「2012年度長谷川ゼミの軌跡」



(1)振り返りレポート

 <セシル>

 <ミシェル>

 <まいまい>

 <まゆゆ>

 <ラッパー>

 <かわしま>

 <ゆーめん>

 <えみし>

 <黒帝>

 <さちこ>

 <ニャンちゅう>

 <りんご>

 <はちべェ…>

 <ちえみん>


◆ゼミ用語集(別窓)



(2)12年度卒業論文 目次案・概要

 <セシル> 1 / 2 / 最終版

 <ミシェル> 1 / 2 / 最終版

 <まいまい> 1 / 2 / 最終版

 <まゆゆ> 1 / 2 / 最終版

 <ラッパー> 1 / 2 / 最終版

 <かわしま> 1 / 2 / 最終版

 <ゆーめん> 1 / 2 / 最終版

 <えみし> 1 / 2 / 最終版

 <黒帝> 1 / 2 / 最終版

 <さちこ> 1 / 2 / 最終版

 <ニャンちゅう> 1 / 2 / 最終版

 <りんご> 1 / 2 / 最終版

 <はちべェ…> 1 / 2 / 最終版

 <ちえみん> 1 / 2 / 最終版




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<かわしま>



第1章 試行錯誤の春


1-1 ゼミメーリスの重要さ

 1月ごろに長谷川先生から連絡を頂き、私はゼミ長をつとめることになった。ゼミ生はみんな、授業中に印象にのこる発言や発表をしていた人たちばかりで、このメンバーとどんな活動をしていけるのかを考えると、4月のスタートが待ち切れなかった。
 私がこの頃ゼミ長の役割として決めたことに、誰よりも先にたくさん行動するということがある。12年度長谷川ゼミの活動は、4月の授業開始に先立って稼働したゼミメーリスから始まった。メーリスでは、春休み中に取り組む課題の提案や、4月から必要だと考えられる役職案をリスト化し検討するなどのやりとりが交わされた。加えて、週に一度近況や課題の進捗状況などを報告する「経過報告」を行った。私は頻繁に返信をするように意識し、自分で定めた「とにかく動く」という役割を実践することを心掛けた。
 ゼミでは1年間を通して、卒論執筆以外にも多くのプロジェクトを行った。複数を同時進行するような時には、作業やスケジュールが混乱しがちである。そんな時にはメーリスで頻繁に状況を確認し合い、整理することで、目の前のことに集中できる環境を作ることができた。春休み中のメーリスは今読み返すと内容としては乏しいものであったが、この時期にメーリスを頻繁に使ったことが、以降のゼミ活動の充実に大きく貢献していると思う。


1-2 ホームページの製作(1)

 初回ゼミ時に、12年度長谷川ゼミは、時に応じて2つのチームに分かれることを先生から提案された。これはゼミブログの更新を各チームで週1回ずつ担当することで、ゼミ生全員がある程度頻繁に記事を担当できるようにするためであった。また、ゼミ長はどちらのチームにも属し、属さないでいることをアドバイスとして頂いた。私なりにその意味を考え、各チームでの話し合いの際には2つのチームを行き来して、それぞれの話し合いの様子をよく把握しておくようにつとめた。
 4月からの活動で私たちがはじめに行ったのは、ゼミサイトの制作であった。ブログ更新時以外にも必要があれば、2つのチーム分けを活用することも検討されたが、ホームページは全員で1つのものを作ろうと考えていた。水曜3限のゼミの時間は、これからの活動計画や現在の活動の報告であっという間に終わってしまう。ホームページ作成の話し合いを行うために、授業時間外に自主的に集まる必要があった。
 ゼミ生15人でラウンジのテーブルを囲んで、何度も話し合いを行った。しかし、4月の内にはデザイン案ひとつも決められない状態であった。人が集まらない、意見が出ないということはなかった。大人数での話し合いに不慣れだったのである。自分たちのホームページなのだから、隅々までこだわり抜きたいという思いがあった。そのため意見は出るものの、全員が納得するような「これだ」という案に固まっていかない。
 私はゼミ全体をまとめていく立場であるということから、ゼミ生が集まった機会をうまく活かせないことに焦りを感じていた。話し合いを進めるために、自身も議題について精いっぱい考えて意見を出すよう心掛けた。しかし、そればかりをしていると、話し合いをまとめるという視点が持てなくなってしまう。2つの視点の切り替えがうまくいかず、話し合いをどのように進めて行けばよいのか悩んだ。
 時間を区切って話し合う、2つのチームに分かれて話し合う、次回の話し合いまでに考えてくる課題を設けるなどの工夫を試みた。結局、ホームページの製作には着手できないまま、4月末にひかえた第1回発表の準備に集中すべき時期になり、ホームページ作成の話し合いは一度置いておくことになった。


