「2012年度長谷川ゼミの軌跡」



(1)振り返りレポート

 <セシル>

 <ミシェル>

 <まいまい>

 <まゆゆ>

 <ラッパー>

 <かわしま>

 <ゆーめん>

 <えみし>

 <黒帝>

 <さちこ>

 <ニャンちゅう>

 <りんご>

 <はちべェ…>

 <ちえみん>


◆ゼミ用語集(別窓)



(2)12年度卒業論文 目次案・概要

 <セシル> 1 / 2 / 最終版

 <ミシェル> 1 / 2 / 最終版

 <まいまい> 1 / 2 / 最終版

 <まゆゆ> 1 / 2 / 最終版

 <ラッパー> 1 / 2 / 最終版

 <かわしま> 1 / 2 / 最終版

 <ゆーめん> 1 / 2 / 最終版

 <えみし> 1 / 2 / 最終版

 <黒帝> 1 / 2 / 最終版

 <さちこ> 1 / 2 / 最終版

 <ニャンちゅう> 1 / 2 / 最終版

 <りんご> 1 / 2 / 最終版

 <はちべェ…> 1 / 2 / 最終版

 <ちえみん> 1 / 2 / 最終版




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<ニャンちゅう>



第1章 2月から4月


 私が卒論ゼミを取ろうと思ったのは、「もっと勉強がしたい」と思ったからだった。大学に入ってメディアの授業に出会い、初めて面白いと思える勉強に出会えた。そのことが嬉しかったのだ。この頃は、自分が卒論を書くということに対して、漠然とした想像しかしていなかったと思う。
12年度長谷川ゼミ生全員が初めて顔を合わせたのは、11年度長谷川ゼミ生の口頭試問のときだった。その時に先生からゼミの概要と春休み中の活動について説明を受けた。その後は直接集まることはなく、2月と3月のゼミ活動は、メーリスを使って行われた。
 最初にメーリス上でやりとりを始めた時は、ゼミ生との距離が取れず、他のゼミ生の出方を伺ってあまりメーリスを送れない時期があった。同期のゼミ生とはほとんど顔見知りではあったが、<かわしま>と<さちこ>以外とはあまり深く話したこともなかった。そのため私は、ゼミ活動に積極的に関わりたいが失敗はしたくないと思い、様子を伺いながらメーリスに返事をしていた。しかしその点は先生にしっかりと見抜かれていた。その後、<えみし>の提案でメーリス上での簡単な自己紹介が行われ、そこでゼミ生一人ひとりのことを知ることができた。おかげで、メーリス上でのやりとりしかしていないのに、距離はぐっと縮まったような気がした。私は、この自己紹介のおかげでメーリスに対して臆することが無くなったと思う。
 春休み中には、初めてのゼミ課題が3つ出された。1つめは『暗黙知の次元』を読み要約すること、2つめは本を一冊選び要約すること、そして3つ目が「好きなことを15個あげ、それについてコラム(関心コラム)を書き、それらを配置して関心地図を作る」というものだった。3つ目の関心地図は、メーリス上での活動が始まった2月上旬頃、先生が自分たちで春休み中に行う課題についてアイディアを募ったことから始まった。一人ひとりゼミが始まるまでにやってみたい課題を考えてメーリス上で提出し、それを踏まえて先生が私たちに提示した課題だった。ゼミ生全体の「関心地図」を作ることが最終目標だった。
当初私は、「関心コラム」好きなこと15個なんて、考えればすぐに出てくるだろうと思っていた。しかし、実際に思いついたものを並べてみると、4つほど考えたところで手が止まってしまった。このままではまずいと思い、好きだと思うことを紙に羅列して書いてみた。しかし書いていくと、「これは本当に自分が好きだと思うことなのだろうか?」と考えてしまい、なかなか進まなかった。さらに、候補にあげたものについて実際にコラムを書こうとすると、自分がそれについてほとんど考えていなかったことに驚いた。そこで初めて、自分が好きだと思っていたものはそれほど好きではなく、またそれについて疑問を持ったり深く考えたりしたことが無いということに気付いた。
 
