「2012年度長谷川ゼミの軌跡」



(1)振り返りレポート

 <セシル>

 <ミシェル>

 <まいまい>

 <まゆゆ>

 <ラッパー>

 <かわしま>

 <ゆーめん>

 <えみし>

 <黒帝>

 <さちこ>

 <ニャンちゅう>

 <りんご>

 <はちべェ…>

 <ちえみん>


◆ゼミ用語集(別窓)



(2)12年度卒業論文 目次案・概要

 <セシル> 1 / 2 / 最終版

 <ミシェル> 1 / 2 / 最終版

 <まいまい> 1 / 2 / 最終版

 <まゆゆ> 1 / 2 / 最終版

 <ラッパー> 1 / 2 / 最終版

 <かわしま> 1 / 2 / 最終版

 <ゆーめん> 1 / 2 / 最終版

 <えみし> 1 / 2 / 最終版

 <黒帝> 1 / 2 / 最終版

 <さちこ> 1 / 2 / 最終版

 <ニャンちゅう> 1 / 2 / 最終版

 <りんご> 1 / 2 / 最終版

 <はちべェ…> 1 / 2 / 最終版

 <ちえみん> 1 / 2 / 最終版




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<はちべェ…>



第1章 4月まで


1−1 ゼミに入ろうとした動機

 わたしがゼミに入ろうとしたきっかけは、大学生としての最後の一年間を充実したものにするためだった。それまでのわたしの勉強に対する取り組みは、いい加減にやってきたつもりはなかったが、真剣に取り組んで様々なことを学んだ、と自信を持って言えるわけでもなかった。習ったことが身になるよう積極的に学ぶというよりは、その場しのぎで無難にこなしてきてしまったという意識があり、もっと出来ることがあったはずだという後悔が常にあった。これは勉強に限らず、高校の部活や大学のサークル、趣味で弾きはじめたギターなどにも言えることだった。あらためて振り返り「あれで全力だったのか」と自分に問うと、決してそうではない、どこかで手抜きをしていたと思ってしまう。このようにわたしは何事に対しても全力で取り組めていない自分というものに不満を抱いていた。そして、全力で何かに取り組むという経験なくして、大学を卒業して社会に出てやっていけるのだろうか、と就職活動がはじまる時期に考えるようになっていた。そこでわたしは四年生になったら長谷川ゼミに入ろうと考えた。長谷川先生の講義は、学生同士のディスカッションを盛んに行い、突き詰めて考えることを必須とする。授業外でもグループで話し合い、みんなの前で発表する機会も多い。無難にこなすように取り組む姿勢が染み付いていたわたしにとって大変な内容だった。だからこそあえて自分にとって大変と思われる境遇に身を置き、そこで自分を成長させたいと思った。大学生として最後の一年間を、大学生活の集大成として全力で取り組んだと自信を持って言えるように頑張る、という意気込みでもってわたしは長谷川ゼミに入ることに決めた。