1-3 第1回発表(4月下旬)

 私たちはテーマ発表に向けて、それぞれの関心について話を聞いたり、それについてコメントをしたりする時間を作った。「雑談が大事」ということは、ゼミが始まって以来先生に何度も言われていた。3年次の集中講義でも経験したように、物事は自分ひとりではある一面からしか捉えられないものである。しかし、他の人の意見を聞くことで、今までに見えていなかった側面が明らかになっていく。発表時までにそれぞれの関心をより多面的にとらえるために、ディスカッションを行った。また、スムーズな発表の場を自分たちで用意するという意識を持って、発表で用いる機材の動作確認や教室の手配など、役割を分担して準備を徹底した。
 私は「身体と街のコミュニケーション」というタイトルで発表の用意をした。趣味である「観劇」「合唱」「街歩き」などの経験を通して、「私たちは身の回りのものから常に正しいふるまい方を読み取り、それらの期待どおりに行動しているのではないか」と考えるようになった。私は、自分が意識できない部分で、自分の考えやふるまいがなにかに管理されているような「心地わるさ」を感じることを語った。では、日々の生活の中で感じられる期待による「心地わるさ」とは、どこから発せられているものなのだろう。私は、自身の暮らしや関心に大きく関わっていると考えられる、東京という「都市」が気になっていた。「心地わるさ」の正体は「都市」にあるのではないかと考え、「都市」について考えてみたいということなどを発表した。 ディスカッションではゼミ生からの質問や意見をもらい、先生からの個人講評では「規範」(意識的)と「慣習」(無意識的)なものの仕方の区別についてなどの整理をして頂き、「どんどん勉強していくように」とコメントを頂いた。
 全体講評では先生から「わりに率直に話せていた」「まずまずの善戦」とコメントを頂きひとまずほっとした。発表全体の進行も、事前の準備の甲斐あり全体の集中力が途切れるような滞りはなかった。自分たちで発表の場を準備し、無事終えることができたことは、小さな自信となった。
 また、発表終了後には先生から思いがけぬ提案もあった。それは、12年度ホームページを2つ作るというものである。2つのチームそれぞれでページを作成し、ゼミ長である私は個別にページを作ることになった。

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第2章 何事も自分の力にする


2-1 ホームページの製作(2)

 第1回発表が終わり、2チームに分かれてのホームページの製作と、「関心地図」の製作を再開させた。
 私はゼミ長としてどちらのチームにも属し、属さず2つのチームを行き来していたので、それぞれの話し合いには断片的にしか参加できなかった。そのため話し合いの内容を連続的に把握することはできなかったが、話し合いの進み方が変化していくことに気付いた。はじめは停滞しがちだった議論が、話し合いを重ねるごとにスムーズになっていく。誰かがどこかで妥協をするからではなく、話し合いの中身は濃いままに、チーム7人でのものごとの進め方のリズムができていったためであった。何度もねばり強く議論を重ねることで、チームなりの進め方ができていく過程に気付いたことは、私にとって大事なことであった。
 4月の頃の私は、話し合いの停滞という問題を前にして、焦っていたのだと気付いた。誰か1人が「とにかく動く」だけでは、ゼミはまわっていかない。2つのチームの活動において、とにかく動いているゼミ生を見たことで、私が抱えていた焦りはいつしか無くなっていった。他のゼミ生がそれぞれの班活動に取り組む分、私は全体を把握するような役割となろうと思った。このホームページの製作を通して、自分なりのゼミでの役割を掴んだように思う。このことは、私が製作した個別ページ「ゼミ長の部屋」のコンセプトにもなった。


2-2 第2回テーマ発表(6月中旬)