 この「関心コラム」を通して、何かに関心を持ったり疑問を抱いたりするときは、それについて深く考え、客観的に見つめ直すことが大切だということを実感した。実際この「関心コラム」の1つが卒論テーマになった人もいるし、全く違うものになった人もいる。私の卒論の題材はいじめであったし、友達関係についてなんてこの「関心コラム」では全く触れていない。しかし、ここで一度自分の関心の持ち方に関して見つめ直すのは、良い機会であったと思う。3月31日は『暗黙知の次元』や自己課題図書の要約、関心コラムと関心地図の最後の仕上げと提出に追われていた。特に30日、31日の2日間は、みんなの課題提出ラッシュでメーリス上が賑わっていた。私は課題をギリギリまでやらない癖があり、この時もなんとか締切までに終わらせようと半泣き状態になりながら必死で課題を行っていた。しかし、私はこの最初の課題の提出期限を守れなかった。正確には、3時間ほど遅れた。私は今でもときどき遅れて返事をしたり、期限を超えて提出してしまったりすることがある。これは私の今後の課題であり、直すべき重要な点だと思う。
 春休みが終わり、4月に12年度長谷川ゼミ生が改めて顔を合わせ、本格的にゼミ活動が始まった。ゼミの班分けや今後の予定について確認された。自分にとっては未知の体験であるゼミ活動に、私はとてもワクワクしていた。しかし、さっそく壁にぶち当たる。それは、ゼミのブログが始動し、私が初めてブログを書いた時だった。初めて書いたブログの原稿が「内容が薄い、もっと書くべきことがあったはず」と先生に差し戻されてしまった。当時まだ文章を書くのが下手くそで、何のためにゼミでブログを書くのか、知らない人へ向けた文章を書くとはどういうことなのか、ということもきちんと意識できていなかったので仕方ないことだと思う。しかし、不安ながらも一生懸命書いたつもりだった原稿が全面書き直しになったのは本当にショックだった。何を書いてもまだダメなんじゃないかと不安になり、遅くまで学校に残り、ゼミ生みんなに添削してもらい泣きながらブログを書いた。
 4月の25日、26日に初めての発表が行われた。この発表に向けて、ゼミ生に自分のことを話し、またゼミ生から色んな話を聞いた。ぼんやりとしていたゼミ生の輪郭が、よりくっきりと見えるようになった。メーリス上とゼミの活動日にしか会っていなかったゼミ生とは、この話し合いでよりぐっと距離を縮められたと思う。この時先生からは、「とにかくなんでもいいから集まって話すこと。くだらない話でも良い」というアドバイスを頂いていたので、私は暇を見つけては学校に向かってみんなと話をようにしていた。
 そして発表では、私は「変身少女」について語った。具体的な作品をあげ、それに対する疑問や考えを発表した。その際、自分の人生と照らし合わせて考えすぎたため、「自分と題材が癒着している」というアドバイスを貰った。これは、自分と題材との間に距離が取れていないということである。これは、この一年間私が一番戦ってきた課題だった。

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第2章 5月から6月


 5月から6月にかけて行われたことの中で、「班別のホームページと関心地図の作成」、「フィールドワークの場所決定」、「『アトラクションの日常』講読」、そして「第二回発表」を中心に振り返っていきたい。
 5月以降は、ゼミ生が【!】班と【?】班に分かれてホームページ作りを行った。私は【!】班のWeb編集長を務めることになった。その際、Web編集長としてどうゼミや班員と関わっていこうかを私なりに考えてみた。ゼミでの話し合いの際、「Web編集長は班長やリーダーとは違うのではないか」という意見が出ていた。<かわしま>や【?】班Web編集長である<ゆーめん>とも話し合い、Web編集長と言っても「一番上に立つ」というような存在ではなく、あくまで話し合いをうまく回しゼミ長との連携を図っていく立ち位置に立てないだろうか、と考えた。私は元々まとめ役のような役職には苦手意識があったので、目線はあくまでも他のゼミ生と同じ高さにしていたいという気持ちもあったからだ。【!】班の面々と話し合うときは、基本的に全員がどんな顔をして話しているのかを見る、話し合いで出た意見をなるべくメモする、意見をふったり話し合いを回したりするだけではなく自分も意見を言う、ということに注意した。話し合いを重ねていく中で、徐々に班の中でチームワークが形成されていくことを感じた。
 「【!】班と【?】班が別々にホームページを作り、その出来で勝負する」という提案を受けたとき、私は正直嫌だと思ってしまった。班別に優劣がつけられるのが嫌だったし、周りに気を使っていた私は班長同士も比べられてしまうのではないかと思っていた。だが、ホームページを作り終えてゼミで披露したとき、「もうどちらが勝ちでもいいや」と思った。私たちが一つの課題に対し、それをよりよくしていこうと取り組んだことが大切だったのだと思う。

