文学研究とは、“人間理解の基礎研究” 批判的な他者を説得できる力を身につけてほしい

英国でファンタジーの名作が次々に生まれる理由
『不思議の国のアリス』や『ピーター・パン』、『ナルニア国物語』や『ハリー・ポッター』など、英国では数多くの児童文学、とくにファンタジーの名作が生み出されてきました。そのほか推理小説、伝記、旅行記、博物誌、推理小説といった特定のジャンルにおいても、数々の英国の作品が世界中の読者を虜にしています。いったいなぜ英国では、こうした名作が次々と生まれるのでしょうか。そこにはどのような背景があるのでしょうか。そのような視点で、英国の文学作品および英国史、英国文化史の研究に取り組んでいます。
私は学生時代から英国文学に惹かれ、多くの作品を片端から読み解くうちに、ある共通点に気づきました。それは、英国では古い屋敷を舞台にし、かつ「時間」をテーマにしたファンタジーの名作が非常に多いということ。つまり、意図せずして時間を移動してしまうという、いわゆる「タイムファンタジー」です。たとえば私が大学の卒業論文の研究テーマとした『ナルニア国物語』は、英国の作家・英文学者のC.S.ルイスが1950年から1956年にかけて発表した児童向けのファンタジー小説シリーズです。第二次世界大戦中に疎開した4人の兄弟姉妹が、衣装ダンスの奥から未知の国「ナルニア」へ行き来し、冒険を繰り広げるという物語は、“異世界ファンタジー”のようにも思えます。しかし、ナルニアは必ずしも「異世界」ではなく、明らかに過去の英国のような世界です。間違いなく、過去の英国やアイルランドを彷彿させる世界なのです。
こうした過去にタイムスリップする物語の根底にあるのは、英国独自の文化的背景だと私は考えています。英国には何百年という壮大な時間のスケールをもつ古い屋敷と庭園、伝統的な生活様式、それに古い伝説などが受け継がれ、古いものほど値打ちがあるという価値観があります。さらに狭い島国ながら自然の生態系が多様性に富み、変わりやすい気候のもとで各地の歴史と風土が紡がれてきました。そうした文化的、風土的背景から、英国では独自のタイムファンタジー小説が多く生まれてきたのだと考えられます。ちなみに日本は木造建築が多く、自然災害が頻発することから、寺社仏閣などの伝統的建造物を除けば、古い建物が残ることが少なく、家はなるべく新築がよいという価値観が広まりました。圧倒的に時間の尺度が違う英国の古いものに惹かれる日本人が多いのは、そんな文化的な違いもあると考えられます。

社会が激変する「断絶の時代」に名作が生まれる
英国ではファンタジーの名作が、ある時期に集中して誕生していることにも気がつきました。それは1860年代、1900年代、1950年代、1990年代です。英国の歴史をひも解くと、いずれも何らかの「断絶」があった時期であることがわかります。
たとえば1860年代は、ヴィクトリア時代の急速な工業化と都市化。そしてダーウィンの『種の起源』の出版から巻き起こったオックスフォード進化論争。社会構造が急激に変化し、世の中の価値観がひっくり返るほど、社会が混乱を極めていた時期と言っても過言ではありません。1865年に刊行されたのが『不思議の国のアリス』です。1900年代といえば、大英帝国の「終わりの始まり」と言われる時代。植民地をめぐるボーア戦争がありました。この時期に登場した物語の主人公の一人が、「大人にならない少年」ピーター・パンです。第二次世界大戦後の1950年代から1960年代は、植民地の独立が相次ぎ、大英帝国が名実ともに「終わりの終わり」を迎えた時期。イギリスの「アイデンティティ・クライシス」あるいは「伝統喪失の危機」ともいわれます。この時期に誕生したのが、『ナルニア国物語』をはじめ、『グリーン・ノウの子供たち』(1954)、『トムは真夜中の庭で』(1958) 、『思い出のマーニー』(1967)といった名作群です。
