「2012年度長谷川ゼミの軌跡」



(1)振り返りレポート

 <セシル>

 <ミシェル>

 <まいまい>

 <まゆゆ>

 <ラッパー>

 <かわしま>

 <ゆーめん>

 <えみし>

 <黒帝>

 <さちこ>

 <ニャンちゅう>

 <りんご>

 <はちべェ…>

 <ちえみん>


◆ゼミ用語集(別窓)



(2)12年度卒業論文 目次案・概要

 <セシル> 1 / 2 / 最終版

 <ミシェル> 1 / 2 / 最終版

 <まいまい> 1 / 2 / 最終版

 <まゆゆ> 1 / 2 / 最終版

 <ラッパー> 1 / 2 / 最終版

 <かわしま> 1 / 2 / 最終版

 <ゆーめん> 1 / 2 / 最終版

 <えみし> 1 / 2 / 最終版

 <黒帝> 1 / 2 / 最終版

 <さちこ> 1 / 2 / 最終版

 <ニャンちゅう> 1 / 2 / 最終版

 <りんご> 1 / 2 / 最終版

 <はちべェ…> 1 / 2 / 最終版

 <ちえみん> 1 / 2 / 最終版




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<まゆゆ>



第1章 大学入学からゼミ所属決定、4月まで

 私が長谷川ゼミに入ることを決めたのは、大学1年生のころだった。芸術学科は卒業論文を選択せずに単位を取得して卒業することも出来るが、私は既に卒業論文を選択することを決めていた。それは、母親にいい経験になるからと勧められたためだった。それでも、勉強に打ち込むわけでもなく、ただ趣味に没頭する日々を送っていた。趣味とは、アイドル声優・田村ゆかりのファン活動である。私は中学生のころから田村ゆかりに憧れており、大学に進学してから始めたアルバイトの給料は、すべてファン活動へと消えていた。CDやDVD、ライブの参加費、田村ゆかりの着用したロリータファッションを購入するなど、かなりの額をつぎ込んでいたように思う。また、大学での生活より、田村ゆかりのイベントに参加し、ファンと一緒に過ごしている時の方が楽しいと感じていた。
 そんな風に思っていた大学1年の冬に、長谷川先生の授業でたまたま聞いたのが、当時の長谷川ゼミの卒業論文のテーマである。テーマはコスプレ、同人誌、BL、ディズニーなどを題材としたものがならんでいた。その時私は、趣味を卒業論文で扱えることに驚いた。卒業論文は、それにふさわしい題材のようなものがあると思い込んでいたためだった。田村ゆかりファンの私にとって、趣味を卒業論文で扱えることは非常に魅力的に思えた。そこで長谷川ゼミに入ることを決め、積極的に授業に参加していこうと考えた。
 大学2年からは積極的に挙手し、発言しようと心掛けた。急に積極的になったのは、実をいうと、長谷川先生に顔と名前を覚えてもらわなければならないと思ったからだった。しかし取り組み続けるうちに、考えること、それに対して先生からのコメントがもらえることが楽しく、面白いと思うようになった。同時に、早く長谷川ゼミに入りたいと思うようになっていた。授業で発言をすれば、コメントはもらえるが、その多くが先生からの返答であり、他の学生から返答があることはめったになかった。ゼミに入れたなら、他の学生とコメントを交し合うことが出来るのではないかと思い、早くゼミに入りたいと思っていた。
 そして大学3年の冬に、長谷川ゼミへの所属が決まった。念願の所属決定であり、やる気と自身に満ち溢れていたと思う。まだゼミでの役職を決定する前から飲み会係をかってでるなど、意気込んでいた。飲み会係をかってでたのは、サークルでも飲み会を仕切ることがあったからだった。飲み会係としてゼミに貢献しなければと、ゼミが正式に始まる以前の2月から飲み会を開き、交流の場を作ろうとしていた。まだ知らないゼミ生ばかりの状況の中で、コンパを開くことでお互いを知っていけたらいいとも思っていた。
 一方、課題に対しては消極的だった。春休みの宿題として、2冊の本の購読をすることになっていた。1冊は先生が指定した『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー、筑摩書房、2003)、もう1冊は自分で選んだ『ディズニーランドという聖地』(能登路雅子、岩波書店、1990)だった。私はこの取り組みを後回しにし続けたため、春休み最後の一週間で仕上げることとなった。当然出来は悲惨なものとなり、形式上宿題を出しただけとなった。もともと本を読むことが苦手だったのだが、嫌なことから逃げる性格が春休みの宿題でも露呈していたのだった。
 4月に入り、ゼミの活動が本格的に始まると、ホームページ、ツイッターなどをゼミの活動として運営していくこととなった。さらにゼミでの役割を改めて決定し、私はやはり飲み会係を務めることとなった。係が決定してから初めて飲み会を開いたのは、第一回発表の打ち上げだった。
 第一回発表は、楽しかった記憶がある。第一回発表において卒業論文のテーマ決定はあまり意識しなくていいといわれていたが、題材にするつもりだった田村ゆかりについて発表した。発表では、田村ゆかりの紹介と、ライブでペンライトを使用したノリが集団化していることについて述べた。ライブにおいてペンライトは、ファンの存在を演者に気付かせる役割を果たす。しかし、ペンライトの使い方(振り方)は、田村ゆかりのようなアイドルのライブにおいて規則性があり、定型化されている。これらのことから、同じ動きをするファンは複製された存在なのではないかと述べた。この発表は、自分の好きなことについて語り、自分の意見を前面に出せたため、とても楽しく感じられた。そして発表が終わると、打ち上げコンパの時間となった。コンパを開く際にこだわっていたのは、座敷の店をとることだった。座敷の場合、参加者は自由に移動しやすく、様々な人と話すことができる環境がつくりやすい。こうしたコンパでの砕けたコミュニケーションをとることも、ゼミの運営のためには必要なことだと考えていた。座敷の効果がどこまで出ていたかはわからないが、自由に歩き回って話しているゼミ生の姿をみると、少し貢献できたような気がしていた。
このころはまだやる気と自信に充ちあふれていた。