 フィールドワークの場所が決定するまでには、相当な紆余曲折があった。当初、ゼミで候補地を上げていた時は「行ったら面白そうな場所」と安易に考えていた。実際私が挙げたのは、入り混じっている構造が面白そうだと思った「新宿駅」や、学校に行きたかったので「廃校」だった。私は、フィールドワークが何をするためのものなのか、よく考えたことは無かった。そのため、フィールドワークの場所が「上野公園」に決定したとき、「そこで何を見るのか」という問いにすっかり思考が停止してしまった。私たちは上野公園について何も知らないということに気づき、まずは上野と公園の歴史について調べることになった。私は、上野公園の歴史について書かれた本を読んだ。しかし、その時点で自分の持っている情報を理解するだけで頭がパンク寸前になり、その後のみんなの話し合いについていくのが精一杯であった。
 このことを通して、私は自分の知識不足を知った。この知識不足というのは、自分がなんとなく普段接しているものについて何も知らなすぎる、ということである。上野公園にしろ関心コラムにしろ、私たちは普段自分たちの日常の中で接している出来事や物事について、何も知らないまま享受して生きているということを特に思い知った。特に、私は上野公園の正式名称が「上野恩賜公園」であり、元は天皇所有の地であったことや、上野公園の中に美大があることすら知らなかった。何かについて詳しく知っていなければ、その何かについて語ることすらままないのである。

 【!】班の活動やフィールドワークの話し合いと同時進行で行われたのが、先生の著書である『アトラクションの日常』(河出書房新社、2009)の講読である。各章の文量に合わせて1~3名の担当を決め、その章についての発表を行った。私は<セシル>と共に第7章を担当した。
 『アトラクションの日常』の講読を通して、本の読み方を学んだ。本を読むことが苦手だった私は、この『アトラクションの日常』の購読に非常に苦心した。しかし発表では、本を読むとき自分に都合よく分かり易い部分だけをピックアップして読んでしまう点が指摘された。これまで私が本を読んでいた時は、分からない部分をなんとなく読み流し、想像できるところだけをかいつまんで要約していたのである。この点を指摘されなければ、私は今でも本を何となく読んで事実ではなく想像で話をしていただろう。

 第2回発表では、私は第1回発表とテーマを変え「男装」について取り上げた。第1回発表でテーマとして取り上げた「変身少女」が、実はそんなに好きじゃないんじゃないかと考えたからだ。今思えば、とても短絡的な考え方だったと思う。もう少し題材について考えることができたのだが、私はあっさりと題材を変更してしまった。その結果、私の発表は「あまり好きそうに思えない」というコメントを貰った。私にもその自覚が少しあった。私はアニメや漫画が好きだったので、そういった話題で何か卒論が書けないか、と安易に考えていた節がある。そして、知識を補うためにネットで調べて発表に挑んだ。
 本来ならば、第1回発表で取り扱った題材についてより考えるべきであったが、私は考えることから逃げていたと思う。また、この第2回発表が行われたのは6月、上記のような活動に多く時間を使っていたために、1週間前に急いで作り上げた感はいなめない。やはりこの頃から、ギリギリにやる癖があった。