 ホームページは予定どおり5月中旬に開設され、下旬には各チームの「関心地図」が完成した。その後は、7月に行われるフィールドワークの準備や、『アトラクションの日常』講読を進めながら、6月中旬には第2回テーマ発表が行われた。
 私は第1回発表から引き続き「都市」を扱いたいという考えのもと、より具体的な事象や自分の経験に則して発表を行おうと考えていた。しかし、「都市」というキーワードについて考えが深まっていかず、用意できた発表は具体性を欠いたものになってしまった。
 私にとって切実であり論文を通して捉えなおしたいものとは、第1回発表時から変わらず「心地わるさ」であった。自分のふるまいや考え方が何かに管理されているように感じ、不安になる瞬間がある。そう感じさせるものの正体が、「都市」にあるのではないかと考えていた。しかし、そのように感じた経緯や体験について話そうとしても、上手く説明することができずにいた。
 そうなってしまった理由として、ひとつ目に、第1回発表後からの1か月半、文献を読むなどの勉強を怠ってきてしまったことが挙げられる。同時期に進行していたプロジェクトを言い訳にして、個人の課題に取り組んで来なかった。ふたつ目に、「都市」というキーワードは大きすぎるということがあった。「都市」という言葉だけが、私にのしかかっている状態であるということを、ゼミ生や先生に指摘して貰った。今後考え進めていくためには、「都市」で起きる具体的な「手続き」を観察して捉えること、また、どう疑問を持つかが重要であるとアドバイスを頂いた。
 全員の発表後に行った反省会では、前回の発表から1か月半の期間があったにも関わらず、全体としてテーマについて考えが深まっていないことが反省として挙げられた。ホームページの製作や全体での文献講読を行っていたことをどこかで言い訳にして、テーマ発表に向けての取り組みが疎かになってしまったことは、本末転倒の事態であった。改めて「卒論を書く」というゼミの目的を見直した。
 テーマ発表が終わると、『アトラクションの日常』講読と並行して、7月中旬のフィールドワークに向けての準備を進めた。しかし、4月から進めていたフィールドワークの準備は、行き先が「上野公園」に決定して以降、停滞していた。今となって、フィールドワークは卒論執筆のためにもっと活かせる機会だったと考えるようになったため、この時の紆余曲折を次項で詳しくふりかえりたい。


2-3 フィールドワークでの反省

 4月から取り組んでいたフィールドワークの準備は、5月には「上野公園」「上野動物園」に行き先が決定した。以降、私たちは「上野公園で何を調査するか」について何度も話し合った。しかし、なかなか上野について知りたいことや、行いたい調査案が出てこない。この頃の案は、「上野公園の利用者の行動を調べる」「上野の歴史を調べる」など漠然とした、ありきたりなものであった。話し合いの報告をするたび、先生からは「なぜ上野でなければいけないのか」「案を出しておけばいい、という風に見える」などのコメントを受けた。
 話し合いが停滞していた理由は、今となっては明白である。私たちは4月の段階から、フィールドワークの行き先を決めることばかりに気を取られていた。「上野公園」「上野動物園」がフィールドワーク先に決まったのも、歴史があり調べがいがありそう、動物園を違った視点から見てみたいなど、理由とも言えない理由からであった。問題意識があってこその実地調査であることを意識せず、なんの疑問も持たず行き先だけを決めてしまったのである。そのような姿勢では、疑問は後付けの「でっちあげ」になるしかない。しかし、でっちあげた疑問などは、ゼミで取り組むべき課題ではない。
 7月上旬まで話し合いが停滞した結果、先生の提案で、何を考えたいかは横に置いておき、まずは調査当日に対象物を漏らさず記録・マッピングするという「悉皆調査」を行うことに決定した。以降、当日に至るまでの数日間は気持ちを切り替えて、調査が円滑に行えるように準備やシミュレーションを行い、充実した調査に繋がった。
 このフィールドワークには、卒論執筆のための事前演習として活かせる要素が多く含まれていたはずだ。そのように思ったのは、自身の論文テーマが決まり、実際に題材にあたって執筆しはじめてからである。フィールドワークで私たちが行き詰っていた、「どのように疑問を持つか」「題材をどのように調査するか」という点は、論文であれば核となる部分である。その核を考えることや、上野の事前勉強で行った「参考文献のリスト化」「事前の現地調査」などは、自身の論文であれば、他でもない自身の力で取り組まなければいけないことだ。いかに当時の私たちが「受け身」の姿勢であったか、実際に論文に取り組んだ今は理解ができる。
 ゼミでは、無駄な取り組みはひとつもない。反対に、いかなる取り組みも、自分の力にできるかどうかはすべて自分次第である。目の前の課題を、いかに自分の力にするか。このことはゼミの場に限らず、いかなる場面においても持ち続けていたい姿勢である。

