「2012年度長谷川ゼミの軌跡」



(1)振り返りレポート

 <セシル>

 <ミシェル>

 <まいまい>

 <まゆゆ>

 <ラッパー>

 <かわしま>

 <ゆーめん>

 <えみし>

 <黒帝>

 <さちこ>

 <ニャンちゅう>

 <りんご>

 <はちべェ…>

 <ちえみん>


◆ゼミ用語集(別窓)



(2)12年度卒業論文 目次案・概要

 <セシル> 1 / 2 / 最終版

 <ミシェル> 1 / 2 / 最終版

 <まいまい> 1 / 2 / 最終版

 <まゆゆ> 1 / 2 / 最終版

 <ラッパー> 1 / 2 / 最終版

 <かわしま> 1 / 2 / 最終版

 <ゆーめん> 1 / 2 / 最終版

 <えみし> 1 / 2 / 最終版

 <黒帝> 1 / 2 / 最終版

 <さちこ> 1 / 2 / 最終版

 <ニャンちゅう> 1 / 2 / 最終版

 <りんご> 1 / 2 / 最終版

 <はちべェ…> 1 / 2 / 最終版

 <ちえみん> 1 / 2 / 最終版




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<りんご>



第1章 ゼミ始動!


1-1 始まり

 12月に、卒論を履修するか、卒論以外で単位を履修していくのかを選択する用紙が配られた。
 その時になってやっと、私はゼミを受けることを意識して考え始めた。それまでは、ゼミを受けることも卒論を書くことも意識せず、卒論を書かずに卒論分の単位を取ろうと考えていた。理由の一つには、サークルの先輩たちからゼミは大変だと聞いていたことがあった。
 3年時、私が長谷川先生の授業を受けていた位置は、黒板に向かって一番後ろの右はじだった。私は積極的な生徒ではなく、むしろ目立つ場所を避けていた。だが、授業内容が嫌いだったわけではなくむしろ、授業内容自体はとても身になると感じていて、他の授業と比べても特に好きなものだった。自分が出会ったことのないものに出会い、自分を拡げている感じがしていた。それは、長谷川先生から卒論の説明を受けたときも同様だった。挑戦したことのない壁にぶつかった時の、自分が成長していけるような感覚を覚えて高揚したのを覚えている。
 それまでの授業を受けて感じてきたこと、そして卒論履修選択の説明を受けて感じたものを受けて、私は卒論を取ることを真剣に考え始めていった。しかし、容易に答えを出すことは出来なかった。周りの友人たちは、先輩の話を聞いたり、就職のことを気にしたりと、卒論を選択することをマイナスに考えている人が多く、その環境の中で私もとても揺れていたからである。卒論を取ることは、大学生活でしかできないこと。卒論を取れば、就職活動などに支障が出るかもしれない。そんな思いが交錯していながら、心の中には説明を受けた時の高揚感がずっと残っていた。私は、自分が卒論を選択したいと思っていることに気付いていた。そして、その気持ちに気付きながらも私は「本当にいいのか?」と自分に問いかけ続けていた。
 その葛藤の末、最終的に私は卒論を取ることを選択した。ここで申し込まなければ、一生後悔するだろうと感じたからだ。
 そうして、私は長谷川ゼミに入ることとなった。最初、そこには親しい友人は一人もいなかった。だが、授業でいつも後ろから眺めていたメンバーたちがそこにはいて、とてもドキドキしていたことを覚えている。いつも発言していた人、ムードを作っていた人、発言は少なくても発言する際はしっかりとしたコメントをしていた人など。
 ゼミ生と初めて顔を合わせたのは、2012年1月に行われた前年度の先輩たちの口頭試問の時だった。そして、口頭試問後のコンパで初めて会話をすることになった。この時は、ゼミ生ともなかなか打ち解けることができず、先輩たちとなると話しかけるのすら困難だった。他のゼミ生が先輩たちと談笑しているのを見つつ、ぎくしゃくしたまま終わりを迎えた。
 こうして、ゼミは不安なまま始まっていった。