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第3章 7月から9月


3-1 7月

 7月、フィールドワークが行われた。このフィールドワークが行われるまでに、何度も話し合いが繰り返された。フィールドワークの調査場所である上野公園について調べるのは、現場班のメンバーと班を組んで下調べを行うことになった。そして私は、上野公園のホームレスに関する一年間の記録をルポルタージュとして書き下ろした本、風樹茂の『ホームレス入門』(角川書店、2005)を<ゆーめん>と手分けして読むことになった。この本では、上野公園に住んでいるホームレスの住民たちや彼らに関わる人々の様子や、筆者と語り合う姿が描かれていた。私はこれまで何度か上野公園に行ったが、ほとんど美術館に入ることが目的であり、この公園をよく見ていなかったことに気付いた。
 6月にフィールドワークの会場が決まってから、私は一度上野公園に足を運んでみようとは考えなかった。当日新鮮な気持ちで行くために、事前に向かうことはしない方が良いと考えたからだ。しかしそれは間違っていた。フィールドワークをすると決めた場所には、調査前に事前に足を運び、実際にそこに何があるのか、下調べしておく必要があった。そこに考えが至らなかったのは、上野公園へ行って何を調査するのか、ということが不明確であったからだった。具体的な調査をするには、事前の知識や調査が必要であり、目的が不明確なまま調査を行えば何も得ることができないからである。現場で自分が何を見れば良いかわからないからである。
 この点を先生から指摘され、私は上野公園へ足を運んだ。上野公園へは一年生の頃に美術館へ行ったきりであったが、公園自体じっくり見たことは無かった。「フィールドワークを行う場所」という意識で上野公園を見たとき、自分がどれほどこの公園のことを知らなかったかを理解した。
 そして何度も話し合いを重ねた結果、上野公園にある看板を集めて見ていけば、何か見つかるのではないか、という考えに至った。しかしここから進むことができなかったため、先生に相談し、「上野公園にある看板、貼り紙などを徹底的に調査する」という調査法方法を提案してくださった。最終的にフィールドワークで行うことをゼミ生で決めきれずに先生にアシストしてもらった、ということは非常に悔しい思いがあった。しかし私は、ゼミ生の間でまず考えをまとめた現場にいられなかったことが非常に悔しかった。
 そして、実際にフィールドワークを行なった。私は<かわしま>とペアを組み、上野公園の看板や貼り紙、シールの悉皆調査に取り掛かった。夏の暑い日差しが照りつける中、私は公園の中にある看板やシールの写真を撮った。このとき、上野公園にいる人たちの中には、私たちの行動を気にしている人たちもいた。そのとき、『ホームレス入門』の中で、最初に筆者に話しかけられてホームレスの人々がとても訝しんでいたことを思い出した。フィールドワークは場合によっては他人のフィールドに入り込むという一面を持っているのかもしれない。だからこそ、前述のような理由もあるが、中途半端な状態では調査をするべきではなかったのだろう。


3-2 8月

 8月初頭に合宿が行われた。この合宿の目的は「卒論のテーマを決めること」だった。私は7月下旬に、テーマを決めるためにゼミ生に相変わらず自分の興味を持っている、と考えているものについて話をしていた。しかし、7月下旬の時点で私は他のゼミ生と比べて随分と遅れをとっていた。第2回の発表の時点でもう少し自分の書くべきテーマへと近づいているはずだったが、私は自分のテーマにいまいち近付くことができていなかった。それは、自分が興味をもっていると思ってとりあげたものについて語った後、話したことに満足してしまっていたからだと思う。そのため、いつまでも自分の話しをしてしまい、一向に話が深まらず、またそのことに私自身も気付けていなかった。
 またこのときの私は、これまでの発表で取り上げてきた題材について、ほとんど詳しく調べていなかった。それは、自分が好きなもの、興味があるものをどんなに考えても、「本当に自分はこのことについて書きたいのか?」、「この題材の何に興味があるのか?」と考えてしまっていたからである。私はまずテーマや題材を決めてから詳しく調べるものだと思い込んでおり、そのことに自分で気づいていなかった。いつまでも自分の中にテーマや題材があると考え、自分の考えだけで突き進んでいたのである。前項で振り返ったフィールドワークにおいて述べた、その題材について事前の調査や知識が必要だということは、本来ならばここでも必要であったのだ。
 そしてゼミ生に興味のあるものについて話す中で、自分にとって「友達」が非常に重要な存在であると考えた。さっそくゼミ生に友達について自分が経験してきたこと、考えていることについて話したのだが、ゼミ生から返ってきた言葉は自分の考えをごちゃごちゃと引っ掻き回していくものであった。私はこのときは学校に絡めて友達について語り、友達がいないことが何故恥ずかしいことなのかと考えていることを伝えた。しかし、共感する部分はあるけれど自分はそうは思わない、という言葉に自分の考えが根底から揺らいでしまい、何も言えなくなってしまった。本来ならばそれで良いのである。自分を客観的に見るには、他者に話を聞いてもらうのが一番だからだ。しかし私はそれを思うように受け入れることができず、自分に都合の良い解釈で発表準備を行い合宿にいどんでしまった。
 合宿の発表ではアニメや漫画のような友情に憧れているということ、自分にとって友達がどれだけ大切かということを中心に発表した。しかし、今までの発表と何ら変わりがないという指摘を受けた。そして、私が私自身から距離をとって客観視することができていないということ、それ故に自分の考えにがんじがらめになって身動きがとれない状態になっているということを指摘してもらった。この後、まだしばらく私は自分から距離をとれない状況が続くが、このときはひとまず「友達」をテーマとして考えていくことになった。この第3回発表が行われるまでに私が取り組んでおくべきだったことは、自分が今まで掲げてきた題材やテーマについて自分なりに調べて考えを深めておくことであったと思う。テーマや疑問が全て自分の中にあると考え、そこから抜け出そうとしなかったことは、その題材について客観的に考え深めていくことを怠っていたからだと思う。
 