1−2 口頭試問

 長谷川ゼミに入ることが決まったわたしは、三年の冬に2011年度長谷川ゼミの口頭試問に出席した。そのときは口頭試問がどういう場であるのかよく把握しておらず、口頭試問の内容より、ゼミとはどんな雰囲気なのかと気になっていた。先輩方は笑顔で和気あいあいとしている様子だった記憶がある。それに対してわたしは周りの2012年度ゼミ生に話しかけることができずに萎縮していた。一年後、先輩たちのような関係になれたら良いなと思った。先生が来ると一人ずつ卒論の発表がはじまった。論文のテーマやアプローチは人によって全く異なり、関心のあることであれば何でも卒論として扱えることに心が躍った。先生の指摘を聞かないと論文の出来不出来は正直なところよくわからず、テーマが明確か、論理的な構成になっているか、論文になっているか、などを判断することのできない未熟な自分を思い知った。しかし、ゼミ生の発表の最後のほうに挙げられる論文の反省点や不足点を聞くたびに「自分なら反省点や不足点がないと言えるくらいのものを書く」とも思っていた。良く言うとモチベーションが高く意気込みがあったが、論文を執筆することの大変さをよくわかっておらず、自分なら出来るという驕りがあったのだと思う。
 口頭試問が終わると、2012年度長谷川ゼミの翌年度に向けたガイダンスが行われた。「初心忘れるべからず」という言葉からはじまり、卒論を書くという全員共通の目標、自分の限界・器・枠組みを把握して拡げること、そのために自分と闘うことなど、ゼミ活動にあたり大切な心掛けを長谷川先生は話していた。そのときは先生の言葉を受けて、ゼミ活動を悔いのないように頑張ろうと強く思った。しかし結論から言うと、わたしは卒論を書くという目標は形式的には達成できたが、自分には負けっぱなしで悔いの残る一年間であった。そしてこの一年間は自分の不甲斐なさを思い知らされる一年間だった。そのことについてはあとで詳しく述べることにする。とにかくこの頃のわたしは妙にやる気と自信に満ちていたが、いざゼミ活動が始まるとその勢いは失速することになる。今思えばこうした傾向もわたしの悪い癖で後悔が残る結果となった一因であるが、この頃はそれを知る由もなく、自分なら出来ると思っていた。


1−3 春休みの課題

 春休みの課題は関心地図と関心コラム、そして文献のレポートであった。最初に取り組んだのは文献のレポートで、ゼミ生共通の課題図書であるマイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』と、自分で選んだ一冊である河合隼雄の『無意識の構造』を読んだ。とくに前者は初め内容を理解しきれなかった。二、三度読んでようやく何となく内容がわかってきたが「何となく」ではレポートなど書けないし、理解したことにはならない。その後も何度も読み返したが、中盤で必ず躓いてしまう。一つ一つ文章としては理解できるが、それがまとまって章となり、一冊の本になると途端にわからなくなる。要点を掴みきれず、全体像として把握できないのだ。時間をかける割に理解は進まず、とりあえず「何となく」理解したという段階で要約を書いた。しかし、この要約も今思えば本文から大事そうなところを抜き出し何となく辻褄を合わせて配置しただけのものだった。これが今の自分の実力だと言い聞かせ、一年後にはさらに理解できるようになっているはずだとして、一旦文献のレポートを終わらせた。
 関心地図に関しては、思いつく限り自分の関心のありそうなことをノートに羅列していった。最低15個の関心コラムを書くということだったが、すぐに15個を越えたので、コラムを書くのは難しいことではないと思い先延ばしにしていた。しかし、いざ書いてみると筆が進まない。自分の関心のあることだと思っていたのに、書けることが少ない。「関心がある」「好きだ」と言うことは容易いが「どのように関心があるか」「どこが好きなのか」という部分が思うように書けない。感覚的な好悪を具体的に説明するのは難しかった。書いてみると関心があると思っていたことに関する知識が浅いことも思い知らされた。考えていくうちに実はそんなに関心がなかったのではないかと没にするものもあった。すると書けるものが少なくなってしまい、コラムの数を稼ぐため無理矢理こじつけのように書いた関心コラムもあった。また、この頃は自分を曝け出さないためのストッパーが無意識にかかっていたようにも思う。嫌味に聞こえてしまうのではないか、馬鹿を露呈することになるのではないか、変に思われてしまうのではないかなど、要らぬことを考えていた。偽りのないように本音を書くように心掛けてはいたが、どこかで自分を良く見せようという意識が働いていた気がする。関心コラムを書くのにも時間がかかってしまい、コラムを書き終えたのは提出の締め切り日だった。それから急いで半ばこじつけで関心地図を書いた。春休みで時間はあったはずだが課題を計画的に進められず、提出日ギリギリになって急ごしらえでやるという姿勢を反省した。ゼミに入ろうとした動機で書いた「全力で取り組む」という目標は早くも挫折することになった。


