「2012年度長谷川ゼミの軌跡」



(1)振り返りレポート

 <セシル>

 <ミシェル>

 <まいまい>

 <まゆゆ>

 <ラッパー>

 <かわしま>

 <ゆーめん>

 <えみし>

 <黒帝>

 <さちこ>

 <ニャンちゅう>

 <りんご>

 <はちべェ…>

 <ちえみん>


◆ゼミ用語集(別窓)



(2)12年度卒業論文 目次案・概要

 <セシル> 1 / 2 / 最終版

 <ミシェル> 1 / 2 / 最終版

 <まいまい> 1 / 2 / 最終版

 <まゆゆ> 1 / 2 / 最終版

 <ラッパー> 1 / 2 / 最終版

 <かわしま> 1 / 2 / 最終版

 <ゆーめん> 1 / 2 / 最終版

 <えみし> 1 / 2 / 最終版

 <黒帝> 1 / 2 / 最終版

 <さちこ> 1 / 2 / 最終版

 <ニャンちゅう> 1 / 2 / 最終版

 <りんご> 1 / 2 / 最終版

 <はちべェ…> 1 / 2 / 最終版

 <ちえみん> 1 / 2 / 最終版




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<ラッパー>



第1章


1―1 ゼミ以前

 私が長谷川ゼミに入った最大の動機は、3年次に受講した夏期集中講義である。夏期集中講義は、グループワークで取り組むものだった。恥ずかしながら私は、「グループワーク」と聞くと、「手抜きができる」とか「責任を負わなくていい」という邪念が真っ先に思い浮かんでしまうような考え方をしていた。また、「自分の考えこそが絶対」という自己中心的な考えの持ち主でもあった。そんな自分の考え方を反省し、グループワークのおもしろさに気付くことができたのが夏期集中講義である。面識がない学生と5日間という長い期間をともにし、何かを創りあげるということは、私にとって初めての経験だった。そして、班員との話し合いでは、物事を深く考えていくということと、アイディアをハイブリッドしていくことに今まで感じたことのなかった楽しさを感じた。与えられた課題に対して、これほどまでに積極的になれて、楽しいと感じたことはなかった。私にとって大きな転機となったのである。そうして私は、「変われた自分を大切にしたい」、「そういった環境に身を投じてみたい」と思い、長谷川ゼミに入ることを決意した。
 長谷川ゼミに入ってすぐの春休みは、メーリスでの活動で主であった。自分たちで課題を考えるという課題が出された。メーリス上でさまざまな意見が飛び交い、関心コラムと関心地図を制作することになった。それぞれの関心事を15以上挙げ、それぞれについて1500字程度の文章を書いた。コラムを考えると、自分でも驚いてしまうほど関心事が少なく、10個以上書くのは大変だった。自分の今までの人生を振り返り、「そういえば」と何度も思いながら、なんとか15個の関心コラムを書き上げた。
 もう一つ、読書の課題が出た。『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳、筑摩書房、2003年)と、もう一冊自分で選書し、そのことについてレポートを書くというものである。私はこのとき、『暗黙知の次元』がとても難しいと感じ、ほとんど理解することができなかった。「こんな難しいことをするのか」と、正直怖じけづいた。もう一冊は、『ポピュラー音楽と資本主義』(毛利嘉孝著、せりか書房、2012年)である。こちらは、文章が読みやすく、内容も理解しやすかった。しかし、今振り返ってみると、そのとき充分に理解していたとは言いにくい。今後は、マルクスやアドルノの参考文献を読んだ上で、もう一度読み返してみたいと思う。