これら “ファンタジー黄金時代”の名作には、英国文化の本質を追求する作品が非常に多く、そこには「英国的伝統がどこにあるのか」というテーマが根底に流れています。現代では、2017年にノーベル文学賞を受賞した長崎市出身の英国人作家、カズオ・イシグロのテーマも然り。失われゆく伝統的英国が美しく描かれた代表作の『日の名残り』は、非常に注目すべき作品です。
ところで英語は、おそらく世界的に見ても珍しいほど複雑な言語です。そのルーツは約1500年前に遡るとされ、現在のイングランドに渡来したゲルマン系部族の言語がフランス語、北欧語、ラテン語など他言語の影響を受けながら発展してきました。近年は「ツナミ」や「カラオケ(カラオウキー)」などの日本語もそのまま融合しています。つまり、「外来語を柔軟に吸収する」ことが英語の特徴のひとつであり、それは日本語にも通じるところです。この点で英語と比較しやすい言語が、フランス語です。フランス語は文法理論が非常に複雑な代わりに例外が少ないのですが、英語はその正反対で「基本的な原理は単純だが、例外が極めて多い」という言語。理屈では絶対についていけない、それが英語です。英語の綴りと発音の法則の不規則さは、極端な言い方をすれば “無法地帯”。中学生や高校生の英語学習者にとって悪夢のような難しさだと思いますが、しかし、そこも「英語の面白さ」です。長い歴史の中で形成された奇妙な慣例、慣用表現も英語の魅力となっています。
文学研究は、人間を理解するための基礎研究
語彙が豊富で構造が複雑な英語は、多様性に満ちた言語です。しかし、実はそんな英語の複雑さと多様性こそが、文学表現に適していると考えられないでしょうか。というのも、英語は単調さを嫌う言語であり、同じ語句の繰り返しを避けて同じ意味でもあえて別の語句を使い分けます。たとえばわざと昔の綴りを使って古風な雰囲気を出すなど、言葉の使い分けにより、さまざまなニュアンスを表すことが出来るのです――日本語でもわざと旧字体を使って古風な雰囲気を演出することがありますが、あれと同様です。このような文学的表現は、多くの他言語の融合によって成り立ち、同じような意味の単語や句がいくつも存在する英語だからこそ可能なこと。『ハリー・ポッター』シリーズも、子供にわかるレベルで意識的に古い言葉を使用しています。そこにはやはり、「古いものに価値がある」という英国の文化的背景も感じられます。英国文学にはこのように知れば知るほど、奥深い文化的側面が隠れているのです。
英国文学のみならず、そもそも文学研究とは人間理解の基礎研究です。人間理解を目的とする学問ですから、“即物的な”役には立たないかもしれません。しかし、我々が生きるうえでもっとも大切なことは、心豊かに楽しく暮らすことでしょう。現代社会は結論を急ぎ、効率のよさばかりを求める風潮がありますが、そんなことをしているから殺伐とした世界になってしまうのです。そのような社会にこそ、人生を豊かにする文学が不可欠です。私たち文学研究者の役割は教壇に立つばかりではなく、積極的に外に出て、より多くの人々にその豊かさを広く伝えることだと考えています。
大学院で身につけてほしいのは、「批判的な他者を説得できる力」です。文学作品の解釈に「正解」はありません。自分の解釈を意見の異なる人に伝えて、相手を説得できるかどうかがすべてなのです。つまり、自分とはまったく違う立場の人を説得できるだけの、論理的思考力を鍛えることが不可欠です。論理的な思考の土台は、想像力です。人の気持ちを理解するためにも、何かの目標に向かって努力するためにも、あるいはたとえば料理にも安全運転にも、あらゆることに想像力が必要です。想像力を鍛えるもっともよい方法は、文学作品を読むことです。膨大な先行研究を道標とし、ぜひ自分だけの研究を確立してください。大学院での研究に必要なのは、基本的な英語力と想像力を土台にした論理的思考、そして何よりも知的好奇心。これらを携えて、ぜひ自分にしか出来ない研究の確立に挑戦してほしいと思っています。