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第2章 5・6月

 5月から6月にかけての2ヶ月間、私はなぜか苛立っていた。私は4月から【!班】に所属し、関心地図とホームページ制作に取り組んでいた。そのために話し合いを重ねていた。しかし【!班】は、議論が白熱するあまりに作業が進まないことが多く、なかなか制作に取り掛かれない状態に陥っていた。この状況に対し、せっかちな私は苛立ちを隠せなかった。話し合いの最中などに、ゼミ生に対して口調が荒くなり、きつい言葉を浴びせてしまう場面もあった。こうなってしまったのは、感情のコントロールが上手くできないという欠点が露呈したためだった。また、私は他のゼミ生が指摘しづらいことでも、ゼミの為になることなら積極的に言おうと決めていた。しかしこの決心を履き違えた形で表してしまったのが原因のひとつだった。自分の苛立ちを優先させておきながら、ゼミの役に立っているという思い違いをして、機嫌の悪い自分を平気で表に出していたのである。今考えると本当に申し訳ないと思う。そんな自分を露呈させておきながら、周りの【!班】のメンバーはいいものを作ろうと必死に議論を繰り返していた。そんなメンバーを見習っていきたいと思った。
 第2回発表も、正直言って絶好調だった。第1回発表と同様、私は田村ゆかりを中心に、女性アイドルについて発表した。その内容は、女性アイドルは定常的な状態を求められている、というものだった。この状況を、以下のような様子から見出していった。水樹奈々のライブにおいて、客の合唱が演奏とずれても、公演は予定通りに行われていく様子。田村ゆかりの「fancy baby doll」という曲は複数公演にわたって歌われているが、演者も客もほぼ同じことを繰り返しているのみである様子。そして、田村ゆかりと、バーチャルアイドルである初音ミクのライブを比較し、出来上がっている状況はほぼ変わらない様子。ここから、アイドルは虚像であることを確認するに至った。
 この発表を経て、卒業論文のテーマとして、アイドルは偶像であると改めて証明するという選択肢ができた。しかし、私の中で「アイドルを偶像と証明すること」に取り組まないことは決定していた。なぜなら、このテーマの場合、卒業論文を通して自分を捉えなおすことはできないと思ったからだった。せっかく人生の集大成として書く卒業論文なのだから、自分の人生を見つめなおし、捉えなおせるようなものにしたいと考えていた。そこで、第2回までの発表は、自分の興味の対象である女性アイドルについて述べてきたが、次の夏合宿の発表ではもっと自分のことをさらけ出し、そこからテーマを考えていこうと考えていた。
 一方、発表と同時期に取り組んでいた「アトラクション購読」は大きな難関だった。長谷川ゼミでは、長谷川先生の著書『アトラクションの日常(通称アトラクション)』を読み、割り振られた章ごとに発表をするという課題が与えられた。私は第1章を担当し、トップバッターとして発表を行った。しかし、その発表はひどいものだった。元から私は本を読むのが苦手であり、春休みの宿題でも本を読むことから逃げていた。このため私の読解力はまったく伸びておらず、「アトラクション」もうまく読むことが出来なかった。要点がつかめないのだから、あたりまえである。結局、第1章の発表はうまくできないまま、私の発表は打ち止めとなってしまった。