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第3章 テーマに迷走する夏


3-1 第3回発表(8月初旬)

 フィールドワークを終えて、前期のゼミは終了した。ここからは、8月初旬の第3回発表に向けての準備を本格的に進めた。ゼミ合宿で行われるこの発表は、卒論のテーマ、もしくは題材の決定を目指すものである。しかし、私は夏合宿が終了した時点で、テーマ・題材ともに決定には至らなかった。
 私は第2回発表以降、改めて自分の体験から「都市」について考え進めていくことにした。そこで手がかりとしたのが、自身の「街歩き」の経験である。私はかねてより、東京の街を歩くことを楽しみのひとつとしていた。それはこれまでにも述べたことはあったが、今回はさらに自分の「街歩き」について詳しく思い起こして発表した。
 私の「街歩き」の楽しさは、さまざまな雰囲気を持つ東京の街を、次々と眺めて歩くことであった。私の「街歩き」は、たとえば、3年次の「メディアアート論」で行った「トマソン」 (*1)を探して、同じエリアを周回するようなものではない。「トマソン」探しには、生活の色濃い住宅街などが良いだろうが、私の場合は整った国道沿いをまっすぐ進み、ランドマークや街の雰囲気を楽しむことが「街歩き」であった。しかし、考えてみると街の雰囲気というのは、マスメディアなどによって提示される「イメージ」である。私はその「イメージ」を、現実として見ていた。つまり、私が見ていた「都市」とは、イメージとしての「東京」なのではないだろうか。私が見ていた「東京」のイメージは、何によって作られているのかが気になる、という発表をした。
 だが、同時に「私が書くべきものは本当にそれなのか」と思っていた。むしろ、それではないだろうという気持ちでいた。私の関心の根本にあるものは、第1回発表時から変わらず、ふるまいや考え方にこびりついた「心地わるさ」であった。だがそれについては相変わらずうまく言葉にできないということや、発表の前半で話したイメージとしての「東京」で論文を書くことに迷いがある、ということを話した。
 発表後のディスカッションでは、「もっと自分の話をするのが良い」というアドバイスを貰い、テーマや題材の決定は置いておくことになった。確かに、今回の発表は「街歩き」の話が主にあり、以前に発表で挙げていた趣味の「演劇」「合唱」について、自分の具体的な体験は話したことはなかった。すべて話し尽くしたところで、それらに共通する点などに気付けるのではないか、というアドバイスであった。
 しかし、自身ではこれまでの発表でも素直に「自分の話」をしようとつとめていたため、ゼミ生からの指摘は意外だった。だが、「自分の話」をしようとしていたつもりになっていただけかもしれない。そう思い、貰ったアドバイスを活かそうと考えた。夏休みの間は、ゼミ生と会って「自分の話をする」ことを心掛け、後期ゼミで行われるテーマ発表に備えることにした。


 3-2 夏期集中講義

 合宿が終わると、3年生の必修授業である「芸術メディア論特別演習」の運営を行った。4年生の役割は、講義を円滑に進行させ、3年生が集中して課題に取り組める環境を作ることである。私は、現場全体を見渡し、4年生と先生とのやりとりを繋ぐ「統括」を担当した。7月から思いつく限りの準備をしたが、滞りなく講義をサポートできるかという心配と緊張が絶えなかった。結果としては、準備の成果も発揮でき、3年生が熱心に取り組む姿にも助けられたことで、つねに万全の態勢を整えることができたと思う。
 集中講義における私の「統括」という役割は、ゼミにおける「ゼミ全体の状況を把握する」というゼミ長の役割と似ていた。班活動が中心だった前期のゼミでは、「全体の把握」が自分の役目だと思ってはいたが、それがゼミにおいてどのように重要なのかはよく理解できていなかった。だが、集中講義の機会を通して、全体を見渡す役割がひとつあることで、他の役割につくメンバーが各自の仕事に集中できる環境をつくる助けになるのではないかと考えた。自分が実際にそのような役目を果たせたかどうかは分からないが、今後もし似たような役割を持つ機会があれば、この気付きを活かしたい。


