<ゆーめん>
第1章 12年度長谷川ゼミ始動!
私が「ゼミに入りたい」と思い始めたのは、3年生の時、芸術メディア系列の夏期集中講義を受講してからだった。そこで与えられた課題は、グループごとに「なぜ働くのか」というテーマについてワークショップ形式で考えるというものだった。一見簡単なテーマだが、私たちはどうしても「責任」だとか、「遣り甲斐」だとか、そういった言葉に捉われてしまいがちだった。そういった固定概念から抜け出すことは簡単ではない。集中講義の間、私はそれまでに体験したことのないくらい、頭を捻らせた。脳みその使ったことのない部分を無理矢理動かしているような感覚だった。その期間は、確かに苦しかった。しかし、逃げ出したいとは思わなかった。そして、最終日の発表を終えた時、またも感じたことのないような嬉しさがこみ上げてきたのを覚えている。どんな疲労も忘れさせるような達成感があった。
3年生の冬。私は、このまま単位も無難に取り終わり、大学生活を終えていいものかと悩んだ。4年生になれば、就職活動や、就任したばかりの文化団体連合会の執行部の仕事に追われることは目に見えていたし、最後の1年なのだから軽音サークルのライブにも沢山参加したいと思っていた。しかし、それでも、ここでゼミに入ることを志望しなければ後悔すると思った。何より、また集中講義の時のような感覚を味わえるかもしれないのに、その可能性を掴もうとしないなんて勿体無いことだ。やりたいことが沢山あるなら、どれも諦めることなく全部やればいい。きっと出来る。そう思い、私はゼミを志願した。
面接を経て、私は希望通り、「長谷川ゼミ」に入ることが出来た。私は長谷川先生の講義を全て受講していたわけではなかった。それもあって、ゼミ生の大半とは話したこともない間柄だった。他のゼミ生は先生の授業を全て履修している人がほとんどであったため、私がこのゼミに入れたことは、今思えば奇跡だったのかもしれない。
私たち12年度長谷川ゼミナールが始動したのは、1月末に前年度のゼミ生の口頭試問を見学し、先生からガイダンスを受けたところからだ。ここから新学期が始まるまでの主なやり取りは、メーリス上で行なわれた。そして、その使い方にも慣れないうちに、先生から私たちに、最初の課題が与えられたのだった。課題といっても、通常のものとは少しニュアンスが違った。先生が言うには、「自分たちで考える」とのこと。私たちはメーリス上で意見を出し合い、自分たちがこの長期休暇を使って取り組む課題を考えることとなった。自己紹介の延長で、互いのことを知ることが出来るものであったり、卒論執筆のためにもなるのではないかというものが候補に挙がった。例えば、「人生の年表化」、「連想樹形図」、「ゼミ生相関図」など、様々な個性的な意見が飛び交った。私は「新聞コラム作り」を提案した。日常的に新聞を読んでいた私は、「天声人語」のようなコラム欄が好きだった。限られた字数の中で、現在の社会の状況・事件などに関連づけたコラムを書くことは簡単ではないはずだ。しかしその分、読者を惹きつける。この提案をしたのは、そんなものを自分も書いてみたいと思ったからだった。
最終的な課題は、先生が皆の意見をうまく合わせて考えてくれた。その名も「関心コラム」である。ゼミ生それぞれ、自分の関心のあることについて15個以上のコラムを書く。そして書いたコラムを1枚の紙に自由に配置して、それぞれ自分だけの「関心地図」を作る。それに加え、課題図書・自由図書の2冊の要約・感想レポートを提出することになった。提出日は3月末。随分先のように思え、計画的に取り組めば余裕だろうと思われた。
しかし、そう上手くはいかなかった。就職活動、文連執行部での活動は思った以上に私に時間を与えてくれなかった。帰宅すると疲れて眠ってしまう日々が続く。そんな中でも、合間を縫って課題に取り組むべきだったが、あの頃の自分は冷静に計画を立てられないほどに余裕がなかったように思う。また、3年次にテクスト講読を受講していなかったことも大きく、本を「精読する力」が十分に身についていなかった。今なら出来るとは胸を張っては言い難いが、少なからずましにはなっていると思う。あの頃の要約は、読み返すのも恐ろしいくらい散々な出来だった。
