デジタルな日常を守る数学 ―暗号理論から考える”Do for Others”なテクノロジーとは
スマートフォンでオンラインショッピングをする。マイナンバーカードで電子署名する。私たちが日常の中で何気なく行うこうした行為の裏側には、ある高度な数学の理論が静かに、しかし確実に働いています。それが穴田教授が専門とする「暗号理論」です。個人の暮らしから国家の安全保障まで、あらゆるレベルで情報通信の安全性が重みを増す中、穴田教授は、プライバシーが守られる新たな暗号理論の研究を進め、さらに本学の教育理念”Do for Others”に基づく情報数理教育にも取り組んでいます。


穴田啓晃
情報数理学部情報数理学科 教授
情報セキュリティ大学院大学情報セキュリティ研究科情報セキュリティ専攻博士後期課程修了。博士(情報学)。日本電気株式会社に研究開発・技術者として勤務する傍ら、博士課程で暗号理論を専門に研究。長崎県立大学情報システム学部教授、青森大学ソフトウェア情報学部教授を経て、2024年4月より現職。
紀元前から続く暗号理論の歴史
私はコンピュータ科学という分野を専門とし、現在はその一領域である暗号理論を研究しています。
暗号の歴史は古く、古代ローマの軍人・カエサル(シーザー)は、アルファベットを一定の文字数だけずらす「シーザー暗号」を用いていたと言われています。それから2000年もの間、主に軍事や外交の世界で使われてきた暗号理論を多くの人が利用する転機となったのが、1970年代の「公開鍵暗号」の発明でした。
公開鍵暗号方式は、暗号化する鍵と元に戻す復号鍵の2つで構成され、暗号化する鍵だけを公開し、復号鍵は情報を受け取る側だけの秘密にしておくことで、安全に情報をやり取りする仕組みです。インターネットは、それまでの通信とは違い、不特定多数と情報をやり取りでき、しかも通信の途中で情報を第三者に盗まれてしまう可能性が常に存在します。公開鍵暗号の理論に基づく技術は、そうした環境下でも安心・安全に、盗聴や改ざんのないメッセージやデータのやり取りを可能にしました。
インターネット上の認証や署名に広く利用される身近な技術でありながら、暗号の設計や解析には、深い数理的思考が必要です。複雑な数式のほんの数行、わずかな設計の巧拙が、暗号が機能するかどうかを決定的に分かつ。それが暗号理論の世界です。研究の過程では、式変形を何度も繰り返して論理を積み重ねていくわけですが、そのステップはまるで「綱渡り」。この式変形は本当に正しいのか。何か見落としているんじゃないか。そんな議論を何度もしながら、綱渡りのように細い一本道を渡っていくスリルが味わえるのは、この分野のたまらない魅力です。
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例として、私たちが毎日利用しているインターネットで説明してみます。メッセージのやり取りの「向こう側の相手」は本当に自分が思っている相手なのかどうか、は確認すべきことでしょう。その「本人確認」において、当人しか知らないはずの秘密を直接教えてもらえれば納得できますが、それは無理です。というのも、相手から秘密を教えてもらうと今度はそれを用いて自分が相手になりすませる可能性が出てきてしまい、トラブルのもととなるからです。ですので、相手からするとどうやって秘密を漏らさず納得してもらおうかと考えることになります。図式の1行目は「自分の秘密を確かに知っていると相手に納得してもらうこと」を、2行目は「相手に自分の秘密が確かに漏れないこと」を設計する指針となる式です。このような相反するかに見える2つの性質を両立する繊細な数理の設計を緻密に作り込む、という訳です。

【図解】インターネット上の本人確認に用いられる数式の一部
そんな「綱渡り」を続けていると、「目に見えるものだけが重要ではない」という感覚が生まれてきます。サン=テグジュペリの『星の王子さま』に「いちばん大切なものは目に見えない」という言葉がありますが、目には見えない愛や信念が人間にとって本質的に大切であるように、数理もまた、人と社会を支える「目に見えない大切なもの」だと思っています。
匿名性と追跡可能性を「公平に」実現する
私が今研究しているのは、ネットワーク上のサービスにおいて、「ユーザーの匿名性」と「管理者による追跡可能性」という相反する2つの性質を両立させる暗号アルゴリズムの開発です。
インターネットなどのネットワークを経由したサービスで、ユーザーの匿名性が保証されることは、プライバシーの保護の観点からとても重要です。その一方で、SNSなどでは匿名による誹謗中傷が毎日のように起こり、深刻な社会問題となっています。誹謗中傷を受けた人が法に則って発信者情報の開示請求を行った場合、SNSの運営事業者は、発信者の履歴やデータを追跡し、ユーザーを特定しなければなりません。つまり、匿名性のあるサービスであっても、管理者が“監視”できること(追跡可能性)は「必要なもの」として社会に認知されています。
しかし、その追跡権限は、濫用される危険をはらんでいます。2013年に起きた「スノーデン事件」では、暗号化されているはずの個人の通信情報を国家が大量に入手していたことが暴露され、暗号通信を解読できる「裏口鍵」の存在が取り沙汰されました。そこから見えてくるのは、法的な根拠なしに運営事業者がデータを追跡したとしても、ユーザー側がそれを知ることは難しいということ。つまり、匿名性よりも追跡可能性に重きが置かれているという現実です。そこで私は、「匿名性と追跡可能性をいかに公平にするか」をテーマに、2つの性質を両立させる暗号理論の研究に注力しています。
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ユーザー側にも権限 より公平な仕組みに
直近の研究では、匿名デジタル署名の一種「グループ署名」の技術にアプローチしています。グループ署名とは、公開鍵暗号などを使い、グループに所属する誰かが署名したことは証明され、どのメンバーが署名したかは特定されないデジタル署名の仕組みです。直近の研究では、匿名デジタル署名の一種「グループ署名」の技術にアプローチしています。グループ署名とは、公開鍵暗号などを使い、グループに所属する誰かが署名したことは証明され、どのメンバーが署名したかは特定されないデジタル署名の仕組みです。
これまでの研究によって、この方式でグループ署名を生成する際、「誰が開封可能か」を署名したメンバー側が指定できる設計が可能になりました。たとえば、ある部署にa、b、cの3人のメンバーがいて、代表してbさんがデジタル署名を作るとします。この時、bさんが「マネジャーまたはCEOが開封可能」と指定すると、マネジャーとCEOは「bさんが署名した」と知ることができ、工場長などほかの人には「グループの誰かが署名した」ということだけが分かるというものです。この方式は、ユーザー側に「情報を追跡されてもいい相手」を選ぶ直接的な権限を持たせることで、追跡可能性に傾いたバランスを公平に近づけることができると考えられます。