1−4 第一回発表

 わたしは最初から音楽に関することで卒論を書きたいと思っていたので、何を扱うかという点で大きく悩むことはなかった。ただ、音楽という広大なテーマにどうアプローチするかという点は曖昧だった。このときは二つのことを考えていた。一つは、ギターには他の楽器とは違う何か特別な意味が付与されていると感じていたことから「ギターは単なる楽器ではない」として発表した。もう一つは、自分を飾るファッションのように、あるいは知識をひけらかすように音楽について語ること、批評することに対して居心地の悪さを感じていたことから「音楽言説に対する違和感」として発表した。この二つに対する関心は今でも自分の中に強くある。しかし、このときは「何となく思っていたこと」という程度の関心で、なぜ気になるのかという点はこの時点ではまだはっきりしていなかったのである。
 発表自体は、明らかに準備不足であった。ギターに関しては、自分が抱くギターの偏ったイメージをインターネット上の映像で紹介するだけのような形になってしまった。音楽言説については、音楽についてあれこれ言う人間に違和感を感じながらも、まさに自分もそうであることから、音楽について語ることをためらっていた。また、いざ語ると自身の思慮の浅さが露呈してしまうような気がして、音楽について語ることを恐れていた。先生とゼミ生からも、まだ本音を話しきれていないように感じると指摘され、もっと周りに話すということがその後の課題となった。先生からの講評では「本当に音楽が好きか」「音楽が好きな自分が好きなだけでは」という指摘を受けた。このとき「自分は音楽を好きなはずだ」という反抗心を抱いたのを今でも覚えている。しかし、この指摘は自分の関心の本質を突くものだった。

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第2章 5・6月


2−1 【?】チームの活動

 5月は【?】チームとしてのHP開設と関心地図の制作が主な活動だった。HPや関心地図をどうするか【?】チームで頻繁に話し合った。【?】チームはWEB編集長である<ゆーめん>の決断力と実行力に支えられていた面が大きかったように思う。わたしは、自分はチームを牽引するタイプの人間ではないとして、仕切ってくれる人に甘えていた。HP開設にあたり知識もなく、申し訳ないと思いつつ出来る人に任せっきりにしていた。集団で活動するとき、仕切りなどは出来る人に任せて、自分は雑用として働くことでチームに貢献しようと考えていた。一方で、このような姿勢は良くないとも感じていたので、なるべく積極的に発言するように心がけた。そのおかげで話し合いの中で「関心絵本」というアイデアの発案に貢献することができたが、それに「もう十分だ」と勝手に自分で満足してしまった部分もある。それからも大事なことは出来る人に任せて、自分は与えられた仕事をこなすという受身の姿勢が続いた。【?】チームの活動に関して、みんなの力でHPを開設して、関心絵本を完成させることはできたが、わたしはこのような自分の至らない点を自覚しながらも直すことができずにいた。


2−2 『アトラクションの日常』講読

 5月に入ると、長谷川先生の著書『アトラクションの日常』の講読がはじまった。わたしは「買物する」という章を担当して発表することになっていた。この章に限らないことであるが、文献を読んだときに頭では理解したつもりになっていても、いざ説明しようとすると言葉が詰まるということがよくある。「何となく」でしか内容を理解していないということだろう。だからこそ、レジュメを作って内容をわかりやすく整理して、人前で発表することを通して理解をより深める「講読」という作業が必要だったのだ。それにも関わらず、わたしはここでも準備不足で発表原稿を作ってこなかった。原稿がなくてもある程度の発表をすることができるという驕りがあった。また、わからない箇所について、自分なりの考えを述べるということをせずに、ただ「わからなかった」と発表してゼミ生に問題の箇所を丸投げしてしまうところもあった。これには周りが何とかしてくれるだろうという甘えがあったとしか言えない。こうした取り組みの甘さによって、この『アトラクションの日常』講読の問題は8月まで続くことになってしまう。


