回、パイプオルガン・合唱をはじめいろいろなジャンルのコンサートを行っています。宗教音楽というと堅苦しいイメージですが、音楽はもともと宗教と深い関わりがあるものでした。社会背景、作曲者の生涯についての説明など、演奏者のトークもまじえて、学外からのお客様もこのシリーズを楽しみに足を運んでくださいます。演奏会の詳細は学内に掲示してお知らせします

[ 明治学院大学音楽祭 ]
毎年、白金祭の期間に音楽系サークルの大半が一同に会して日頃の成果を発表するのが、この音楽祭です。
普段のチャペルでは宗教音楽が主に演奏されますが、チャペルは決してクリスチャンだけの特別な場所ではなく、誰でもいつでも気軽に入れます。あらゆるジャンルの音楽の祭典に、皆さんも聴衆、あるいはプレイヤーのひとりとして参加してください。
例年の参加サークルは、管弦楽団・吹奏楽部・グリークラブ・グリーンリーヴス・クラシックギター・ベルハーモニーリンガーズ等です。

[ クリスマスツリー点灯式 ]
クリスマスを迎える約一ヶ月前、白金、横浜両キャンパスで電飾されたクリスマスツリーの点灯式が行なわれます。白金では高校と大学が協力し合って計画、実施しています。インブリー館内のツリー、チャペル内のツリー、そしてチャペル横のツリーにそれぞれ点灯し、毎日夜10時まであかりを灯されたツリーがクリスマスシーズンのキャンパスを彩ります。横浜キャンパスの点灯式は大学生有志が計画から自主的に始め、学生主体の行事として盛大に行なわれます。また横浜の点灯式にも高校生が参加してくれる様になり、学院の催しとして充実してきました。

[ ページェント ]
ページェントは、イエス・キリストの誕生物語の劇です。演じられるページェントは、クリスマスキャロルのメロディーにあわせて表現される無言劇で、しかも野外で演じられるというところに特徴があります。参加にあたってクリスチャンかどうかは不問です。役者だけでなく、裏方さんも(照明・小道具など)大歓迎!横浜事務室までお問い合わせ下さい。
[ 市民クリスマス ]
横浜キャンパスのチャペルで行なわれる、地域住民を対象としたクリスマスの集いです。特に子ども向けのプログラムによって進められ、このために例年の多くの学生が参加、出演しています。

[ クリスマス音楽礼拝 ]
毎年12月23日に、明治学院の卒業生・在校生・教職員が集まって厳かにクリスマスを祝っています。
クリスマスの名曲はたくさんありますが、その中でもキリストの誕生物語を音楽にした、ヘンデルの「メサイヤ」を中心に、音楽をちりばめたこのキャンドルサーヴィスは、巷のクリスマスとは違う心安らかなひとときを与えてくれます。家族で参加も歓迎です。

[ 学生セミナー ]
若い人達に関心のあるテーマを考えています。講師の話を聴き、参加者で自由討論をします。明学の色々な学部から参加者が集まりますので楽しい会です。懇親会や翌日のミニ・ハイキングなどもあり、友人をつくるよい機会でもあります。(宿泊は伊豆高原のセベレンス館の予定)2001年度は3月12日(火) - 14日(木)の2泊3日の日程で、海外ワークキャンプの事前研修会として行ないました。

[ 勤務員キリスト教セミナー ]
年に一度、泊りがけで学院のキリスト教精神について、また教育活動におけるキリスト教の位置付けや意義について教職員が学び合う機会です。

[ 宗教部図書 ]
横浜宗教部には学生への貸出用図書があります。キリスト教関係の図書で、内村鑑三や八木重吉の著書から、社会や文化についての評論まで多岐にわたる分野の図書を用意しています。図書館には置いていない書物が多くありますので、気軽に借りに来てください。

宗教部の活動に参加して

(学生の声)

[ オルガン講座を受講して ]
明治学院大学に入学するまで、私にとってキリスト教というのは全く未知の世界でした。漠然と持っていたイメージは、「博愛の精神」「お堅い」といった感じでしょうか。ただ、チャペルでの入学式は、そんな私を十分に感動させるものでした。
パイプオルガンの演奏で始まり、全員で讃美歌を歌い、また演奏で終わるという、宗教と音楽との強い結びつきがとても不思議で興味深く、「卒業までに何とか一度はパイプオルガンを弾いてみたい」と強く思ったものです。そのすぐ後、白金通信でオルガン講座受講者募集の記事を読み、迷わずオーディションに申し込みました。チャペルといえば必ず思い浮かべるくらい有名なパイプオルガンですが、仕組みを習ったり、弾いたりするチャンスなんて普通はありません。なんてラッキーなことでしょう。
職業人で2部の学生で、かつ主婦である私は、なかなか練習の時間が取れず苦労をしました。楽譜も何年も読んでいないし、ペダルの踏み方だってエレクトーンとは全然違う。ものすごく感動した後だけに、自分の下手さ加減に情けなくなったこともありましたが、4年生になってからは授業に出るより熱心に(?)レッスンを受けました。長谷川先生の辛抱強い、かつ優しい教えのもと、何とかやっと格好良くなってきたところでしたので、できればこのまま卒業後も教わりたいくらいです。
このレッスンをきっかけにして、他の教会やコンサートホールでのオルガンを聴きに行く機会もできました。今までの生活から少しだけ幅が広がったような気がします。
信者ではない私を受け入れ、さらに、引き付けるものがチャペルにはあります。それはやはり音楽の力ではないかと思うのです。貸し切り状態のチャペルの中でパイプオルガンを弾くのって、ものすごく感動的ですよ。皆さんにも体験させてあげたいです。明治学院大学の学生であるという特典を生かして、学生のうちに、ここでしか弾けない立派なオルガンを勉強してみてはいかがでしょうか。
経営学科4年 宮内明美

[ ゴスペルクワイヤに参加して ]
私は今まで宗教のある学校に通ったことがなく、教会で歌えるというのに惹かれてゴスペルクワイヤの活動に参加しました。
一年生の間はどの演奏もうまくいかず、活動に充実したものを感じられませんでした。でも後輩のやる気に刺激され活動が本格化しました。合宿で一日中曲をアレンジして練習したのはとてもいい思い出です。白金祭では三曲の讃美をし、初めてとも言える成功が嬉しかったです。毎週の礼拝ではオルガン演奏と共に歌い、思いがけない美しいメロディに出会うことができました。歌が好きなだけの私に多くの助けと機会を与えて下さった皆さんに感謝しています。
消費情報環境法学科2年 廣塚暁子

[ チャペルクワイヤに参加して ]
私はこの1年、チャペルクワイヤとともに過ごしたといっても過言ではありません。
チャペルクワイヤは宗教部所属の聖歌隊であり、私は大学1年の時に入団しました。昨年度は色々用事があって参加できずに終わってしまい、最終学年の4年生となりもう一度歌いたいと思って、最初から立ち上げました。
当初のメンバーは私の所属しているヘボン聖書研究会の仲間の数人でしたが、そのうちあるメンバーが作ったすばらしいポスターを媒体として参加希望者が増えてきました。またメンバーの一人が混声合唱団グリーンリーヴスのメンバーということもあって、グリーンリーブスから助っ人も出してくれたりといい交友関係が築けました。
この1年の活動は春学期と秋学期に3回ずつ礼拝の中で讃美歌の奉仕をし、春秋学期1回ずつキリスト教の証しと特別讃美をもって讃美礼拝としました。秋学期の讃美礼拝では金井学院牧師に美しい声でソロを歌っていただいて非常によい讃美が出来ました。
またクワイヤで最も大事なのが毎週1回の練習です。みなさんに聴いて頂くのですから練習はとても大切です。だから、練習は気を抜くことができません。この1年ではメンバーの一人が讃美歌をパソコンで打ち込んできてCDにしたものを練習に使いました。参加者一人一人が持っている能力を生かしながらクワイヤをみんなで作り上げてきました。
今年は色々な曲を歌いたいと思っています。クラシック曲も歌ってみたいと思っています。パイプオルガンの伴奏のもと歌えるのはミッションスクールならではの経験だと思います。
みなさんもチャペルクワイヤの讃美を聴きにきてください。みんなで作り上げていきましょう。今年はメンバーのみんなが交流できるようなプログラムを用意しています。
英文学科4年 川瀬 いづみ

[ 沖縄の旅に参加して ]
僕には幼稚園からの幼馴染が三人います。大学が違う今でも大学の友達以上に会ってはお互いの思っていること・感じていることを話しているので、兄弟・家族以上に何でも知っている関係です。そんな関係が中学までは同じ学校で続いていたので、別々の高校に通うことになった時はとても不安で「これから上手く友達を作れるか」と、思ったことをよく覚えています。
どんなに仲が良くてもいつも一緒にはいられないと感じ、知っている友達がいない高校生活をどのように過ごしていこうか考えた時「高校でも仲の良い友達を作ればいいじゃないか」と思いました。だから、親友達と同じように高校でも接してみることにしました。そうすれば親友たちとのような友情が築けると信じて。
しかし、実際は思うように行きませんでした。誰かがやらないと困る仕事を、純粋に「困るのなら僕がやろう」と思ってしても「かっこつけている」「いい子ぶっている」などと言われ、虐められているクラスメイトを庇っただけで「偽善者だ」と陰口を叩かれ続けていました。
「クラスのみんな」ではなかったけれど、そういう一部の人がいた事で僕は「仲良くなりたいだけなのに・高校生活を楽しむ友達が欲しいだけなのに」と悩んでしまい、「本心から人と接しては上手くいかない・高校生活を一緒に楽しむ友達を欲しがってはいけない」と思うようになりました。
そんな気持ちで過ごした高校生活は悔しい気持ちで一杯でした。しかし、その人たちを恨むのでなく「同じ真似をしたらこういう事の繰り返しになるだけ。たまたま彼らと合わなかっただけで大学では違うだろう」と、大学入学までには気持ちを立て直す事が出来ました。
いざ始まった大学生活。大好きなアイスホッケー部に入りました。ここでも「四年間一緒にやっていくのなら仲良くしたい」と思い、高校の時と同じように接してみる事にしました。「高校の時とは違う、同じ部員を信じたい」と…。
しかし、また同じ事が起きました。部員同士で陰口を言う人に「そういうのは好きじゃない」という態度をとると、また「偽善者だ」と言われたり、体育会なら先輩の言った事をやるのはある程度当然、という考え方で行動すれば「そんなに気に入られたいのか」と言われたり…。
二度も同じ事があったので僕はとうとう「親友以外に本音を言える友達は持てない・大学生活を一緒に楽しむ友達は作れないのだ」と『友達が欲しい』気持ちを完全に無くそうと考えてしまいました。
そんな時、金井先生に誘われて沖縄の旅に参加しました。沖縄にも興味があったのですが、僕を沖縄に駆り立てたのは「もう一度自分を見つめ直そう」という感情でした。「理解しなかった人達がどうこう言うより、僕に責任があるのでは」と、旅をする事で何かが変わるのではないかと思ったからです。
楽しかった七日間。すごくいい思い出になりました。でも、余り自分から話さなかった気がします。「人と話すのが怖い・自分という人間を知られたら、同じ様な事を言われるのでは」という思いがどこかにあり、少し距離を置いていたのかも知れません。
沖縄から帰ってきて、僕は「夏休みの間だけでも事務の仕事を手伝ってみないか」と誘われて宗教部事務室に顔を出すようになりました。秋学期が始まる頃『沖縄に行った人達で白金祭に参加しよう』という話がでた時、白金祭に参加した事がなかったのでどんなものか知りたいと、手伝う事にしました。そして、準備を進める内に僕が代表を務めることになり、折角だからと頑張る事にしました。「もう友達は作らない」と決めていたのに、何故か「僕が頑張ればみんなに迷惑がかからない」という気持ちが頭をよぎりました。
大変だったけど楽しかった白金祭もみんなの協力で成功に終わり「やっぱり自分を隠したままの方が上手くいく」と、終わって安心したと同時に悲しい気持ちになりました。
そして、打ち上げの時でした。最後にみんなが僕に内緒で『ありがとう』と書いた手紙とプレゼントを用意して驚かせてくれました。一瞬呆気に取られた僕の目から涙が出ていました。「頑張ってよかった」「嬉しかった」気持ち、そして何より「欲しかったモノを感じられた」気持ちからでした。
僕の欲しかったもの。それは『学校生活を一緒に楽しめる友達』。その時感じたのはそれ以上でした。僕が今手にいれたのは学校に留まらず、社会に出てからも友達でいられる関係。僕にとって必要なものは欲しがっていた「学生生活を楽しめる友達」ではなく「これからも楽しめる友達」でした。
白金祭の時、「頑張ればみんなに迷惑がかからない」と考えたのは、実は心の何処かで友達を欲しがっていたのではないかと今では思えます。この気持ちは昔から親友に抱いている感情と同じです。だから、実は沖縄の旅でもみんなに知って欲しい僕を隠さずに出していたのかも知れません。旅や白金祭を通して『今の僕』を受け入れてくれたのならそうだと思うし、だから、いつもみんなに会いに来てしまうのかも知れません。
『欲しいもの』と『与えられるもの』とは違うと言います。実際、沖縄の仲間に会うまでは、欲しがっていたものとは逆の出来事ばかりでした。友達が欲しいと望めば望むほど遠ざかれ、友達に理解して欲しいと思えば思うほど勘違いされていました。その時々はとても辛かったけれど、そういう経験があったから『友達とはどういうものなのか』『人間関係に必要なものとは』という事が少し分かった気がします。友達が欲しいのなら『友達をいつでも思ってあげられるように』自分という人間を分かって欲しいのなら『人を分かってあげられる人間になるように』という感じで…。今までの経験を通してそう思えるようになったからこそ、沖縄で出会った仲間に受け止めてもらえたのでしょう。
こう思えるのは沖縄から戻っても、僕をいつも暖かく迎えてくれる三・四年生と宗教部の方のお陰だと感じます。二年生で白金に行く予定がないのに「何で来ているの」と言わずに「よく来てくれたね」と言ってくれるみんなのお陰です。本当に必要だった友達というのはみんなの事だったと思います。いつも遊びに誘ってくれる四年生方。福祉についていろいろと視野を広くしてくれた三年生方。暖かく迎えてくれる宗教部の方。みんなのお陰でもう一度僕は『友達の大切さ』、そして『人の暖かさ』を感じることが出来ました。
最後にこの事を通して思い出した好きな言葉を言います。この言葉はニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に患者が書いたものです。