4月になり、新学期がスタートした。ゼミも本格始動する。正規のゼミの時間は水曜日の3限だった。教室に集まるゼミ生たち。メーリスでのやり取りが主だったためか、顔を合わせるとまだどこかよそよそしさがあった。初回ゼミでは、先生から、私たちがこれから1年かけて取り組んでいくことの確認の他に、近い内に行うことや、数週間後に迫っていた4月の「第一回テーマ発表」についての説明があった。この発表では、「卒論では○○について書きたい」ということは一先ず置いておき、ゼミ生がそれぞれ、現段階で興味のあること、「書きたいなあ」と思っていることについて、自由に発表するとのことだった。
ちなみに、私たちの活動は、3限が終わっても続く。基本的には、ゼミ生全員が水曜日は終日予定を入れずに空けておくことになった。ゼミ初日も、私たちは3限後に先生がいなくなってからも引き続き、週2回のブログの更新方法や担当順決め、ゼミ内での係り決め、人数が多いため2つの班に分けることなどを行った。そして私は片方の班で「WEB編集長」を担当することになった。自分に班をまとめる素質があるかどうか自信はなかったが、コンピュータを使った作業は好きだったので、何かしら自分のスキルは活かせると思った。この2つの班は、話し合いの結果、【?班】(私はこちらの班)、【!班】と呼ぶことに決まった。
それから月末の発表までは、ゼミ全体で集まりつつも、【?班】で話し合うことが多かった。WEBサイトのデザイン―この頃はまだ班ごとではなく全体で作成するつもりであった―を考えながら、月末の発表準備を各々進めていく。それぞれの発表の題材について、ゼミ生と互いの話を聞き合いながら、考えを深めていった。また、週2回、ゼミ生の中で順番に更新していくことが決まったゼミブログの執筆・添削を行いながら、自分の文章能力が思った以上に低いことに気付き、ショックを受けることもあった。
そうして始まったばかりのゼミ活動にバタバタと明け暮れているうちに、ついに第一回発表の日となった。私は「乙女ゲーム」「日本史」「擬人化」「戦うヒロイン」という4つの題材について発表した。これでもかなり厳選した。しかし、私は与えられた発表時間をオーバーしてしまった。昔から好きなものが多く、色んなものに手を出してきたため、私はよく言えば多趣味、悪く言えば「自分といえばこれ」というものが無かった。知識という面ではどれも人並み以上に蓄えていたため、どれも切り捨てがたく、何かひとつの題材を選ぶことは困難だった。とはいえ、今回の発表では搾る必要はなかったので、いくつもの題材について発表したのだった。これらの題材について共通して言えることは「私がその作品や自分で考えた世界観を題材に頭の中で二次創作をしてしまうこと・現実と重ね合わせてしまうこと」だった。この時、先生は私に「『現実』と『二次元』の世界を結び付けて語るのはどういうことか」と質問した。私は何のことやらちんぷんかんぷんだった。当時の私は、アニメや小説の中のような世界に憧れ、入りたいと考えることは「普通」だと思っていた。だからこそ「現実」と「二次元」を比較することは当然のことで、その思考自体を疑問に思うことはなかったのだ。
この頃は、このゼミには欠かせない「メディア論的視点」がなんたるかいまいち理解出来ていなかった。その上、私のようなオタクに有りがちな、好きなものを一方向からしか見れず、思い込みの激しい考え方にどっぷりつかっていたように思う。
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第2章 必死にしがみついた初夏
5月になった。第一回発表を終えた私たちが、この時期から本格的に取り組み始めたのが班ごとの「WEBサイト作成」と「関心地図作り」であった。
前年度まではゼミのWEBサイトは1つだったが、今年は2班に分かれていることもあり、サイトも2つ作成しようということになったのだ。それからは、レイアウトや内容を考えるために、班のメンバーでほぼ毎日集まり、話し合った。全体のレイアウトはすぐに決まり、制作を始めた。WEBサイト作りが一段落すると、今度は「関心地図」作りに移った。春の長期休暇の間にそれぞれが関心コラムを、班ごとに考案した「関心地図」に落とし込むことになった。この構想を考える際も、そこまで時間はかからなかった。アイディアが1つ、2つと出た辺りで、班員みな一致で「これがいい!」となったからである。こうして作られたのが「関心絵本」である。まず、ゼミ生の特徴をコラムから抜き出し、それぞれを模したキャラクターを作った。そして、絵本のように数ページの場面に分けて、キャラクターを配置し、簡単な物語を作ったのである。絵を描き、色を塗り、楽しい作業だった。しかし、班員がひとり1枚ずつページを担当していたために、最後にページを合わせて読んだ時に物語がうまく繋がらず、苦労したのを覚えている。