1-2 慣れないメーリス

 私にとって、ゼミに入って初めの難関は、メーリスだった。
 口頭試問後、春休み中はゼミ生と集まるということはなかった。そのため、主な連絡手段はメーリスだった。課題の報告や、週に一度定期報告日を設けたことにより、春休みは四六時中メーリスが飛び交っていた。
 このメーリスに、私はとても戸惑っていた。元々メールに対して強い苦手意識を持っていた、というのが一番の要因である。中でも特に、メールを使って人に大事な要件を伝えるということに苦手意識を感じていた。そういった理由もあり、それまでほとんど話してこなかったゼミ生に対して、顔の見えないまま意見を交換し合うことに強く抵抗を感じていた。顔を見て話せば、相手に自分の言葉がどの程度伝わっているのかを知ることができる。相手からの反応も知ることができる。しかし、文章だけになってしまうと、自分の伝えたいニュアンスがうまく伝わらずに誤解を招いてしまうことも多い。直接話せばなんとなく伝わる思いも、必ず言葉にして伝えなければいけない。ゼミ活動は、そんな不安を抱えて始まっていった。
 私にとって、ゼミ活動の中でも、自分が乗りこえた試練として強く覚えているものが、メーリスとの格闘なのである。


1-3 本選び

 春休みには、3つの課題が提示されていた。1つは、本を2冊読み、要約を書くこと。2つ目は、春休みをふりかえるレポートを書くこと。3つ目は、長谷川ゼミ2012関心地図をつくること。
 課題はどれも難しかった。そして、どれも自分の関心を探すためのものだったのだと思う。
 課題の中でも一番時間がかかったのは、「本を読む」という課題だった。本を読む課題は、1冊はあらかじめ決められた図書で、2冊目は自分で決めるというものだった。それまで小説などの本は講読してきたが、授業以外で新書などを講読するのは初めてだった。本を選んでいて気が付いたのは、やはり自分の関心があるものにばかり目がいくことだった。関心がある、もしくは自分が見聞きしたことのあるキーワードが含まれているものに目がいくことが多かった。この時、私は自分の関心がある分野の中で、自分にとって知識となるような本を選ぼうと決めて、本屋を見ていくことにした。しかし、私は本を決めるのが遅く、他のゼミ生からの決定報告がメーリスで回ってくるたびに、早く決めなければと焦るばかりだった。候補を挙げたものの、今ひとつ「今読む」という気持ちが持てずにいたからだ。そんな時に、本屋で出会って読むことを決めた本は、中村明一の『倍音―音・ことば・身体の文化誌』(春秋社)だった。3年時に取った授業で「倍音」について学んだが、今ひとつ理解ができていなかったこと、目次の第3章の題名に「メディアを席捲倍音」と書かれており、音とメディアの関係がどのようなものかに興味を持った。また、自分が音響というものに興味を持っていたことも、この本を手に取った理由だった。
 だが、選んでからもこの本を読み始めることは出来なかった。この本を読み始める前に、指定されていた本を先に読もうと考えており、そちらに必要以上に時間がかかったためだった。
 私の講読の仕方は、要約をするためにまず一度読みながら内容を紙に書き出し、再度読みつつまとめるという2段階だった。この時に実感したのは、自分の本を「読む」スピードの遅さだった。そして、今まで素早く読めていたのは「なんとなく」本を理解した気で読み飛ばしていたのだということに気付かされた。
 自分で選んだ本を読み始めたのは、春休みが半分を過ぎた頃だった。この頃になると読む時間を設けることも大変で、さらに私は講読の第一段階として最後まで読み切る必要があったので、一日中ファミレスにこもって読んで書くことを行った。そこからやっと、要約を始めることができたのだった。文章の中で一番重要な物を抜き出す要約は苦手で、さらにそれを文章としてまとめていくのには時間がかかった。本自体は楽しく読むことができた。だが、講読して要約するということの難しさも強く感じた。
 そして、本を読む作業が終わってから、自分の関心地図の創作に取り掛かった。関心は15個考える必要があったが、思った以上に考えるのに時間がかかって自分でも驚いた。関心なんて、すぐに出てくるだろうと思っていたのだ。にも関わらず、コラムを書くための分量に値する理由を書けるものがなかったりと、自分がそれまで何に関心を持ってきたのかが分からなくなってしまった。
 うんうんと頭をひねって考え、関心地図を提出した後、ゼミ生の関心地図を見たときに、「あ、こんなこともあった」「あ、これもあった」などと、連鎖的に自分の興味を呼び起こしたが、関心地図を考える時点で思い浮かばなかったものは、結局その程度の関心だったのだと感じた。
 関心地図を提出したのは、3月31日。ゼミが始まろうとしていた。