2−3 第二回発表

 6月に行われた第二回発表は、第一回発表から後退しているという講評を受けた。このときわたしが発表したのは「音楽と楽器の同期」「憧れの楽器『ギター』」と題したもので、とくに前者は前回の発表と違うことを発表しようと、単なる思いつきを半ば強引に形にしたものだった。発表用のレジュメを作っているときは「面白い発想だ」と思っていた自分が恥ずかしくなるほど、この発表は酷評であった。先生からはブログとして書くのなら構わないが論文にはならないと指摘を受けた。そう言われるほど「自分はこんなに音楽を知っているし興味があるのだ」と遠回しにアピールするような発表になっていて、論文を書くということからかけ離れた内容であった。この発表をきっかけに、なぜ自分は音楽というテーマにこだわろうとするのか、という疑問を抱くようになった。自分は本当に音楽が好きなのかと不安になった。そして音楽について語る自分、音楽を好きだと信じようとする自分に対してひどく居心地が悪く感じるようになった。この時期にきて、自分の本音は何なのか、なぜ音楽にこだわるようになったのか、自分を見つめ直すようになった。

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第3章 7・8・9月


3−1 『アトラクションの日常』報告

 7月に『アトラクションの日常』の発表について先生に報告した。先生は講読の場にあまり来ることができなかったので、どれくらい内容を理解できたか、わからないところはなかったかということを確認する機会であった。発表ではとくに問題は起きなかった。しかし、わたしはその場しのぎでこなすように発表をしていた。例えば、書かれている内容について理解できなかったところ、疑問点などあれば、その箇所を皆で確認するといったことができたのに、人前に立つことに抵抗があった私は早く発表を終わらせたいと思っていた。そのため発表は、自分が理解しきれていないところがあっても深く追求せず、あっさりと終わらせてしまったように思う。そして先生への報告のため再度『アトラクションの日常』を何度も読み返し、自分では多くの部分をわかったつもりになっていた。そして発表が何とかなっていたことで、報告という機会も軽く見てしまっていた。報告は、原稿など書かずとも、その場で説明出来るだろうと自分の力を過信していた。結果的に、先生への報告は「報告」と言えるほどのものではなく、自分がどこをわかっていないのかもわかっていないこと、書かれている内容を何となくでしか理解できていないこと、報告の準備不足という自身の取り組みの甘さが露呈することになった。この頃から、他のゼミ生が出来ていることが自分には出来ていないこと、「何とかなる」「これくらいでいいだろう」とすぐ妥協してしまう悪い癖が自分にあること、「自分はやれば出来る」という都合の良い自己像を抱きがちであることに自覚するようになった。報告は8月の夏期集中講義が終わった後に再度することになった。


3−2 フィールドワーク

 7月下旬、上野公園でフィールドワークを行った。わたしはそれ以前にも下見として上野公園を何度か訪れていた。そのときは誰もが見過ごしてしまうがよく見れば変なもの、上野公園の貼り紙、人々、謎など、とにかく「何か」を発見してやろうとカメラを持って気構えていた。もともと客観的・俯瞰的に物事を見ることは、得意とまでは言わないが、人より出来ると自分では思っていた。芸術学科にいたこと、芸術メディア系列の講義を受けてきたことで、一般的な視点とは異なる視点から物事を見ることができるようになってきていると自分では思っていたのだ。しかし、下見ではこれといった発見はなく、ありきたりな感想を抱くばかりだった。そのときは上野公園がどのような場所であるかという予備知識が私にはなかったため、そうした表面的な見方しかできなかった。だからと言って上野公園についていろいろ調べればすぐに何か発見できるかというとそうでもなかった。上野公園に関する文献を読んでも、そのことと関連づけて見ることも出来なかったのだ。文献で得た知識や考え方を具体的に活かすことの難しさを実感した。
 フィールドワーク方法についても良い案はなかなか浮かばなかった。そして上野公園の何が知りたいかではなく、調べたことを踏まえて何が現実的に出来そうか、という観点で私たちはフィールドワーク方法について考えるようになっていた。間違いだとも思わないが、そもそも何がしたかったのかクリアにせずに進めてしまったのは問題であるように思う。しかし、その過程でゼミ生が調べた上野公園についての情報は普段知り得ないものばかりで、上野公園についての認識が大きく変わったことは確かだ。知ったことをどう活かすかという難しさはありながらも、やはり予備知識として対象を様々な角度から調べることの大事さをフィールドワークで実感できたように思う。