大きなことを成し遂げるために力が欲しいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに
より良きことが出来るようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
神の意に沿わぬものであるにもかかわらず
心の中の言い表せないものは全て叶えられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
みなさんのこれからの日々にも本当に必要なものが与えられますように…。
社会福祉学科2年 毛塚 和英

[ 沖縄の旅に参加して ]
大学に入り基礎スキークラブに入りました。私のスキークラブはシーズン中に2回北海道へ1週間と2週間の合宿をして、また長野での大会合宿や検定合宿などがあり、そのためにかかる費用は何十万にもなるので入るのにかなり躊躇しましたが、アルバイトしながら一年やってみてお金に代え難いものを得ることが出来たので、ここまで続けて来ました。
スキーは個人スポーツですが、学生の基礎スキーの大会では個人戦よりも各チーム女子は4人、男子は6人で演技する団体戦が一番盛り上がります。やはり毎年上位にくるチームはチームの息がぴったりといった感じで、下から演技を見ていて個人の技術的なものもそうですが、その躍動感といったものに圧倒されます。そういうものを目指して僕らも合宿に入ったら毎日のように演技の練習をします。時には、隣の人と接触して怪我をしたりしますが、それに屈せずに諦めないで自分達が納得するまで続けます。ナイターの最後のリフトが止まってしまうまでやる時もあります。
今年も練習では怪我をさせてしまったり、部員の間で風邪が流行し思っていたほど練習が出来なかったこともあり、本番ではシード権を奪うまではいきませんでしたが、滑り終わった後に辛かったことなどが思い出されて涙が止まりませんでした。
何事もそうだと思いますが、スポーツであるスキーは特に滑っていて楽しくなくなったらやらない方がマシだと思うのです。技術的なことで行き詰まることは大いにあっていいと思うし、逆にそれがないと進歩がないのですが、それも滑るのが好きだからこそ乗り越えられるのだと思います。やはり楽しくないのに滑りつづけても嫌いになるだけです。
私はクラブの合宿以外で、群馬県のとあるスキー場でスキースクールのスタッフとして働く機会がありました。そこではスキーを始めたばかりの子や、初めてスキーをはく初心者の子供達を教えていましたが、やはりその時もスキーを楽しんでもらうということが僕の中での最終目標でした。そしてまた、本当に上手な人ほど発展から基本を自由に実践できるといわれるように、基本から教えることの難しさを知り、そこから学ぶことも多くありました。私のクラブの後輩にも初心者で入部してくる子が多いのですが、彼らに教える時も基本に返って教えることから自分が気づかなかった新たな発見もよくあるものです。
実は今年の9月、夏合宿で2年生の男子生徒がマラソンで熱中症と脱水症で倒れて、意識不明で病院に運ばれる出来事がありました。不運にもその三日後に病院で家族の前で息をひきとりました。それは当たり前かもしれませんが誰も予想していなかった出来事で、現役やその合宿に参加していたOBの僕らにとっても大変衝撃を受けました。僕にとってこんな身近な死は初めてでした。
亡くなった彼は1年生の時は途中から精神的な症状から学校に来ることができなくなり、もちろんシーズン中も合宿には参加できなかったのですが、今年からまた学校に来られるようになり、本人の意志でスキーは続けたいということでシーズンに向けて頑張っているところでした。僕らも元気になった彼と一緒にスキーが出来るのを楽しみにしていました。彼が亡くなった日にクラブ部員全員で彼のご両親に挨拶しにいった時、ご両親は彼の横で涙を流していましたが、私達に彼がどんな子だったかを話して下さいました。その時彼の顔はすごく腫れていましたが、生前の彼の優しさのようなものがその眠ったような姿から察することが出来ました。最後にご両親は僕らのクラブを一切責めることはせず、“息子はクラブに入ってからとてもよい友達に恵まれて楽しそうで幸せでした。ですから彼の事をいつまでも覚えておいてあげて”とおっしゃって下さった時、僕らは幾分救われた思いがしました。私は現役生とともに週一回のトレーニングに参加していますが、ほぼ全員休むことなく元気に活動しています。同じ学年の仲間を亡くなった現役にとっては僕ら以上に辛い経験だったと察しますが、その辛さを乗り越えてまたスキーを続けてそこから得られる充実した学生生活を送ってほしいと思います。
私もスキークラブを引退して、今年は例年とは違って自由な時間が増えたので、高校生時代よりご無沙汰だった礼拝にたまに来るようになりました。今年の夏には宗教部主催の沖縄から平和を考える旅に参加して、他の学科の人達や金井先生をはじめとした宗教部の方と学年を超えた自由な交流をもつ事が出来ました。そこには今の私のようにキリスト教や聖書に関心があったり、福祉やボランティアといった僕のあまり知らない領域に従事する仲間がいたりして、普段のサークルの仲間とは違った交流が持てて今とても充実しています。少し大袈裟なようですが、そこから広がる様々な交流は無限で何処までも繋がっているような気がしますし、そこから生まれる可能性も無限であるような気もします。
今日の聖書の箇所では、自分が平和に生きることがその人の回りにもそうさせてくれているような思いがします。そして最後にこんな人生直滑降な私にここで話をする機会を与えて下さった先生方に感謝しています。聖書を読むと正にキリスト教は言葉の宗教という事に気づかされます。聖書は何千年も前に書かれたものなのに、その時を超えて現代の人の心に応えてくれる不思議な書物だと思います。
経済学科4年 山村 啓

[ 沖縄の旅での想い ]
「平和って何だろう」「生きるって何だろう」という疑問と不思議さを考えさせられ続けた旅だった。僕は根っからの楽観主義者だから、今までそれほど物事を深く考えることが少なかった。でもこの旅は違った。直に壕や基地を見て戦時中を予想したり、美術館や資料館に行き、形として表現された証拠を見ることができた。僕がどんなに調べたり、どんなに深く考えても戦争体験者と全く同じ気持ちにはなれない。だけど、戦争の一瞬一瞬にも「人は生きていた」ということをひしひしと感じた。この旅で戦争による「死」を見てきたつもりが、今考えると「死」よりも「生きる」という意味がずっしりと課題として残っている。ひめゆり平和祈念資料館で、亡くなった方々の写真や文書を見ていたら、胸が苦しくなっていたたまれなくなった。戦争が代償として残したものは大きすぎる。戦争に対する怒りよりも悲しさや切なさの方が強い。人生において最も辛いのは「悲しみ」だと思っている。こんな思いを僕はしたくないし、誰にもさせたくない。願わくば当時の人々にもさせたくなかった。そんな気持ちでいっぱいだ。
僕は今まで「戦争の事実を受け継いで次世代に伝えて欲しい」と言われたりすることが時折あったけど、その意味がわかってきたように思う。戦争体験者の体験や気持ちをコピーできなくても、事実の悲惨さや辛さを感じ取ることはできる。その中で知ることがどんなに嫌でも知ることから逃げてはいけない。僕たち人間はマイナス面を経験しても、それをプラスにつなげる力を持っている。これからどのような方法で戦争の勉強をプラスにつなげるかを考えていきたい。この旅を通して24人の仲間と生活できたことを光栄に思う。皆個性的でいい人ばかりで、こんなに仲良くなれるとは思っていなかった。また、そんな人達と一緒に平和や命について考えて真剣に意見を述べ合えたこと、同じ時を過ごせたことが幸せでならない。すばらしい景色を見たり海や山にも行った。男性メンバ―ともランニングした。旅の途中、腹痛や怪我など皆にお世話になりっぱなしだったけど、この場を借りて助けてくれた皆に感謝したい。
自分の平和や命に対する価値観が崩され、また吸収したりと精神的に落ち着かなかったけど、素のままの自分沖縄に放り込み学ぶことができた。「今までの自分」を壊す気持ち良さを改めて感じられた旅だった。これからもいろんな経験をして自分を壊していきたい。
ありがとうございました。僕もいつかこんなすばらしい旅を企画できる人材になりたい。
社会福祉学科3年 有光 巌夫

[ 白金祭に参加して ]
昨年の夏、「沖縄から平和を考える旅」に参加したメンバーは宗教部の有志として11月1日から3日まで行われた白金祭に参加しました。1日目は宗教部主催のクッキングスクールで作られたパウンドケーキやクッキーなどが出店に並んだので、実質2日間沖縄メンバーで出店をしました。今回、私たちは沖縄の「ソーキそば」という豚の角煮のはいったおそばと、サーターアンダギーという沖縄の揚げドーナツを作ったのですが、準備段階から買出し班と看板やポスターを作る班、そして屋台を材木から組み立てる班などにわかれ、わくわくしながら準備に取り掛かりました。私は看板を作る担当だったのですが、ひょんな思いつきから沖縄の旅行のパンフレットをいくつか入手して、美しい沖縄の風景などの写真を切り抜いて看板を埋め尽くすように張っていきました。このときすでに「沖縄の旅」から3ヶ月ほど経っていたのですが、作業をしているうちに自然と沖縄へいったときのことが鮮明に思い出されて懐かしくもあり、また来年もぜひ沖縄へ帰りたいとも思いました。そして、二日目はいよいよ準備から売り子へ変身。最初の半日は何回か失敗をしてしまったりしましたが、試行錯誤の末、だんだんと出店らしくなり、客足も伸びてきました。3日目は、さらにみんなの手際がよくなってきて、買っていただいたかたの「おいしかったよ」などの声に感謝しつつ、予定時刻より早くすべて完売しました。
今回の出店は決して「売る」ということが目的ではなかったのですが、みんなでひとつのことを準備段階から協力し、作り上げていくことは、いつ何回経験してもよいことだとしみじみと感じました。私にとって初めての白金祭でしたが、とてもよい経験ができました。
国際学科1年 津田 華子