1-4 第一回発表

 4月に入り、本格的にゼミの活動がスタートした。
 最初に行われたのは、班分けだった。班は【!】班と【?】班の2つに分けられ、ゼミ長だけがどちらにも属さないことになった。私は【!】班になり、班ごとにHP作成という課題が与えられた。班に分かれてHPのコンテンツを考えていくのはとても楽しかった。
 しかし、4月の中でなによりも重要なものは、第一回発表である。第一回発表は、まだ卒論ということを考えずに、自分がどのようなことに関心を持ち、どう考えているのかを発表するというものだった。
 私が考えたのは、「ヒロイン/純愛/チラリズム/制服」の4つだった。春休みの関心地図の課題で関心を振り返った時に、特に気になっていると考えていたものを自分なりに考えて発表していった。
 この時に、私は自分の中で定めた定義の中でしか話ができていないと言われた。自分の見える範囲、自分の感覚で語ろうとしてしまっているという指摘だった。そして、何か本などの、自分が関心のあることについて書かれた記事なり文章などを読んで受けた印象から考えた感想のようになってしまっているという指摘も受けた。そしてそうではなく、自分が何に関心があるのかを考えることが大切だと言われてしまった。
 この指摘は、これから何度も言われていくことになる。その時々で、私は理解していると思っていても、本当の意味でこの言葉の意味を理解できてはいなかったのである。

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第2章 班活動


2-1 【!】班

 5月に入ると、班に分かれた活動が主になっていった。私は、【!】班の一人として、HPのコンテンツを何にしていくのか考えていった。
 コンテンツの中でも力を入れたのが、プロフィールと関心地図の作成だった。
 プロフィールは、HPに必要なコンテンツの中でも、どのようなテーマでプロフィールを作り、プロフィールを作成するには何が必要か考えることに力を入れた。。
 そして関心地図は、春休みの課題の関心コラムを、班ごとに自分たちになりに1つの地図にしてあらわそうというものだった。班で意見を出し合いながら考えていくのは楽しい作業だった。しかし、アイデアがなかなか出ずに時間だけが過ぎていくときはつらかった。もうひとつの【?】班が先に作業に取り掛かっているときも、【!】班はまだどうやって関心コラムを分けるべきかを考えていて、少し焦りもした。この時に【!】班はひとりひとりもう一度ゼミ生全員の関心コラムを読み直し、それぞれの関心をまとめることにした。この作業があったからこそ、地図にまとめようとした時に早く作業を進めることが出来たのだと思う。
 他の人の関心を見ながら、自分の関心と比べることが、自分の関心を考える上でもとても興味深いものだった。少女漫画やヒロインといったものは、他のゼミ生でも挙げている人がいたが、その関心の持ち方が全然違ったりしていたからである。「関心」と一言で言っても、対象は同じであっても、それを受け取る相手によって関心の持ち方に大きな違いがあることを知った。