このまま発表を終えてしまっては、読解力は伸びないままだということに危機感を覚えた私は、<かわしま>と<ゆーめん>に、まだ発表を終えていない第10章の発表を一緒に担当させてもらえないかと提案した。2人は(私の悲惨な発表を聞いていたこともあってか)、快く受け入れてくれた。そこから再び「アトラクションの購読」に挑み始めたのだった。第10章に取り組み始め、少しずつ私の文章の読み方は変わっていった。大きな要因となったのは、おそらく、他の章の発表を聞けたことと、ゼミ生と共に発表を担当できたことである。私は第1章の発表を終えてから、他の人の発表を聞くことが出来た。発表後のディスカッションでは、どのような読み方をしたのかみんなで話したりもした。するとどんな箇所をポイントにして読んでいるのか、また発表しているのかが少しずつ分かるようになった。また<かわしま><ゆーめん>と共に同じ章を担当したため、読解の仕方、文章で疑問に思った個所、発表の仕方を相談することができた。こうした環境は、読み方自体が分からなかった私にとり、非常にありがたいものだった。あの時、私にはゼミ生の読み方を参考にできる場がたくさんあったように思う。この環境下で私は読み方を変えていき、段落ごとに整理しながら読むことを覚えた。こうすることで、段落ごとの要点はどこか、また段落ごとの関係を意識しながら読むことが出来るようになったと思う。こうして第10章の発表を無事終えることができ、改めて第1章を読むことも出来た。再び第1章を読んだとき、要点を整理しながら読むと、内容が全く違うものに感じられることに驚いた。それだけ読み方が変わったということだろうが、その驚きを感じた時、苦手だと思いながらも「アトラクションの購読」に取り組んでよかったと思ったのだった。

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第3章 7・8・9月

 7月になったころに、8月の合宿の計画をする合宿係に途中から加わることになった。私が合宿係に加わったのは、合宿係の準備が滞りがちだったため、ある程度旅行の手配に慣れた人間が必要とされたからだった。私はライブの地方公演に足を運ぶことも多かったため、宿泊の手配には慣れており、ある程度やり方は分かっているつもりだった。しかし、経験が有るのは個人の旅行であり、さすがにゼミ生と先生合わせて16人などという人数を扱ったことはなかった。大人数であること、また宿の立地により、苦戦を強いられた。
 一番困ったのは、食事の手配である。合宿のために予約した宿は山の上の方に立地しており、コンビニも近くになく、出前も取れない場所にあった。しかし、宿についている食事が高かったため、宿の外からから調達してくる必要が出てきてしまった。食事も、またコンパでの酒やつまみも、外部から調達しなければならなかったのだ。事前の準備が重要なものとなり、様々な手配を四苦八苦しながら始めた。
 結局、酒は通販を使って事前に宿泊先に送った。つまみはゼミ生とともに量販店に買い出しに行き、思い思いのものをかごに入れてもらった。それを配送サービスで宿泊先まで送ってもらい、コンパの準備は無事に終えることが出来た。配送が手軽にできるのは実にありがたいことだと実感した。
 また、食事についても何とかクリアすることが出来た。コンビニに協力してもらい、お弁当を予約することが出来た。これを宿へ移動する前に受け取り、宿に持ち込んで食事をしたのだった。宿泊中は宿から出るマイクロバスで移動し、なんとかステーキハウスにたどり着くことも、コンビニで食事を調達することも出来た。マイクロバスがなければ、食事のほとんどをカップ麺で済ませることになっていただろう。都内での生活に慣れている私にとって、車がないことが非常に不便だと思った初めてのことだった。