[ アジア学院ワークキャンプに参加して ]
7月、白金校舎にあったワークキャンプ参加者募集の要項を私は見つけて「日程的にも問題はないし、田舎のない私には新鮮だろうし、いろいろな学科の友達も出来そうだし参加してみようかな」と、取りたててアジア学院というものに興味があった訳でもなく悩みもせずに速攻で参加を決めました。
ところが、アジア学院ですごした3泊4日というものは、私の中に何かショックを残したように今でも思えます。印象的なのは、アジア学院にいる人たちの「顔」です。具体的には言えませんが、アジア学院で「生徒」として、ボランティアとしている人たちが皆毎日毎日を一生懸命生きているような、目的を持って生きているようなそんな「気合い」の入った顔のように見えました。なぜ皆がそのような輝きを持てる事が出来るのか、その理由は個人さまざまだといえるでしょうが、やはり共通している事は「生命」に前向きなのだろうと思いました。
アジア学院では自給自足を実施しています。全てのものに「次」が存在し、全てがアジア学院のサイクルを形成するものです。良く考えてみれば、当然の、しなければならない事をアジア学院は実施しているだけであってそれを「珍しい」「すごい」という目で見てしまう私達の生活の方が逆を言えば「珍しい」目で見られる必要があるのかもしれないと感じました。
けれども、果して今、私たちがアジア学院で行っているような自給自足の生活をしなさいと言われたら、皆快く承知するでしょうか。頭ではアジア学院のシステム・サイクルはとても素晴らしいと誰もが理解はするでしょう。けれどもこの3泊4日を終えていつもの生活に戻ってきた時、一種の安堵の感があったのも否定できません。東京から電車でいけるような距離にアジア学院は存在し、けれども東京とは全く異なったサイクルで生活しているアジア学院はまったくの別世界でした。元の生活に戻ればスーパーで何でもそろう生活です。その「何でもそろう」が決して当たり前ではないということは当然理解しておかなければならない事ですが、更に「何でもそろう」に対し疑問を持たなければならないと言う事を知ったキャンプでもありました。
最後に、畜産や農作業も少しだけ出来ましたが、私にとってこの3泊4日というものは、それを一緒に行った、アジア学院で短い時間だったけれど共に生活した友達というものが何よりの財産だと感じています。誰もが一人で参加して、すぐに皆仲良くなりました。これからもこのキャンプで得た友達とは交流を持っていきたいと感じています。
社会福祉学科3年 種市 幸稲見

[ クッキングクラスに参加して ]
「ホームメイドのお菓子が食べられる」そんな軽い気持ちで私は第1回目のクッキングクラスに参加しました。それは、大学生活も残り半年となり、それまであまり目をむけることのなかった学内行事にも参加してみようかな、と思い始めた頃でした。
「食べるだけでも可」という甘い誘惑に誘われた私ですが、実際に参加してみると、いつのまにか見んなと力を合わせてお菓子をつくっていました。レシピは英語なので、英語が苦手な私には一体何と書いてあるのか、材料も手順もほとんど分からない状態だったけれど、先生の丁寧な説明や英語が得意な学生のおかげて、楽しく作ることが出来ました。
その後、第1回目のクラスで出会った友達たちとまた料理がしたくて、第2回目のクリスマスディナーをつくるクラスにも参加しました。初めて「見た」「作った」ターキーが出来上がったときは本当に感動しました。2回のクッキングクラスに参加して、ここにはただ「料理をする」ということだけではなく、アメリカの文化を学ぶことが出来たり、学科、学年を超えた出会いがあったりと、本当に素敵なことがつまっていると私は思いました。「もっと早くこんな行事に出会い、参加することが出来たらよかったな」というのか、私の正直な感想です。
社会福祉学科4年 荒尾 舞子

チャペル奨励集

不条理の死(ヨブ記1章21節)
あの9月11日のテロに対するアメリカ軍による報復が始まり、連日ニュースで凄まじい攻撃の様子が伝えられています。アメリカ国内も大変なようで、11月にアメリカで教会関係の会議があって出席することになっておりましたが、延期ということにになったようで、一連の事件は私たちの生活にも非常に大きな影響を与えています。
ところでテロ攻撃を受けたからといって報復はやめてほしいと言わなければ、という気持ちはもちろんあるわけですが、ただ政治的にいうとこれは難しい問題だと思います。人間誰でも死ぬことは避けられない、けれども人間の死には天寿を全うした、そういう意味で本人も周囲も納得できる死もあります。しかし天災、人災、突然の出来事で思いもかけずに命を奪われる、ということですと、同じ死でも不条理の死、納得の行かない死と言わざるをえないと思います。不条理な死に直面した時に、亡くなった方の周りの人々が非常に激しい感情を持つことはごく自然なことであり、アメリカ国民はあのテロによって一番大きな建物を失ったということだけではなく、実にあそこで何千人もの人々がまさに不条理な死を遂げなければならなかった。これを、アメリカの対アラブ政策がどうのこうのと言ったとしても、しかしなぜこの人たちが死ななければいけなかったかを考えると、やはりそれは不条理な死と言わなければならないでしょう。したがって非常に激しい感情がアメリカの中に湧き起こっていて、いやあそこではアメリカ人だけでなく色々な国のひとが犠牲になっているわけで、この犠牲者の属した国に、日本を含めて激しい感情が起きていることは避けられない事実です。こうした状況の中で平和を確保していくにはどうしたらよいのでしょうか。
ところで旧約聖書にヨブ記という大変おもしろい話がありまして、何千年も前のヨブという人の話ですけれども、彼は無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてきたという所からこの話は始まります。そこへサタンが現れて、ヨブに対して試みとしてひどいことをします。先ほど読んだ箇所の直前には、「ご長男のお宅でご子息、ご息女たちが宴会を開いておられました。すると、…大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました」とあります。それが大風だけであれば天災ですが、これはサタンの仕業ですからそういう意味ではテロリズムだと言うことができます。こういう目に遭ったヨブはしかし何と言ったか。「主は与え、主は奪う。」もともと人間は裸で生まれたもの、何か良いものがあるとしてもそれは神から与えられたもの、したがって何事も主の御心であって、「主の御名はほめたたえられよ」とヨブは言うのです。
誰かの仕業で子供たちが一遍に死んでしまったという報告がきたら、狂乱状態で怒り狂い、恨みつらみで仇を取ろうと目をつり上げて飛び出して行くのが普通の人間だと思います。しかしヨブはまさに正しい人、信仰深い人であったので、衣を裂き、髪を剃り落として、ということは極めて深い悲しみにとらわれたということなのですけれども、これをそのまま神の御心として受け止めました。このような時にも「ヨブは神を非難することなく罪を犯さなかった」とあります。しかしこれは大変難しいことであって、私共普通の人間にできることではないでしょう。この後もヨブは様々な試みに遭いますけれども、一生懸命信仰を求め続けて、このヨブ記の最後で神様はヨブの信仰を認められ、ヨブは正しいと語った。そしてヨブを元の境遇に戻し、さらに財産を2倍にされました。また彼は7人の息子と3人の娘をもうけ、この物語はハッピーエンドになっているわけです。
私たちはヨブのようには行かないのですが、それでも神様に認められてハッピーエンドを迎えたいとしたら、どうしたらよいのでしょうか。私はそこにこそ旧約聖書が旧約聖書で終わらないで、新約聖書に続くということに実に深い意味があると申しあげたいのです。愛する者の不条理な死に直面した時に、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」もし私たちのような普通の人間がこういうことを言えるとすれば、そこには希望がなくてはなりません。私たち自身が本当に神の御心にかなった場合には、そこに永遠の命に至る道が開かれるという希望を持つことが必要です。その希望を与えてくれるものがまさに新約聖書に描かれた主イエスの十字架上の死であり、これは私たちの罪を償うためのいけにえとしての死なのです。そしてこのイエスを主と信ずることによって、私たちは罪を許され、神のもとに召され、そして永遠の命を与えられます。
私たちプロテスタントの教会では、礼拝の時に使徒信条を唱えます。その最後に「罪のゆるし、身体のよみがえり、とこしえの命を信ず。」これが締めくくりになっています。これこそがイエス様が私たちに約束して下さったことです。その約束こそが福音です。この福音が示されることによって、私たちはかろうじてヨブの心境、ヨブのような正しい在り方に近づくことができるのです。その意味においても主イエスの恵みは大きいと思うわけです。そして私たちがこの福音に希望を見出しつつ、不条理の死に直面しても報復だ、敵討ちだといきり立つのではなく、「主の御名はほめたたえられよ」との信仰を守ろうとするとき、神を信じるものとして、アメリカの人たちに向かっても報復はやめてほしい、またアメリカの政府に対しても乱暴なことはやらないでほしいと言うことができるのではないでしょうか。そしてその時には私たちはまさに「平和を作り出す人」としての役割を少しでも果たすことができるとができると思うわけです。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このことを覚えながら、このような状況の中で世界の平和のために生きていきたいと思います。
学院長
2001年10月12日奨励

久世 了


ヨブ記1章21節

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
内容:信仰を持つ事が、私たちの力となり、愛となる。

人はすぐ、力になびきます。
人はすぐ、群れを作ります。
力を背景とする事によって、私たちも力を持ちます。
群れを背景とする事によって、私たちは群れの力を持ちます。
でも、力を持つ事によって、私たちは同時に、弱者を作り出しています。
群れを作る事によって同時に、少数者を排出しています。
そして、私たちは弱者をいじめ、少数者を排斥するのです。
弱者は力ある者に対抗できません。
少数者は強い大きな群れに対抗できません。
いじめらると、つらい思いをします。
排斥されれば、悲しい思いをします。
そんな弱者や少数者の思いが、なぜ分からないのでしょうか。
いいえ、
私たちは、弱者や少数者の悲しさを、
実は、良く分かっているのです。
わかっているから、私たちは力におもねるのです。
わかっているから、私たちは群れに頼るのです。
力がないと、大きな事は出来ません。
一人になると、何も出来ないのです。
でも、この時の力は、組織の力です。
組織の力を借りる時に、私たちは組織の一歯車となるのです。
一歯車となった私たちの力は、実は、後ろ盾となっている大きな組織の力なのです。
そして、大きな組織の中で、力を背にするために、私たちはまた群れを作ります。
群れを作る事によって、また弱者や、少数者を作り、排撃するのです。
パウロからテモテへの第2の手紙にある「力」とは、この力ではありません。
そこでいわれている力とは、「自分に打ち克つ力」です。
パウロとテモテの時代にキリスト・イェスを信仰するものは、少数者でした。
人は弱い生き物です。
すぐ力になびきます。
そして、すぐ群れを作ります。
異教徒に囲まれた中で、人はともすると、信仰が揺らぐ事があります。
そんな自分の揺らぎに打ち克つ力。
パウロの教えにある力とは、そんな、自分に打ち克つ力です。
そして、愛とは、力を背景にもつ異教徒、その大きな群れの中にある弱き人たちに対する寛容のこころです。
彼らも、私たちと同じ、弱き生きものなのです。
テモテへ第二の手紙にある「力と愛と思慮分別」の「力」とは、そこで群れなす力とは決定的に違います。その「愛」も、世にある御都合主義の愛ではありません。いずれもそれ自体、たやすく身につくものではありません。
その後にある「思慮分別」は、時として「慎み」と訳されます。また、時には「信仰」とも訳されます。
思慮分別とはつまり、信じる事からの慎みであり、信仰に従う思慮分別なのです。
信じる事によって、人は強くなれます。
信じる事によって、人は深い愛を持つのです。
パウロの言う「力と愛」とは、信仰から来る「力と愛」なのです。
そんな力を持つ事によって、人は権力になびくこころと決別します。
そんな愛を持つ事によって、人は群れにおもねるこころと決別します。


弱きもの、人間(テモテへの手紙ll 1章5-7節)

内容:信仰を持つ事が、私たちの力となり、愛となる。
私は中国で、日本人との混血として生まれました。
8歳までを中国で過ごし、日本にきました。
その後、成人してからアメリカで長く暮らす経験をしました。
中国で日本人として、日本で中国人として、そしてアメリカでアジア系
(時には日系、時には中国系)として暮らした経験があります。
どの国でも、少数者として暮らしました。
その結果、気づいた事があります。
政府とは、力ある側について、少数者を疎外するものだと。
民族とは、国民国家によって意識の底に刷り込まれたもろい幻想だと。
少数者とは、多数の横暴によって排斥された弱き存在だと。
白人に支配された土地アメリカで、先住民は砂漠に追いやられました。
戦時中、敵性市民として強制的に収容所へ入れられた日系人は、こころに深い傷を負いました。
二世の多くは、よりアメリカ人っぽくなろうと、日本語も捨てて、
志願兵として祖国アメリカのために戦い、アメリカンナイズしました。
中国系は、しばしば極端に教育に力を入れ、アメリカンドリームを追いかけます。
少数者である事の悲哀を、みんな良く分かっているのです。
私たちは、国民国家によって教育されています。
その教育は、ある価値体系をあたかも絶対真理のように、教え伝えます。
私たちは、それに従って、競争をします。
競争とは、力におもねり、互いに競い、より力の中枢に近づく手段です。
でも、そうしないと、一人では私たちは何も出来ないのです。
悲しいかな、私たちも、「力」の虜囚なのです。
こころに熱き信仰を抱いて、あえて少数者になりましょう。
それでも、私たちは力の側にいる事は、否めません。
確かに強い、大きな群れに頼っているのです。
常に弱き人々、少数者を思いやってください。
みずからが力の側にある事を、恥として行動してください。
力の側にある人は、本当は弱き人々なのです。
あなたはひとりとなっても、あなたを思いやっている方がいる。
あなたはひとりとなっても、いつもあなたを見ている方がいる。
絶大なる力を持った、そして、深い愛情を持った方がいるのです。
こころを強く持ちなさい。
そして、雄々しく行動しなさい。
時には、しなやかに、世の獰猛(たけき)をかわしなさい。
信じる事によって、私たちには強い力と、深い愛があるからです。
国際学部教授
2001年10月22日奨励