1―2 役職決め

 4月に入り、本格的にゼミ活動が始まった。一番初めのゼミで行ったことは、役職決めだったと思う。web編集長とコンパ係を決め、他に必要だと思う役職を提案してそれぞれ割り振るというものだった。ゼミ生全員で話し合った結果、合宿係、会計係が必要ということになり、自分は合宿係になった。私が合宿係になった理由は、それまで旅行の企画をしたことがなかったからである。旅行に関する交通、お金、食事に関する一切のことは他人任せにしていた。この機会に、一つ一つのことを自分の力で企画していきたいと思い、合宿係を選んだ。4月5月の段階では仕事があることに気づかなかったが、8月の合宿が近づくにつれ、準備不足や企画力のなさに気付くようになる。準備をするにしても、なにをどのくらい準備すればいいのか、よくわからなかった。また、どこか「これぐらい働いておけばいいだろう」という考え方も働いていた。そのとき、「自分が旅行で楽しんでいる影では、こつこつと企画をしていた人がいる」という当たり前のことに気づいた。
 また、私はツイッター係にもなった。ゼミで運営するツイッターに関して、企画提案を行う役職である。これも、個人的にツイッターに不慣れであるという理由で担当した。ツイッター係発足当時は、前年のゼミ生のツイッターを超えたいという理由で、さまざまなテーマを考えた。ものをカメラで捉えたかのように文章で表現する描写の練習、トマソンを撮ってツイートするトマソンリレー、それぞれが短文をスイートして一つの物語を成り立たせる小説リレーなど、さまざまなアイディアがあがった。ツイッターと言ったら、思ったことを気軽に表現できるという印象があったが、特定の使い方を決めることでいつもと違う使い方ができることがわかり、アイディアを考えるのはとてもおもしろかった。


1―3 第一回発表

 春休みの段階で、第一回発表が4月末に行われることが決まっていた。第一回発表は、8月の合宿でのテーマ決めを見据え、自分の思っていることを吐き出すというのが目的だった。4月に入ると、第一回発表の準備のために、ゼミ生たちとそれぞれの関心事について話すという機会がたくさんあった。私はヒップホップを卒論で扱いたいと思っていたので、ヒップホップのことばかり話していた。そのころのことについて印象に残っているのが、自分の話を聞いてくれているときのゼミ生の態度である。ヒップホップに関心がなくても、私がする話をいろんなことに結びつけて意見を言ってくれた。そして、私がヒップホップに関心を持っているのは、「はみ出し者」に憧れがもっているからではないかということに気づくことができた。ヒップホップに関心があること、不良というはみ出し者に憧れた中学生時代の自分に焦点をあてて発表した。発表後、「自分の生い立ちや考えてきたこととヒップホップに対する関心を無理矢理つなげてしまうのはよくない」と指摘された。言われてみると、卒論のテーマを早急に見出そうとして、両者をつなげようとする意識があった。両者をつなげるという意識は持たず、それぞれのことをよく考えていくことが私の課題となった。
 発表中はとにかく緊張してしまい、手や声が震えた。私は小さい頃から、発表の場では緊張してしまう。普段は目立ちたがり屋であるはずなのに、発表というかしこまった場で自分の考えたことを他者に伝えるときは緊張してしまう。質問されたら頭が真っ白になってしまい、考えようとしても何も考えられなくなってしまう。長谷川先生がいる場ではとくに緊張してしまった。他の人の発表に対しての意見も、緊張してなかなか手を挙げることができなかった。情けない話である。発表中の緊張を改善するためにも、第二回発表以降は必ず発表原稿を作ることにした。

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第2章


2―1 関心地図制作

 第一回発表終了後、ゼミ活動はホームページ制作に重点が置かれた。私が所属する「?」チームでは、関心コラムを布置する関心地図のフレームを「絵本」にすることになった。「絵本」にすることで、ゼミ生全員による膨大な数の関心コラムが、何個かの場面にまとまり、絵にすることでわかりやすく鑑賞することができる。制作作業は分担制で、班員一人につき一ページの場面を担当することになった。その結果、「?」チームが制作した関心絵本は、各ページ個性的なものになった。私の担当したページは、「異次元」がテーマであった。コラムのタイトルは、宗教に関すること、不思議なこと、死に関することに大別することができた。これらの関心事と絵をどのように結びつけるのか悩んだ。絵本ということでわかりやすさが大切だと思い、キャラクターの表情やふるまい、置かれている状況などに注意しながら描きあげた。