2-2 アトラクション

 5月から6月は、様々なことを同時並行で行わなければならない時期だった。
 各班のHP作成、関心地図の完成、『<アトラクション>の日常』の講読、フィールドワークの内容考案、第2回発表。怒涛の2カ月だったように思う。その中で、何よりも覚えているのは『<アトラクション>の日常』の講読である。
 5月中盤になり、前期に1冊の本を読み進めていくことが発表された。それが、長谷川先生の著書である『<アトラクション>の日常』だった。
 3年時にも1章だけ読んでいたものであったが、今回は3年生の時のような発表ではいけないということを言われていた。私の担当は、9章の「同期する」だった。ここは、<まいまい>と2人で担当することとなった。
 9章の発表は第2回発表よりも後だった。そのため、第2回発表前に読み進めてはいたものの、きちんと準備を始めたのは発表が終わってからになってしまった。他の章も自分の発表個所と同様に読みこむ必要があったからだ。『<アトラクション>の日常』は、ひとつひとつの章が独立したわけではなく、章と章が繋がって構成されている。そのため、自分の担当した9章を読み解く為にも、その前の章まできちんと理解しておく必要があった。 1つの章を読むのに、とても時間がかかるものだと、この講読をするまでは考えたこともなかった。9章を読み始めには、最初に章の中の大切な部分がどこなのかを考えることから始めていった。それから、9章の参考文献となっている文献や、映画を見ていき、内容の理解を深めることに努めていった。
 9章の中で私が担当したのは、第8節ある中の後半、第5節からの「大西洋の女王」、第6節「アールデコの機関室」、第7節「セットという機械」、第8節「イデオロギー装置」の4節だった。大西洋の女王とは、エリザベス号のことで、造船について調べたり、豪華客船の歴史が書かれた参考文献も読んだりした。また、本の中で映画『踊らん哉』と『タイタニック号』を比較した個所があり、この2作を観賞する必要もあった。普段ならば、実際に作品を見て本の内容と照らし合わせるなどはしないことである。しかし、こういった参考となった物を実際に読んだり観たりすることで、内容についてより深い理解が得られることを知った。
 講読の際に二人で気をつけたことは、9章がこの本の中でどのような役割を持っているのか、また、各節が9章の中でどのような役割を持っているのかをきちんと読み解いていくことだった。章と章のつながり、節と節のつながりに気を配るようにしたのである。それは、それまでの発表を見てきて、節の内容だけを細かく見るのではなく、全体として捉えることが必要だと感じたからだった。ここに気をつけたことで、自分たちなりにその節がある理由、話の流れを捉える事ができた。
 私が一番苦労したのは第5節の「大西洋の女王」だった。役割というよりは、節の名前が何を意味しているのかを理解するのに苦労した。題名というものは、その章や節の内容全てを表すものになる。それにも関わらず、「大西洋の女王」という言葉が、参考文献などのどこを探しても出てこなかったのだ。参考文献だけでなく、文中にも表示はなく、いったいこの題名で何を示そうとしているのかが分からなかったのである。この意味に気付いたのは、発表をした後だった。参考文献で、『<アトラクション>の日常』が参考にしていた節のタイトルが、この「大西洋の女王」だったのだ。『<アトラクション>の日常』を講読する際はあれほどタイトルまでを気にして読んでいたのに、参考文献では内容ばかりに気を取られていた自分を自覚した瞬間だった。
 また、私は一度9章について発表した時に、重要な参考文献である、ルイ・アルチュセール著『イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』をきちんと読みこめていなかった。この本に書かれているイデオロギー装置について書かれたのは8章だったが、この章に登場するイデオロギー装置とは一体どのようなものなのかということを私はうまく説明することができなかった。そのために、その部分の説明をするために再度発表の場を設けることとなった。それは8月に入った、夏期集中講義の最終日に行われた。


  2-3 第2回発表

 第2回発表は、第1回発表とはテーマを変更し、「女の子について」「黒髪について」の2つを発表することにした。もう一度自分の興味のあるものを考えた時に、考えついたのがこの2つだった。
 しかし、発表後は第1回発表と変わらずに枠組みにとらわれてしまっていると指摘されてしまった。また、私は「女の子について」のところで、漫画の中から女の子のイメージを取ってきたように発表したが、漫画が先にあるわけではないということも指摘された。私が漫画を読んできたために漫画の中のイメージが先にあると思いこんでしまっているが、漫画を読んでいなくても同じようなイメージを持っている人はいるということだった。そしてそこをまず考えていくことが必要だと指摘を受けた。
 だが、私は「枠組み」が本当はどういったものなのか、先に考えるべきものをきちんと理解できていなかった。
 自分の発表していることが、全て自分の中で創り上げたもイメージの中で話してしまっているという実感はあった。しかし、ではその自分の世界からぬけだすためにはどう考えていけばいいのかが分からずに、結局自分のイメージに戻ってしまうという繰り返しだった。
 この第2回発表まで、私の状態は変わっていなかった。そして、それは第3回発表以降も続いてしまうこととなる。
 私にとって、ここから脱却することが大きなカギとなっていく。