司馬 純詩


明治学院での働きを通して(コリント信徒への手紙 l 12章12-31節)

始めまして。横浜校舎図書館に勤務しております金子美咲と申します。明治学院で働き始めたのは今年の4月、まだ一年に満たない勤務歴です。ですから、わたしをご存知ない方は沢山いらっしゃることでしょう。そこで今回は、「大学職員」という道を選んだ経緯をお話することで自己紹介に替えさせていただきます。
私は昨年の3月まで、教育学を専攻しているごく普通の学生でした。大学時代と言うのは、自由な時間を持てることが最大の魅力です。サークルに打ち込む人、アルバイトに励む人、またボランティアにやりがいを感じる人など様々でしょう。私も色々な活動にチャレンジしましたが、卒業時に形として残っていたのは「教員免許状」です。教師を目指しているわけではなかったのですが、やはり教職課程での勉強が将来への道につながっていました。大学3年の秋、就職先を非常に悩んだ末、「大学職員」を目指すことにしたのです。そして、予てからの憧れだった明治学院で働くことになり、現在に至っています。
期待と不安でいっぱいだった4月から今までを振り返ってみると、やはり失敗の連続でした。「大学職員になって学生をサポートして行きたい」という意気込みとは裏腹に、初めて図書館のカウンターで応対した学生さんには「頑張ってください」と励まされてしまいましたし、数々の質問に答えられず、情けない気持ちにもなりました。
明治学院には様々な学部がありますので、図書館のカウンターで受ける質問もバラエティに富んでいます。大学時代に専攻していた教育学の事なら少しは良いのですが、それ以外のこととなるとどうしても知識が足りません。ですから、そのような時には他の方に相談し、情報を入手するまでの過程を利用者と一緒に学ぶことになってしまいます。
これから時間をかけて少しずつ図書館員として成長して行くしかないのですが、やはり自分の至らなさを痛感し、みじめな気持ちになることがしばしばです。そして、このような気持ちになった時、心の支えとなったのが本日お読みした聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一12章12節 - 31節でした。この箇所の聖書学的、神学的意味はわかりません。でも、この部分を読んだ時、私は自分がここにいる(存在している)事の意味を与えられたような気がしました。
聖書には、教会にはいろいろな人がおり、皆がそれぞれの賜物を持っている、と書いてあります。確かに、私の周りを見渡しても誰一人として同じ働きをしてはいません。皆に頼りにされている人、どんな事も嫌がらずいつも丁寧な人、相手の肩の力を抜かせてあげられる人・・・。私にとって一人一人の方がいなくてはならない存在です。
そして私自身も「明治学院」という場所が与えられた以上、ここで果たすべき役割、・私にしか出来ないことがあるはずだ、と思うようになりました。例えば「新人」であるということ。これまでは「新人」のマイナス面ばかり考えていましたが、学生から見れば新人である私はまだ年齢も近く、気軽に質問を投げかけられる存在であるかも知れません。日頃から「楽しそう」「元気だね」と言われることが多いので、「なかなか相談が出来ない」という学生の薬に立てるかもしれません。
このように考えて行けば、ただ情けない気持ちで毎日を送るだけにはならず、前向きに臨めるのではないでしょうか。私はまだまだ図書館員としては未熟です。しかし、聖書に書かれているように、「人にはそれぞれの役割が与えられ、一人一人が集まって全体となる」のです。ですから私は、私にしか出来ないことを見つけ、精一杯頑張って行くべきなのでしょう。
では最後に、私が好きな詩を一つ紹介して終わりにしたいと思います。
神が置いてくださったところで咲きなさい。
仕方がないと諦めてでなく「咲く」のです。
「咲く」ということは自分が幸せに生き、他人も幸せにするということです。
「咲く」ということは周囲の人々にあなたの笑顔が私は幸せなのだということを示して生きるということなのです。
“神が私をここに置いてくださった それはすばらしいことであり ありがたいことなのだ” とあなたのすべてが語っていることなのです。
「咲く」ということは他人の求めに喜んで応じ、自分にとってありがたくない人にも決して嫌な顔、退屈な態度を見せないでいきることなのです。
渡邊和子「心に愛がなければ」P.30より引用
大学職員
2001年10月4日奨励

金子 美咲


コリント信徒への手紙 l 12章27-31節

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なうもの、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が奇跡を行なう者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。


実らない無花果の木のもう一年(ルカによる福音書13章6-9節)

新約聖書を見ますと、イエスは神と私たちの関係についていろんな喩えを用いて語られたことが分かります。その内のひとつが、3年もの間、実を実らせることのなかった無花果<イチジク>の木の喩えです。すなわち、実を実らせることができないような木なら、土地を塞がせておかずに、切り倒してしまえ、と命じるぶどう園の主人とそこで働く園丁とのやり取りが記された話です。しかし、ぶどう園のなかに無花果の木が生えている、ということは考えてみるとおかしな話です。地中海世界においてぶどう酒を生産する上でぶどう園とは重要な位置を占めていたのですが、そのぶどう園の中に無花果の木が生えていたことは文化人類学的に観て、意味があったのです。つまり、そのぶどう園で働いていた労働者たちにとって、ぶどう園のなかの無花果の木とは、昼食の一部であり、間食として用いられていたのです。そのことが分かりますと、園丁が主人の言葉に反してもう一年待ってください、と無花果の木を惜しむ気持ちを、私たちはなんとなく理解できるようになります。
しかし、イエスが人々の前でこのぶどう園の無花果の木の話をなさったとき、それは単にぶどう園の様子を描写したり、植物の話をしたかったからではありません。イエスは、このぶどう園での様子を喩え話としながら、人生の中に実りを、すなわち、生きている手ごたえ、生きている目標を体験して来れなかった人間の問題について考えておられるのです。そして、実ることのできない無花果の木をかばう園丁の姿のなかに、イエスはご自分を重ねておられるのです。イエスの喩え話のなかでは、過去3年間、無花果の木は実を実らせることができなかった、とありますが、それは、私たちに置き換えてみれば、私たちの過去3年でもあり、またある人の過去3ヶ月でもあり、またある人にとっては過ぎた3日間を意味しているかもしれません。いずれにせよ、自分の過去の歳月や日々に、達成感や手ごたえを感じることができなかった人の姿がそこに映し出されているように思われます。 しかし、聖書は、さらに深刻な問題を、聴く人々に厳しく想起させるのです。「実らなければ、切り倒してしまえ」という言葉です。この喩え話を最初に聴いた当時のユダヤ人との関係においては、神の前に自分の罪を悔い改めることをしてこなかったことに対する神の裁きの問題がこの喩え話の斧という表象のなかに言い表されているともいえます。しかし私たちは、そのような神を待たずに自分で自分に対して裁きの斧を振り下ろそうとすることさえあるかもしれません。
しかし、皆さん、このイエスの喩え話は、私たちをしてより深い真理に導いてくれます。自分の人生はだれにも顧みられなかったし、結局親の期待どおりにも生きられなかった、と思い込んでいたときでさえ、実は神の期待のなかに置かれていたんだ、ということ、そして、自分で自分が赦しがたいほどいやになるときでさえ、私たちは実は赦しのもう一年の中に生かされている、ということであります。このことが、イエスの言葉によって私たちに伝えられているのではないでしょうか。
私は、米国で留学生活をしておりました頃、日系アメリカ人のキリスト教会で説教の奉仕の機会を与えられたことがあります。あるとき、礼拝の後、南宮(ナムグン)テモシーという初老の男性が私のところに来て、私にある頼みごとをされました。自分は牧師ではないが、ナパバレーというところで、かつて日本から嫁いで来た日本人女性を中心とする人々のために日本語による宣教の仕事をしたいのですが、日本語の説教に来てくれませんか、という頼みでした。南宮さんは、もともと韓国生まれですが、朝鮮動乱(1950―1953年)の災いを避け、父親以外の家族と共に日本に避難して来られた方でした。しかし、牧師でもない南宮さんがどうしてこのように私財を投じながら、福音宣教に力を入れようとされるのですか、と私は尋ねました。実は、南宮さんのお父さまは南宮亨という平壌神学校の聖書学の教授で、現在の韓国語聖書のローマの信徒への手紙からエペソの信徒への手紙を、ギリシャ語から韓国語に翻訳された方だったのです。そのお父さまが、朝鮮動乱のとき、家族を南の韓国に避難させ、ご自分は結局、共産軍に捕まり、殉教された、というのです。そんなにも神さまに喜ばれる立派な仕事をしてきた父がどうしてこんな死に方をしなければならないのか、怒りと悲しみは、やがて南宮テモシーさんの心のなかでキリスト教に対する懐疑主義に変わっていくようになりました。そのような痛手を心に背負い、日本に渡って来られた南宮さんは、やがて米国に移民することになりました。しかし、その米国に渡って来て長らくしてから、南宮さんの、傷を負った心に追い討ちをかけるようなことが起ったのです。自分の大事な息子を、南宮さんは交通事故で失ってしまうという悲劇に見舞われたのです。その奈落の底で、南宮さんは自分の家の荷物を整理していたら、そのなかから小さな英語の新約聖書が出てきました。よく考えてみると、それは南宮さんの父が、朝鮮動乱の最中、家族を南に避難させるときに息子のテモシーさんに、「これをちゃんと読みなさい」と手渡した聖書だったことを、南宮さんは思い出しました。あれ以来開きもしなかった聖書を開いてみると、聖書のいたるところに万年筆で下線が引かれてありました。自分の死を予感した父が「ここを読め」という思いで自分にこの聖書をくれたのに、自分はなんとその聖書をおろそかにしてこれまで来たのだろうか。そして、自分が今度は自分の息子を失うことによってこの父の聖書に再びめぐり会い、ようやく父の気持ちを知ることができたのだ、ということに南宮さんは気づいたのです。悲しみのどん底で、私は遂に神さまに立ち返る機会を与えられたのだ、と南宮さんは私に語ってくれました。今日のこの日まで、神さまがずうっと、私のことを待ち続けてくださっていたんだ。ようやく、自分はこの悲しみのなかで目が覚め、気づいた、というのです。父親が殉教したときには気づかなかったことを、今自分の息子を失いようやく気づいたので、自分は今からでも神さまに献身し、父の祈りに応え神さまの宣教に役立ちたいと考え、このような決心に至った、というのです。
私は、そのテモシーさんの話を聞きながら、自分と自分の二番目の父との関係のことを思い出しました。高校を卒業するまでの6年間、その父との関係は最悪の状態になっていましたが、私はそこから逃げるようにして東京白金台の明治学院大学に入学しました。しかし、1年、2年と過ぎるうちに、父のほうから私に謝りたいという気持ちが、母を通して伝えられましたが、私は頑なにそれを拒否してきました。しかし、遂に私は不承不承ではありましたが、その父の再会の申し出を受け入れることにしました。1973年の夏のことでした。しかし、会う約束をしていたその日に、父は交通事故を起こし、二度と意識が戻らないまま逝ってしまったのです。その死の床に駆けつけた父の妹は、ベッドを叩き、泣きながら、しかしまるで歌を歌うかのように自分の弟の不遇な過去を幼い頃から語り、そして「お前は、最期はこんな死に方をするのか」と泣き崩れたのです。私は、その話を聴きながら、この父と6年間、ひとつの家族として暮らしてきたのに、一度も自分たちは心をゆるして互いの話を語り、そして聞き合うことをしてこなかったこと、そしてさらに、曲がりなりにも父のほうから私に謝りたいと言ってきたのに、自分は拒み続け、最後まで疑い続けてきたことの罪の深さを、打ちのめされるように気づかされました。そして、私は病院の廊下に出て、泣き崩れてしまいました。もし罪の裁きがあるとするなら、この父よりも、むしろ私のほうではないか、という悔いと悲しみと恐れに、私は捕らわれてしまいました。そんな自分が生きていて、そして自分のほうから父としての沽券も捨てて謝りたいと言ってきた父がなぜこのように死ななければならないのか。私はそのような体験を経ながら、やがて明治学院大学を旅立ち、神学校の門を叩くようになりました。
私は、南宮さんの話を聴きながら、実はそのような自分自身の辿ってきた道筋を思い出していたのです。この父を失い、遂には息子さえ失うことによって遂に立ち返ってくる南宮さんのことを神は待ち続けられたように、神は私のことも待っていてくれてたんだなあ、ということを、私は改めてかみ締めることができました。私にこそ振り下ろされるべき斧を、キリストが私に代わって間に立ちはだかり引き受けてくださったのだ、と私はキリストの十字架を受けとめることができるようになったのです。もう一年待ってほしい、と十字架の苦痛のなかでキリストは願い祈りつつ、私の献身を待っていてくださっていたのだ、と気づけるようになったのです。
自分のことをだれも必要としていない、という思いに、もし皆さんが捕らわれるようなことがあるならば、皆さんは既に十字架をもって皆さんをかばおうとされるキリストの期待と祈りのなかで、赦しのもう一年のなかに置かれて生かされていることに気づいてください。振り下ろされる裁きの斧の前に立ちはだかってかばってくださるキリストがいてくださるからこそ生きることのできるもう一年という時間のあることを、どうぞ若い皆さんは気づいてください。
講師(キリスト教学)
2001年10月1日奨励