 合宿で行った第3回発表は満足のいくものだった。私は今までの自分を振り返るため、田村ゆかりのファンの集まりの中に身を置いている自分について捉えなおしたいと訴えた。ファンの集まりから友人が出来た私は、その人たちに頼りすぎているような気がしていた。それは幼いころから祖父母や家族に甘えてきた自分と全く変わらない人付き合いの仕方だった。このため、私は自分の人付き合いがどのようなものだったか振り返るため、「女性アイドルのファンコミュニティ」というテーマで卒業論文に取り組むこととなった。そこで先生から出されたのが、『状況に埋め込まれた学習』(ジーン・レイヴ他、産業図書、1993)という本である。この本を頼りに、卒論を書いていくこととなった。発表と夏合宿を終えて、やっと卒論の入口にたどり着いたと思っていた。しかし私の卒論は、この時点で何かが終わってしまったような気もしていた。

 合宿の後には夏季講義の運営が待っていた。運営のための準備は7月ごろから、合宿係の活動と並行して行っていた。私は夏期講義運営の現場班のチーフを任されていた。チーフのような人を率いる立場になったのは初めてのことだった。夏期講義をどのように運営したらいいか分からないのと同時に、不慣れなチーフという役割にも戸惑い、運営スタッフのメンバーには特に迷惑をかけたと思う。まず、現場班メンバーに対して仕事の割り振りをどうおこなったらよいか分からなかった。また、夏期講義当日へ向けてリハーサルを2回行ったが、全員のスケジュールの調整、リハーサルを行うに当たっての連絡などが雑になっていたように思う。メンバー全員が夏期講義運営の進行を把握していなければならないにもかかわらず、その共有のための過程を怠っていたのだった。このように上手くできないことが多々あったが、メンバーの指摘や取り組みによって、夏期講義当日の動きを詳細に割り出していき、なんとか準備を進めていくことが出来た。この結果、当日はその場の状況に応じて動くことが出来、無事に終えることが出来た。
 私はこうした運営のために備えるということを初めて経験した。準備のためには、当日の行動をいかに洗い出せるかが大事で、それが不測の事態に備えることに繋がるのだと学んだ。これは夏合宿を運営するうえでも役立ったことだった。

 その後、私は緊張の糸が一気に緩んでしまった。夏合宿の係も夏期講義のチーフも終了し、卒業論文のテーマが決定した安心感から、完全に力が抜けてしまったのである。夏期集中講義後、ゼミの活動がなかった一週間の間、私は自宅にこもり、何も考えず、何もしない生活を送った。ゲームをするか、寝るか、食べるか。本当にそれしかしなかった。何も考えないというのは非常に楽に感じられたが、同時に、誰も止めなければこの時間が永遠に続くのではないかという恐怖感も感じていた。もちろん自分で選んでそのような生活をしていたわけだが、ゼミでずっと考えてきた様々なことを、こんなにも簡単にやめられるのかと思った。卒業論文執筆の為に出された『状況に埋め込まれた学習』も、読まないままだった。
 私は、そうした「沈んだ」状態のまま、なかなか浮上できなかった。ゼミの活動が再び始まり、フィールドワークのホームページ作りが始まってもその状態は同じだった。フィールドワークのホームページは、夏期講義の現場班が作成することとなっていた。本来なら、チーフを務めた私が再び仕切って作り上げていくべきものだったと思う。しかし前向きに取り組むことが出来ず、進行のほとんどを他のメンバーに任せてしまった。うまく向き合えなかったのは卒業論文に対しても同じだった。序論を少し書いただけで、卒業論文の本文の執筆自体も、文献をあたることもやめてしまっていた。
思い返せば、私は夏合宿の時点でテーマ決定したことで安心し、卒業論文に取り組むことをやめてしまったのだった。