2―2 『アトラクションの日常』講読

 5月下旬には長谷川先生の著書『アトラクションの日常』の講読が始まった。『アトラクションの日常』の各章を一人のゼミ生が担当し(ページ数が多い章は複数人で担当)、その内容についてレジュメを用意し、口頭発表するというものだった。  私は、それまで読書という行為をできる限り避けてきた。読書と聞くと億劫な気持ちになってしまう。これまで自分から進んで本を読もうともしなかった。しかし、論文を書くためには、この態度を克服しなければならない。『アトラクションの日常』講読は、苦手意識の克服ための難関であった。
 日本語で書かれているので、文章を追っていけば、おおよその内容はつかめる。しかし、準備の段階でゼミ生と読み合わせてみると、わからないことだらけであることに気づく。担当した章に関して「○○はなぜここで扱われているのか」、「なぜこのように書かれているのか」という質問を受けると、説明ができない自分がいた。本を読むということは、ただ文字を追っていくだけでは成り立たない。書かれていることを咀嚼し、それを説明できるようにならないと本を読んだとは言えないのである。その後、参考文献を読んだり、用意した原稿をゼミ生に読み聞かせて質問しあったりするなどして発表に備えた。先生に個人的に発表した際、「しっかりと準備をし、内容がきちんと整理されている」と言われたときが、本当に嬉しかった。読解力がない私は、本を読むことに関して褒められたことが今までの人生でなかったのである。微々たるものかもしれないが、成長できたと感じることができた。
 今も『アトラクションの日常』を携帯し、電車に乗っている間は読むようにしている。次は、春休みの課題であった『暗黙知の次元』を読もうと持っている。春休みのときは、ほとんど何もわからなかった。あのときに比べれば、『アトラクションの日常』講読、卒論執筆を通して、本を読む習慣がついてきたので、また挑戦してみたい。


2―3 第二回発表

 6月中旬には、第二回発表が行われた。この発表も第一回発表同様、自分のことについて話すということに重点を置くものだった。しかし5月以降、関心地図制作を含めたホームページ制作、『アトラクションの日常』講読という活動が相次いであり、個人的には就職活動もあって、発表に対する準備が充分にできなくなってしまっていた。意識も発表には向いていなかった。そして、ほとんど誰とも発表に関する話をすることなく、発表当日を迎えた。用意した原稿も内容の薄いものになった。第一回発表以降、自分の生い立ちや考えてきたことと、ヒップホップに対する関心を深く考えていくという課題にしっかり取り組まなかったため、それ以上のことが言えなかったのである。そして私は、そのことを包み隠すように、ヒップホップに対する私のイメージに関する発表を行った。当時関心を抱いていたグラフィティや楽曲など、体制に対する反抗を示す作品を多く紹介した。「この作品のこういうところが好きです」や「ヒップホップのこういうところが好きです」といったことをよく喋った。しかし、「ヒップホップのこういうところが好きだ」という印象や感想をひたすら語っても論文にはならない。しっかりと自分の頭で何かを深く考えてゆかないと、前進できないということを学んだ第二回発表であった。

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第3章


3―1 夏期集中講義にむけて

 芸術メディア系列の3年生の夏期集中講義を手伝うことになった。私は記録班になった。記録班は、カメラで講義の様子を撮影したり、ディスカッションの内容をメモしたりする。最終的に、それらをHPにまとめるのが記録班の仕事である。
 しかし、活動の手順や機材の調達は始めから整っているわけではない。先輩たちの活動を参考にしつつも、基本的には一から自分たちで考えなければならない。カメラ、延長コード、マイク、三脚、パソコンなど、必要だと思う機材をリストアップし、必要なものを用意することから始まった。私はこの頃、一週間ほどフランスにいたため、その活動に充分に参加することができなかった。フランスから帰ってくると、すでに必要な機材のリストが完成しており、いつでも申請できる状態になっていた。班員がテキパキと仕事を進めていたことに対して、焦りを感じた。出遅れた分を取り戻したいと思った。
 機材の申請が済むと、記録班のなかでそれぞれの役割を決めた。私はビデオカメラの担当になった。私は、ビデオカメラを扱ったことはほとんどなく、撮り方などもわからなかったため、人より練習が必要であった。リハーサル用のテープで、話し合い中の現場班やゼミ生の様子を何度も撮った。引いたり寄ったりして迫真性のある画を追求したり、どのアングルで撮れば鑑賞する人にわかりやすく伝わるのか、ということを念頭に置いて練習した。そして、とても有意義な練習の場となったのが上野でのフィールドワークである。