ここまでの流れを見ても分かるように、【?班】は決定から行動に移すのが早い。しかしその分、計画を立てる段階での詰めが甘く、プロジェクトの最終段階でいつも穴が見つかり、悩むことになるのだ。すぐに制作に移れるのは良い点でもあったが、もう少しじっくり話し合って決めてもよかったのでないかとも思う。この頃の私は班のWEB編集長だったこともあり、テンポ良く進めようとし過ぎていた気がする。
また、ちょうどこの時期に、私は好調だった就職活動で続けざまに失敗したこと、身内の不幸などが重なり、精神的にどん底まで落ちてしまった。しかし、どんなに気分が乗らなくても、ゼミも含め、やるべきことはどんどん積み重なっていく。私はなんとか自分を奮い立たせた。何があっても、周囲の人々には迷惑をかけたくないと思った。それに、忙しなく動き回っていることで、辛い気持ちを紛らわすことが出来た。
5月後半からは、長谷川先生の著書『アトラクションの日常』の講読及び発表が始まった。担当箇所を割り振りし、それぞれ発表に臨んだのだが、私も含め、みな苦戦していた。まず、「精読」が出来ていないことが原因のひとつ。そして、発表者が発表を終えた後のディスカッションでも、はじめのうちはみなの予習不足が浮き彫りになった。理解していたつもりで読み飛ばしていた文でも、「それはどういうことか?」と問われればうまく説明出来ずに口篭ってしまう。私はこの時、自分がこれまでいかに本を曖昧に読んできたのかということを痛感した。
『アトラクションの日常』に取り組みながら迎えた6月。気が付くと、第二回テーマ発表がもう目前に迫ってきていた。私は焦った。恥ずかしいことに、班での活動や『アトラクションの日常』の講読、その他のことに必死に取り組むあまり、第二回発表に関する準備を後回しにしてしまっていたからだ。最終的に卒業論文を書き上げることがゼミの中心にある目標なのに、それを後回しにしていたのでは本末転倒だった。
発表までにいくつか文献を読んでおこうと思っていたが、大した量を読むことも出来ず、私は前回の題材をいくつか残し、またさらにいくつか加えることで発表に臨んだ。私がレジュメに盛り込んだのは「乙女ゲーム」「源氏物語」「人以外との絆」「印によって選ばれた登場人物たち」の4項目だ。
私は、第一回発表から何も成長していなかった。 私の発表は、第一回の頃と変わらず、ひたすら自分の中にある事実を枚挙し、知識を押し付けるだけのようなものだった。先生は「考えて、どんどん居心地悪くならないと」というアドバイスをくれた。むしろするすると答えが出てくるうちは、限界まで考えられていないということだ。しかし、私の場合、「居心地が悪くなるどころか、良くなっている」と指摘された。好きなことを好きなだけ語り通す私の発表形式は、自己満足のようなものだった。それは居心地がよくなるはずである。
しかし、それを認める反面、先生に重ねて言われた「だから、あなたは結局ひとつひとつに対しては浅い」という言葉に、とてつもない悔しさを覚えた。それこそ、物心がついたころから好きで好きで堪らなかったものたちに対して、「浅い」と言われてしまう自分はなんなのだろうと思った。そうとられても仕方ないような発表をしてしまったことが、悔しかったのである。
次回の発表は夏合宿であり、そこではテーマを決定することが目標である。第一回発表から今回までが一瞬のように思えたことから、次の発表もあっという間にやってくるだろうことは明白だった。
最後に卒論を書き上げるのは自分であり、誰の力を借りることもできない。自分がやらなければ、何も進展しないのである。班での活動もひと段落したこともあり、私はここから気合を入れなおしたのだった。
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第3章 怒涛の夏
3-1 上野公園のフィールドワーク
7月になると、『アトラクションの日常』の発表もひと段落した。自分の発表の際のディスカッションで出た意見や質問などは、後日各々がまとめることにした。
ここで、フィールドワークに関する諸々のことが本格的に始動した。私たちは7月半ばにフィールドワークを行うことになっていた。そのために、以前から少しずつ計画を練っていた。紆余曲折ありつつ、「上野公園」をフィールドワークすることが決まったが、場所が決まったからといってここで終わりではない。上野公園をフィールドワークするのであれば、上野公園やその周辺のことについて、ある程度事前に調べておく必要があった。ただでさえ上野は歴史が色濃く残る土地である。漠然と回っても仕方がない。