金 性済(キム・ソンジェ)


ルカによる福音書13章6-9節

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら切り倒して下さい。』


世界をつなぐもの(コリント信徒への手紙 ll12章7-10節)

「世界をつなぐもの」ってなんですかね。実際につながれる世界を夢見ている一人ですが、今現実を見ていても一向に見えてこない。そんな気になるのは私だけでしょうか。私が牧師、伝道師になったきっかけは簡単に言ってしまえば、神という存在が人を変える力を持っていると思ったからなんです。それは「つながれない世界から」、「つながれた世界」へと変わらせる力を持っていると考えるのです。それは、同時に聖書の中に限らずこの歴史の中で神によってその人生を変えられた人は数知れずいる、その事実を私は見過ごすことができなかったということです。そこで、人の生きる生き方へとかえるこの神の存在を深く考えてみました。まず思ったことは神の言葉がなぜそこまで力を持つのか? 神の言葉に力があるからこそ、人は変えられると考えたのです。今日読んだ聖書、コリントの信徒への手紙を書いたとされるパウロはこの手紙の中で、コリントの人々に対してこう言っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(llコリ4:18)。このパウロが言う通りです。神は見えないのです。見えないと言うことは普段、目に頼って生きている私たちであれば、疑って当然、目の前に何もないのにそこに物体があるとは誰も思いません。しかし、神は物体という形あるものではないのです。なぜなら形あるものは崩れ去るからです。逆にいえば、崩れ去らないものとしてありつづける必要があったのです。それは何のためにか? それは、赦しと愛の完成のためです。私自身のことを考えてみても、他者を傷つけてしまったことへの赦しを乞うことのできる存在を欲します。もしその存在が形あるもので崩れてしまったら私はこの過ちを誰に赦してもらえるのだろうか。私は神の存在のその一つの現れかたにこの私を裁き、そして赦すという他の誰も真似することのできない偉大さがあると思うのです。この偉大さに人は胸打ち癒される。ここに救いを感じるのです。
今日お読みした聖書の箇所に出てくるパウロもそんな神の偉大さに触れられ救われたその一人でした。パウロは今日の箇所で苦しみの中にある時、3度主に願った後に、神からの言葉として次のように記しています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』」(llコリ12:9)。パウロは苦しみの中、3度主に願ったのです。しかし、その願い方は単に三回願ったというのではなく、何度となく押し寄せてくる苦しみの中彼は3度主に願ったのです。少し想像力を働かせて見ますと、パウロは知ったのです。「すると主は・・・・・・。」そう語った彼には主が語られた言葉として「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と感じる何かがあったのです。そう、彼の苦しみは半端なものではなかった。ある時は、投獄され、ある時は鞭打たれ、石打ちにあい、ある時は殺されそうになり命からがら逃げ出し難を逃れたこともあった。そんな時には心に安らぎもなく、何もかも捨ててしまいたい、そう願ったこともあったでしょう。しかし、そんな時に彼の前に現れたのは友人であり同志であったテトスでした。彼はこの友人によって大きく力を得、また歩き出す力を与えられた(llコリ7:5 - 8)、このような体験を通してパウロは、今の自分は神の恵みに満たされていることを知ったのではないでしょうか。人は人を通し弱さを、あるいは世の中の亀裂を繕い合っていくものと知らされたのです。そしてその中で生まれる喜び、人と人が繕い合っていく中に喜びがあり、神の恵みがこの私に十分であると知らされたのです。このパウロの働きはユダヤ世界の宗教を全世界へと広めたきっかけとなりました。その後、この聖書から多くのメッセージを人々は感じ神という絶対的なものに裁き、赦され、そのことを知ったものはその喜びをまた後世に伝えようとしています。人と人とをつなぐもの「世界をつなぐもの」が弱さの中でこそ発揮されるということ知っていただきたい。
お祈りします。
天の父なる神さま。私達は信じます。この信仰をもてずにいる私達をお救いください。目に見えないあなたによって私達がつながれるように。どうか、私達の中にある闇からあなたが力もって導きだしてください。この願いと感謝主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン。
碑文谷教会伝道師
2001年11月15日奨励

高田 恵嗣


コリント信徒への手紙 ll 12章7-10節

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がる事のないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから与えられた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ多いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。


Before and After(詩編42編2-7節)

私が教会に行き始めたのは高校1年生のときでした。ミッション系の高校に通っていたので、課題のチャペルレポートがきっかけでした。私は小さい頃から神経質なところがあり、精神的にもとても弱く、よく腹痛を起こしたり、チックがでたり、円形脱毛症になったこともありました。中学は不登校をしていて、カウンセリングや病院の神経科にいくつか通い、フリースペースや適応教室に行ったりしていました。しかしどこに行っても平安は得られず、とても苦しんでいました。いつも精神的なものから胸や胃が痛く、歩くのも辛い状態の時もしばしばでした。家にひとりでいろいろなことを考えていると、非常に孤独を感じ、死にたい、などと呟いていた時期もありました。また情緒不安定で、泣き叫んだりヒステリックになったりして、壁を蹴飛ばして穴を空けたこともありました。なぜ私がこんな過去の辛いことを書いているのかと言うと、私は大学1年生の前期に生ける真の神様と出会い、自分自身や人生が全く変えられてしまったからなのです。そのことはあとで話しますが、「わが生涯は改まりぬ イエスを信ぜしより」という讃美歌がありますが、それと同じ事が私の人生にも起こったのでした。中学3年になり、受験の時期になってともかくも高校に行かなければ・・という思いに迫られて、自分の体に無知を打つようにして教室に行き(というのはそれまで保健室登校をしていたので)3年間ほとんどしていなかった勉強の後れを取り戻そうとして塾などに通い勉強をしました。奇跡的にも何とか受験までこぎつけて、合格することが出来ました。
高校の毎朝の礼拝は私にとって新鮮で、聖書の御言葉がとても恵み深いものに聞こえ、その神様を信じるようになりました。よくわからないながらも聖書の神様にお祈りをしたりもしていました。チャペルレポートをきっかけに、少しずつ教会にも通うようになりました。しかしすぐに楽になったわけではなく、何年間かは苦しい状態が続きました。太りたくないという思いから運動をしなければという強迫観念に囚われたり、人とあまり話すことが出来ず、いつもうつむいていてとっても暗い感じでした。学校に行くのが辛く、胃や胸の痛みも慢性になっていました。運動をしなければ、歩かなければという強迫観念に囚われ、駅から自転車をひっぱって帰ってきたりしていたこともありました。2年生になり、運動部に入らなければという気持ちから、無理をしてバスケット部に入ったりもしました。しかし、もともと運動の苦手な私についていけるはずもなく、後輩からも悪口を言われているのではないのかとびくびくして精神的にも体力的にも追いつめられ、辞めざるを得ない状態になり退部しました。その頃は昼御飯も抜いていて、フラフラになって家に帰っていました。そのうち歩くことに囚われるようになり、学校の行き帰り、バスを使わず何時間も歩くようになりました。夏の暑い日も冬の寒い夜もしもやけの足で寝不足と空腹で倒れそうになりながら歩いていました。雨の日もどしゃ降りの中を傘をさして歩いたこともありました。しかし、途中で前に進むことも、戻ることも出来なくなり、泣きたくなりました。どうすることもできない絶望感でいっぱいでした。大学に入ってからもそれは続き、授業を休んで散歩をしていました。そのためにずいぶん単位も落としました。そうせずにはいられない強迫観念に囚われていて、出かけたくないのにでかけていました。その頃はかなりがりがりに痩せていました。教会の牧師はその頃の私は夢遊病者のようであったと言います。
大学でも友達も出来るような状態でもなく、周りの雰囲気にもなじめず、登校するのが大変苦痛でした。非常なストレスを抱え、家に帰ってからは毎日のように苦しいと泣き叫んでいました。その頃は父親やカウンセラー教会の先生、友達など目に見える助けばかりを切実にも留めていて、神様にあまり頼っていませんでした。そして、ある出会いを通して自分の罪深さを感じ、苦しくてどうしようもない状態になりました。ある礼拝で『神様、どうか助けてください』と思い、神様のお名前である『我は主なり』を呼びもとめました。主の御名を呼び求めるものは皆救われる,という約束が聖書にあります。イエス様を、天地万物をお造りになった真の神様,私の罪のために十字架にかかってくださった真の救い主と信じて『我は主なり』との御名前を心から呼ぶ人は、誰であっても救われるのです。これが聖書の示す明確な救いです。そのとき私の内から私が呼んだのではない御名が内から出てきました。何かいつもと違う感じでしたので、その時聖霊を受けたことがあとになって分かりました。
それから、少しずつ自分が変わっていきました。服装も髪型も、人並みのおしゃれをするようになり、ずいぶん明るい印象になりアルバイトも挑戦してみようという気が起こり笑うことも出来るようになっていきました。しかし相変わらず長時間の散歩を続ける日々で、精神的にも肉体的にも大変負担をかけてしまいました。
そしてある出来事を通し、完全に打ちのめされ、熱を出して数日寝込んでしまいました。その時に、本当に自分の罪深さや無力さを感じ真剣に神様を求めるようになりました。散歩からも大分解放されて、神様との交わりの時間が持てるようになり、自分の態度や顔つきも良いように変わっていきました。心から笑えるようになり、人の目を見て話せるようになりました。今でも色んな面で自分の変化を感じます。前には出来なかったことが人並みに出来るようになり、胸や胃の痛みも本当に少なくなり、苦しみあえいでいた心が本当に平安になっています。以前の私を知る人からは別人のようだと言われます。冗談で、『使用前・使用後だね』などとも言われました。長い間ひどい状態にあった母との関係も和解させてもらいました。これらは全部聖霊を受けてから起きてきたものです。
聖霊を受けたときから、私は病と罪から開放され命の原理が変わったのだそうです。罪を犯して生きていた古い命から、キリストのように生きる人・愛の人・聖人に変えられる神様の命を今、生きているのです。この神の種(聖霊)の力はオールマイティー(全能)です。ここから力を引き出していくならどんどん変わることが出来ます。私は今、自分ではとても苦しいと感じていることがあります。痛切に自分の弱さを感じます。しかし、この御名を呼び求めるならどんな困難極まる問題であっても必ず解決が与えられます。「ダビデの子、主イエスよ、わたしを憐れんで下さい」私を真に救い得るお方はこの真の神様だけです。自分に本当は何も出来ないし、本当に小さな弱い、また病気を持った者であるけれど、ただただ主の前で低くなり、主の救いを待ち望んでいきたいと思います。
英文学科2年
2001年9月28日奨励

