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だから私は、学びたい ~がんを乗り越え、出会った世界~

2021.11.30

両目と右ひざに障がいがあり、白杖を使って生活する松岡さん。これまで三度のがんを経験しました。13ヶ月のドイツ留学、そして教育実習にも挑戦した松岡さんは、「たとえ他の人が反対したとしても、自分が“これをやりたいんだ”と決めたことはなんでも挑戦していきたいんです」と語ります。彼女の強い意志はどのようにして培われたのでしょうか。一歩一歩力強く歩んできたこれまでの半生とともに、紐解きます。

松岡 琴乃 心理学部 教育発達学科 4年 1歳8ヶ月から小学5年生にかけて三度のがん(網膜芽細胞腫、骨肉腫)を発症。この経験から、病気や障がいなどさまざまな理由で生きづらさを抱える子どもたちを支える仕事がしたいと考え、教育発達学科に入学。好きな言葉は「Never say never」

頭の中はドイツ一色

大学生活でもっとも勉強したことは? この問いには「ドイツ語!」と迷わず答えます。 1年次に外国語基本科目が必修だったのですが、その時の「ドイツ語1A」の授業がきっかけです。履修した際は、正直なところ「何となく」の気持ちが強かったです。しかし授業を受けてみてびっくり。良い意味で大変緊張感のある授業で、毎週の授業についていくのに必死でした。そのうちに、授業中に先生から間違いなどを指摘されるととても悔しい気持ちになっている自分に気づきました。悔しさがエネルギーとなり、気づくとYouTubeでドイツ語を自習するほどドイツの虜に。留学したい気持ちが少しずつ芽生えてきました。2018年2月にはイギリスに1ヶ月間短期留学へ。一番驚いたことは現地学生の勉強に対する貪欲さです。日本では「空気を読む」という表現がありますが、例えば授業中でも誰も手を上げないと「手を上げたいけどやめておこう」と周囲に同調しているような場面を見かけます。しかし、イギリスの学生たちは真逆で、良くも悪くも気づいたこと、感じたことをストレートに伝えていました。この文化が個人的にはすごくしっくりきたのです。「やっぱりガツガツいかないともったいないよね!」と。ドイツ留学を決心したのは、そんなイギリスの体験にドイツ語に対する強い関心が重なったからかもしれません。大学とドイツ語の専門学校をダブルスクールする1年間を過ごしました。2020年2月に念願のドイツへ。ビザや保険の手続きなど手間取ったこともたくさんありましたが、周囲の助けもあり、なんとかドイツの生活をスタートさせることができました。

その後すぐに新型コロナウイルスの影響で学内の外国人向けの語学講座が閉講になり、現地の学生と同じ授業を受けることになりました。しかし授業中のやりとりをドイツ語でこなすには自分のドイツ語のスキルはまだまだ未熟。現地の市民学校に赴き、日本語を学ぶドイツ人に日本語を教えながらドイツ語を学んだり、ある先生にはほぼ毎日一対一のドイツ語授業をしてもらったり。ドイツの学生とランゲージエクスチェンジによる相互学習もして、ドイツ語を徹底的に勉強し直しました。その甲斐あって毎日「昨日よりも、ドイツ語がわかるようになっている」と実感できるほどに。現地のドイツ語教員や学生の会話が理解できるようになったときは感動しました。ドイツで過ごした13ヶ月間は、本当にあっという間に過ぎていきました。

がんと私

「ドイツ」を目標に必死に勉強できたのは、がんと向き合った経験があったからかもしれません。

物心ついた時から、がんはとても身近なものでした。1歳8ヶ月の時に発症した網膜芽細胞腫という右目の小児がんから始まり、4 歳の時には左目にもがんが、そして5年生では骨肉種という小児がんが見つかりました。小学校1年生の秋には網膜剥離になり、2度の手術も経験しました。自分は早く死ぬかもしれない。幼少期からこのように考えざるを得ない場面が幾度もありました。特に記憶に残っているのは、網膜剥離の手術を受けた8歳の頃です。主治医の先生は母だけを診察室に入れて手術前の説明をされました。成長した今では主治医の先生の配慮は理解できますが、当時の私はそのことにとても憤りを覚えました。「自分のことなのに、なんで先生は私に説明してくれないのだろう?」と。目が見えなくなるかもしれないのなら、今のうちに見たいものをたくさん見ておきたい。できなくなってしまうことがあるのなら、やっておきたい。そう考えていたのです。健康な身体であってもそうでなくても、人生という時間は限られています。このことから、「“これをやりたいんだ”と決めたことはなんでも挑戦してみたい」と考えるようになりました。