3-3 第4回発表に向けて

 集中講義運営の成功は、ひとつの自信をもたらした。しかし、集中講義の後、夏合宿で決定に至らなかった論文テーマについて考えようとすると気持ちが沈んでいった。私は、夏合宿で貰ったアドバイスが気にかかっていた。私には、やはり自身がこれまで「自分の話」をしてこなかったと思えなかったのである。だが、夏合宿で指摘して貰ったように、自分の体験談や好きなものの話はあまりできていないことは事実であると思った。
 自分の体験談を思い返す一方で、夏休みの時間を活かしてこれまでに「自分の話」として何度も語ってきた「心地わるさ」の正体についても考え進めようとした。しかし、具体的に何についてどのように取り組めば、その「正体」のようなものに迫れるのか分からずにいた。考えが深まらないのは、自分がこの問題について考えているようで、実はなにも考えてこなかったからかもしれないという不安に直面した。考えるほどに、この問題が自分にとって本当に切実な課題であるのか、分からなくなっていった。
 10月の頭の第4回発表は、夏合宿時にテーマや題材が決まったゼミ生は、夏休み中にどのようなことを調べて考え、書いたかを発表する場である。私は、ここでテーマか題材のどちらかを決めなくてはという気持ちがあった。そこで一度、深まっていかない「自分の話」は思い切って置いておき、自分が「好きなもの」と、そこから考えたことについて発表しようと決めた。
 夏合宿時には取り上げなかった「演劇」を見始めたきっかけや、どのようにのめり込んでいったかについて整理した。また、これまでは触れなかった「アニメ・ゲーム」や、それにまつわることについても発表で取り上げようと考えた。今更ではあるが、第1回発表の時点に立ち返り、第3回発表までの過程を辿りなおすつもりでいた。

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第4章 自分の論文を書くのは自分


4-1 第4回中間発表(10月初旬)

 第4回発表で、私は大きく2つのことについて話した。ひとつ目は、なかなか深まっていかない「自分の話」を、一度置いておくことにした経緯について。ふたつ目は、「好きなもの」の話からテーマに再び迫るための話である。
 その話とは、私の趣味である「観劇」「アニメ・ゲーム」を入り口にしたものである。私は中学時代から舞台の鑑賞を趣味としていた。私の観劇の楽しみは、物語やキャラクターを楽しむことだった。その楽しみはインターネットサービスによって支えられてもいた。観劇レポートをSNSに投稿して同じ劇団のファンと交流することや、作品の世界観を引用した二次的創作をすることなどが、私の楽しみの一連を成していた。そのうちに、私にとって「演劇」は、物語やファンとの交流を楽しむものでは無くなっていくのだが、代わりに好むようになっていったのが、アニメやゲームだった。これらもやはり、物語やキャラクターを通じてファン同士が交流できることが楽しみであった。
 それと同時に、アニメやゲームにのめり込んでいく自身を、疑問視する自分もいた。私にとってこれらの趣味は、与えられた楽しみをそのまま受け取るだけのものであるように感じられたのだ。それが心地よくもあると同時に、予定調和的な楽しさに絡め取られていく自分に、どこか不安も覚えていた。この両義的な体感とはどのようなものかを把握するために、私が「心地よさ」を覚えていた、作品を核としたファン同士の関係を捉えなおしたいとまとめた。自身がプレイしていたゲームとそれにまつわるファン同士のふるまいを捉えたいと発表した。
 これらの話は、自身の具体的な体験や感情に則したものであると思っていた。ただ、自身の「わかりやすい」部分だけを掬いあげたような話であるとも感じていた。その迷いは発表後に指摘された。今回の発表は私の年頃の学生が言う「よくある話」になってしまっており「つまらない」という指摘であった。
 そして、本当にこのテーマで論文が書きたいのかを問われた時に、私は答えられなかった。やはり一度置いておいた「自分の話」が気になっていた。自分が相手にしなければいけない課題は、今回発表したような「わかりやすい」所ではなく、もっと水面下にあるはずだとコメントを頂いた。
 ゼミ全体としての第4回発表は、夏休みにそれぞれが着実に取り組んだ形跡が見られる、濃いものであった。反省会では、引き続き互いの進捗状況を頻繁に確認し合うことと、メーリス上で「経過報告」を行うことを決めた。これは夏休み中にもメーリス上で行われていたものであり、1週間の取り組みや、次週までの目標などを報告し合うものである。先生からは、「引き続き中だるみせず、必死にやるように」との講評を頂き、第4回発表は終了した。