3―2 フィールドワーク

 12年度長谷川ゼミは、上野公園でフィールドワークをすることにした。私がフランスに行っている間に、貼り紙の悉皆調査をするというフィールドワークの具体的な内容が決まっていた。また、フィールドワークの特設ウェブページも作ることも決まっていた。たった一週間ゼミにいないだけであったが、いろいろなことが決まっていたため、私は焦りを感じた。
 フィールドワークでの記録班は、主にビデオ撮影を担当した。機材の扱いとメモの取り方の練習も兼ねており、夏期集中講義にむけた予行練習でもある。エリアを回る順番やメモの取り方など、事前に念入りに準備して臨んだ。夏期集中講義二台のビデオカメラを用意した。
 上野公園で撮影をしていると、早速トラブルに見舞われた。<はちベェ…>と<えみし>の班を撮影していたときに、撮影した映像を確認していると、使用していたビデオカメラにノイズが入っていることに気づいた。幸い、スペアのビデオカメラを携帯していたのですぐに対応できたが、練習の段階で気づいてよかったと思った。本番では、バッテリーの容量から、時間帯によって使用する機材をあらかじめ決める。一台が使えないと、その一日の予定が狂ってしまうのだ。この経験から、本番ではノイズの入るビデオカメラの使用を避けることにした。
 記録班は、暑いなか黙々と悉皆調査をするゼミ生を撮り続けた。反省点は、ダイジェストムービーの構想を具体的に考えなかったことである。ゼミ生の顔は映すのか、どういった画を中心に撮るのか、インタビューではどういったことを聞くのか、といったことを決めずに行ったため、ダイジェストムービーの編集に苦労した。


3―3 夏合宿

 フィールドワークが終わると、8月上旬のゼミ合宿に向けた準備を行った。第一回発表も第二回発表も、私はヒップホップのことを発表した。第二回発表では、ヒップホップに対する私のイメージについて発表してしまったため、自分のイメージとは距離を取ってヒップホップのことについて話そうと思っていた。多くのエピソードを挙げて、疑問に思ったことを洗い出すという作業を行った。
 合宿では、私のヒップホップに関して抱いた疑問の他に、第一回発表でもらった「ラップは、コンテクストから切り離され、ねつ造される」というアドバイスに基づいて、不良のアイテムのようにB系ファッションが売られているということについて発表した。そして、「B系ファッションというファッションを軸に、ヒップホップが日本においてどのように受容されているのか考察する」という卒論の方向性が決まった。このときに作った目次案は、どのようなアプローチで行うべきかわからず、テレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の考察や、B系ファッション販売店でのフィールドワークや、クラブの集う人々へのインタビューなどを思いついたが、これというものがなかなか決まらなかった。とりあえず、B系ファッション販売店でのフィールドワークで考えていくことになった。


3―4 集中講義

 合宿から帰ってきたら、すぐに集中講義モードに入った。リハーサルを何度もしていたので、本番では焦りや緊張はなかった。夏期集中講義の最終日が近づくにつれ、3年生の表情が変化していった。表情もそうだが、姿勢も心なしか前のめりになっている。会話の語気も強くなっていく。そういった変化を記録するのが記録班の役目なのだと、3年生の姿を見ていて改めて気づいた。また、一年前の自分と照らし合わせながら3年生を見るつもりでいたが、私たちのときにはなかったエピソードやアイディアに触れることができ、新たに学ぶことも多かった。講義の全体を俯瞰する立場であったからこそだったのかもしれない。撮り残したシーンはないか、ちゃんと記録されているのかどうか、などといった不安はあったが、無事に集中講義は終了した。