石川 なつき


詩編42編2-7節

涸れた谷に鹿が水を求めるように、
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐ事が出来るのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う「おまえの神はどこにいる」と。
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い、感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏した事を。 
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜうめくのか。
神を待ち望め。
わたしはなお告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。
霊の思いは命と平和


ローマ信徒への手紙8章2-11節

私は校長になって6年目に入りました。今年が最後の年と言うことで、来春には定年を迎え、明治学院を去ることになります。
最近感じていることは、学校運営や経営といったものに頭の中の半分が引っ張られ、占領されていることです。そのため教育問題については感性が鈍ってしまっているように思います。残念なことに今週、生徒の処罰が2回ありましたが、この生徒らに話す適切なアドバイスも出てこなくて苦労している始末です。
今は明治学院の教育の在り方、あるいは明治学院に勤めている者の姿勢が問われている時期です。
私は聖書のパウロの記事をよく読みます。パウロは使徒言行録に記述されているように、使徒になる前、ローマ市民であってキリスト者を徹底して迫害してきた人で、あるとき聖霊に満たされて改心しました。そして多くの伝道旅行をして教会を建てました。
私は今日与えられた聖句、パウロの言葉から明治学院を始めキリスト教主義学校の教育の理念を見出したいと思います。教会や学校の中で、キリスト教主義学校の果たす役割についてよく議論されていますけれども、なかなか良い回答が具体的に示されることが少ないように思います。議論では礼拝の持ち方や聖書の時間について、あるいは宗教センターの在り方等制度的なものの工夫などが話されます。しかし生徒たちに具体的に何を伝えようとしているのか明確にはされません。
学校というのは教会ではありませんから、キリスト教を伝道する任務は主たるモノではありません。
私は勤めて38年になりますが、前半の若い時代は野心に満ちた体育教師でした。いつか良い選手を育てて、オリンピックに出場させ、指導者としての名声を得たいと意識しながらずっと指導してきました。今思うと本当に恥ずかしいことですが明治学院の教育というものに真剣に取り組んでいなかったように思います。
パウロの言葉から、世俗の価値観で物事を判断することは肉に拠って生きていることであり、いつかは挫折し死につながる、永遠の命と平和を得るためには霊によって生きることが望まれています。聖書は肉に拠る価値観は死に至り、霊の価値観は普遍的なものであり、これによって私達は命を得、また平和を得ることが出来ると教えています。
普遍的な価値観を聖書からえることの大切さを生徒たちにしっかりと知らしめることが私達の使命であると思います。常に霊の働きがわれわれの生き方を導き、支えてくださっているのだということを聖書から学び、そして明治学院の具体的な教育の本質は、聖書に導かれた霊的価値観を持って命の尊さと平和の尊さを生徒に理解させることであると思います。
あちこちで「霊の思いは命であり、平和である」と言いまわっていますが、これからの明治学院が生き延びていく時に、われわれ一人一人が霊に満たされて、その思いで学校を導いていくならば、今いろいろな課題を抱えていても何時も御心に適った学院が形成されていくのではないかと確信しています。
明治学院高校長
2001年6月22日奨励

坂 仁


ローマの信徒への手紙8章2-10節

肉に従って歩む者は、肉に属する事を考え、霊に従って歩む者は霊に属する事を考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は神に敵対しており、神の律法に従っていないのです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは肉ではなく霊の支配下にいます。
あえて「愛」が「命令」される時


ヨハネによる福音書15章11−17節

「愛」が「命令」されるとき、そこでは一体何が起こっているのでしょうか?「愛」が「命令」される時、私達には一体何が求められているのでしょうか?「愛しなさい」という「命令」に進んで応じる「善意」でしょうか?あるいは「愛しなさい」という「命令」に決して逆らわない「従順さ」でしょうか?そもそも「愛」とは何でしょうか?
愛とは何か、これは古から今日に至るまで、ありとあらゆる場所で人々が考えつづけてきたことです。そして唯一つわかっているのは、「愛」について定義することはできない、ということです。どんなに言葉を重ねても、その「愛」のありのままを語り尽くすことはできない・・・「愛」とはそういうものです。「愛」は、いつでもどこでも変わらないような普遍的なものではありません。また、それを簡単にあげたりもらったり出来るような、何かしら品物のようなものでもありません。ましてや、「愛しなさい」という命令に進んで応じる「善意」や、そのような命令に逆らわない「従順さ」などでは絶対にありません。他人を思いやる「善意」やそのような善意を黙々と積み上げていく「従順さ」は、それはそれで素晴らしいものですが、それらは「愛」ではありません。
むしろ「愛」は、言葉には出来ないけれども、実は私達が既に知っているもの・・・決して語り尽くせはしないけれども、私達が現実に、具体的な状況の中で、それを生きているもの・・・様々な形において生きているもの・・・親子の愛という形において、家族の愛という形において、友人同士の愛という形において、男女の愛という形において、その他様々な形において、私達が現実に生きている、そのようなものです。そして、いつだって「愛」は理性よりも二歩も三歩も先に行ってしまっている・・・・気が付いた時には、もう愛してしまっている・・・「愛」とはそのようなものです。少なくとも、私達が既に知っている「愛」とは、そのようなもののはずです。そして、そうだとすれば、およそ「愛」という言葉ほど「命令」という言葉からかけ離れているものはありません。
しかし、どうでしょう、私達の日常を見渡してみると、不思議なことにあちらでもこちらも「愛」が「命令」されているのではないでしょうか?電車やバスの優先座席を巡って、自然環境の汚染や破壊を巡って、また臓器移植などの先端医療技術やそのためのいわゆるドナーカードを巡って、その他様々な事柄を巡ってあちらでもこちらでも「愛」が叫ばれていて、数え上げればきりがない。・・・それが私達の日常ではないでしょうか?勿論、確かにお年寄りや体の不自由な人々には当然のこととして座席が譲られるべきですし、人間以外の生き物の生命を尊重することや未来の子供たちに対する現代人の責任を意識することも大切なことです。また、肉体的な苦しみや絶望に立ち向かって行こうとする先端医療技術の動向を見つめ、場合によってはその医療技術と切り結んで行くことも、現代に生きる私達は考えざるを得ないのかも知れません。 しかし、そうだとしても、やはり「愛」は「命令」されるものではありません。「愛」は「善意」でもないし、「従順さ」でもない。私達は「命令」されている内容の正しさを理性において納得できさえすれば、たとえ本当は気が進まなくても、「善意」に満ちた行動を取るように自分自身をコントロールすることが出来るし、その「命令」に対して「従順さ」を示すこともできる。でも、それは「愛」ではない。「愛」は理性と感性の間の緊張案系に折り合いをつけて捻り出すようなものではありませんし、何らかの目標に向かって頭と心を整えていくような作業でもありません。「愛」はいつだって机の上やどこか遠い空のかなたの出来事ではなくて、今ここでの出来事、出会いにおける出来事です。ですから、およそ「愛」という言葉ほど「命令」という言葉からかけ離れているものはないのです。
しかし、それを充分に承知の上で、あえて「愛」が「命令」されているとすれば、どうでしょうか?「愛」は「命令」されるものではないと分かっていて、それでもなお、あえて「愛」が「命令」されている場合、そこでは一体何が語られているのでしょうか?今日のテキストはその事を考えるよう私達を促しています。
今日のテキスト、ヨハネによる福音書の15章前後は、十字架の出来事を目前に控えたイエスと弟子達の様子を描いています。イエスは弟子たちに繰り返し「愛」について語っています。そして、「互いに愛し合いなさい、これが私の命令である」と強く言い聞かせています。よく、イエスの教えを一言で説明するならばそれは愛と自由だ、と言われますが、確かにそうです。福音書を読むと、そこにあるのは私達が知っている「愛」の最も美しい形を現実に生きているイエスの姿です。福音書は人々に関わってゆくイエスの振る舞いの広さを、深さを、そして呆れるほど単純な美しさを伝えています。ですから、言うまでもなくイエスは「愛」が決して「命令」されるようなものでないことを、誰よりも良く知っていたわけです。しかし、そのイエスによってあえて「愛」が「命令」されている。とすると、そこでは一体何が語られているのでしょうか?「愛」は「命令」されるようなものではないと、よくよく知っているはずのイエスによって、あえて「愛」が「命令」される時、イエスは私達に何を迫っているのでしょうか?「愛」という出来事の中に含まれる、何をイエスは見つめているのでしょうか?
ヨハネによる福音書を見ると、イエスはただ「愛しなさい」とかたっているのではなく、「互いに愛し合いなさい」と繰り返し語っています。その際イエスは、いわゆる一方通行の愛を否定しているのではありません。自分から一方的に誰かを愛すると言うことは、決して珍しいことでも難しいことでもないし、気が付いた時にはそうなってしまっているのも、しばしば私達が経験することです。そしてイエスは、別にそのような「愛」を退けているわけではないのです。イエスはただ、「互いに」ということの意味を心深く知りなさいと語っているのではないでしょうか?とりあえず一方通行として始まったかもしれない「愛」が互いへと向けられる時の私達のありようを・・そこに溢れる喜びを、何よりも大切なこととして捉えなさい、と語っているのではないでしょうか?イエスが「互いに愛し合いなさい」と「命令」するとき、そこでは「互いに」ということの意味を・・・人と人とが向き合うということの意味を、人が他者と出会うということの意味を・・・心深く知ることが求められているのではないでしょうか?
私達にとって大切なことは、「生きる」ということであり、「生きる」ということは、社会の中へとイヤでも組み込まれていくことです。そして、社会は基本的には様々な利害関係や力関係によって動いているのが現実であり、私達はその様々な関係の中を上手に泳いで行かざるを得ません。ときには嘘もつかねばならないし、そのついてしまった嘘を取り消すためには、また別の嘘をつくはめになってしまう・・・そんなこともしばしばです。たとえ、誰かを愛しているにしても、その誰かを愛しているという自分のありようは、愛しているその相手から得られる利益や快楽の追求へと急転回してしまうかもしれません。つまり、私達が誰かを愛しているということは、自分を愛することの追求へと180度転回してしまう危険性を常に孕んでいる、ということです。誰かを愛しているつもりでも実は自分自身を愛しているだけ、というような状況とスレスレのところを、いつだって私達は歩いているのです。また、誰もが互いに愛し合うなどということも実際にはありえませんし、ナンセンスです。
けれども、一つの出会いにおいて、具体的な状況として一つの出会いにおいて「互いに愛し合う」ということを経験するならば・・・ただ愛するだけでなく「互いに愛し合う」ということも「互いに」の部分を現実の状況の中で深く知るならば・・・その時、私達は日常において抱え込んでいるありとあらゆる荷物を、ほんのひとときではあってもおろせるのではないでしょうか?愛する相手がそこにいるということを、そこに生きているということを、つまり相手の存在そのものを、理屈抜きに慶びとして感じ取る。また自分も同じように誰かから理屈抜きにあるがままの自分の存在全てを喜ばれ、大切に思われ、愛しまれる・・・そのことを心深く感じ取る。そこにおいて、私達は生きていることの意味を、ほんの少しだけ垣間見ることができるのではないでしょうか?そのためにイエスはあえて「愛」を「命令」しているのではないでしょうか?今日のテキストはそのように教えてくれていると思います。
祈りましょう。
神様、どうか私達があわただしい日常を過ごしつつも真実な出会いを経験していくことができますように、私達を導いてください。
主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
講師(キリスト教学)
2001年6月29日奨励

土井 かおる


ヨハネによる福音書 15章11節―17節

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てる事、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じる事を行なうならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いた事をすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出掛けていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


勇気と自信と(マタイによる福音書25章14―30節)

