対談シリーズ Vol.2
アインシュタインも想像できなかった未来がやってくる
量子コンピュータの実用化に向けた研究が加速する中、2024年開設予定の情報数理学部では「数理・量子情報コース」の設置を予定しています。今回は、同コースのカリキュラム編成に関わる太田和俊法学部教授と、株式会社デンソーで量子コンピュータの研究に従事している入江広隆氏に、「量子の時代」に求められる人材像や教育のあり方について語り合ってもらいました。
量子コンピューティング研究課長 理学博士
情報数理学部・情報科学融合領域センター設立準備室委員
大学と企業の垣根を超え、素粒子理論の研究者としてのつながりが引き寄せた出会い
お二人は、どのようなご関係なのでしょうか。
私も入江さんも物理学出身で、素粒子理論の研究、中でも場の理論とか超弦理論など数学を多用する数理科学と呼ばれる分野の研究をしており、かつては一緒に研究会議に参加したりしていました。その後、私は本学に移りしばらくお会いしていませんでしたが、情報数理学部の立ち上げを村田学長と一緒に構想する過程で、量子コンピュータや量子情報に詳しい研究者を探す必要が出てきました。ちょうどその時期、物理学会誌に寄稿した入江さんの原稿を拝読したことで当時のことを思い出し、私からお願いする形で1年ほど前からさまざまな意見交換をさせていただいています。
私の元々の専門は太田先生と同じ素粒子理論(超弦理論/数理物理)で、紙と鉛筆だけで宇宙の真理に迫っていく素粒子理論に魅せられてこの世界に入りました。学位取得後、国内外のポスドクを8年務め、アカデミアから企業に就職することとなりました。私が従事してきた超弦理論と呼ばれる分野では、宇宙の仕組みの解明や、究極の物理法則の追究といったことをめざす一方、得られた数学上の理論(数理)を別の分野に生かす動きも活発に行われています。超弦理論の研究で培ってきた高度な数理を現実の社会に役立てたいという思いから、まずは量子デバイスを作るために半導体系のベンチャー企業で働き始めました。その後、デンソーが量子コンピュータの実応用研究を開始したとの話を聞き、2018年にデンソーに入社し、それから量子コンピュータの応用研究に従事しています。そんな中で太田先生からお声かけいただき、明治学院大学の新設学部に対して企業の立場として学生の皆さんに想いを伝える機会を与えていただきました。
素粒子理論や超弦理論の研究が、数理分野の情報とどう結びつくのですか。
素粒子理論や超弦理論そのものというより、これらの研究で扱う概念や数学の考え方が情報の世界を深めていくのに非常に重要だと考えています。素粒子理論では物質を構成する最小単位である素粒子を波と粒子の性質を併せ持つ量子という概念で扱います。また、超弦理論は素粒子が点状ではなく、ひも状であると仮定して組み立てられた理論です。ニュートンが天体の運動を記述するために微分や積分を作り出したように、これまでの常識的な物理法則とはまったく異なる挙動をする量子の運動を記述するために量子力学や、新しい数学が数多く生み出されていきました。現在、情報の世界では量子コンピュータが注目されています。量子コンピュータとは、物質を構成する原子などの「量子」の持つ性質を利用して情報処理を行うコンピュータで、従来のコンピュータでは解くことができないような複雑な計算を可能にすることが期待されています。これからますます情報テクノロジー、ネットワークサービスが進化し、数学や物理を理解し、量子コンピュータを日常的に使いこなす人材が求められる社会が到来するかもしれません。そこで、情報分野における数理と、その利活用について学ぶ情報数理学部で、量子力学と結びついた情報学、すなわち「量子情報」をこれからの時代に向けてぜひ学んでもらいたいと考えています。
0と1だけじゃないコンピュータ⁉「量子の時代」の到来
量子コンピュータの原理についてもう少し詳しく教えてください。
量子の情報を正確にコントロールし、計算に使うことができるコンピュータというところでしょう。いわゆるニュートン力学が成立する世界では、常識的には2つの状態は同時には起こりません。例えばコイルに電流が流れるとき、それは荷電粒子の運動に起因するわけですが、1つの荷電粒子は右回りか左回りのいずれかの運動しか起こし得ません。しかし、量子の世界では右回りと左回りが同時に存在できます。情報との関連でいえば、スパコンも含めた現在の一般的なコンピュータは情報を0と1のビットで表現するビット情報を扱う機械であり、ビット情報は0か1のいずれかの状態しかありません。それに対して量子の世界では0と1の2つの状態を同時に存在させ、それぞれに対して同時に演算することができます。この0と1の状態が重なり合って存在している量子情報を扱うのが量子コンピュータです。