4-2 自分のテーマと『東京人』

 第4回発表後は、テーマについて考えながら、論文を書く機会を自分にとってどのようなものにしたいかについて考えていた。テーマも題材も決定には至らなかったが、用意した発表が「つまらない」と指摘されたことは重要なことであった。私がずっとこだわりながらも諦めかけていた問題に、それでも取り組むべきだと言って貰えたということだからだ。自身でも言葉にできないようなことを、この機会で書ききることはできないだろう。だが、私にとって「心地わるさ」的なるものは、今後ずっと立ち向かっていく問題だろうと思い、この論文はそこに向かっていくための第一歩として活かしたいと考えた。
 第4回発表の1週間後、先生からの後押しにより、私は論文の入り口として、第3回発表で詳しく述べた「街歩き」を用いることになった。「街歩き」というキーワードのもと、いかに「東京」という都市が語られているかを追うという取り組みだ。「東京」を追うために題材を絞る必要があるというアドバイスから、雑誌『東京人』を扱うことになった。雑誌『東京人』は、2012年12月号までで全319号が出版されている月刊誌である。まずは一定程度の資料に目を通し、資料からどのようなことが言えるかを見ていくことにした。


4-3 第5回中間発表(11月下旬)

 『東京人』の創刊は、1986年である。創刊から5年分ほど読んだあたりで、「東京」の語られ方に変化があることに気付いた。この変化は、『東京人』がどのように「東京」を捉えたいかの変化であるということができる。私は、『東京人』が捉える「東京」イメージの変化を、『東京人』の時代ごとの特徴を記述することで追うことにした。11月末の第5回発表では、『東京人』26年の流れを雑誌のどの記事を用いて論じていくかを発表しようと考え、11月中は雑誌を読み進めた。
 しかし、発表直前に問題にぶつかった。「東京」イメージの変化を、実際に記事を引用して書いてみようとすると思うように書けなかったのだ。11月中は記事の収集を行うことが先決だと考えていたが、実のところどの記事を用いるのが適切なのかがよく分からないまま、雑誌を読み進めてしまっていた。それでも書いてみようとすると、記事をただ紹介しただけの文章になってしまう。これでは『東京人』を、論文上に再構成するだけになってしまう。発表ではこのような現状も含めて報告をした。
 発表後には、論文の構成上のアドバイスを頂くことができた。加えて、私自身が『東京人』に書いてある「東京」を真に受けすぎていることも指摘して頂いた。雑誌に書かれている「東京」イメージは決して東京という都市の本質ではない。この点が、まだ私の中で整理できていないという指摘であった。助けになるアドバイスを頂けたが、思うように論文が書けないという問題にぶつかった理由は、もっと根本的な部分にあったことにこの発表の後に気が付いた。
 第5回発表は、ゼミ全体に大きな課題を残すものになった。先生の全体講評では、ゼミ全体として執筆量が少なく、「必死」に取り組んでいるように見えないという厳しい指摘を頂いた。私自身も、雑誌を読み進めていることで満足して本文を書き進めていなかった。記事の選択に不安があるという問題は、自分の論文は何を明らかにしたいものなのかという、主題の把握ができていないことに関わる。だが、自分がいかに論文を書けないかということは、まず一度まとまった量を書かなれば把握できないのである。残された時間は決して多くはない11月末という時期になって、ようやく自分の姿勢の甘さと、論文の完成からはほど遠いところにいることに気が付いた。
 第5回発表を終えて、12月になった。いくら反省をしたところで、自分の論文を書きすすめるのは自分しかいない。私がこの大学で学んできたことは、適当なところで手を抜くことでは決してなかったはずだ。3年間学んできたことと、ゼミでの1年の努力を形にするために、気持ちを入れ替える必要があった。手を止めている時間を作らないよう、納得のいかない文章であっても、資料を見てひたすらに執筆し続けた。