【図解】「誰が開封可能か」を署名するメンバー側が指定できるグループ署名方式
ただ、実はこの仕組みは、署名を開封する鍵を発行する管理者が、全てのグループ署名を開封できる「マスター鍵」を持つことを前提としています。そうした“全権保有者”がいるのは、プライバシーを守る上で望ましいことではありません。そのため、マスター鍵のない状態でも匿名性と追跡可能性が両立する設計を目標に、さらに研究を進めています。
匿名性を守りながら、必要な時はユーザーの理解の下で管理者が“公明正大”に情報を追跡する。そんな仕組みを作ることができれば、安全安心な通信をより公平に実現できると考えています。研究のゴールはまだまだ先ですが、長い道のりを一歩ずつ進んでいるところです。
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情報数理学にこそ必要な”Do for Others”
本学は現在、大学院情報数理学研究科の開設を計画しています(2026年8月現在設置認可申請中)。研究開発職など専門性の高い職種では、多くの企業が修士レベル以上の知識と思考力を持った人材を求めています。情報数理学研究科の開設は、より専門性の高い研究に打ち込む環境を学生に提供し、進路選択の幅を広げることにもつながります。その研究科での学びについて、先日私は学生の保証人(保護者)の皆さんに「真理の探究をします」とお話ししました。数理の分野で真理を探究する、と聞くと、学生や保証人の方には「それは仕事に結びつくの?就職先はきちんと見つかるの?」と心配されてしまうかもしれません。これに対し、これまでお話ししてきたように、スマートフォンやインターネットに囲まれた私たちの生活は、数理の論理網に点在する真理によって支えられています。数理の真理は時代を追うごとにその重みを増し、中でも情報数理学部の研究領域である量子情報、AI、暗号理論を用いた情報セキュリティの真理を探究することは、社会の要請に応える営みでもあります。昨今、AIの発達が人の仕事を奪うのではないかと話題になっていますが、「自分にはどんな仕事ができるんだろう」と不安を抱いている若者こそ、社会のさまざまな分野を支える情報数理を学んでほしいと思っています。
数理の真理の探究と合わせて、我々にはもう一つ考えなければならないことがあります。それは、「テクノロジーとはどうあるべきか」という根源的な問題です。
2007年にApple社が最初のiPhoneを発表してから、まもなく20年が経ちます。スマートフォンは世界の人々の生活を変え、今や赤ちゃんでも画面をスワイプする時代になりました。あと50年もすれば、もはや人々はスマホを手には持たず、その代わり人体にさまざまなマイクロコンピュータや通信機器が埋め込まれているかもしれません。その頃には、人とAIの境界も今よりずっと曖昧になっているでしょう。
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情報通信の世界ではよく、端末がネットワークに“ぶら下がる”という表現をします。すでに自動車がインターネットにぶら下がり、位置情報や運転データを収集されているように、人体そのものがネットワークの一部になり、人がネットワークにぶら下がって生きる時代が来た時、プライバシーの保護は今とは比較にならないほど深刻な問題になるはずです。テクノロジーが高度に発展した世界で、人々を守る仕組みとはどうあるべきか。そしてその仕組みを数理の論理網でどう実現するか。それを考えるよりどころになるものこそ、本学の教育理念である”Do for Others(他者への貢献)”だと私は思っています。誰でも気軽に生成AIを利用できるテクノロジー全盛の時代だからこそ、「本当にそれでいいのか」と真剣に問う姿勢と倫理観もまた、重要性を増しています。「人間とは何か」を探究する人文社会科学の長い歴史を持つ明治学院大学に、情報数理学部が誕生した意味がそこにあります。
じっくり学んだ者だけが到達できる面白さ
暗号理論は、世の中の役に立つやりがいのある学問ですが、私がこの領域の研究をしている本当の動機は「面白いから」です。先人のアイデアはとてつもなく面白い。ただ、その面白さは、じっくり考えて勉強してはじめて気付くことができるものです。そして学問の面白さは、難度が高くなればなるほど、対面でなければ伝えることができません。じっくり考えるだけの時間的投資をする機会が生じないからです。そして、人間とほかの生き物の違いは、遺伝子だけでなく文化資産も継承できることにあります。大学とは、教員や先輩が文化資産を対面で伝え、学生や後輩はそれを理解して創意工夫を加える、文化資産継承の場です。私自身、「自分の受け継いだものを学生に伝えなくては!」と一生懸命になって毎日を過ごしています。ぜひ本学で情報数理の真理を探究し、その世界の奥深さと面白さを感じていただきたいですね。
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研究者情報
明治学院大学は、研究成果の社会還元と優秀な研究者の輩出により、社会に貢献していきます。
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