量子コンピュータの作動原理を理解するには、量子の動きを記述する量子力学についての知識が必要です。量子の世界で得られる情報は確率的であり、観測して初めてその値が決まるのですが、これを言葉だけで説明するのは非常に難しいものがあります。最終的には数式を使わないと正確に伝えることができません。あのアインシュタインでさえ、量子力学の考え方はなかなか受け入れることができなかったくらいですから。
2022年のノーベル物理学賞では、量子情報の研究者が受賞しましたね。
入江さんがお話しされた0と1が重なり合っている状態を実験的に確かめ、量子情報科学の発展に貢献したことが評価されました。興味深いのは、量子情報の基礎となる量子力学のきっかけを作ったのもアインシュタインだということです。彼は相対性理論で有名ですが、その相対性理論ではノーベル賞を受賞していません。ノーベル賞は1921年、光電効果の研究に対して贈られています。金属表面に光が当たると電子が飛び出す現象を理論的に明らかにしたわけですが、そこから量子の概念が確立し、量子力学の発展につながっていきます。それから100年を経て量子コンピュータが登場し、量子情報の研究がノーベル賞を受賞したのです。
量子力学がなければ半導体デバイスは存在していませんし、私たちの生活はこれまでも量子力学の恩恵をふんだんに受けて来たといえます。そして、これからは「量子の時代」だといわれていますが、それは量子を私たちが身近に制御できる時代になったということだと思います。量子コンピュータの登場で、自宅のパソコンからでもプログラムをすることで、量子情報の0と1が重なり合っている状態を実際に作り操作して、計算に使うことができるようになっています。今回のノーベル賞はまさに量子の時代の皮切りにふさわしい出来事だと感じています。
現代人に身近なスマホのカメラも光電効果を利用していますから、これも量子力学の貢献といえます。量子力学って何の役に立つの?と聞かれたら、スマホのカメラを指差せばいいのです(笑)。純粋な数学や物理の研究も100年経つと、こうして思いがけないところにつながってくるわけですから、学問は近視眼的な見方だけではいけないということがよくわかります。
量子コンピュータを何のために使うか、どういう場面で使うのが効果的か。発展途上の今だからこそ、学ぶ意味がある
具体的には、量子コンピュータの使い道はどのようなところにあるのでしょうか。
量子情報は、観測して初めて0か1かが決まる、確率や複素数などの数学を駆使した波動関数の形で表されています。それを私たちが制御して何か世の中の役に立つことに使おうというのが量子コンピュータです。今のところ、その制御には極低温の超伝導装置や巨大な真空装置などが必要で、現在の量子コンピュータはいずれも大がかりなものばかりです。また量子情報は壊れやすく、今現在の量子マシンではノイズも多く、すぐに社会の役に立てることができるわけではありません。
現在のコンピュータがすべて量子コンピュータに置き換わるのではないかと思っている人がいるかもしれませんが、今までのコンピュータにも得意分野があり、量子コンピュータが活躍する場面とは分けて考える必要があります。世間では、量子コンピュータに対する期待が過度に加熱している側面もありますので、量子コンピュータの適用限界も含めて正確な知識と理解がこれからは求められるでしょう。
量子コンピュータは特殊なタスクに対して最も効果を表すことが知られています。一番有名なのは、クレジット決済やサーバー認証などで使われるRSA暗号を解読するショアのアルゴリズムです。現時点では最速のスパコンを使っても解読に何年もかかってしまいますが、量子コンピュータを使えば比較的短時間で解読できる可能性があります。一方で給与計算のような処理は、普通のコンピュータの方が圧倒的に効率的だとされています。
給料が確率解釈になったら困りますしね、観測したら少なかったとか(笑)。
企業の研究者としては、量子コンピュータの得意分野を見定めていって、実際にそれを使ったビジネスやサービスを展開できるように準備する、というスタンスで取り組んでいます。私を例にお話しすると、まずは最適化の領域でのアプリケーションを想定しています。現在、自動車の電動化が進んでいますが、そうなると自動車がデバイス化していきます。そしてさまざまな利便性を向上させるサービスが求められると共に、それに関する膨大な情報をクラウド上に蓄積させていくようになります。そうなると、集まってきたデータを有用な情報に変えるアルゴリズムを考える必要があり、将来的に非常に大規模で複雑な計算が必要になってきます。そこに量子コンピュータが活用できるのではないかと考えているわけです。ただし太田先生がお話しされた通り、量子コンピュータだけで解決するわけでありません。現実的には現在のコンピュータを使った計算技術が大部分を占め、それを基礎としたシステムを構築した上で、量子コンピュータをどこにどう使うかを考えていく必要があると考えています。