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第5章 執筆の苦しさと楽しさ


5-1 自分のペースで書く

 12月からは、『東京人』の26年間の変遷を、時代区分しながら追う第3章と、「東京」イメージの変遷を検討する第4章の執筆を主に行った。
 これらの章を執筆するにあたっては、まずは雑誌にどのようなことが書かれているのかを確実に捉えることが必要である。しかし、それだけでは『東京人』の言説を再現することになってしまう。題材を相対的に見るために、そこに書かれていることの持つ意味をあらゆる角度から捉えて論文に反映させるよう、常に意識しながら執筆した。
 この頃の執筆が、私にとっては最も苦しかった。自分は『東京人』の言説を再生産しているだけかもしれない、これを書くことでいったい何が考察できるのだろう、などと、不安ばかりが頭をよぎり執筆の手が止まった。だが、悩んで手を止めたり、小手先の修正をしたりしている時間はなかった。年末のゼミ内提出まで、資料を見られる限り見て論文に反映させることが先決であった。自分の力のなさを感じながら執筆を続けることは辛いことであった。
 そのようにしながらも執筆を進めることで、12月半ば頃からは自分なりのリズムを掴み、行き詰った時の策を立てられるようになってきた。例えば、目次を出力していつも目に見えるところに置くことで、自分が今、論文のどの部分に取り組んでいるのかが把握しやすくなった。また、書き終えた項目を二重線で消していくと、確実に書き進めていることが目に見えて分かり意欲が高まった。資料の多さに圧倒されそうな時には、パソコンから手を離してノートに執筆すべき事項とその流れをメモにした。そうして見るべき資料や書くべきことを明確にし、メモをアウトラインにして執筆した。
 執筆中には、「他にも書けることがあるのでは」「この記事も資料として足せるのでは」と考えが移ろうこともよくあった。だが、ゼミ内提出の24日までは目次として組み立てた項目を一度書き終えることを優先させ、ひとつひとつの項目を着実に書き終えることに集中した。


5-2 自分の論文を捉えなおす

 自分のペースで毎日執筆を進め、ゼミ内提出であった12月24日には一通りの内容を書き終えることができた。しかし、これまでに書いた本文を出力して読んでみると、『東京人』が提示する「東京」を、東京の本質であるとするような見方が表れている記述が、何か所も見つかった。そのような見方のままで明らかにしたことは、『東京人』の再生産でしかない。私の論文は、ここからの書き直しによって提出時の形になっていった。本文を読み直す度に、『東京人』の見方からしか物事を捉えられていない自身に気が付いた。読み直しと書き直しを繰り返すことで、徐々に自分の論文の主題が掴めるようになっていった。
 また、ゼミ内提出以前はひたすらに資料を論文に反映させることに集中していたため、章の役割や、章同士の関係を考えたのもこの時期であった。章に役割を持たせることで、論文の内容がひとつながりのものになり、それぞれの章で論じることと結論付けるべきことが明らかになっていった。この頃は朝から晩までパソコンにかじりつく日々だったが、修正を施す度に自分の論文に血がかよっていくように思えて、毎日が楽しかった。
 このようにして、卒論提出日に向けて毎日同じ生活リズムを心掛けて執筆を行った。自分の執筆リズムを乱さないように、目の前のことだけに集中できるようスケジュールを整えて、ひとつひとつ実行していった。提出前夜には、綴じられた2冊の卒論が完成していた。


5-3 卒論提出と口頭試問

 論文提出の朝はどこか心が落ち着かず、リュックに2冊の論文が入っているか、登校中の電車内で何度も確認した。大学の卒論提出1日目のうちに、ゼミ生全員が卒論を提出することができた。
 毎日取り組んできたものが急に手を離れたことで気が抜けそうであったが、執筆の手ごたえが残っているうちに口頭試問の準備に取り掛かった。章の内容とつながりを解説し、なにを明らかにした論文であるかが明確に伝わるよう心掛け、発表のための原稿を作成した。
 口頭試問では、高い評価を頂くことができた。私が最も不安だったのは、題材である『東京人』を多角的に読み解き論文に反映させることができているかであったが、その点も評価して頂くことができた。反対に視座が欠けている点もあった。かつては東京都の雑誌であった『東京人』の、行政や経済の力による内容への影響を捉えることも重要であったと指摘して頂いた。
 また、論文完成に至るまでの過程についてもコメントして頂いた。私が「街歩き」を入り口にして『東京人』を題材にして論文に取り組むことになった経緯は、ほとんどが先生からの後押しによるものであった。しかし、『東京人』という題材を活かして、取り組むべきテーマや方法を自分で掴んだことは重要であったと言って頂けた。
 最後の章では、自分にとってこの論文を書いたことはどういうことだったかを考えてみたい。