勉強に専念してしまった

中学高校と進むにつれて、私は先生になりたいと強く思うようになりました。きっかけは小学5年生の頃に入院していた病院の中にあった院内学級の経験です。院内学級は、私と同じようにがんの治療に取り組む子どもたちが通う学校です。当時は小学生から高校生まで十数名が一つの部屋で勉強に励んでいました。そこで出会ったある先生がとても優しく、生徒一人一人をまるで自分の子どものようにかわいがってくださいました。嫌でも死と向き合わなければいけない極限状態にいたため、先生の一つ一つの愛情がある行動や言葉は大きな救いでした。

救いもあれば、悲しい思いもしました。院内学級ではかけがえのない仲間との出会いがありました。2 人だけで合奏したり、テストを受けたり。たくさん笑い、励まし合いました。彼女の存在なくして大変な治療は乗り越えられなかったと思います。その後、私は彼女より早く回復して退院したのですが、「自分だけ回復してよかったのか」と自責の念に駆られるようになりました。お見舞いに行きたい。だけど行って良いのかな。こんな思いを振り切るように不眠不休で点字と学校の勉強に取り組みましたが、15歳のとき。彼女との一生の別れが訪れました。 「勉強に専念してしまった」 振り返ると、こう表現せざるを得ません。

将来は病気や障がい、また、さまざまな理由で生きづらさを抱える子どもを支える仕事がしたい。この経験もあり、そう強く思うようになりました。高校の先生にも「小学校の先生になりたい」の一点張り。なんとか小学校教員免許が取れる明治学院大学の教育発達学科に入学することができました。

「友達ができるだろうか」「周囲は私のことを変な目で見ないだろうか」 入学時はこのような不安に襲われましたが、教育発達学科のオリエンテーションの時間に、自分の障がいのことも含めて自己紹介をさせてもらったのです。大きな効果がありました。「すごいね」「立派だったよ!」など学科の同級生に声をかけてもらえて、思っていたより早く打ち解けることができました。学科の授業、特に音楽の授業では、現在はゼミでもお世話になっている水戸博道先生が毎回の課題曲を録音してくださっています。学生サポートセンターの皆さんにもたくさん支えてもらいました。目的の場所まで一緒に歩いてもらったり、勉強に関するさまざまなサポートを受けたり。本当に感謝しています。

やっぱり、子どもと向き合っていきたい

ドイツから帰国した後の話に戻りますが、2021年6月から7月にかけて小学校教育実習に、そして10月には特別支援教育実習に参加しました。障がいがある私が児童たちを教え、見守ることのやりがいと難しさ。良くも悪くも教育現場の現状を理解することができました。それ以上に尊い経験となったのは、子どもたちの純粋な気持ちに触れたこと。「なんで右目と左目が違うの?」「ゾンビだー!」 私の容姿を見て子どもたちはそんな声を挙げました。対する私は「ゾンビだぞ~!」と追いかけるそぶりをする始末。私は、子どもはこうあって欲しいと思っているのです。場合によっては子どもの言動が非難される、指導すべき場面もありますが、思ったことを素直に表現し、周囲の大人が寛容に受け止めること。先生になるハードルの高さを実感した以上に、子どもと向き合っていきたいという気持ちを再認識することができた時間でした。

私は今日も学ぶ

ドイツ語との出会いをくださった先生や、私を決して甘やかさずに導いてくださったゼミの水戸博道先生、いつも隣にいてくれた友人たちや教職員の皆さん。そして家族。数えきれない人たちのおかげで今の私がいますし、感謝してもしきれません。今も「子どもたちを支える仕事がしたい」と考える気持ちは揺らぎませんが、その手段は教師ではなくライターにシフトしつつあります。自分の体験を本にしたい。子どもに手をとってもらえるような絵本を書きたい。まだまだやりたいことがどんどん湧いてくる毎日です。

闘病、友達との出会いや別れ。留学や教育実習。全てを経て言えることは、私は新しいことを学ぶことが大好きということ。知らない世界が自分の前に広がった時の驚き。そして足を踏み入れるときの高揚感。「三度もがんを患いながらも自分は生きている。生かされている自分にはきっと何か意味があるはず」 大学に入るまでは自分を励ましていましたが、大学生活を経て、今では前向きに、自然と考えられるようになりました。

自分の生きる意味を確かめるため、私は今日も学びます。

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