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3章 動くこと、考えること


3-1 夏期集中講義の始まり

 6月に、夏期集中講義のチームが発表された。私たちの年は、夏期集中講義の運営チームとこれまでの長谷川先生の授業で作られてきた各年の作品をまとめる夏ゼミ班の2班に分かれることになった。私は夏期集中講義班になり、さらに現場班と記録班の二つあるうちの、記録班になった。そして、チーフとして任命された。
 ここでも、また自分の「苦手」との闘いが始まったと思った。
 人の上に立つことは、とても難しい。何度か経験してきたが、全てにおいてあまりいい思い出はなかった。自分に人の上に立ちまとめる資格も、素質もないと考えていた。そのため、班分けの発表の時にチーフとして名前が呼ばれた時は非常に驚いた。期待されるというのは嬉しいものだったが、やっていけるのかがとても不安だった。
 記録班のメンバーは、全部で5人。ゼミ生とは段々と慣れてきてはいたが、班活動とはまた違う密なやり取りをしていくのに、やはり不安の方が大きかった。


3-2 重なる準備

 7月は、フィールドワークと夏期集中講義の準備が重なり慌ただしい月だった。フィールドワークで記録班は、夏期集中講義用にカメラワークや記録の取り方を練習することになった。また、フィールドワーク決行日は、夏期集中講義の予行演習日とも近く、考えることが多かった。必要機材、機材の借用申請、タイムスケジュール、どんな写真が撮りたいかなど、私たちには沢山考えることがあった。
 チーフとして、自分が作業をどこまで把握しているべきなのか、どこまで行うべきなのか、全てが手探りだった。それでも、そういった準備していく作業は楽しかった。当日のことをシミュレーションしていろいろなことを考えたり、準備したりすることは、難しいけれどとてもワクワクすることであった。
 フィールドワーク当日、私は最初に、調査員として1人記録班から外れて活動し、後に記録班の活動に合流することになった。フィールドワークの調査は思った以上に大変で、何よりも、快晴でカンカンと照った太陽にさらされながら動き回っていることが辛かった。しかし、調査員をやったからこそ、記録班に回ったときの違いが貴重な体験となった。他の調査隊がどのように調査をしているのか、自分の時との違いなども比べられたからである。


 

3-3 考え漬けになれたか?

 フィールドワークが終わると、すぐに夏合宿に突入した。卒論のテーマを決めるための、大事な合宿である。
 何をテーマにしたいのか、私はぐるぐると考えていた。しかし、発表を終わってみると、私は結局自分の中にある「確かな正解」を追い求めてテーマを探し、そのテーマを決定づけるための証拠を探し求めているにすぎなかった。そのために、発表は思い出すのも恥ずかしいほど、ぼろぼろなものだった。基本的に、ゼミでは5回発表を行ったがその中でも一番思い出したくない発表が、この夏合宿の時だった。
 なんとかまとめあげたレジュメを見ながら、私は自分が何を言いたいのかよくわからずに混乱してしまっていた。発表は、発表の意味をなさず、そのまま、私の混乱を見せただけに終わってしまった。
 普段、私は発表用に原稿を用意しないことの方が多い。しかし、この時は前日に原稿を書こうと試みてもうまく書くことができなかった。発表が終わって、その意味に気付くことができた。自分の考えを言葉にできなかったのは、自分の中で考えが漠然とし過ぎていて、言葉にできるほどまとまっていなかった証拠だった。誰も、自分の中にあるもの以外は語ることができない。私はそれを痛感し、とても恥ずかく思った。自分で自分の状況を把握できていないこと、そしてそれを人に見せてしまったことがとても情けなかった。
 しかし、そんな醜態をさらしてしまった合宿であったが、私はテーマを決定することができた。発表をした後で、私が気になっている点は別の所にあるのではないかと指摘を受けて、考えたことだった。題材は、「少女漫画」。テーマは、「何故、少女漫画が”恋愛の教科書”として読まれるのか」というものだった。
 だが、テーマは決定したが、私は自分が決めたテーマが自分にとってどんな意味を持つものなのか、きちんと理解できていなかった。合宿中の発表と同様に、理解できているようで、理解していない。私はこの状態で、テーマを決定し、よく考えないままにスタートしてしまった。半年間の自分をつくるきっかけを、私はここで逃してしまったのだと、今なら理解することができる。