 合宿後、期間を開けずに始まったのは、芸術学科メディア系列の3年生を中心とした集中講義である。今回ゼミでは、夏の集中講義に参加するメンバーと、集中講義とはまた別のプロジェクトを進行するメンバーに分けられた。私は、フィールドワークの手伝いをする側のメンバーに組み込まれ、現場班として動くことになった。私は集中講義班に配属された。その中でもさらに、当日の進行の運営、手伝い、雑務を請け負う現場班に配属されていた。7月下旬より、同班チーフである<まゆゆ>、メンバーの<ゆーめん>、<はちべェ…>と共にタイムスケジュールを組み、必要な機材などを揃え、何度かリハーサルを重ねた。合宿で自分の卒論の進行度合いについて落ち込んでいたが、今は気持ちを切り替えて3年生のために私も頑張ろうと思った。
 この集中講義で現場班として特に気をつけなければならなかったことは、3年生の邪魔にならないことである。具体的に言うと、3年生からして4年生はいないもののように行動し、質問や助力を求める行為にも決して答えないということである。これは、3年生が課題に対して真摯にとりくむ上で非常に必要なことであった。既に1年前に集中講義を経験した私たちからのアドバイスは、3年生たちに「自分で考える」という貴重な機会を奪い去ってしまうことになるからである。
 この時点で、私たちは自分を客観視するということの疑似体験をしていたのではないだろうか。私は、5日間の集中講義の手伝いを通して、去年の自分たちの取り組みを思い出した。そして彼らの悩む姿は、ゼミ生一人一人の姿と重なるものでもある。一般的な考えに縛られる姿や、自分の経験だけではなく班員の意見を聞いて新たな考えの可能性を探るということは、私たちが8月までの半年間で行ってきたこととほぼ同じことだったのではないだろうか。


3-3 9月

 集中講義を終え、現場班の仕事はほとんど無くなった。一方で、記録班や夏ゼミ班はその活動を継続していた。この頃、私は完全にやる気を失っていた。友達をテーマにしたいと考えていた私に、先生は「いじめ」を取り上げてみたらどうだろうか、というアドバイスをくれた。しかし私はそれを鵜呑みにして、よく考えないまま友達に関する言説の本をあたろうと本を読んでいた。そこで、土井隆義の『友達地獄』(ちくま新書、2008)を手にとった。しかし、その内容自分を自己投影してしまい、気分が鬱々としてしまったのだ。ここでも、対象と自分との距離をとれない私の悪い癖が出てしまった。そして、家をほとんど出ない生活が続いた。
 9月に入り、久しぶりに学校へ行って気持ちがすっきりした。この休みの間も手を抜かずに休まず活動を行っていたゼミ生の姿を見て、この短い期間の間、本を言い訳にだらけていた自分を恥ずかしいと思った。それと同時に、頭の中に風が吹いたように、凝り固まっていた考えがすっきりした。『友達地獄』の内容しか頭になかったが、それはあくまでも本に書かれていることであり、似たようなことはあれど実際に私が経験したことではないということに改めて気付くことができた。ゼミが始まった頃、先生はよく「特に話し合うことがなくても集まって、雑談でもいいから話すこと」と教えてくださった。このとき、その大切さを改めて実感することができたと思う。
 9月末には、ゼミ生と会う機会があったので、自分が「友達」に関して思っていることを話した。しかし、私の意見は思うように相手に伝わっていないような気がした。それは、私がこの休みの時期に手を抜いている間に、他のゼミ生は自分にできることを行っていたからだと思う。この時期に多くの本を読み、卒論に向けて資料を集めたりフィールドワークなどの調査を行なって備え、論文が書けるレベルへと自分の考えを深めておくことが必要であった。しかし、私がそれに気付いたのは第4回発表が終わってからであった。