フィールドワークの日程が迫っている中、圧倒的に準備不足だった私たちは、分担して上野に関する文献を読むなどして下調べを進めた。この頃は目の前のことに一杯一杯で、やらなければならないことに自分から気付けないことが多かった。この上野公園に関する文献を読み、まとめることも、恥ずかしながら先生のアドバイスを受けるまでは、何となく取り組んでいただけだった。フィールドワークを7月中に行なうと決めたのは私たちだったし、その日程は揺ぎ無いというのに、情けない話だ。
そして私たちは、フィールドワーク当日までに、具体的に何を知り、見たいのかということについてしっかり考えるということを行った。しかし、結局上野公園に行って何を調べたいのかというところには、最後まで至ることが出来なかった。やはり、何も疑問を持たず、なんとなくフィールドワーク先を決めてしまったことが最大の要因だったと思う。そんな私たちが先生の提案のもと、行うことになったのは悉皆調査である。上野公園内をしらみつぶしに撮影し、記録することになったのだ。
当日私は、外せない用事があったため、午後から参加した。日差しは強く、帽子を忘れてしまった私はひどく後悔した。また、しらみつぶしに記録するということは、想像していたよりも大変だった。看板や碑文など、目立つものを撮影して回るだけだと考えていたが、実際現地を歩いてみると、一見なんてことはない岩や、生い茂る草草まで、気になるものは沢山あった。そのため、数歩進んでは立ち止まり、また数歩進んでは立ち止まりを繰り返した。
大変ではあったが、なかなか楽しかった。今までこんなふうに周囲に注意を張りめぐらしながらフィールドワークを行ったことがなかったからだ。目を光らせて歩いていると、普段歩いているだけでは見落としがちなものも飛び込んでくるものである。
3-2 夏合宿
フィールドワークが終わると、8月の頭から始まる夏合宿でのテーマ発表の準備に打ち込む日々となった。前回の発表があんまりな出来だったため、初めから考え直すつもりでノートに思ったことなどを書き続けた。しかも、夏合宿での発表はテーマ・題材の決定を目標としたもの。尚更、よく考えて発表しなければならない。中途半端な内容では、おいおい自分の首を絞めることは分かりきっていた。
しかし、時間をかけても出てこないものは出てこない。自分の興味のあることはなんとなく分かってきていたが、それが頭の中で整理されず、文字として起こせないのだった。 これまで私が発表してきた題材の共通点は、その題材の世界へ入る妄想をしてしまったり、現実世界に二次元の世界を重ねてしまったりすることだった。そしてそんな自分が望むものを片っ端から与えてくれたのが「乙女ゲーム」だと思っていた。そこを出発点に発表へ向けて考えていったが、そのうちにひとつの疑問が生じた。私は乙女ゲームのことを、「プレイヤー自身をゲームの世界に入り込んだような気持ちにさせ、作品内のキャラクターたちと自由に擬似恋愛できるゲーム」だと思っていた。しかし、ぐるぐると思考を巡らせているうちに、ふと思った。ひょっとしたら、「そう思わされている」だけではないのだろうか、と。ここまで考えて、私はさらに何が何やら分からなくなってしまった。考えることにどれほど時間を費やしても、答えが出ないことがある。私は夏合宿で、このもどかしい気持ちをそのまま発表することにした。
発表は、満足のいくものになったとは言えなかったが、先生にはようやく考えに芽が生えてきた、というようなニュアンスの言葉を頂いた。これまでは「これが好きで、どのように好きか」の話ばかりだったが、そこからひとつ抜けたところに来た、とも言って頂いた。発表でテーマを決めることは出来なかったが、題材は「乙女ゲーム」に決まった。合宿最終日までに、その題材からやりたいことを考え、合宿に合わせて用意した目次案を作り直すことになった。ここからが大変だった。
頭の筋が切れるのではないか、と思うくらい考えて、ノートに文字を書き続けたが、それでも自分が論文を通して何を知りたいのか、何を書きたいのか分からなかった。結局夏合宿中は、テーマまでは決められず、帰宅後もひたすら考える日々が続いた。「乙女ゲームの魅力とは何なのだろう」「プレイヤーたちは一体乙女ゲームをどんなものと捉えているのだろう」と、ひたすらに乙女ゲームの要素をノートに書き続けた。乙女ゲームのことは大好きだった。しかし、考えれば考えるほど分からなくなった。このゼミでの1年間を通して、私は間違いなくこの時期が一番辛かった。すでに大半のゼミ生の卒論の方向性が決まっていたこともあり、焦りがあったからだと思う。