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第6章 まとめ

 私がこの論文を書きながら感じていたのは、私たちはいかに「イメージ」を見ることに従順になってしまっているかということだ。1本ではあるが論文を書き終えた今、私が4月からこだわっていたテーマについても、わずかながらに言葉を与えられるのではないかと思う。私が感じていた「心地わるさ」とは、ものを考えたり、ふるまったりするときの「従順さ」だったのだろうと思う。
 今回執筆した「雑誌『東京人』に見る「東京」イメージの変遷」を通して指摘したことのひとつに、『東京人』がカタログ化していく過程がある。東京の街が、時間や空間という文脈から切り取られ、紙面上に羅列されるようになるのだ。では、私たちはこのカタログ化をどのように理解すればよいのだろうか。これについては論文内では先行研究を引用し、雑誌のカタログ化は、私たちの認識の「カタログ化」でもあると述べた。
 私たちのものの認識の仕方は、いつも社会的に規定されている。それは法律のような規範としてではなく、日常的な実践をとおして身体に内面化される慣習としてである。たとえば今回論文で指摘した「カタログ化」は、ケータイ・コミュニケーション以降の私たちのものの認識の仕方として理解することができるとした。先行研究として参照させて頂いた、北田暁大氏の〈つながりの社会性〉概念では、ケータイ以降のコミュニケーションにおいては意味内容が正確に伝達されることよりも、意味内容はどうあれ接続されているという事実こそがその関係性を可能にする。そのような慣習において、都市空間は「ネタ」でしかない(*2)。
 このような理解が可能な事象は、私たちの身の回りを思い浮かべれば他にもいくつもの例が挙げられるだろう。そして、私たちの「現実」をつくっているのは何もケータイだけではない。私たちが利用する「発明品」は、遡るのであれば、言語、貨幣、書くこと、などに始まり、現代にいたるまで無数に挙げられる。それらを用いた実践のひとつひとつが、私たちが認識する「現実」を構築している。しかし、だからと言ってそれに「従順」になることを否定することも、完全に「従順」でなくなることも不可能である。私たちにできることは、そのようにして構成される「現実」を、自らの力で広く認識していくことのみだ。
 そう考えると、取り組んでいきたい課題はまだまだ山のようにある。もし、今回の論文の続きを書くならば、今回は中心に置けなかった「街歩き」から考えてみたい。例えば、90年代以降の「街歩き」の仕方はどのように理解されているかを、やはり雑誌などを用いて追ってみたい。推論ではあるが、2000年代以降、私たちの都市空間の把握の仕方は、「面」ではなくより「点」的になっているのではないだろうか。また、全く別の題材を入り口にしてものを考えることもしてみたい。入口は違っていても、関心はいずれも私たちの「現実」の認識の仕方を捉えることに繋がっていくだろう。それが、私が取り組みたいテーマなのだと今は思う。
 たった1本論文を書いたことで、「従順」なものの見方をいつも相対化することができるようになったとは決して言えない。しかし、先生やゼミ生のサポートのもと試行錯誤を重ねて書いた論文や、ゼミ活動で行ったことが、自らに内面化された「ものの見方」を解体していくプロセスをいつも思い出させてくれる。今後、いかなる場面においても、このゼミでの経験のすべてがいつも自分自身の指標となるはずだ。

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*1 トマソンの「発見者」である赤瀬川原平は、次のように述べている。「トマソンとは町の各種構造物に組込まれたまま保存されている無用の長物的物件」である。(赤瀬川原平、『路上観察学入門』、ちくま学芸文庫、1993年、13頁。)
*2 北田暁大『広告都市・東京――その誕生と死』(ちくま学芸文庫、2011年。)