3−3 夏合宿

 夏合宿は第三回発表が待ち受けるだけでなく、わたしにとって合宿係としての大きな仕事でもあった。わたしはそれまで家族旅行やサークルの合宿などの計画は人に任せっきりであった。面倒くさがりという性分なうえに、自分が先頭に立って皆を仕切るなんてことは恥ずかしくて避けていたことだった。しかし、そんな自分を変えるべくゼミに入った私にとって、合宿係は自身の成長のためにもやっておくべきことのように感じ立候補したのだった。ただ、前述したように旅行や合宿など自分で計画したことがなく、何か一つを決定するだけでもとにかく時間がかかった。ホテルやレストランの予約ミスなどもあり、一度決まったことを訂正しなければならないことも何度かあった。このとき、わたしは自身の決断力のなさを痛感した。旅費の計算、目的地までのルート、合宿に関する資料作り、ホテルの予約、交通、コンパで必要なお酒の量、合宿費の徴収など、どうしようかと迷ってばかりだった。結局その多くはゼミ生や先生の意見やアドバイスをもらって決めることができた。ゼミ生は帰路に水郡線を使うなどのアイデアも出してくれた。合宿係は自分でないほうが合宿関係はスムーズに進むのではないか、面白くなるのではないかと何度も思った。しかし、自分がやりたいと言って引き受けた合宿係であるし、何より合宿係がちゃんとしなければせっかくの夏合宿という貴重な場が台無しになってしまう。それは絶対に避けなければならないと思い、合宿係で何度も決まったことを確認し合い、やらなければいけないことを挙げていき一つ一つクリアしていった。合宿係用の行動表も作り、何度もシミュレーションをした。結果として合宿は大きなトラブルもなく終えることが出来た。それまでの過程では時間も手間も余計にかかったし、ゼミ生や先生から少なからず力を借りることになったが、合宿係を通して旅行を計画する際の大まかな流れや考慮するべきことがわかったし、当日の全体を見渡す視点も養われたように感じる。何より、周りから助けを借り、途中に不備もあったとは言え、ゼロからプランを立てて実行できたことは我ながら驚きだった。合宿係の活動を通して、過信や驕りではない「やればできる」ということを実感することができた。ただ、ここで上手くいったことで安心してしまった。その後「やればできる」という自信が悪い方向で作用してしまい、再び自分に怠慢を許すことになってしまった。この点は反省しなければならない。


3−4 第三回発表

 夏合宿で行われた第三回発表は、絶対に失敗できないという危機感があった。後退したと講評を受けた第二回発表のようでは自分が納得のいく卒論を書くことはできないだろうし、このままでは真剣に取り組んでいる他のゼミ生に合わせる顔がないとも思っていた。なにより、自分が変わりたい、成長したいと思って自らゼミに入ったのに、相変わらず全力を出し切れない自分が情けなく何とか現状を打開したかった。第三回発表ではそれまで以上に準備をして、進展を見せなければと思った。
 進展を見せるというのは、私にとって本音を曝け出すということだった。卒論で何を書きたいのか突き詰めて考えるには、まず自分は何を考えているのか知らなければいけないし、夏合宿はそれを共有する場という位置づけだと私は思っていた。こうして、わたしは自分についての過去を振り返り、どういうときに何を感じたのか、思ったのか、といったことをノートに書き出していった。本来、第一回発表、第二回発表でやるべきことだったかもしれないが、それまで自分の本音として認めたくなかったという思いがあったことが逆にわかった。それは音楽やギターを通して認められたい欲求が自分にはあるということだった。音楽やギターを私は好きだと思っていたが果たしてそうなのかと考えたとき、わたしはそれらを通して結局は自分が特別だと思いたいのではないかと思った。私が好きな音楽は、同年代の人たちがあまり知らないような1960、70年代のロックやポップスだ。そして人に自分の好きな音楽を語るとき、「高尚な」「センスの良い」「知る人ぞ知る」「通の」音楽を聴き、その良さが理解できることに酔いしれる自分をどこか感じていた。しかし、それを認めてしまうと「音楽好きな自分」というアイデンティティが崩れてしまうため、第一回発表、第二回発表でそのことについて言えなかったのではないかと今では思う。さらに音楽とアイデンティティについて書いてある文献を数冊読み、やはり自分は心の拠り所として音楽やギターにすがっている面があることを確信した。第三回発表では、こうしたことを発表した。ただ、自分の本音を語れたこと自体は良かったが、自分の言葉ではなく、文献などの言葉を借りての発表だったことが反省として挙げられる。こうしてこの第三回発表を機に、自身の音楽やギターとの関わり方がはっきりした。これは自分にとって大きな転換点だった。


