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教員

観光と移動に着目した地域研究
激変するネパールを30年研究して見えること

国際学研究科 国際学専攻
森本 泉 教授

偶然からスタートしたネパールの地域研究

私の専門分野は人文地理学です。「観光」や「移動」に着目しながら、ネパールをフィールドに30年にわたって地域研究を続けてきました。なぜネパールだったのかというと理由は単純で、大学院の修士課程に進んだ時、指導教官ではなかったのですが、所属先の先生から、「君はネパールの研究をしなさい」と言われたからです。今だったらアカハラ(アカデミック・ハラスメント)かもしれませんが(笑)、「ネパールは安全な国だし、君は身体が頑丈そうだから」という理由で、半ば強引にフィールドを決められてしまったのです。実はネパールは1996年に「人民戦争」が勃発して内戦状態になるのですが、確かにこの時点では日本からみると安全な国でした。

私は高校の教員になるために大学院で学ぼうと思い、当初は小笠原諸島の地域研究をしようと考えていました。他方で、「なぜ人は用もない場所にフラフラと出かけて行くのか」ということに関心がありました。つまり、いま研究している観光や移動について比較的早い時点から関心があったのですが、それまで全く知らなかったネパールというフィールドを与えられて、両者が重なっていくようになりました。

1994年の夏に初めてネパールへ調査に行ったのですが、とにかく人が優しく、そして食べ物が、今で言うオーガニックでとても美味しかったこともあって、この国が気に入りました。1990年代のネパールはインフラが整備されていなかったため、現地調査では車道から離れた村まで険しい山道を歩くこともありました。日本では古くから生活しやすい川沿いに集落が発達してきましたが、ネパールではマラリアを媒介する蚊が発生する川沿いを避けて山や丘の上に家を建てることが多いので、村に辿り着くまで大変でした。私もまだ20代の怖いもの知らずの若者だったので、現地の人たちと一緒にバスの荷台(屋根)に乗って移動したこともあります。

1990年代のネパールでは、観光が基幹産業だったこともあり、観光現象を軸にネパールの地域研究をすることにしました。現地の人と深く話すためには英語ではなくネパール語を学ぶべきだと思い、現地の人に教えてもらいながら約3カ月でなんとか日常生活に必要なネパール語を話せるようにもなりました。以来、30年間ネパールの地域研究を続けています。研究者にとって何が最初のきっかけになるのかわからないので、自分の経験も踏まえて学生には「たとえ最初は興味がないと思ったテーマでも取り組んでみると面白さが見出せることもあるので試してみるように」と伝えるようにしています。ただし、私自身は学生に対して研究テーマを無理に押し付けるようなことはしませんが。

その国の変化を体感できるのが地域研究の魅力

長くネパールの研究を続けるなかで、最も面白さを感じるのは、その国の変化をリアルタイムで体感できることです。ネパール社会は、20世紀から21世紀にかけて政治的、経済的、文化的に大きな変化を経験してきました。21世紀に入って共産党により革命が達成され、連邦民主共和国に大きく政体が転換して、今やすさまじい勢いで変化しています。これまでネパールから日本に観光に来る人はほとんどいませんでしたが、今は観光目的に来日する人たちも増えています。それでも世界最貧国に位置づけられていますが、これも経済的な格差が広がっている証左だろうと思います。ネパール自体の急激な変化に呼応するように研究のテーマや手法も変わっていきました。30年にわたって一つの対象に注目してきたことで、その国の社会の変化や新たな局面が表出する様を捉えることができる点が、地域研究の興味深いところだと思います。こんにちのグローバル社会のなかで、私たちはさまざまな局面で相互理解をしていく必要に迫られています。その国の人たちの暮らしや価値観を含めた地域性や社会性を深く知り、なぜこうした地域性や社会性が生まれるのかといった背景を正しく理解して伝えていくことも地域研究をする者の重要な役割だと考えています。

現在は、ネパールの移動現象について注目しています。今やネパールは世界的な出稼ぎ国として知られるようになり、日本におけるネパール人の人口は約18万人に達しました。ネパールから日本に移動することが、ネパールの社会において、また日本の社会においてどのような影響を及ぼしているのかを多面的に調査し、分析しているところです。地域研究といっても、グローバル化する社会において、その国や地域のことだけを見ていてもなかなか実態が掴めません。出稼ぎが多いということは、人だけでなくお金も移動していることになり、こうした社会的、経済的な実態を流動的かつ動態的に把握することが重要です。

また、コロナ禍により現地調査が困難になってからは、移動現象に関連して在日ネパール人についても調査を進めています。日本の社会や地域が彼らをどう受け入れているのか、彼らが暮らしやすい、生きやすい環境とはどのようなものかについても研究しています。一つの国を対象とした地域研究を長く続けていると、相手の国のことがわかるだけでなく、自分のこともわかり、自分の世界が広がっていくのを実感します。

自ら研究テーマを見出し深める好奇心が大切

私がネパールの地域研究をはじめたきっかけは前述した通り半ば強制的なものでしたが、それでも長く研究を続けてこられたのは、その対象に自ら面白さを見出してきたからに他なりません。ですから、大学院生に対しても、彼らが「何を面白いと思っているのか」を大切にしています。単に直感的に面白そうだと思っても、それを適切に言葉で表現するのは決して簡単なことではありません。自分がその対象の何を面白いと思っているのか問いを立て、徹底的に調べ、考え抜くことによって、良い論文は出来上がります。それでも、完璧な論文というものは、おそらくありません。完璧な論文が書けたと思ったら、それは研究者として終わりだと思います。私も論文を書くたびに、分からないことに気づき、新たな問いが浮上するのですが、だからこそ続けられているのではないでしょうか。

研究の面白さに気づき、自ら問いを立て、その問いに答えられるようになること。私も、大学院生がどこを目指しているのかを見極めながら、指導教員として寄り添い同じ方向を向くように心がけています。学生とやりとりをしていると、時折彼らの目が輝く瞬間があります。それは、これまで当然と考えていたことを疑い、また別の自身の考えを提示できたような時、換言すると常識が覆されたような時です。そうした場面に立ち会えるのは、研究者の先輩としてもとてもうれしい瞬間です。

大学院生に求められるのは、自分にとって探求するべき課題を見出すための問題意識と好奇心です。そして、研究を進めていくための根気と体力です。私は長年にわたってネパールの人たちとの関係を大切にしながら地域研究を進めてきました。その関係を定点にしながらネパールや日本を見つめ、それによって見える世界も広がってきました。まず好奇心を持って未知の世界にチャレンジしてほしいですね。そして、根気強く、自身の課題を探求して自らの世界を広げ、深めていってほしいと思います。