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第4章 10月から11月


 この頃、早い人は既にテーマや題材・取り組み方を明確に定め、卒論執筆に向けフィールドワークをしたり、序論や本文を書き進めたりしていた。私はというと、この頃はまだテーマも題材も決めておらず、どう動いたら良いか分からないまま悩み、周りにもあまり相談することも無いまま、第4回発表を迎えてしまった。
 長谷川ゼミにおいて発表は、発表の準備を行うことで、自分の考えを深め整理する場である。これまでに行われた発表は、レジュメと発表原稿を用意していた。だがこの10月に行われたこの第4回発表では発表原稿と卒論の目次案、夏休み中に調査したものや書いたものを準備し、自分の卒論の進捗状況と現在躓いている点や疑問点などをみんなに相談できる最後の場であった。
 この発表でのみんなの目標は、タイトルと目次案の完成だった。この時期には序論を完成させ、序論に取り掛かっている必要があった。何度か先生の元に相談しに行っていた私は、一度テーマやタイトルを考えることを止めて序論を書いてみることになった。友達について書くと決めている程度であったのに、序論なんて書けるのだろうかと不安になったが、とにかく行動に移してみることにした。すると、自分の中にもやもやと漂っていた考えが文章に書き起こされ、自分が「友達」をどういうものだと考えているのかを客観的に見ることが初めてできた。私は友達に関して良い思い出があまりない、ということを冒頭に書いているのに、それでも友達に憧れていて、友達がとても良いものだと考えていることが分かった。それは私がこれまで抱いてきた友達像の理想であり、その理想と合わない場合は全て良い思い出ではない、と悩みへ変換していたのである。このとき私は、「人に言われたことを素直に行う」ということの大切さを初めて実感した。
 しかし私は、ここで感じたことを次に活かすことができなかった。この時の私にとっての序論は、自分がどんな状態であるのかを客観視する行為の一つで、発表のために自分のことを話すのとあまり変わらない行為にしてしまったのかもしれない。自分本位の考え方からは離れられていなかった。その結果、発表で公表したタイトル案は「ひとりぼっちが要求される役割」というものになってしまった。これは、どう考えても「友達」を客観的に見ることができず、この発表のために苦し紛れに出したタイトルであった。思いついたときは「これだ!」と思ったが、結局は思いつきであり、なんとか発表を乗り越えたいというその場しのぎの考えであった。私は最終的に乗り越えるべき「卒論提出」という目標を完全に見失っていた。
 この頃の私は、周りのゼミ生との卒論執筆速度の圧倒的な差に、焦りを感じていたのだと思う。焦りを感じ、まず目の前のことをなんとかしようと躍起になり、視野が狭くなってしまっていた。「同じことを違う言葉で説明している」とゼミ生から何度も指摘されていたが、自分でその意味をよく理解できていなかったのだ。私はこういった指摘を「この時期になってまだそんなことを言われている」と受け取り、また焦ってしまった。先生やゼミ生のみんなは「焦るな」「大丈夫」という前向きな言葉を何度もかけてくれていたが、私はそれらの言葉をどうも素直に受け取ることができなかった。ゼミ生たちと圧倒的な差がついてしまっていることを感じていたからだ。そのため、意地を張ってなんとか自分でテーマを決めようと躍起になっていた。そのことしか考えていなかったから、人から貰ったアドバイスも素直に受け付けられなかった。やはり、置いていかれたような気がしてしまって、悔しかったのだと思う。