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第4章 10・11月

 夏休みに安心で気が抜けてしまった私は、10月の発表をボロボロの状態で行うこととなった。本来、テーマ決定の後は執筆の為に文献を読み始めなければならない。しかし私は10月の発表を目前にして何も文献に手を付けていなかった。発表直前になり、先生から出された『状況に埋め込まれた学習』を読み始めたが、焦りが先行してしまい、うまく理解することが出来なかった。同著は、研究書を読むことに慣れていない私にとって、丁寧に読み込み、難しい内容に挑むつもりで取り組まなければならないものだった。だが焦りと共に読み進めてしまったため、自分の中に内容をうまく落とし込むことが出来なかった。既に読み直す時間もなくしていたため、断片的につまみ食いした状態で発表に臨んだ。
 発表が悪いことは目に見えていた。具体的に発表した内容は覚えていないが、つまみ食いで理解した文献と、自分の考えを無理に結び付けようとしてしまったことは覚えている。発表をしているとき、自分でも、話している内容が支離滅裂なことが分かった。夏合宿までの発表はテーマ決定のためのものだから、自分で考えたことを組み立てることが重要となる。しかし秋学期以降、テーマ決定をした後の発表は、学術的なものに昇華するため、文献を用いながら自分の述べることを形作らなくてはならない。私は文献を読み、理解した内容を用いて考えを形成することが全くできていなかった。それは卒業論文執筆を通して露呈した、私のできないことのひとつだった。
 発表の後、同著を読み直したが、やはり理解することはできなかった。そこで、私はテーマを変更したいことを長谷川先生に伝えた。文献をうまく理解できず、卒業論文提出までに読解力を延ばすことも難しいと思ったためだ。だから、卒論では「女性アイドルのファンコミュニティ」に取り組むことをあきらめ、田村ゆかりを位置付けるような、アイドルに関する歴史をたどることにしたいと説明した。
 また、この時に大学院進学を考えていることも初めて先生に伝えた。文献を読めないからといって、「女性アイドルのファンコミュニティ」に取り組むことをあきらめたくはない。卒業論文をステップアップとしてとらえ、読解力を伸ばしていき、もう一度コミュニティについて理解することに挑戦したいと伝えた。
 この上で、テーマを変更することが決定した。しかし田村ゆかりに関するアイドルの歴史に取り組むということを決めた以外、何をテーマとするのか自分では決められなかった。私が歴史の中に位置付けたいと思っていた田村ゆかりは、アイドル声優である。だが声優とはもとからアイドルと結びついていたわけではない。様々な変化の中で声優にアイドルという要素が付加されていったはずだ。この過程を追うことが、アイドル声優である田村ゆかりを位置付けることには必須となる。だから、卒業論文では「アイドル声優の成立」の過程を整理することがいいのではないか。そう言ったのは、私ではなく長谷川先生だった。