[ 遠かった「アフガニスタン」(朝日新聞11月10日参照) ]
9月11日にニューヨークで同時多発テロが起こり、アメリカによるアフガニスタン空爆開始から約1ヶ月が経ちました。この間思い巡らしたことと聖書の箇所を関連させて、今日はお話したいと思います。
恐らく、ニューヨークの世界貿易センタービル崩壊を即座に「アフガニスタン」という国と結び付けて想像できた人はほとんどいなかったでしょう。私もその一人で、未だ犯人は確定していませんが、テロと結び付けられたアフガニスタンを、どれほどの人が日頃身近に感じていたことでしょう。テロをきっかけに世界の「目」のなかに飛び込んできたアフガニスタンへの世界的無関心が、このとき逆説的に浮きぼりになったように思います。
11月10日の朝日新聞の記事で、「アフガニスタンのGDPは北朝鮮の同程度。エチオピアやコンゴよりかなり高い」との記載がありました。アフガニスタンが北朝鮮と同程度のGDPということがわかり、さらにエチオピアやコンゴのGDPがアフガニスタンや北朝鮮のGDPよりもずっと低いという事実がさらに輪をかけ、私のアフリカへの関心の低さをも思い知らされました。
空爆やテロについて、アフガニスタンやアメリカなどで起きているできごとの流れをせめて追いたいと思っても、私たちが一般に入手できる新聞やテレビニュースは、情報が断片的で一方通行なものがほとんどでしょう。事実を確認しようとしても、どこまでが事実であると確認しうる手段を多くの人は所有しておらず、可能性として考えられる情報操作の確認もままなりません。最終的には想像力を働かせ、自分の価値観のもとに考えを整理し、可能な限り行動に移すことになるのが現実といえましょう。
[ あきらめない勇気、希望を失わない自信 ]
今回とりあげたマタイの「タラントンのたとえ」では、それぞれの力に応じて預けられた財産を、倍に増やして返した人とそのまま隠しておいて元のまま返した人の話が書かれています。学生時代のチャペル礼拝で初めてこの箇所を読み、奨励された恩師の言葉が自分への励ましとして今も鮮明に蘇ってきます。
それは「どこでも自信をもって与えられたものに感謝しなさい。人の差は何を選択したかよりも、それをどう主体的にこなすかどうかで出来てくる。自分に与えられた才能を最大限に生かせばさらに与えられるが、その才能をだめなものと考えると、与えられたものもさびついてしまう。自分が選択したものは神から与えられたものとして、積極的にうけとり意味を見出していきなさい。自分の運命の道を愛し、与えられたものに忠実になりなさい」というものでした。
たとえばアフガニスタンやアメリカ、また世界のこれからの方向性を考えるときに、日常生活のなかで私たちができることは限られていると、何もしない受け身の生き方を選ぶのではなく、自分の力を最大限に活かしつづける勇気と自信を失わない生き方を選ぼうではありませんか、という呼びかけが、恩師のメッセージであったように思います。早いもので恩師のメッセージを胸に、10年近くが経ちました。
明治学院大学で学ぶみなさんお一人一人が、どのような場にあっても自分のなかに自信をもてる部分を探しながら、与えられた役割に前向きにとりくんでいかれることを願ってやみません。充実した、悔いのない学生生活をお祈り申し上げます。
ボランティアセンター・コーディネーター
2001年11月12日奨励

谷津倉 智子


Perfect Peace(New Testament Mark 4:35−41)

I have chosen to talk about peace today. This a difficult time to talk about peace in the world, because the world does not seem very peaceful today. The world has been shaken by terrorist attacks in NY city, bombings in Afghanistan, threats of biological warfare, children are dying all over the world of starvation, and everyday we awake to newspapers reporting the latest bombings and terrorist plans that have been discovered.
In the midst of all of this, our world offers us little bits of peace everyday like listening to relaxing music, getting a massage from a friend, a piece of chocolate, a good grade on an exam, a long time in the Ofuro. In Kamakura we often look out at the ocean. It looks so beautiful and calm. Today the sunset was a blazing pink and a lone fisherman was fishing out on a dock amidst sail boats lightly sitting on the water. All of these things are what we think of as peaceful in our world.
But the peace the world offers us is not lasting, it is not real, and it is not perfect. Eating a piece of chocolate, getting a massage, or listening to music will not give you lasting peace. It might give you a break from a stressful day, but you will get hungry again, you will need another massage soon, and you will get tired of listening to the same music everyday. And while the ocean appears to be beautiful and calm on the surface, underneath little fish are being eaten by bigger fish and many things are happening. So it is not so peaceful after all.
I was in the store the other day after church. I do not usually go shopping on Sundays, but this day I was tired from a long week of work and listening to all the sad news in the world. We were going to go home right after church, but I told my husband, Christian, that I wanted to go somewhere, do something; I didn't want to go home because I knew I would start working, have to listen to phone
messages, check email, do laundry, clean the house, write this sermon and on and on. I wanted a break from stress, a break from my life; I wanted some peace. So what I did was try to buy it. I decided I needed to buy something, but this caused me more stress because I had to find the right size, try it on, and decide whether or not it was a good price. I bought a skirt, but then I realized it was too short to go with my boots, so I decided to take it back. This caused more stress because I had to explain why I wanted to return it and waste time going back to the store. I only truly felt at peace when I returned home and thought about how God was my true peace and shelter when I was sad about all of the scary things happening in the world. Nothing else that day had given me the peace and calm I needed but God.
In today’s scripture passage, John 14:27, Jesus says, "Peace I leave with you; My peace I give to you. I do not give to you as the world gives. Do not let your hearts be troubled, and do not let them be afraid." In other words, if you believe in the values of the world, you are going to be troubled; If you trust in Christ and His salvation you will have peace. Christ is blessing the disciples in this passage before He is about to be crucified and leave this world physically.
Here Christ is reminding the disciples that believing in Him and following Him is different from following the world, in the sense that the world will destroy you, the world will abandon you, but Christ will not. Christ had little to leave, even His clothes would become the property of the crucifixion squad of soldiers. But there was one thing he could give. The peace Christ offered was a very real, and a prized gift. He offers the disciples "My peace," His own personal peace. To have His peace Christ said to the disciples, as He is saying to us today, "You must Trust God wholeheartedly. As I have trusted and do trust Him; accept unquestioningly His ordering in your life; lay your whole being at His absolute disposal, holding back nothing, making no reservations: and you will have peace that passes understanding, that guards your heart, and this peace will keep your spirit quiet and calm, steady, and unafraid."
In essence, if you follow Christ's example and you believe in God through Christ's witness, then you too will have a peace that is real and true. God gives us so many wonderful things in life, but we do not believe and trust in Him to take care of us when bad things happen to us and to our world. When bad things happen, we turn on the TV to get more news, we talk on the phone with friends, we eat sweets, we buy things we don't need, and God is probably the last person we go to for peace, we only ask Him for help after all of these things fail to give us the peace and safety we are looking for. But there are so many things to buy, so many people to talk to, and so many self-help books to read that we often forget about God. We forget that God loves us and cares for us all the time, in our sad and scared times and when things are going well. Even when we forget about God, God remembers us then too. So what is Perfect Peace? How can we get it? Jesus shows us how to have Perfect Peace, not by His words, but by his actions. When Jesus is about to be taken away by soldiers to be crucified, He blesses the disciples. During a storm, when the disciples are afraid they will die, Jesus sleeps, He sleeps with His head on a pillow. He sleeps because He has faith that God will take care of Him. In Psalm 46:10 God says, " Be still and know that I am God." This means don't worry, don't be afraid, God who is all-powerful and all-knowing is here with you to protect you and give you what you need.
Because Jesus believed that God was watching out for Him, He was able to calmly wait for the authorities to take Him away peacefully when the disciples were sad and worried they would lose Jesus. And Jesus slept even during a storm when the disciples thought they might drown because He knew God would take care of Him. This is how we too need to live our lives, we need to rest, as Jesus rests, in God's gentle and powerful hands. There is no need for us to be afraid or nervous or sad like the disciples. God is taking care of us and Scripture reminds us that He knows what we need, even before we ask for it. This does not mean that we should not talk to God and ask for help, it just means that we need to trust everything to God, and believe that He knows what we need when we need it.
So let us go back out into our lives resting in the knowledge that we are in God's hands. He is holding onto us tightly with His strong and protective hands. And God whose love for us is greater than any father for his child in all creation, will not let us out of His gentle and perfect sight. Even in the midst of a world where people kill and hurt other people, earthquakes and typhoons tear apart entire cities and families, we can have Perfect Peace if we just remember to be calm, believing and trusting that God is taking care of us as He did yesterday, as He is today, and as He will every day for the rest of our lives. Amen.
Campus Ministry
2001.10.4 Chapel Service

Kay Zebley


共に生きる(ローマ信徒への手紙12章15節・ヨハネの黙示録3章20節)

皆様はこうしてキリスト教を礎に建てられた明治学院大学で学ぶことについて、運命だと思いますか。(運命とは大辞林によると、超自然的な力に支配されて、人の上に訪れる巡りあわせ。天命によって定められた人の運)それとも運命なんか信じないで、自分の人生は自分が望んで切り開いたと思いますか。または単なる偶然ですか。私には運命でも偶然でも自分の力でもなく、今振り返ってみると一つ一つが神様の摂理であったと思えます。(摂理とはキリスト教で、この世の出来事がすべて神の予見と配慮に従って起こるとされるの意)
4年前、私の夢「共に生きる」世界の実現のために、社会人入学しました。それは長いこと留学生支援のボランティアをして、日本人が自分でも気づかずに持つ、アジア人蔑視や偏見による差別に会って傷つく留学生(9割がアジア諸国から)を見て、何故と思い、社会学科でマイノリティへの差別を学ぶためでした。それが2年時の専攻決定の時、N先生の「貴女の留学生という現場があっては社会福祉よ」との一言で突然方向転回し、社会福祉を専攻しました。けれども外国人差別を扱う領域がないので、専攻が正しかったのか悩んで祈っていました折り、公的扶助のS先生が今日読んだ「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」のみ言葉から礼拝の奨励をなさいました。それは当に聖書のみ言葉であり、社会福祉の理念であり、私の夢「共に生きる」であると気づいたのです。その時スーと悩みが消え、感謝に変わりました。このように留学生を窓口に、自分では思ってもみなかった社会福祉へと世界が拡がったそのことに、不思議な神様の摂理を感じています。
在学中実に多くの出会いがあり、「共に生きる」仲間がとても増え、夢が少し実現したような気がしています。崇實大学の柳永烈先生との日韓関係研究会、宗教部主催の韓国、沖縄への「平和の旅」を通して、韓国や沖縄の人との共生の意味合い、教職員、友人としての留学生、若い級友、社会人入学の仲間達、ボランティア先や実習先で今まで触れ合う機会のなかった身体障害者、知的障害者、痴呆症の高齢者、初めは不安や変なステレオタイプの思い込みがあったのに、直に接してその偏見が消えていったのは嬉しいことでした。
しかしよく考えると聖書のいう「共に生きる」は簡単なことではありません。その相手は私が在学中に出会ったような素敵な仲間ばかりではなく、どうしても好きになれない人、許せない人、尊敬できない人、犯罪者、時にその中にはテロリストもいるかも知れませんし、また人間だけでなく、動物や植物も、自然とも、全て神様の被造物が対象ではないでしょうか。「共に生きる世界」は私の夢ですけれど、完全にそれを行うのは人間には不可能なことだと思った時、大事な方を忘れていたことに気づきました。神様です。神様だけは何時も「共に生きる」ことが出来る方です。私が苦しい時、悲しい時、嬉しい時、感動した時、祈り求める時、何時も神様が側にいて、祈りに応え、共に喜び、共に泣いてくださいました。神様だけはだれに対しても完全に共に喜び、共に泣いてくださる方です。
クリスチャンは祈ることを知っています。どんな祈りにも必ず神様は応えてくださいます。私が専攻のことを祈っていた時に、N先生の一言は神様からの祈りに対する応えでした。またテーマと社会福祉の学びが重ならず悩んで祈っていた時に、S先生を通して与えられたみ言葉も、私にとっては矢張り神様からの応えでした。このように何時も真剣に求め祈ることに、神様は必ず応えて下さいます。まだ神様を知らない方、信じられない方、貴方が知らなくても、神様は全ての人に太陽を照らすように、貴方にも同じように恵みを下さっています。この神様の名の礎に立てられた明治学院大学で学ぶことになったのも大きな恵みです。この先、嬉しい時、悲しい時、苦しい時、是非祈ってみてください。共に喜び、泣いて下さる方がいて、必ず応えが返ってきます。それは決して自分の思うような結果になることではありませんが、後になるとそれは神様の摂理だったなと思うことばかりです。
今日読んだヨハネの黙示録にあるように、主は外に立って戸を叩いて、貴方が戸を開けるのを待っておられます。この戸は外からは開けられない戸です。貴方がその戸を開ければ、主は中に入って一緒に食卓につこうと言っておられます。何か苦しい時、悩む時、喜んでくれる人が見つからない時、主が貴方の戸の外に立っておられることを覚えて、戸を開ける勇気をもってください。そこには「共に生き、共に喜び、共に泣く」ことが唯一完全に出来る方がおられます。これが卒業を前に、既に「主が共にある」ことの喜びを体験している者として、私が皆様にお話ししたかったメッセージです。これからも神様と、またこの地球上の全てのものと「共に生き、共に喜び、共に泣く者」でありたいと祈っています。

