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教員

美学をベースに、演劇やダンスなどの表現から、人間と社会の未来を考える

文学研究科 芸術学専攻
富田 大介 准教授

論文も一つの「作品」

私の研究領域は、美学、芸術社会論、ダンス史、アートプラクティスです。これらは、哲学や社会学、文化史などの文献を読むことを研究の柱にします。ですので私は、基本的に書物と向き合う時間を大切にしていますが、他の研究者に比べると多分フットワークの軽い方で、踊りや芝居を見に行ったり、WSや創作に加わったりしています。心に残る上演については、レヴューや報告を書くこともあります。

来年、2025年1月17日は、阪神・淡路大震災の発生から30年になります。私はこの7、8年、災禍における人の心性や振る舞いに関心をもち、その実践と研究を少しずつ進めてきました。今年刊行された『残らなかったものを想起する-「あの日」の災害アーカイブ論』(高森順子編、堀之内出版)のなかに「カタストロフィの演劇体験-『RADIO AM神戸69時間震災報道の記録』リーディング上演 省察」という文章を寄稿しています。副題の『RADIO AM神戸69時間震災報道の記録』は、1995年の地震発生直後からAM神戸(現ラジオ関西)が69時間にわたって特別報道体制で生放送した内容が、テキスト化されたものです。私は、2016年頃から「紛争・災害のTELESOPHIA」というプロジェクトの一環で阪神・淡路大震災についての調査・表現活動に携わってきましたが、そこで有志たちとこの記録を読むワークショップや試演会を行ないました。「カタストロフィの演劇体験」という論文は、そのWSや試演会から発展した(実際にラジオを使用した)聴覚的演劇「『RADIO AM神戸69時間震災報道の記録』リーディング上演」をもとにしています。それは、この演劇に参加した人たちの心持ちや考え方を省みながら、私を含むその人たちが災禍から何を引き継ぎ、表し、残していくのかについて書いたものです。

その論文の文体は、学術論文でありながら少し特殊なものになりました。一読して小説に近い印象を受ける人もいるかもしれません。しかし私自身には、そうせざるを得ない何かがありました。自然とそのようになった執筆の体験は、私にとっても驚きで、なにより貴重でした。論文も楽曲のようなものなのですね。その流れには心の情態がある。リズムや持続感があるんです。それが文体を特徴づける。論文は、なので戯曲や小説に類するいわば「作品」でもあるわけです。しかもその文を紡ぐには、物を書く動機となった心情や感覚を呼び起こしつつ、知的な明証性を確実にしてゆくという難度の高い技が求められます。自分の文体を見つけるまでには時間を要しますが、一度この執筆の精神的高揚を味わうと、もう他の仕事には満足できなくなります。

人間的知性を超える存在

ダンスや演劇が私にとって大事な分野であることには変わりませんが、私がいま最も関心を寄せているのは、少し大きな話になりますけれど、人間の行く末というか、人間(の知性)を超えた存在についてです。フランスには「自由・平等・友愛」という理念がありますが、この三つにおける鍵は「友愛」で、ここに民主主義の本丸があります。多くの人が「自由」の問題を語りますが、肝要なのはその自由を支える福音的な愛ではないでしょうか。自然の性向(家族愛や祖国愛)を超えた人類愛へのジャンプは容易ではないと思いますが、身近な人や同じ言葉を話す人への同胞意識に限らない、仲間としての友愛をどう広めていけるか。人類の歴史には聖フランチェスコやジャンヌ・ダルクなど、幾人かの偉人が現れていますが、彼らの熱がもたらしたエートスの変化や拡張によって、私たちもいま少しずつ国を超えた人たちへの共感や、人間だけでなく動植物への仲間意識を持てるようになってきています。自らのエゴを優先させるのではなく、他者や自然、生き物への敬意を持つことのできる人をどうやったら増やせるのか。そのために、人間が生み出した芸術という表現形態がどう役に立つのか。これがいま私の関心のあることです。