3-3 夏期集中講義
テーマが決まらず、悶々と過ごしていたものの、眼前には「夏期集中講義」が迫っていた。私は一先ずそちらに集中することにした。
私は「現場班」に所属し、メディア系列の3年生が必修となる「夏期集中講義」のスタッフを務めた。7月の間は、現場班チーフの<まゆゆ>を中心に、ひたすら下準備をした。タイムスケジュールを考えたり、備品を申請したり、準備に穴がないか会議を繰り返した。夏合宿後、集中講義に使用する「アートホール」で動きの最終確認をした。
そして迎えた当日。私たちはスムーズに講義が進行するよう、予め用意したタイムスケジュールに沿ってサポートした。勿論私自身も1年前に受講していたため、後輩たちの姿は、かつての自分を見ているようだった。そして、彼らの思い悩む様子は、テーマを決められず苦悩する私にも重なった。講義中は、後輩から先輩として頼られ、(勿論「答え」と受け取られかねないアドバイスなどは控えたが)その度に応援したり、雑談をして場を和ませたりした。しかし、そんな立場でありながら、私は集中講義を受けたあの時から、果たして成長出来ているのだろうかと考えずにはいられなかった。
3-4 夏休み後半
夏期集中講義後、私は再び卒論テーマについて考える日々に戻った。そして数日後、私は「乙女ゲーム内で描かれるキャラクターと主人公(プレイヤー)のコミュニケーションについて探りたい」というところにたどり着き、なんとか目次案を提出した。穴だらけではあったが、論文の方向性を定めることが出来たのだ。
しかし、おそらく論文のメインとなるだろう乙女ゲームの分析の章、及びその分析方法に関しては、「キャラクターとのコミュニケーションについて分析する」と表記し、曖昧な目次を立てることしかできなかった。探りたいことに関しては先述した通りだが、「そのために何をどうすればいいのか」という部分までは辿り付けていなかったのだ。
ただ、そこでぐるぐると思い悩んでいては、何も進展しないということは明白だった。よって私は、夏休み中はまず、ゲーム史全体の中での乙女ゲームの位置づけをするために、乙女ゲームに関する資料集めを行うことに決めた。乙女ゲームに関してまとめられた文献は存在していなかったので、ゲーム雑誌から歴史に関わりそうなものに限らず乙女ゲームの情報を抜き出し、1年ごとの発売本数、攻略情報、作品の傾向、レビューなどを見てまとめていった。
こうしてノートに書き写した情報を、どのように文章にするかは、この時はまだ考えられていなかった。まず、作品ごとにバラバラに記載されている情報をまとめて文章化するとなると、どれほど時間がかかるのか、想像もつかなかった。その方法は後ほど考えることにして、手元に資料を集めることが先決だと思っていた。
最初のうちはノートが埋まっていくことに嬉しさを覚えていたが、だんだん私は漠然とした焦りを感じ始めた。資料に目を通し終わるまでに、果たして何日かかるのだろう。9月になるとサークルの夏合宿の準備で慌しくなり、図書館に行ける日も限られてきた。私は、隙さえあれば国会図書館に通い、無我夢中で乙女ゲームの情報を書き写し続けた。
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第4章 卒論中心の日々、悩み、中弛み
10月に秋学期が始まると、すぐにテーマ発表があった。紆余曲折あったにせよ、私が当日までに出来たことといえば、乙女ゲーム史をまとめ始めたことだけだった。そして、これもまだまだ不完全であり、今後も続けていくという旨を発表した。
また、夏休みを経て、乙女ゲームにおけるコミュニケーションの分析方法と、自分が考えていきたいことが少しずれていると感じ、悩み始めていた。当初考えていた方法に、シーン分析というものがあった。それは、ゲーム中のイベントシーンの中から、プレイヤーの選択によって展開が左右されるものを抜粋し、「Aの場合の展開」「Bの場合の展開」を書き留めて分析していく、というものだった。しかし、それを行うとまるで攻略本を作るようになってしまうのではないかと思ったことが、悩んでしまった一番大きな要因だった。また、私が気になることの出発点は「乙女ゲームでのやりとりを、現実に重ねてしまうこと」だったことを思い出し、この方法を取ると一度決めかけたテーマがぶれてしまうのではないかと不安になっていたのだった。なので、このことについては相談という形で、発表の最後に話した。