3−5 夏期集中講義

 8月の夏期集中講義では現場班の一員として活動した。食堂に集まって、必要なもの、当日の動きを確認し合った。わからないことや不安なところは逐一確認して、万全の状態で当日を迎えられるよう綿密にシミュレーションをした。当日は準備の甲斐もあり、大きな問題もなく無事終えることができた。自分たちで運営している、という責任感は普段あまり味わえることではなく、そうした状況に身を置くことで、普段使わない神経を張り巡らせているような感覚があった。ただ、このときもどちらかというと言われたことをやるという受身な態度でいたように思う。現場班はすぐに行動に移す人が多く、その決断力を見習わなければと思いつつも、結果的には指示待ちであることが多かった。やはりここでも人を動かす立場よりも雑用を任される立場に甘んじていたように感じている。

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第4章 10・11月


4−1 第四回発表

 8月には夏合宿と夏期集中講義が終わって、それからの夏期休暇は第三回発表を踏まえて各々ゼミ生が卒論執筆に向けて動き始めた。わたしは第三回発表でギターを卒論で取り扱うことに決めて、その中でもエレキブームを中心に取り上げてはどうかというアドバイスを先生から頂いていた。夏期休暇の個人課題として、エレキブームやギターに関する言説に触れて、どの媒体を題材にして卒論を書くかあたりをつける作業をした。夏期休暇に何をしたか、それを踏まえて今後どう卒論執筆に取りかかるかということを第四回発表として10月のはじめに報告した。夏期休暇後にすぐにその媒体の調査に取りかかれるようにするため、休暇とは言え、たくさんの媒体に触れる必要があった。媒体としては映画、雑誌、新聞、小説などが挙げられ、楽器を弾くことや音楽に関連した映画や、ギターを中心に取り扱う雑誌、エレキブーム当時の新聞などを見ていった。
 いくつか観た映画からは、ギターなど楽器を弾くこと、バンドを組んで演奏することは若者の特権であり、青春を表す一つの形である、ということを考えさせられた。これはあくまで印象に過ぎず、インターンネット上で検索してあたりをつけたように選択した映画そのものにも偏りがある。しかし、全くの見当違いであるわけでもないだろうと思い、発表内容に盛り込んだ。雑誌は、ギターの名を冠する音楽雑誌をチェックしていった。ギター雑誌として最初に刊行されたのは1969年の『ヤングギター』だが、その頃にはエレキブームは終わっていたので、これを主軸にエレキブームについて論じることは難しいと考えた。このときあたりをつける雑誌といえば「ギターに関する雑誌」という思い込みが自分の中にあり、他の音楽雑誌や芸能誌のことは視野に入っておらず、発表ではそのことが指摘された。新聞は、「ギター」「エレキ」などの検索ワードで引っかかった記事を見ていった。エレキブーム当時のエレキ禁止令の記事や、エレキギターに関する賛否両論の記事が見つかり、エレキブームを論じるのに使うことができそうだった。ただ、わたしは検索して見つけた記事のみを見ていて、当時のその他の記事を全く見ていなかったため、そのことも発表で指摘された。結果、第四回発表では、どの媒体を主軸にして卒論を書くという結論には至らず、引き続きあたりをつけて、具体的に何をどう見ていくか考えることがその後の課題となった。