このことを自分の分野に引き付けて補足すれば、芸術(家)が自己愛=表現欲に留まらない活動に入った時、フェーズが変わるような気がします。実際にそうしたアーティストは既に現れていて、たとえば舞台芸術の世界では、演劇作家・岡田利規主宰のチェルフィッチュと美術家の金氏徹平が共同でつくった『消しゴム山』という作品などにそれは表れています。この作品は近年稀に見る傑作だと思いますが、それは人間が人間のことだけを考えて山を削る、その途方もない規模の工事(陸前高田)の光景に作家らが違和感を持ったことから生まれました(参照URL:https://www.keshigomu.online/)。この作品を見る私たち鑑賞者は、客席に座りながら、想像力によって、舞台上の美術=物の立場へと身を移します。舞台上の物へと心を移植させ、そこから俳優を見る=俳優とコミュニケーションをとるようになる。これは、私たちが演劇を演劇として鑑賞することのできる能力(それを「創話的機能」と言います)を躍進させる表現だと思うのです。この水準の作家たちは、人間を人間たらしめている知性以上の何かを開かせてくれているのではないでしょうか。

自分のなかに「切実な問い」を持っているか

大学院では、学部よりもじっくりとテキストに向き合う授業をしています。学部では「古典」といわれる名著を読むのは、大切なことではあれ、学生にとっては少しとっつきにくいかもしれませんし、読書を面白いと思えなくなってしまうこともあるかもしれません。しかし、大学院の授業では名著を扱うに限ります。外国語であれ、日本語であれ、読み飛ばすことなく文章とじっくり向き合い、1日1ページしか進まないこともある。学部生に対しても大学院生に対しても、私の関わり方にさほど違いはありませんが、発表時の指摘や論文の指導については、大学院生に対してのほうが少し細かく(厳しく)なっていると思います。私が気にしているのは、その子が「(切実な)問いを抱えているか」です。「なぜ〇〇なのだろう?」という疑問をもたない人、あるいは卒業論文に情熱をもって挑めなかった人は、急いで進学しなくてもよいのではないでしょうか。就職した後で問いがふつふつと沸き起こり、それから大学院に進んでも遅くありません。進学するか否かを迷った時は、「自分のなかに問いがあるかどうか」を自問してみてください。

一方で、最近は、研究以上にいま自分の行なっている活動を充実させるため、少し時間が必要ということから大学院というポジションを活用する人が増えているようにも感じます。大学院を社会の一つの足場としてその環境を使いたいというニーズがあるのは興味深いですし、例えば芸術に関して理論と実践の専門家がともにいる明学の大学院は、そうした人の役に立つところかもしれません。

明学の大学院は、図書館の充実からも評価できると思います。私は、大学院に進学することで図書館の見え方が変わった人のひとりです。図書館という所は、作品の宇宙です。むろん、ネットの動画やテレビ番組、演劇なども作品ですが、20年かけて作られたものにはそう出会えませんよね。しかし、研究の世界には、何十年もかけて書かれた本や論文がたくさんある。私はその個々の作品の読み応え、噛み応えを知った時、図書館が宝の山に感じられてトキメキました。なかでも、「古典」と呼ばれるものは、多くの人が「これは大切にしよう」と残してきたものです。本は100年、200年、中には1000年後に読まれることもある。執筆した本人でさえ想像もしなかった後世の人たちに届く可能性があるのです。大学院はそういうスパンで物事を考える力を養えます。それに、自分の書いた文章や作った本がその一つでもあり得ると思ったら、嬉しくないですか。問いは立て方を誤らなければ、見つけたときに解かれるべきものとしてあります。大問題を発見してしまうこともあるでしょう。でも、案ずること勿かれ。パスカルは言ったそうです。「気を落とさないように。もしおまえが既に私を見つけ出していなかったならば、そんなふうに私を探し求めたりはしないはずだから」(『イエスの神秘』)と。