発表後、先生から「『乙女ゲームにおけるコミュニケーションとは何か』という問いにいきなり答えるのは難しい。『乙女ゲームでいかにコミュニケーションをしているか』というところが抜けている。」というアドバイスを頂いた。言われてみれば、私は、「どのようにキャラクターとコミュニケーションしているのか」という部分は考えようともしていなかった。自分が普段、プレイヤーとしてキャラクターとコミュニケーションしているのは当たり前と感じていたために、そのことについては疑問にも浮かばなかった。しかし、いざそう問われてみると、明確な答えは出てこなかった。
そのアドバイスを踏まえて、発表後、私の論文の柱は確定した。1つ目は、引き続き雑誌を用いて乙女ゲーム史を調べていくこと。資料が少ない1994~2002年についても、WEBのログでもいいので乙女ゲームに関する情報を探すこと。2つ目は、「実際に乙女ゲームはどのように実践されるのか」「どのような経験を生み出すのか」などを探ること。3つ目は、「プレイヤーたちは、乙女ゲームでの経験にどんな意味を見出すのか」ということについて考えるために、雑誌の投稿欄、ブログ、交流サイトなどで語られている言説をまとめていくことだ。
とくに注目したいのが、論文のメインとなる2つ目の柱である。私はこれを「乙女ゲームプレイ現場のフィールドワーク」とした。方法は、まず、ビデオカメラを2台用意し、プレイヤー(私)と、乙女ゲームのプレイ画面に向けてセットする。そしてプレイ開始と同時に、双方の撮影も開始する。この撮影は、乙女ゲームの1シナリオをプレイし終わるまで続ける。すべての行程が終了したら、この2本のムービーを同時に再生し、ゲーム中のどのようなシーンで、プレイヤーはどのような反応をしているか、ゲーム画面の中ではどのようなドラマが繰り広げられているか、などを観察しながら書き留める。その結果をもとに、分かったことなどをまとめていくのだ。
この「乙女ゲームプレイ現場のフィールドワーク」は、今回の発表を終えるまで、私の頭の片隅にもなかった方法だった。少なくとも私は、このようなフィールドワークを行っている人を見たことがなかった。プレイ画面だけではなく自分を撮影し、観察するという点において、気恥ずかしさはあったけれど、その反面、その結果からどんな考察ができるのか、早くもわくわくしていたのを覚えている。
こうして、論文の大まかな構成が見えてきたことで、私は少し安心した。そして、早急に「乙女ゲームの歴史」の資料まとめを終えて、フィールドワークに入りたいと思った。私は、時間も忘れて朝から晩まで図書館に篭った。
ところが、11月になると、私の取り組みのスピードは減速していった。学祭での軽音サークルのライブ及びその練習や、参加している大学の公認団体、文連団体連合会執行部の大仕事である文連総会があったから、というのが大きな理由だ。ただ、その忙しさを言い訳にして、卒論に対する諸々のことが疎かになってしまっていたのも確かだった。自分の論文は他の誰でもない、自分が取り組まなければ書けるはずがない。あの頃の私には、そういう意識が薄れていたように思う。後で必ず後悔することが分かっていながら先送りにし、心のどこかで「なんとかなるだろう」と考えていたのだ。
そのような状態で迎えた11月の発表は悲惨なものだった。乙女ゲームの歴史の章は、資料をまとめはしたものの、まだ文章としては起こせていなかった。また、フィールドワークのための撮影は大体終わっていた。しかし、書き始めてみた記録は見やすさばかりを重視した構成だった。その上、プレイヤーの反応が大きくあった部分のみを抜粋した「刺激反応モデル」のようなものだった。そもそも、私自身がこのフィールドワークで何を明らかにするべきなのか、理解できていなかったのだと思う。
歴史の部分はすぐにでも文章化できる状態だったが、フィールドワークにおいては完全に方向性を見失っていた。しかし、発表を経て、ようやく目が覚めた。私はこの時まで、撮影した動画を観て、シーンとして面白い部分のみを抜き出し記述することで、恣意的なエスノグラフィーになってしまうということに、気付いていなかったのだ。私はフィールドワークの記録方法を改め、撮影した動画の隅から隅まで余すことなく記録することにした。
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第5章 何かにとり憑かれたかのように執筆。そして、提出へ・・・