4−2 第五回発表

 第四回発表が終わってからは、週に一度の公式のゼミ活動は、ゼミ生一人一人の卒論の進捗状況について確認しあうことが主となった。11月末には第五回発表があったが、それまでの間、どこか気が緩んでしまっていた。第四回発表で、卒論で扱う媒体を紙媒体に絞り込み、エレキブームが起こった1960年代の音楽雑誌や芸能誌を国立国会図書館や、雑誌を主に扱う図書館である大宅壮一文庫で見ていった。それに平行してエレキギターの歴史や、日本の音楽史についての文献を読んでいった。これらのことを進めてはいたが、「自分はやるべきことをやっている」と、第五回発表まで時間があったことからも、どこか余裕があるように勘違いしていた。実際には、卒論執筆に残された時間は二か月ほどであり、その時点で卒論の方向性や扱う媒体が決まっていなかったので、かなり厳しい状況だと思うべきであるのに、「まだ大丈夫」と甘えていた。卒論をどう書くか、どの媒体を題材にするか、決めるのは自分であるにも関わらず、「調べていればそのうち何とかなる」と思い、自分の力でどうにかしようと必死になることはなかったように思う。ゼミで行う進捗状況の確認でも、「やるべきことはやっているが、まだどうしようか迷っている」というような中途半端なことしか報告できていなかった。こうした自分の不備が第五回発表で改めて露になり、卒論の内容云々よりも、卒論への姿勢、ゼミ活動への姿勢について問いただされることになった。何のためにゼミに入ったのか、何のために卒論を書こうと思ったのか、どうしてテーマをギターにしたのか、根本的な点を問われた。わたしは、何事にも「やりきった」という充実感が得られずどこか本気で取り組めない自分を変えたい、成長させたいと思いゼミに入り卒論を書くことに決めたはずだったが、途中でやるべきことをこなすように取り組むようになっていたことのツケが第五回発表で回ってきたようだった。

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第5章 12月から


5−1 卒論執筆

 結局自分は変われていないことから、「自分を変えたい、成長させたい」という思いは嘘だったのではないか、と自分でも思うようになった。他のゼミ生は着実に成長しているのに、自分は何をしていたのだろうと激しい後悔と、もう自分はその程度の人間なのではないかという開き直りのような感情で、ゼミ生に合わせる顔がなく、ゼミ活動に赴くのは気が重かった。そうなってしまったのは全て自分の責任であり、自分が何とかしなければと思い、ゼミ生や先生に相談することを避け、どんどん内向的になっていった。しかし、煮え切らない態度を取り続ける自分に、ゼミ生や先生は貴重な時間を割いて、厳しい言葉や励ましの言葉をかけてくれた。このゼミには自分を成長させる機会がたくさんあったのに、その機会を活かすことができなかったことに対して本当にもったいないことをしたと後悔した。卒論提出までの時間も少なく、今からではもう遅いと諦めそうになりながらも、せめてこれからでもできることをやっていこうという思いで卒論を執筆した。12月の終わりにはゼミ内提出があり、それに向けて卒論をひとまず書ききることを目標に執筆を進めた。
 雑誌を見ていくという、わたしの卒論の核となる部分を執筆するのは相当苦労した。雑誌を見るとは言っても、エレキギターやエレキブームに直接関係のなさそうなことをどこまで盛り込むか、何に着目してどこを重点的に見ていくかなど決めることができず、指針が定まらなかったからだ。そのため、とりあえずギターの写真が載っていればそのページをコピーし、文の中にギターという言葉が出てくればその箇所や前後の文脈をメモしていた。そうして集まった資料を何度も見て、ギターがその雑誌に登場する際に何かしら傾向はないか、どうにか分類することはできないか、など何か発見がないかと頭を悩ませた。
 ただ、その前に予備知識として調べたエレキギターの歴史や日本のポピュラー音楽史について書くのは楽しかった。自分の知らないことを知っていくのは単純に楽しく、苦にならなかった。音楽史という文脈で音楽を聴くときは、その音楽が作られ広まった時代背景や、それ以前・以後の音楽とのつながりを重視する。そのように聴く音楽は、自分の趣味指向とは違う音楽の聴き方をもたらしてくれた。ただ、そう感じた時には提出まで時間はあまりなく、納得のいくように調べたことをまとめることはできなかった。その他の部分も書かなければいけなかったので、「直したい、もっと書きたい」という気持ちをいったん抑えて次に移った。
 結局は多くの不備を残した状態でいったんゼミ内提出をした。それから学校への提出まで、要約や参考文献リスト、注釈などを加えながら添削や追記を行った。雑誌を調査しわかったことや、論文の最後にあたる考察は「論じる」というより、調査して「感じたこと」といった内容になってしまった。雑誌の調査の仕方がなかなか定まらず、雑誌を中途半端にしか見ることができていなかったので当然である。そんな自分の論文に「これでいいのか」と思いながら形にして、提出日である1月8日に無事卒論を提出することはできた。納得のいくものが書けたという充実感はなく、「もっと時間があれば」という気持ちは拭えない。しかし、これが今の自分の実力であると認めなければならない。ネガティブに自分を卑下するわけではないが、これが自分の実力なのだということを思い知った。