3-4 集中講義

 合宿が終わると、すぐに夏期集中講義がやってきた。
 前日準備から、当日の朝まで、緊張とわくわくでいっぱいだった。効率のいい機材配置の仕方を考えながら準備するのは楽しかった。明日になればここに3年生がいっぱい入ってきて、私も去年体験したことが始まるのかと思うととても興奮した。
 私の仕事はほとんどバックヤードで行うものだった。撮影班に指示を出したり、テープの交換や充電をすることが主な内容だった。そのため、記録班の中でもひとつひとつの班の内容や生徒に触れ合うといったことはなく、ただ全体の雰囲気を眺めていることが多かった。
 記録班をやった中で収穫だったのは、去年の自分では理解できなかったことに気付けたことだった。去年の私は、どこかで「正解」を探して集中講義の課題に向き合っていた。それは、「正しい正解」を探すという意味である。「働くとはどういうことか」ということの「正解」が、きちんとした「形」となって存在していると考えてしまっていたのだ。私の頭は非常に硬く、自分の考えからぬけだすことができず、他の班の考え方が分からないと思ったこともあった。
 しかし、自分が一歩離れた状態で見て、記録する、観察するという立場となったときに、去年の自分の考えの浅はかさと、受講生たちの考えの豊かさに気付かされた。このように、後になって気付くことができたのも、半年間ゼミにいたおかげなのだろうと実感した瞬間だった。


3-5 記録週間

 夏期集中講義が終わると、すぐに記録班での記録編集活動が始まった。映像をビデオテープからパソコンに書きだして、ダイジェスト用に編集し、メモを文字に起して文章にした。記録班の中には誰もHP作りをしたことがある人がいなかったために、タグ打ちを一から覚えることから始まるなど、試行錯誤の連続だった。
 8月の後半は記録班の活動が主で、ずっと学校に通っていた。それまで使ったことのなかった学校の施設や機材を使うなど、非常に充実した学校の利用の仕方をしていた。
 チーフとして自分がどうだったかと聞かれると、どうしても自信は持てない。映像の編集も、文章を書くことも、他の班員に担当を任せていた。HP作りの方も、ほとんどを任せていて、私が行ったのは班員のスケジュールをまとめたり、出来あがった文章の添削をしたりすることだった。このやり方が正しかったのかはいまだに分からないけれど、チーフとしてサポートしながらまとめるという方法があることを私はこの時に学ぶことができた。それは、チーフになった私にとって、一番の収穫だった。
 夏休み中に終わらせようと考えていた記録班の活動は、夏休みが終わっても続いていくこととなった。つらいと思った時も正直あったけれど、それでも記録班として経験を積めて本当に良かったと思う。

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第4章 10月~11月


4-1 気付けなかった逃げ

 10月、11月は卒論へ向けての最後の発表が行われた月だった。
 夏休みの合宿で、テーマが決定し、題材も『週刊セブンティーン』(集英社)と決定していたのにもかかわらず、私はほとんど資料を見られていない状態だった。その一番の原因は何だったのか。確認不足、勘違い、怠惰。全てが合わさっていた。
 9月は記録班が忙しいからという理由。10月からは、新たに外部で始めた活動が忙しくなり時間を割かれるという理由から、図書館に行く日を優先的に作ろうとしてこなかった。卒論を書く上での、私の最大の過失である。
 私は、どこか「なんとかなるだろう」と心の中で思っていたのである。そして、決まったテーマについて再度深く考えることもなく、資料にあたるでもなく、10月を過ごしてしまった。それでは、発表が良いものになるはずはない。第4回発表を迎えた時、私は夏休みの時からまったく進んでいなかった。
   もちろん、まったく図書館にもいかず資料を見ることをしなかったわけではなかった。むしろ、年代や見るべき場所を定めていなかったからこそ、余計な物を見て時間がかかっていた部分もあった。これは、終わってみてから気付いたことなので、その当時に気付くことは出来なかっただろう。しかし、私はその状態で資料を見て、その少ない調べた範囲の中恣意的に資料をみてしまっていた。
 恣意的に見る、ということを本当の意味で理解して気付かされたのは、第5回発表が終わり、再びテーマを決めて資料に向かった時だった。