 第4回発表後先生と相談し、題材をテレビドラマ『ライフ』に絞った。9月頃、私は友達像というものはメディアから発信され、私たちによって実践され強化されていくものであり、そのようなものがあると考えた。そしてその題材に、学校でのいじめが描かれているドラマを見るのが良いのではないか、と思いついた。周りのゼミ生がどんどん前に進んでいるように思えて、焦ってしまい暴走してしまったのだ。それにも気付いていなかったので、先生に相談して軌道修正を図ったのである。しかし、『ライフ』の何を見るかが明確に決められておらず、『ライフ』をとにかく隅々まで見ることになった。こうして振り返ってみると、フィールドワークの場所を決めた時と状況が似ているように思える。家に帰ると遊んでしまうので、学校に遅くまで残って映像に向き合った。友達関係を強化するような台詞やアイテム、教室内での立ち位置に意味があるのではないかと思い、それらを先生の元に話に行っても、それはドラマの演出であったり、私が思い込みを持ってドラマを見ていることを指摘された。いつまでも、一視聴者という立場から離れられなかった。
 やがて発表の一週間後の火曜日、次の日のゼミ活動の際にはテーマを決めなければならない日がやってきた。繰り返しドラマを見ても何も見つけられなかった私に、<まゆゆ>が「<ニャンちゅう>は絵が得意なんだから、絵コンテを描いてみなよ!」と提案してくれた。2年生のときに長谷川先生の授業で行ったCM分析で、30秒のCMを絵コンテに書き起こしたことがあった。普段私たちはCMを見ているつもりでも、よく見てみると細かく作りこまれており、CMの意図したものを見せられているだけであって、実際は何も見ていない、ということを実践を通して知ることができた授業である。絵コンテ作業は予想以上に手のかかる作業で、この日徹夜しても第一話の冒頭15分程しか描けなかった。この「絵コンテを描く」という作業は、私が卒論を書くにあたって初めて自分で何か行動を起こした瞬間だった。
 翌日、私はこの絵コンテをもとにゼミで発表した。しかし絵コンテは書いたものの同じような考え方から脱することができていなかったため、卒論のタイトルも方向性も、先生に決めてもらうことになった。一番なりたくない結果だった。自分で納得ができないからといって投げ出さず、まず自分で行動を起こすべきだった。ゼミ生や先生が提案してくださったこと、話を聞いて言ってもらったことをまず実践していくべきだったのである。しかし、いつまでもどうにかして自分の力でテーマや題材決めたい、という意地があったために、それらの意見を素直に受け取ることができずにいたのだと思う。このときがテーマ決定のデッドラインであったため、ギリギリになって追い詰められて、ようやく一歩踏み出したのだ。しかし、その一歩を踏み出すために、長すぎる時間がかかってしまった。

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第5章 12月から1月


 卒論執筆作業に入り、私はここで最後の壁にぶち当たった。それは、資料と知識不足による執筆停滞である。何も知らないから何も書けないのだ。とにかくできる限りの資料を集め、詰め込めるだけの情報を詰め込もうと図書館に通った。「もう新しく本は読まなくて良い、今まで読んだ本を読み込んで書きなさい」という先生から頂いたアドバイスを頼りに、夏に一度目を通した森田洋司/清永賢二著『いじめ 教室の病い』(金子書房・新訂版、1994年)を再び手に取った。    図書館でいくつかあたったいじめに関する資料のほとんどが、この本を参考にしていたからだ。しかし、集めた資料を目の前に並べて、それらをどう活かすことができるのかが全く分からなかった。『いじめ 教室の病い』を何度読み込んでも、その内容を卒論にどう活かすことができるかも分からなかった。かき集めた資料を前に、絶望的な気分になった。
 12月頭は、学校の図書館で卒論に向き合うようになった。その頃、他のゼミ生も数人学校の図書館で勉強していた。みんなも自分の卒論執筆に必死になっているということを知り、そうした姿を直に見ることで苦しいのは自分だけではないのだと安心した。今の自分の能力の現状を知り受け止め、その力でできることを、精一できたのだと思う。
 そして私は徐々に、自分の現在の能力では大した論文は書けないのだと薄々気づき始めた。各章毎に繋がりが無く、また資料や参考文献も圧倒的に少ない。私はゼミ活動が始まった頃、少しでも面白い論文を書きたいと思っていた。しかしこうして執筆活動に従事してみて、自分が書きたいと思っていたよりも書けないということに気付いたのである。なんとなく、卒論の評価で落第してしまうのではないかとも感じていた。しかし、それはもうこの時期にはどうしようも無いことであった。今の自分の能力の現状を知り、受け止め、その力でできることを精一杯やるしかないと考えをきりかえ、とにかく自分にできる限りのことをして、なんとか提出できる状態にすることを目標に必死になってパソコンに向き合った。もう少し早く気付くべきだったし、気付くことができたことだと思う。先生も他のゼミ生もアドバイスしてくれていたことだったが、私はこの時期になってようやっと気付いたのだ。人からのアドバイスだけではなく、自らの行動の中で気付き、納得することができて良かったとも思う。
 1月8日、みんなと一緒に卒論を提出した。しかし私は、「この卒論では落第し、卒業できないのではないだろうか」と感じていた。そのため、どうも提出したことに達成感をあまり感じられなかった。