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第5章 12・1月

 こうしてテーマが再決定し、卒業論文に取り組み始めた。だが、何から手を付けていいか分からないまま、第5回発表を迎えてしまった。発表において私は、声優とキャラクターのイメージが結びつくことがアイドル声優にとって重要なことではないかと述べた。しかしこの話は、ただ自分の意見を述べたにすぎなかった。このとき私が本当にすべきだったのは、文献をもとにアイドル声優の成立の条件を示すことだった。条件を挙げることが出来なければ、成立の過程をみていくことはできない。それにさえ気づけず、発表終了後に焦りながらアイドル声優成立の条件を、文献をもとに挙げようとした。だが、やはりつまみ食いしたような読み方をしてしまい、必要な条件を示すことが出来なかった。結局、卒業論文で提示したアイドル声優成立の条件は、十分条件のみで、必要条件を示すことはできなかった。このため、私の卒業論文は骨組みのない状態となっている。
 必要な条件を示すことが出来なくても、期限までに卒業論文を提出できるよう、書き進めなければない。しかし骨組みがない状態で書き進めても、良い卒業論文は書けないことは目に見えていた。結果が分かってしまったような気分になり、12月下旬になると、私は卒業論文に対して熱心に取り組むことをやめてしまっていた気がする。今回いいものを書くことを諦めても、いつかやりなおせばよいとさえ思っていた。また、自分の力を伸ばしたいと思って志望した大学院を、まるで逃げ道のように扱っていたように思う。それではだめだと先生からも指摘され、何とか立て直さないといけないと思った。(周りからの指摘でしか買われない自分にも嫌気がさした。) そして、良いと思えない卒論ができあがることが分かっていたとしても、それをより良くするために今書かなくてはいけないと思った。期限が迫る中で、取り組めることも限られていたが、諦めたままで終わることが一番よくないと考え、少しでもよくなるよう書き直しをしていった。
 それでも、卒業論文提出を迎えた時、私はどこか達成感にかける気がした。それは自分の頑張りに欠ける部分が大きかったからだと思う。途中で諦めてしまったのだから、当たり前だと思った。
卒業論文提出後は、口頭試問の原稿の準備に取り掛かった。そのために、卒業論文を読み返していたが、読み返せば読み返すほど、こんなことしか書けないのかと嫌になった。しかし、論文は著者の実力を反映させるものであるため、卒業論文は自分を映す鏡といえる。だから、自分の書いた卒業論文の駄目な部分も受け止めなければいけないと思った。  口頭試問になって初めて、自分の実力を直視し、悔しいという気持ちが強くこみあげてきたように思う。口頭試問の総評として、長谷川先生は労いの言葉を述べられたと思う。しかし、その言葉は私にかけられた言葉ではないと思い、ノートにも記さなかった。(このため、先生がどんなことを述べられたか断片でしか覚えていない。) むしろそうした言葉を受け入れられる立場になれなかった自分に対し悔しいと感じたことこそ、忘れてはならないことだと思った。

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第6章 これからについて

 私は大学院に進学する。卒業論文での挫折から、もう一度論文に向き合いたいと思ったためだ。卒業論文提出から試験まで、とにかく大学院に進学しなければならないという一心でいた。だが大学院試験を受けてから合格者発表までの間、私は試験に落ちた時のことを考えながら、このまま進学してよいのだろうかと考えていた。もし落ちた場合、1年間は浪人となり、勉強をしながら、再び来年大学院を受けようと考えていた。そうしたら、焦って読めなかった文献を読み直すことも、再び論文に取り組みながら大学院進学に備えることも出来る。もし試験に合格した場合は、浪人はしなくて済むが、このまま進学しなくてはならない。何も準備できていない、卒業論文もまともに書けなかった私のまま、大学院に立ち向かわなければならない。そう考えると、合格したいと思っていたのに、1年浪人した方がよいのではないかと思った。
 そんなことを考えているうちに合格者発表の時が来た。結果は合格だった。やはり嬉しいと思ったが、不安は消えなかった。力不足の自分と向き合っていくのが、恐ろしくて仕方ないと思った。
 だが、こんな不安は今までの人生で感じたことのないものだ。振り返ってみると、この不安こそ、自分の本当の力に気付いたからこそ感じるものであり、向き合っていかなくてはならない感情なのだと思う。また、1年のゼミ活動を経たからこそ、こんな不安を感じられるのだと思う。熱心に活動に取り組むゼミ生と共に生活しなければ、卒業論文に取り組まなければ、一生自分の本当の力に向き合わないままだったのではないか。
 おそらく私は、今やっとスタート地点に立ったのだと思う。大学院生として、どのようなことに取り組んでいくのか、まだ分からない。しかし、卒業論文に対して悔しいと思ったこと、また進学の際に感じた不安は忘れないでいたいと思う。そして、1年間ゼミで学んだことを忘れずに、大学院に立ち向かっていきたいと思う。

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