12月になってからは、それこそ馬車馬の如く書き続けた。フィールドワークの章で膨大な記録を記述することにしたために、もはや休んでいる暇はないと思われたからだ。他のゼミ生の倍以上頑張らなければ、遅れた分は取り戻せないと思った。
この際、書いたものを逐一添削していくことは後回しにし、まずは書ききることが先決だと思った。バイトなどの予定のない日は、1日1万字以上書くことを目標とした。しかし、それでも12月末までに書き終わる気がしなかった。1日1日、その日に出来る限界まで、書いていくしかない。そう思って、ひたすらキーボードを叩き続けた。
結局、12月24日のゼミ内提出の日に、私は最後の章となる考察まで書ききることが出来なかった。予め伝えられていた締め切りまでに、仮の形とはいえ完成させることが出来なかったのは恥ずべきことだ。しかし、過去のことを悔やんでいる場合ではなかったため、のんびりと取り組んでいた11月のことを後悔する気持ちは不思議と沸いてこなかった。ゼミ内提出までに書き終えることこそ出来なかったけれど、本提出まで、全力で頑張ろうと思った。
とにかく、寝ても覚めても卒論という日々だった。冗談ではなく、「無事に1月8日に卒論を提出できたなら、あとはどうなってもいい」という気持ちで取り組んでいた。体力的にきつい、と思ったこともある。しかし、その度に、ゼミが本格始動した春、「人生の集大成になるような卒論を書こう」と決心したことを思い出した。私は、「納得のいかないものを提出して、悔しい思いだけはしたくない」というその一心で執筆し続けた。
そうして奮闘し続けた年末年始。世の中が新年を迎えても、卒論を出すまでは私の年は明けない。本当は余裕を持って完成させたかったけれど、私が卒論を印刷できたのは提出日の早朝だった。ずっとパソコンの中にいた論文を、印刷しファイリングしてみると、うまく言葉に表せない淋しさに襲われた。どうしてか、泣きそうにもなった。卒論が完成したら、どれほど嬉しいだろう、と思っていたが、なんだかぼんやりしてとてもそんな気持ちにはなれなかった。きっとそれは、私自身が「卒論は完成した」と思えていなかったからだと思う。出来ることならば、もっと考察を深め、もっと添削したいと思った。しかし、その反面、締切日までに書き上げた目の前にあるこの結果が、まごうことなき私の今の実力なのだとも感じた。
卒論提出のその日、提出するまではずっとそわそわしていた。そして、提出してしまうと、ぽっかりと心のどこかに穴が空いたような気持ちになった。それでも、数時間経過すると、段々肩の力が抜けてきて、とてつもない睡眠欲に襲われた。その日の夜は、久々に沢山お酒を飲み、ぐっすりと眠った。ついに卒論を提出したと実感した。
卒論提出後、数日はのびのびと過ごした。しかし、月末の口頭試問の日が迫ってくると、私は日に日に緊張感が増していった。教務課への提出時は、内容の出来不出来は問われない。それを先生たちに審査してもらい、その結果が伝えられる口頭試問こそが本番だと言えるのだ。
そしてやってきた1月25日、口頭試問の日。私は朝から胃がきりきりしていた。口頭試問が始まり、自分の審査の番が近づけば近づくほど、何だか心臓まで痛い気がしてきて、息が詰まりそうだった。
自分の番になり、先生の前で卒論の概要をまとめた原稿を読んでいる時などは、「どんな質問をされるのだろう」「答えられなかったらどうしよう」と別のことでも頭がいっぱいだった。しかし、泣いても笑っても、卒論に関する公式の活動は、今日で最後。もし、どんな評価が出ても、真正面から受け止め、この経験を次の機会に繋げていこうと思った。
主査・副査からの講評によると、私の卒論にはやはりまだまだ穴があった。理論的な基礎知識が足りず、詰めの甘い部分もあった。とくに「コミュニケーション」という単語を論文内で多用しているにも関わらず、それ自体がどういうものなのか詳しく下調べされていないことが指摘された。それでも、卒論の目的・方法が明確であることや、乙女ゲームの歴史をしっかりとまとめたこと、ゲームプレイ現場のエスノグラフィーという新しい試みに関して、評価して頂いた。そして、「乙女ゲームプレイヤーは複数の視点を切り替えながらプレイしている」ということを、具体的な事実に基づいて指摘したことはとても重要だと言って頂いた。何故なら、私もこの卒論を執筆するまでは、乙女ゲームとは「プレイヤーの視点=主人公視点」で進めていくものだと思い込んでいたからだ。