3―5 集中講義後の夏休み

 集中講義が終わったら、すぐ編集モードに入った。大学の制作室に何時間も籠り、撮影した映像をパソコンに取り込んだ。倍速で取り込むことができなかったため、パソコンへの取り込みは撮影した時間と同じ時間を要した。そのため、取り込みに2週間ぐらいかかった。
 9月に入ると、編集作業と並行して、卒論のことに関して再び考え始めた。B系ファッション販売店にアルバイトの申し出をしたが、断られてしまった。再びアプローチ方法を考えることになった。その頃、ゼミ生の多くは国立国会図書館に足を運んでいたので、私も「なにかわかるかもしれない」と思い、国立国会図書館に行ってみた。そこで、さまざまな雑誌に目を通し、『チャンプロード』や『CUSTOM LOWRiDING』といった雑誌で、B系ファッションが紹介されているということがわかった。

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第4章


4―1 『チャンプロード』

 合宿で、テーマが決まった私は、題材に『チャンプロード』を扱うことに決めた。10月の時点で、とにかく私がしなければならないことは、『チャンプロード』を読み進めることであった。
 10月に入ると、私の論文の肝となる『チャンプロード』をとにかく読み進めていった。創刊号(1987年)から2012年12月までを読むので、約300冊に目を通すことになる。読み始めた頃は、一日で12冊程度しか読み進めることができなかった。メモをとるべきポイントもとくに考えないで、ほとんど何も考えぬまま読んでいた。
 また、B系ファッションに特化しているわけではない『チャンプロード』を読んだだけでは、B系ファッションに関する知識や考えが深まらないのではないかと感じ、他のアプローチ方法も考え始めた。『チャンプロード』以外に私が知っているB系ファッションを扱うメディアは、ファッション雑誌であった。「ファッション誌においてB系ファッションはどのように語られているか」ということを知ることで、『チャンプロード』のB系ファッションの記事と比較して考察できると思い、何冊か挙げて文献リストを作った。『WOOFIN’』、『CUSTOM LOWRiDING』、『smart』などのファッション誌も読むことに決めた。


4―2 ダイジェストムービー

 集中講義とフィールドワークのHPは、10月中に完成することを目標としていた。毎週のゼミの時間に、スライドに投影し、全員でチェックしながら制作を進めてきた。私は、フィールドワークと夏期集中講義のダイジェストムービーの編集を担当していたので、ムービーを全員に見せる時はいつも緊張した。作っているときは「何も知らない人が見てもわかるように」ということを意識して作っていたつもりだが、それだけでは全然足りなかったのである。「テロップを入れてより説明的にした方がいい」というみんなの指摘のおかげで、最終版はわかりやすいムービーに仕上げることができた。HPの各班の説明文も、記録班で何度も添削を繰り返し、詳しい文章を掲載することができた。


4―3 最後の中間発表

 11月に、最後の中間発表が行われた。もう口頭試問まで発表の機会はない。全員で相談や意見交換できるのは、これが最後である。
 私は、『チャンプロード』を読みすすめていくうちに、あることに気づいた。それは、『チャンプロード』において、B系ファッションは通販広告でしか登場せず、特集記事やコーナーなどが組まれることはないという点だ。私が思っていたより、B系ファッションに関して『チャンプロード』から読み取れることは少なかったのである。「なぜ不良少年がB系ファッションを着るようになったのか」ということが誌面ではわからないのではないか、と焦りを感じ、そのことを発表で相談した。先生からは「そのときに当たり前になっていることは、特集されないことも多い。『そういった記事がない』ということに気付くことも重要」と指摘された。そのとき私はなるほどと思い、考え方が広がったような気がした。他のファション誌を資料として、『チャンプロード』のB系ファッションを考察していくというアプローチをすることに決めた。