5−2 口頭試問

 卒論を1月のはじめに提出し、一段落ではあったが同月末には卒論の最後の取り組みである口頭試問があった。口頭試問に向けて、自分の卒論をあらためて読み返し、発表原稿をつくった。読み返せば読み返すほど、自分が卒論の表面的な整合性ばかりを求めて、肝心の内容が薄いこと、「論じる」というレベルに達していないことを痛感した。口頭試問の講評では、卒論の内容についてのことよりも、「なぜゼミに入ろうとしたのか」「この一年の取り組みはどうだったか」という質問のほうが心に残っている。自分を変えたい、成長したいと思いゼミに志望した頃のわたしが、今のわたしを見たら失望するだろう。相変わらず自分に甘く、人任せで、締め切りも守れないことも多かった。自分が変われた、成長できたと自信を持って言うことはできない。
 しかし、自分のそういった至らない点を強く自覚することが出来たのは良いことだとも思っている。わたしはもともと謙虚なふりをしながらも「やればできる」といった根拠のない自信があった。それはやるべきことを先延ばしにしてもいいという自分にとって都合の良い考えに過ぎなかった。やるべきことをしかるべきときにやる、という当然のようなことを、何かと言い訳を作ってしようとしない自分がいる。卒論に対する取り組み方を通して、自分の至らないところを自覚することができたのは良かったと思う。もちろん卒論の執筆を通して得ることもあった。自分と音楽やギターとの関係を捉え直せたことで、自身の認められたいという欲求や、音楽が好きな自分を誇示したい気持ちがあるということを自覚することができた。


5−3 振り返りを書いて

 このように長谷川ゼミを通して最も知ることができたのは他でもない「自分自身のこと」であると感じている。わたしにとってこの一年間のゼミ活動は、自分でも認めたくない本音を認め、自身の欠点を浮き彫りにする一年間であり、見たくない自分の姿をまざまざと見せつけられたようであった。しかし、こうした機会もなければ、この自分に気付くことも無かったと思うと、本当にゼミに入って良かったと思う。長谷川ゼミに入ったおかげで自分がどういう人間か少なからず知ることができた。あとは「自分はこの程度の人間なのだ」と開き直るのではなく、そこからどう自分を変えるかが問題である。そのためのアドバイスや手だてはこの一年間で先生やゼミ生から十分すぎるほど教えてもらった。
 長谷川ゼミ最後の取り組みであるこの振り返りを書いてあらためて気付いたことは、自分はこれまで反省すべき点が多々あったにも関わらず、自分を変えようと具体的な行動を起こしてこなかったことだ。反省をしたからといって自然に改善されるわけではない。自分の力で変えなければならない。しかし、わたしは長谷川ゼミにただいるだけで、素晴らしい先生やゼミ生と一緒にいれば半ば自動的に自分も成長できると甘えていたのだと思う。先生やゼミ生は多くのアドバイスやヒントをわたしにくれた。しかし、自身の成長のために行動を起こすのは他でもない自分であり、常に自分のことは自分にかかっている。このことを忘れずに、これからも精進していきたい。

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