ただ、前述したような基礎知識が足りないことで、その指摘の重要性に私自身があまり気付けていなかったことも事実だった。また、あまりにも荒削りな論文であったことや、考察に十分な時間が割けなかったことは、自分が一番分かっている。それは勿論、先生にもお見通しだった。それでも、総体的には身に余るような評価を頂いた。
先生からの講評の間は、すでに緊張は溶けていたし、先生の言葉もすんなり頭に入ってきていたのだが、なぜか何も考えられない状態だった。手元のノートに取っていたメモも、後から読み返すと断片的過ぎてよく分からなかった。しかし、口頭試問が終わり、席に戻った後、じわじわと嬉しさと安堵感がこみ上げてきた。そして、自分の論文に対する愛おしさが増した。今日という日を区切りに、終わりにはせず、先生からの講評をもとに、これから出来ることを見つけていこうと思った。卒論を執筆していた段階では、理論的な勉強にまで手が回らなかったが、今からでも遅くはないはずだ。卒論提出や口頭試問とは、終わりではなく、始まりなのかもしれない。
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第6章 終わりと始まり
この大学生活を通して私は、単位を余るほど取得したし、どの講義においても成績は悪くは無かった。しかし、受けてきた講義の中で特別に熱中し、その講義に関する勉強を今でも続けているものがあるかと問われれば、私は肯定できない。何故なら、私はそれらの講義に対して、学期末にテストを受けたり、レポートを提出したりすることで満足してしまうことが常だったからである。こんなふうに受け終えた後に次の勉強に繋げることが出来なかった講義によって得たものは、私の中に大して残ることなく消えていってしまった。
しかし、この1年間、私が過ごしたゼミという環境はこれまでとは違った。最初は、ゼミは大学の講義の延長線上にあるものだと思っていた。つまり、私はゼミを少し期間の長い大学の講義として捉えていて、先生から提示されたレポートや発表をこなし続ける日々が始まるのだと思っていた。そして、卒論のことだけを考えて、1年間取り組んでいくものだと思っていた。
けれども蓋を開けてみると、ゼミのホームページを作成したり、上野公園のフィールドワークを行ったり、夏期集中講義のスタッフをしたり、卒論以外にも、常に目の前には課題があった。そして、その度に私は、一杯一杯だったと思う。ただ、それが苦痛だったかと問われれば、そうではない。とにかく目の前のことにがむしゃらに取り組みながら、頭から湯気が出るのではないかと思うくらい考えて、考えて、考えた1年間。苦しいこともあったが、それらを経て得たことの方が大きく、乗り越える度に快感に変わった。最終的には楽しさや嬉しさの方が上回っているから面白い。
この1年間は、私の大学生活でもっとも充実した年になった。卒論執筆においては、今までこれほど何かに必死に取り組んだことはないとさえ思った。テーマが決まらなかったあの夏の日に、もう考えることから解放されたいと一度も思わなかったと言えば、嘘になるし、12月に、撮影した一部始終をエスノグラフィーとしてまとめることになった時は、意気込んだ半面、膨大な執筆量を想像し、途方の無さも感じていた。それでも、今ではそれらもいい思い出だったと感じる。辛いことから目を逸らさず考えること、書くことを続けてきたからこそ、最後まで卒論を書ききることができたのだと思う。
まさしく、「くるたのしい」1年間だった。卒論を提出し、口頭試問を終え、1ヶ月が経過した今、徐々にゼミが終わるのだという実感が沸いてきている。時に励まし合い、時に厳しい指摘をし合い、何においても全力で話し合いを繰り返したゼミ生や、先生のいる場所。大学卒業とともに、そんなゼミという環境から卒業することに、一抹の寂しさを感じている。
4月からは、ついに社会人生活がスタートする。勿論、期待半分、不安半分という気持ちだ。そんな私にとってこのゼミで過ごした1年間は、確かな支えとなっている。ここで学んだこと考えたことは、確実に私の中に根付いているはずだ。これから先、あらゆることについて疑問に感じたり、周囲に流されて、自分の頭で考えることを怠ってしまうこともあると思う。そしてそんな時、固定概念や常識に縛られて、理不尽な思いをすることも勿論あるだろう。それでも私はその度にゼミのことを思い出し、自分の考えをしっかりと持っていたいと思った。いつまでも、常識にとらわれず、物事を多角的に捉えることを忘れずにいたい。
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