4-2 「書けない」現実

 第5回発表で、私は、「今の状態では卒論は書けない」といわれた。
 私は、もう一度自分が何を知りたいのかに向き合うこととなった。結論を出すために、1週間かかった。時間としては、長かったくらいだが、その1週間で夏休みからの3カ月をその1週間で取り戻す必要があった。この時になって、自分がそれまで、どれほど考えていることから逃げていたのかを思い知ることになった。
 この時になるまで、ずっと「漫画」というものに固執して考えてきた。何故そんなにも漫画に固執するのか、漫画という存在が自分にとってどんなものなのか。そういったことすらも、私は考えてこなかった。この1週間は、そういった根本的な部分を考えるところから始まった。また、自分がどんな人間なのかを人に話すことで、自分自身で自分のことを認識しようと試みた。この作業はとても辛かった。自分の嫌な部分、自分が逃げてきたものに向き合わないといけなかったからである。
 今振り返ると、「私と卒論」の関係が始まったのは、ここだった。卒論締め切り約1カ月と迫ったこの時に、私はやっと自分の卒論に立ち向かった気がしている。もちろん、それまでも考えてこなかったわけではないが、沢山の遠回りを繰り返して、やっと卒論への道筋に向かって歩き出したような気分だった。
 この時がなければ、私は卒論にきちんと向き合うこともなく、「なんとなく」で卒論に向き合い、もしかしたら書きあげることもできなかったかもしれない。
 この時、最終的に決まった卒論のテーマは「『週刊セブンティーン』読者投稿欄に見る読者の期待と欲望」。
 集英社が発行していた『週刊セブンティーン』の読者投稿欄を調べ、読者の期待や欲望がどのように雑誌に組み込まれていっているのかを調べることとなった。


4-3 卒論を提出して

 そうして、ほぼ1カ月で資料を調べ、書きあげた卒論は、お世辞にも良い出来とは言い難いものだった。私の卒論は、ただ調べた結果を挙げ連ねただけにすぎず、枚数だけが多くて非常に不格好なものだった。それはまだ、研究段階の膨大な資料をただ開示しただけにすぎないものだったからだ。
 最終的に調べられたのは、創刊からの4年分(週刊セブンティーンの発行年は、1968年から1988年までの20年間)、冊数としては約200冊。
 卒論を書き終えた時、私は自分の調べたこの4年分が、ただの始まりでしかないことを強く実感した。それは、口頭試問の時にも指摘されたことだった。私の調べた中で、4年間のうち初めの3年間は、読者投稿欄を通じて読者たちが会話をしているという特徴がみられた。それは最後の1年間で段々と消えていくもので、口頭試問の時に、ここが出発点となるべきところだと指摘を受けた。確かに、このような特徴はその後の投稿欄では見られず、他の雑誌の投稿欄でも、今ではほとんど見られないことだろう。だからこそ、なぜ最初の3年間だけがこのような特徴が見られたのか、なぜ見られなくなっていったのか、それこそが研究の始まりになると指摘されたのだ。私は、卒論を書くための、研究の第一段階を終えただけだった。私の卒論は、始まってもいなかったのだ。
 それは、資料を調べていていた時にに、少し自分でも実感していたことだった。時間の無さ、調べた資料の少なさを実感する度に、ひどく落ち込むこともあった。だが、まぎれもなく、それが自分の1年間の結果だった。
 口頭試問を終えた時、先生から言われた言葉と、1年間の自分を思い返すと、おそらく1年前に戻っても同じ結果が待っているだろうと思った。
 今の私に必要なのは、この1年の自分と、卒論を書いてきたことで見えてきた自分の弱い部分や、逃げようとする部分にしっかりと向き合っていくことだと感じた。口頭試問を終えて1カ月が過ぎた今、自分がどのくらいそれを実行できているのか、あまり自信はない。
 だが、もう逃げずに、言い訳もせずに、物事に向かっていきたいと思う。
 こう思えて、自分の弱さを知ることもできたこの1年間は、卒論の目標は達成できなかったが、良い経験をさせてもらえた貴重な1年間だった。
 ここで学んだものを、今後に活かしていけるかが本当に大切になってくるのだと思う。逃げずに、進んでいきたい。

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