 1月25日、口頭試問が行われた。ブログにも書いたが、私の合格は本当にギリギリのものだった。主査、副査共に非常に厳しい評価で、卒論の出来だけで評価すれば落第だった。けれど長谷川先生は、私が一年間ゼミ活動に必死に取り組んできたことを評価して下さった。卒論の評価だけで合否が決まると思っていた私には、晴天の霹靂だった。そして最後に先生から「もう論文は書かなくて良い。<ニャンちゅう>には向いてない。その代わり、自分のやりたいことをこれからは一生懸命やりなさい」という言葉を頂いた。先生のこの言葉で私は大分救われた。私は、周りと自分をすぐ比較してしまう癖があり、自分の能力が他のゼミ生と比べて著しく低いということに劣等感を感じていた。その差をディスカッションの意見交換の際にも感じることがあったが、何も言わないより何か言おうと考えていた私は、から回ることが多々あった。いつしか、ゼミの活動は私にとって辛いことになってしまっていたのである。しかしこのことはあまり考えたくなかった。一度考えてしまえば、ゼミに関わりたくなくなってしまうと思ったからである。先生のこの言葉で、私は自分のそういった姿に改めて気付かされたのだと思う。口頭試問が終わったときには、ショックを受けた気持ちの方が大きかった。けれど今は、苦しみながらも、向いていないことに一年間全力で向き合ってきたプロセスが大切だということが理解できる。それが結果に繋がることもあれば、繋がらないこともある。けれど、今日まで歩んできた日々は、必ず私を成長させてくれるものであったと思う。


 長谷川ゼミの活動は最終的には卒論執筆に向けての活動であったけれど、みんなで協力して行い、新たな発見に出会うことは本当に楽しくやりがいのあるものだった。それを行ってきたという自信が、私の卒論執筆を支えてくれたものでもあったと思う。しかし一方で私は、いつまでも「みんなで」という面にこだわりがちだった。卒論の執筆速度は人それぞれであるし、能力にも人によって差はでるものであるだろう。私はその差を受け入れられず、置いて行かれる気分になって拗ねていたのだと思う。この振り返りを書いたことで再び自分の姿に気付くことができたし、悔しい思いやもどかしく思っていた部分も清算できた。きっと、このゼミでなければ、私は卒論提出すら諦めていたかもしれない。
 私は、3年生までの長谷川先生の授業を受けて、初めて勉強が面白いと感じた。ゼミに入り、より面白いと感じることもあれば、とても難しく感じることもあった。もう二度と、これだけ自分を追い詰めることも無いだろう。論理的思考はあまり身に付かなかったけれど、学術的な本はこれからも読んでいきたいと思う。先生は「もう論文は書かなくて良い」とおっしゃってくださったけれど、ここで本当に何もしなくなってしまっては、いつかまた元の自分に戻ってしまってしまう気がするからである。ここで身に付けたことを忘れず、できる限り継続し、今後の自分に活かしていくことが今後の私の目標だ。これが私の最後の悪あがきであり、1年間私が過ごしてきた12年度長谷川ゼミへの感謝の形である。

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