大野 綾子


祈祷

在天の父なる神様 今日卒業を目の前にして、このチャペルで皆様と共に礼拝の機会を与えられましたこと、またここでの学生生活を通して貴方から多くの恵みを頂きましたことを証する機会を与えられ、福音を述べ伝えることができましたことを喜び心から感謝申し上げます。全てのことが貴方の摂理の内にあることを固く信じます。ここにいる既に貴方を知る人も、まだ貴方を知らない人も区別なく、貴方は御子イエスキリストを十字架につけまでも、私達一人一人を愛してくださり、いつも共にいて下さいます。一人でも多くの人がその愛に気づいて、喜びの内に日々を過ごすことができますように、導いてください。この感謝と願い、主の御名によって捧げます。アーメン
社会福祉学科4年
2002年1月16日奨励


ローマ信徒への手紙12章15節

喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい。
戦争と宗教


マタイによる福音書5章43―48節

今朝は,新聞の休刊日でしたので,インターネットで各新聞社の情報をみておりましたら,こんな記事が目に入りました。「13日,米国のアフガニスタン攻撃に対する抗議デモがキリスト,イスラム両教徒が衝突する暴動に発展,目撃者によると,衝突や治安部隊の発砲で200人以上が死亡したという。抗議デモは12日から始まり,車への放火などをきっかけに暴徒化。若者らが教会やイスラム教寺院のモスク,商店に放火するなどした。数千人の住民がカノ付近の軍の兵舎に避難した。同国政府は13日から夜間外出禁止令を出し,近隣の州から治安部隊を増員した。同国北部ではイスラム教徒が多く,イスラム法であるシャリア導入をめぐりキリスト教徒とイスラム教徒の対立が続いている。」
この国とは,現在の紛争当事国のアフガニスタンやその周辺国ではなく,またアメリカ合衆国やイギリスなどのNATO諸国でもありません。大陸を隔てた中央アフリカのナイジェリアの話であります。
1ヶ月前のテロ事件から,暴力行為と狂気は一層加速され,世界中のいたるところで小競り合いや紛争が発生しております。また,ある集団による特定地域へのテロ行為が,複数の国家を巻き込んだ「戦争」へと発展してきており,世界的に戦時体制が敷かれております。これは,単に,アフガニスタンのタリバン政権が戦争であることを主張したり,アメリカのブッシュ政権が戦争とよんだり,軍隊が派遣されたり,しているからだけではなく,世界中の保険会社が,今後のテロ関連の事故を「戦時」の免責事項として認定すると宣言したことからも,理解できます。
そして,今回のこの「戦争」は,イスラム教徒がジハード,聖戦を主張すれば,一方でキリスト教徒が十字軍を引き合いにだすほど,「宗教戦争」の色合いが濃いものとなっております。
民間航空機という爆弾によって,一瞬の内に3000人余りの人々の生命が失われました。愛する家族を失った人々は悲しみ,多くの場合,愛するが故に加害者に対して恨みをもちます。この事件が広がりをもったのは,事件がいつ自分の身の回りに起きてもおかしくはないと感じた人々が少なくなかったために,多くの人々の間で,愛する者を失った悲しみと恨みを共有したためだと考えられます。身近な者への「愛」の行為が,遠くにいる者への「殺人」行為へと発展していくのに,そう時間は必要ありませんでしたし,きわめて自然に発展していったのだと思われます。
一方,イスラム教徒たちも,不自然な行為を行っているわけでもないようです。アメリカ軍のアフガニスタンでの空爆の後,ウサマ・ビンラディンが発表した声明では,80年もの間イスラム世界を抑圧するアメリカが報いを受けるのは当然であると言っているのです。「80年の後,アメリカの頭上に剣が振り下ろされることになっても,偽善者たちはイスラムの聖地を血で汚し,破壊した殺人者たちの死を悼むだけだ」と言っています。
その80年前に何が起こったかといえば,1918年の第1次世界大戦の終焉です。この大戦で,敗戦国となったオスマン・トルコでは,その後ケマル・パシャによって,皇帝がイスラム教の最高指導者をかねるスルタン制が廃止され,共和制に移行しました。623年続いたオスマン帝国は滅亡し,イスラム教徒による世界支配に終止符が打たれたわけです。そして,オスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の運命もこのころ決せられました。イギリスのバルフォア外相が,パレスチナに将来ユダヤ人国家をつくることを認める書簡をユダヤ人社会の実力者ロスチャイルドに与え,これが「バルフォア宣言」として,後のイスラエル建国の論理的な根拠になっていったのです。
すなわち,この時の戦争の「犠牲」の悲しみと恨みが,今回の戦争の原動力となったわけです。そして,一人,ビンラディンのみが恨んでいるのではなく,多くの人々の共感者がいるのは,第1次大戦まで溯らなくとも,その後の数々の紛争や戦争,あるいは経済的な格差による差別といった「平和を脅かす行為」のための悲しみと恨みが根源にあるということができましょう。ここ数日の空爆犠牲者たちの家族にも,悲しみと恨みが起きていることでしょう。こうした悲しみと恨みは,国家の問題以前に,個々人の心の中に生まれ,成長していくものである考えられます。
さて,キリスト教は,他のさまざまな多くの宗教と同様に,戦争と平和について語っています。イエス・キリストを平和の君と呼んだり,キリスト教を「平和の宗教」と呼ぶこともあります。しかし,戦争や平和について語っていない宗教はないと言ってもよいくらい,宗教と戦争は密接に関連しています。
キリスト教に限っていっても,歴史を通じて平和のために大きな働きをしてきました。近代では,クエーカー派やメノナイト派のような絶対平和主義に立つ,いわゆる平和教会のみならず,ほかの教派からも良心的兵役拒否者がでて,戦争に反対してきました。第1次世界大戦後,世界平和のための国際機関として国際連盟を提唱したウッドロー・ウィルソン,第2次世界大戦の最中から国際連合の準備をしたJ・F・ダレスは,いずれもアメリカ長老派教会の牧師の息子です。
しかしながら,一方でキリスト教も平和の実現に対して無策で,むしろ戦争協力の一翼を担っていたこともあったのも事実です。日本のキリスト教,そしてキリスト教の大学であるこの明治学院大学も,そうであったことは歴史的事実ですし,そのことは語られるようにもなりました。
戦争と宗教との問題は,ただ宗教が平和を説きながら,戦争に加担するというだけではありません。今日の戦争だけでなく,ここ数年勃発している戦争をみてもわかるように,むしろ宗教自体が戦争や闘争の原因になっています。北アイルランドにおけるプロテスタントとカトリックというキリスト教同士の戦い,中近東におけるユダヤ教,キリスト教,イスラム教の争い,インドにおけるヒンズー教とイスラム教,スリランカにおける仏教とヒンズー教,旧ユーゴスラビアにおけるイスラム教とキリスト教など,世界の各地で宗教が民族や国家の対立の大きな原因になって,争い,血を流しています。
では,なぜ平和を教える宗教が,戦争の原因になるのでしょうか。これは一見,全くの矛盾であります。その一つの原因は,宗教のもつ絶対性主張にあるといってよいでしょう。全ての宗教は,絶対性主張をもって生まれるといわれるように,その絶対性を主張しない宗教はありません。すべての宗教は,自分の宗教が絶対的に正しい,真理であると主張します。この宗教は,間違っているかもしれませんが,信じてご覧なさいということを,本気でいう宗教はありません。他の宗教からみたら,迷信か魔術,いかさまのようにみえる宗教でも,自分のところの宗教は絶対の真理であると主張します。
インドのガンジーが言ったように,「たとえ比較宗教学で最低の宗教と判断されても,自分の宗教は真理である」というのが宗教なのです。デンマークのキェルケゴールの言葉でいえば「主体性が真理である」からです。宗教の真理とはすぐれて,主体的,実存的な真理なのです。
それだからこそ,そしてしかしながら,宗教は危険なのです。まかり間違えると,独善的になり,自己を絶対化するようになるからです。自分の宗教は,絶対的に真理であるから,他の間違った宗教は滅ぼしてもよいと考えるようになるのです。中世の十字軍とは,キリスト教がイスラム教に対してそのように考えた結果,起きた戦争です。
これは絶対的な神と,その神を信じる相対的な宗教あるいは自分とを,同一化することからくる誤りです。神は天に,人は地に,ということを忘れて,自分を神と同じく絶対的なものとみなす,人間の思い上がり,それこそが罪でありますが,その罪の結果です。
人類に神が降りて来る関係,換言すれば人間と神とがどのように関係しているかを観察してみると,どうやら2つの類型がみられます。
第1は,神が人間に宿ってしまう類型。人間が,自分自身が神となる,神の化身となる場合です。こうした宗教のあり方が,しばしば紛争や戦争,いわれのない殺人を引き起こすことになるのです。
第2は,神が存在することによって,人間,自分自身が相対的な位置づけを得る類型です。これこそが,自分を絶対化することに抑制を促し,自分を絶対なる神とは根本的に異なった存在であると認識させる宗教であり,宗教観であります。
さきほど,お読みいたしました聖書では,「隣人を愛し,敵を憎め」という自己を絶対化する考えを否定し,「敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい」といって,そのようにするとき,人間は神の子としてふさわしくなるのだといっています。神は,特定の宗教を信じている人だけを愛し,恵み,他の宗教を信じている人は憎み,差別しなさいという方ではない,というものです。「徴税人でも,同じことをしているではないか」と記されていますが,当時のユダヤ人は,見下していた人々のことで,同じ宗教を信じているけれども,道徳的に感心しない人々として登場しています。
天の神は,全人類の神であり,すべての人を愛される神であるから,あなたも敵であっても,他の宗教の人であっても,全ての人を愛しなさい,といっているのです。平和の君と言われる所以は,このことから来るのです。
このように,自分の宗教の視点からではなく,神の視点から宗教,そして世界を見るとき,他の宗教,異文化は,相争うものではなく,むしろ協力する相手になります。国際化が,相手の国を無視することではないように,宗教的とは,自分を客観的に捉え,相手を尊重することに他ならないのです。
こう考えてみれば,大学というところは,自らを絶対化せず,真実なるもの,善なるもの,美しいものに,客観的に接し,対象と対話をし,発見をする場であるため,きわめて宗教的であることです。この明治学院大学が,キリスト教を支柱にしているのは決して偶然や,気まぐれの産物ではないことが,ここでお分かりいただけたと思います。
国連の第2代目の事務総長であり,世界平和のために飛び回っていたスウェーデン人のダグ・ハマーショルドの祈りをここで皆さんと共に祈りたいと思います。彼は,アフリカにおいて飛行機事故で亡くなりましたが,その亡くなる前の2ヵ月前の日記に記されていた祈りです。
〔祈り〕神よ,私たちを憐れみたまえ。私たちの努力を憐れみたまえ。私たちが,愛と信仰に満ち,正義を尊び,へりくだって御前にいで,己を捨て,忠実を守り,勇気をもってあなたの御後についていけますよう。そして,わたしたちが,静けさのうちに,あなたに出会えますように。あなたの御姿が見えますように,清い心を与えたまえ。御言葉が聞こえますように,慎ましい心を与えたまえ。あなたに仕えさせていただけますように,愛する心を与えたまえ。あなたのうちに生きられるように,信ずる心を与えたまえ。アーメン。
法学部助教授(行政学)
2001年10月15日奨励

鍛冶 智也


マタイによる福音書 5章43−48節

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、
あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


あとがき

宗教部の『明治学院大学キリスト教活動ハンドブック』2002年度版を皆さんにお届けします。ハンドブックの作成にあたっては、多くの方のご協力を得ました。ここに感謝の意を表したいと思います。表紙は1916年に完成した明治学院白金チャペルです。
第2部に載せた奨励(メッセージ)は、多くの場合、奨励者自身がまとめられたメッセージの要約です。チャペルの雰囲気を感じとっていただければと思います。なお、引用されている聖句のページは、日本聖書協会の新共同訳聖書によるものです。前後もあわせて読んでいただければと思います。
このハンドブックを通して、宗教部の活動が広く理解され、多くの学生・教職員の方々がその活動に参加して下さることを願っています。

( S. Y )



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