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第5章


5―1 国立国会図書館

 12月には、『チャンプロード』以外の雑誌も扱うということになったため、これまでよりペースを上げて読んでいく必要があった。B系ファッションを扱う雑誌は予想よりもたくさんあり、数が多すぎたため、10冊を取り上げることにきめた。そのなかでもストリートファッション誌がとくに多かったため、ストリートファッションに関する文献も読んだ。とにかく「書けるまで書く」という思いで一日一日を過ごしていた。国会図書館でメモをとり、帰ってからそれらをパソコンに打ち込むには時間がなかったので、パソコンを持参してその場で執筆を進めた。
 また、私には不良少年についての知識が浅かった。『チャンプロード』が刊行されている1987年以降の不良たちについて調べなくてはいけないと思い、不良少年に関する文献にあたった。番長、ツッパリ、ヤンキー、暴走族などさまざまな不良少年について調べていった。
 ヒップホップに関する知識も浅かったため、文献にあたり勉強する必要があった。包括的に調べていくのは、あまりにも時間を要するため、マスメディアを通したヒップホップの広がりを重点的に調べていった。
 不良少年とヒップホップについて調べて、論文を書いているときには、両者のつながりを意識せずに執筆していた。私の論文のタイトルは「B系ファッションと不良文化―日本におけるヒップホップ受容の一考察―」であり、両者の関係を明らかにしていくことが肝になるはずであった。それにもかかわらず、「不良は不良、ヒップホップはヒップホップ」と区別して考えてしまい、そのまま執筆してしまった。章と章を独立したものとせず、相互に繋がり合うよう心掛けていたら、しっかりとタイトルに沿ったものが書け、明らかにできたことも多かったのかもしれない。結果として非常に分別くさいものになってしまったと思う。


5―2 間に合わなかった提出

 12月下旬のゼミ内提出までに考察を書き終えることができなかった。正直この段階で、考察をどのように書いていいのかわからないという状態であった。考察以外の箇所を書いているときは、「全部書いたときには考察だってできるだろう」という根拠のない自信があったのである。しかし、自然とひらめくことはなく、焦りばかりが生じた。この焦りからか、「自分がわかりたいこと」から距離をとってしまったように思う。とにかく、今まで調べてきたことと本で読んで学んだことを信じて、考察を行った。
 卒論提出予定日当日も、提出のギリギリまで本文の確認を行った。何度も書き直したが、全然しっくりこない感じがした。誤字脱字、文献リストの最終確認が終わったのは、午後3時であった。この結果、他のゼミ生より大幅に遅れて提出した。朝に全員で提出するという約束を守れなかった自分に恥ずかしさを感じた。帰りの電車では、眠すぎて座席に倒れ込んで寝てしまっていた。人生で初めての経験であった。

5―3 口頭試問

 卒論の提出後、一気に肩の荷がおりた気がした。しかし、すべて終わったわけではない。1月下旬には、口頭試問が控えていた。一年前、先輩である11年度ゼミ生の口頭試問に出席し、先輩方は全員堂々と発表していたのが印象に残っている。それを思うと、私も口頭試問までにしっかりと準備をしなければならないと感じた。また、口頭試問は、10分間という時間の中で卒論の内容について伝えなければならない。本番当日まで、原稿作りと音読を何度も繰り返し練習した。
 本番は緊張したが、練習のおかげで時間内にしっかり発表することができた。しかし、先生からの「この論文でわかったことはなにか」という質問に、はっきりと答えることができなかった。それは、「日本におけるヒップホップ受容」ということを念頭に置いて論文を書き進めることができなかったからだと思っている。大量の雑誌や本について調べ作業に手一杯になってしまい、一番大切なテーマから離れていってしまったのである。先生の指摘から改めて反省した。


5―4 これから

 ゼミ活動で培い得たものは、今の自分の土台となっている。そして今後も、この経験を活かしていきたいという気持ちが強い。論文はまだまだであったが、全体の活動を通して、いい緊張感でいい環境で過ごすことができた。これほどまで本を読み、文字を書いたことはなかった。なにより、これほどまでに「何かをわかりたい」という衝動にかられたことはなかった。飽きっぽく冷めやすい私がなんとか卒論を提出することができたのは、あたたかく、ときには厳しかった先生とゼミ生たちに囲まれて過ごすことができたおかげである。今後は、長谷川ゼミのように恵まれた環境にいることができるとは限らない。しかし、それでも妥協することなく、邁進していきたい。上手くいかないことがあっても、長谷川ゼミでの活動を思い出して自分の最大限の力を発揮できるようにがんばっていきたい。
 素直にこのように思えることが、自分がこの一年間で成長できた証であると思う。この気持ちを大切に、この先の人生を歩いていきたい。

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